はてなキーワード: 小学校とは
統合失調症は、先天的に発症しやすい遺伝子を持った人に強いストレスがかかるなどした時に発症するものだと思ってるんだけど、
母にとって、障害児を育てるのはものすごいストレスだったのではと思います。
私が幼稚園児や小学生の頃、発達障害という言葉はまだなく、母は先生方に、躾ができないダメな母親だと責められていた。
これさ、男の性質のせいだと思われてるみたいだけど、日本とかアジアの一部地域の男がそうなだけじゃないの?
観測範囲の外人男、バトルは好きだけど人間関係大好きだしお喋りだし感情表現ハッキリするし、女より人間好きお喋り好きなんじゃないかみたいな奴多いぞ
言語能力の発達が遅くて、女の子は幼稚園小学校と話をさせるトレーニングが行われてるけど男は女に合わせた段階ではまだ同じことができないから
発達段階に応じた会話トレーニングをされなくて、そのまま受験勉強と仕事を課されるので取り残されてるだけだと思う
外国の高校生男子とよく話すけど、同年代の日本男子よりかなーーーりまともにコミュニケーションできるよ
日本高校男子が不貞腐れてゲームしながら「今ゲームしてるからうるさい」って言ってる横で海外男子は「ママはいつも忙しいから休んでいいんだよ、僕が家事するから」って言ってるし(同い年)
日本男子に話しかけてもゲームの話する以外はイキってるだけか無言(根はいい子)みたいなのばっかりだけど、海外男子は適度に他人に話題を振るし、話しかけるし、他人を気遣うし、人好きでお喋り好きだし、自己開示して意見を言えるし、根だけじゃなくて振る舞いもいい子
こんなのめっちゃ見るで?
若い男は喋んないのがカッコいいみたいな文化が日本にはあるのかな?シャイなだけならいいんだけど、他人に優しい振る舞いをして喋るのは女だけ、男はしないのがかっこいいみたいなのはなんか全然意味わからんし違うと思うで?
優しい振る舞いができなくて気が利かなくてお喋りする能力が低いだけや
小学校中学校は保健室登校や不登校を繰り返していた。今振り返ると親に相当申し訳ないことしたしメンタルが相当弱かったのだと思う。
詳しく話すと
小5 クラスで学級崩壊&暴力に合う→保健室登校&転校
小6 自分の空気の読めない性格が災いし女子からハブられる&ある男子からよく身体的ないじめをうける→不登校
中学 中受して中高一貫校に通う。発達障害を持った子に付き纏われる&性被害のフラッシュバックで保健室登校不登校を行ったり来たりして、勉強についていけなくなり中学卒業のタイミングで高校を外部受験して偏差値40台の高校に進学。学費無駄にしてお父さんお母さんごめんなさい。
高校の時は流石に自分の人生このままでは詰んでしまうと思い皆勤で学校に通って、中学でろくな学校生活を送らなかったコンプレックスがあったから部活や生徒会も加入して我ながら高校はかなり充実してたなとは思う。
現在は二浪した後、大学2年生をしている。大学での勉強も楽しいし仲の良い友人もいて楽しい日々を送っているが、時々小学校中学校で歯を食いしばって学校に行っていたらよかったと思う時がある。男女間や先輩後輩間での人付き合いの距離感がおかしいのではと不安になるし、あの時の感性や感覚はあの時でしか手に入れられず、ちゃんと教室に通う学校生活を送っていたら手に入れられたのではないかと思う。
この間、グループワークの打ち上げで友人に「二浪してなきゃこの大学入ってここで飲んでないんだよ??」と言われた。確かに今の生活は否定するものでは決してないし中学を辞めて進学した先の高校で出会った友人や思い出、浪人時代に出会った友人や培ったものもかけがえのないもの。
だけどちゃんと学校通っていて高校にも内部進学してたら二浪もせずに済んだ気がするし、色々捻くれずに済んだんじゃないかなーーって思う深夜2時。
俺が小学校の時はみんながみんなファミコンなんか持ってなかったから
ファミコン持ってる奴の家に集まって、そいつがプレイしてるの後ろで見てた
俺が13の時に弟ができたけど、20くらいの時は俺がFF10とかやってたのを
弟や友達が後ろから見て「あれはなんだこれはなんだあーしろこーしろ」言うのを聞きながらプレイしてた
規模はでかくなったけどゲームがコミュニケーションツールなのは
今も昔もそんな変わらん気がするけどