はてなキーワード: 幼児期とは
少子化に拍車かかるし、社会問題として区に対する影響が大きすぎる。
3倍にすると払えない家庭が出てくる。
ただ、上限を上げるのは賛成。
所得に応じて認可外と同じくらいの最大「15万~20万」程度にするのはありだと思う。
あと、補助金が多いというけど、たかが550億円くらいですよ?
はっきり言って他と比べても低い方です。
倍にするだけで、保育士全員の給料をプラス5万できる。(つまり年収60万プラス)
これでも相当改善されると思うけどね。今の年収平均が360万程度なので、420万くらい。
東京都とかで保育園増やすのは難しいのはわかりますが、あまりに暴論です。
お金もらって、ベビーシッターにしても、海外ほど整備されていないし、
それこそ、老人ホームの殺人事件みたいにベランダから落とされかねないとかあると、相当怖い。
また、それこそ所得によって教育に差が幼児期から出始めるので、格差もさらに広がるよ。
この案は今のままでは不十分と言わざるを得ない。
父親は優しげで書斎には難しそうな専門書が並び、母親も優しそうで上品で知的だった。
でも男の子は私の家で皆でかくれんぼをしてる時に突然全裸になったり、勉強は出来るけど変な子だった。
驚いていると私の母が「お帰り、覚えてる?ほらあんたもお話しぃ、懐かしいねぇ」と応接間に引き込んできた。
彼はいじめを受けて長年引きこもって居るらしい。
彼自作の漫画を見せられた、下手くそな絵で陰鬱なイジメが書かれてストーリーは無く読むのが苦痛だった。
イジメへの恨みつらみを語り、これまた下手くそなロボットの粘土細工を見せてくれた。
彼は変にニコニコして彼のお母さんは老けて疲れ果てた様子だった、彼は幼児期よりもとても変になっていると思った。
私は感想を求められるのがひたすら気まずく辛かった。
帰った後に「何で私に相手させるの」と母に怒り「だって外に出して誰かとお話させてあげたいって言ってきてるのに断れないじゃない」と母親は言った。
あちこちの記事の元データが https://www.city.minoh.lg.jp/edugakkou/h28gakuryokutesutohoukoku.html これですね。
それと https://www.huffingtonpost.jp/2018/03/18/poverty-2018-0319_a_23388934/
同じ公立学校でいっしょに授業を受けている。10才までは貧困の影響は少ないのだが、その後の学力の伸びが急激に低下している。
授業の内容が難しくなると、学習能力の不足でついて行けなくなると考えられます。
学習する能力は就学前に育っていると考えられ、幼児期の家庭環境が影響しているのでしょう。
就学後にあれこれ手立てを講じても無駄なのではないでしょうか。幼児期からの方策が必要。
親からの悪影響を排除するには、引き離して養育するのが一番じゃないかな?
遺伝的な能力の差、貧困層の親は遺伝的に能力が劣っているので貧困であるとも考えられますが。
どのような方策を講じるにしろ……それって費用対効果、投入した税金に見合うだけの利益がありますかということなんですけどね。
片親だった、貧しかった、そのおかげで満足な教育を受けられなかった。
そういうシチュは同情できる
でも、社会にいるのは
のに
とか言うのばっか
そりゃ、誰だって辛い記憶あるけど、ぶっちゃけ数少ない悲惨な記憶を豪華に脚色して悲劇のヒーロー/ヒロインぶってるだけでしょ
性格が形成されるのは幼児期かもしれないけど、成人しても性格変えたり、抑えたり出来ないって、自分は馬鹿ですって言ってるだけじゃん
何でも悪いのは親のせい、こんな性格になったのは親のせい。いつまで自己肯定続けるの?
で、こういうのに「そんな事無いでしょ」とか言うと、烈火のごとく怒り、「あなたにウチの何が分かるの?」って反論してくる
親に原因があろうとも、その性格を選んだのは自分だし、矯正しないのも自分
思うというのは、当時はその病気の存在を知らなくて確定はできないから。
しかし、調べてみると症状が当時の自分に酷似しているのでまず間違いないと思う。
「家庭などでは話すことができるのに、社会不安(社会的状況における不安)のために、学校や幼稚園といったある特定の場面・状況では話すことができなくなる症状が続く状態のことをいう。 幼児期に発症するケースが多い」
だそうだ。
私も家庭では普通に話していたが、学校ではうまく話せない、声が出ない状況だった。
原因はわからない。
この病気の怖いところは、話せない以外に特に障害がないので「ただの大人しい子」として認識されて周りが気づかないことだ。
私も親や友達、教師に気づかれることなく、自分でもなぜ話せないのかわからず一人で苦しんでいた。
少し話すことがあると「増田がしゃべった!」と囃し立てられたり、一斉に注目を浴びたりするので余計に話しづらくなる。
それに、高校生くらいまでは明るくて面白い方が友達はできやすい(一般的には)ので、話さない私に友達はほとんどできなかった。
大学に上がってから価値観の合う大切な友達もできて、恋人もでき、今はそれなりに幸せだ。
しかし、後遺症なのかトラウマなのかいまだに人前で大きな声を出すことができない。
コミュニケーション力が重視される就職活動ではこれが大きな枷になった。
最近になって場面緘黙症の存在を知った時、あの頃知って治療できていたらどれだけ生きやすくなっていただろうと私は泣いた。
周りに大人しい子がいたら少し気にかけて欲しい。
もしかしたら一人で理由もわからず苦しんでいるかもしれないから。
力になってあげてください、お願いします。
幼稚園の頃、同じ園児で仲の良い友達がいて、成人後の今、その友達への執着の感情が出てきた。
その友達は、私と同性の男で、私と仲が良く幼稚園ではいつも遊んでいた。
幼稚園は同じだったが、私と彼の家は遠かった為、卒園後は会うことが無くなってしまった。
それでも、記憶の中には、幼稚園で仲の良かった誰それという友達がいたという、そういう記憶は残っていた。何をして遊んだか、何故気が合ったのかは覚えていない。
そして、ここ数年は何故かその彼とまた会いたいと思うようになった。
卒園後もずっと彼のことを考えていたのなら良い友情だったのだろう。
しかし、彼のことは10代の頃は長らく記憶に残っていた程度だった、それが成人後に会いたいと思うようになったのだから都合の良い話だと思う。
彼の家は覚えている。とはいえ、幼児期の後から長らく接触が無かったし、ご近所でも無いので、今更訪問するのはいくら同性でもストーカーなのは言うまでも無いのでやらない。
だから、趣味や性格が現在合うかどうかも分からない。あの美形がどうなっているかも分からない。
なのに何故合いたいと思うのか。
多分、運命的な友情というものが良いもののように感じられるからではないだろうか。それを彼に見いだしているのだろう。
ここが私の自己中心的なところだと思う。
ただ、誰しも、ロマンチックなものを追い求めている面はあると思う。現実はそう都合の良くはいかないのだろうが。
彼が今の私を歓迎するかどうかは分からないが、
うちには3歳の娘がいるのだが、SNSやネットに子どもの顔写真をアップしたことがない。まれに上げても、せいぜい顔が見えないスナップ程度に留めている。名前も伏せている。このとおり、自分もネットでは匿名で過ごしている。
本名・HNを問わず、友人や知り合いがSNSで、我が子のかわいらしい日常写真をたくさんアップしているのが流れてくると、自分の子どもの写真をわざわざ上げなくても、自分でない誰かが同じ歳くらいの我が子の写真を上げてくれるので、特に必要ないのかな、と考えてる。
自分の意志とは関係なく、生まれたてホヤホヤの瞬間から幼児期までの自分の写真を親の都合や勝手でアップされている今の小さな子どもたちが、数十年後に思春期を迎えて自我が芽生え、今後どのように写真と接して成長してゆくのかは分からないが、おそらく子どもたちも、生まれながらにして自分の顔写真や本名などの個人情報がネットに存在することを認識したうえで社会を生きていくのだろう。そう考えるとうちの娘には、自分の姿や情報をネットに晒してゆくかどうかを、いつか成長した際に、自分自身で選択してほしいと願いたい……けど、周りの友人たちがネットに顔写真をアップすることに一切無抵抗だったら、たぶん無理かも。それ以前に、親としてどうやって、顔や本名をネットに公開するリスクを説明するのがベストだろう……などと漠然と考えながら、登園前に盛大に散らかしたオモチャを片付けている。
だから知的障害のない自閉症をわざわざ「高機能自閉症」と言ったりする。
アスペルガー症候群は自閉症と並ぶ広汎性発達障害の下位分類のひとつで、知的障害を伴わないものを言う。
高機能自閉症やアスペルガー症候群は知能が高いものを指すのではなく、単に知的障害がないものを指す。
高機能自閉症とアスペルガー症候群の臨床経過はほぼ同じ(高機能自閉症はアスペルガー症候群と違い、幼児期に言語発達に遅れがあるが、成長するにつれてその遅れはなくなる)。
経過が変わらんものを細かく分けるのって臨床的意味に乏しいよねってことで、DSM-5からは広汎性発達障害の病名も自閉症やアスペルガー症候群などの下位分類もなくなり、「自閉スペクトラム症」に統一された。
例えば日本語なら動詞は目的語の後,英語なら動詞は目的語の前に発声することで
次第に思考も目的語と動詞の関係を覚えていく(もちろん例外はあるが)
どちらが正しいっていうのは無いが中途半端に両方を幼児期に覚えてしまうと
どちらの言語でも中途半端な話し方しかできないし思考も中途半端になる
大学の知り合いで何人か幼少期から海外で過ごした帰国子女を知っているが
「帰国子女=エリート」っていう考え方は日本が海外進出を狙うのに英語交渉力が足りないときに必要とされたから広がった考え方で
それこそ中国やインドやヨーロッパ人ですらネイティブ並みの英語力なんてもってない(そもそもネイティブって何よ)
継続的に英語が使われるような環境にならないといくら早く教育しても無駄になるだけ
せっかく助かった命だが、俺が生まれた時に親はまだ30代前半で、もう一人産もうと思えば産める年齢だったが、俺が病気で生まれたことで、俺は一人っ子になった。
そして、俺には大した才能もないようだ。俺の病気は遺伝しない。
計算してみよう。俺が生まれてきた事で、社会は重度心臓病患者を一人ゲットした。
しかし、俺が幼児期に死んでいれば、親はもう一人子供を作って、その子は99%以上の確率で健常者であっただろうから、社会は健常者を0.99人ゲットできたはずだ。
どう考えても、これは、俺が生まれてこない方が社会にプラスになったのではなかろうか。
なぜ、世の中の人は、自分が生まれてくる世の中の方が無条件に良くなると信じられるのか。そうやって無条件に信じるのは、傲慢ではないのか。あなたが物心付く前に死んでいた方が、社会は少し良くなったかもしれないのに、なぜ、エビデンスも理由付けもなく、自分は生きていて当然みたいな顔をしているのか。それが腹が立つ。
自分が死んでいた方が少しは良い社会になったはずだと確実に信じられる私みたいな事情があれば、生まれた罪を自覚するのではないか。生まれてこない方がよかったのに生まれてきてしまった罪を持っている人は、私だけではないはずなのに、なぜ、正しい罪悪感を持って生きているのが私だけなのか。それが納得がいかない。
健常者の中にも、生まれてこない方が社会が良くなった可能性があるのにもかかわらず、生まれてきてしまった罪人がいるはずだ。なぜ、罪人としての自覚を持って生きる人がこれほど少ないのか。なぜ、自分が罪人であると理解している人がこれほど少ないのか。なぜ、社会は私だけを罪人扱いして、健常者を罪人扱いしないのか。健常者の中にも、罪人がいるはずなのに。
私は生まれながらの罪人であることに自覚的に生きてきたし、そのための償いも社会に十分して、働いて還元してきたはずだ。私は生まれた罪を償った。もっと、生まれながらの罪人を探し出して、引っ張り出して、働かせて罪を償わせる仕組みを社会に実装していかなければならない。
生まれながらの罪人を探し出して、引っ張り出して働かせて社会に貢献させることこそ、正義だ。私が苦しむのは正義。これを読む、生まれながらの罪を持たない無垢な人が私を苦しめるのも正義。無垢なのに私を苦しめないのは不正義だし、生まれながらの罪人なのに罪を償わないのも不正義だ。私を苦しめない大多数の人間は不正義だ。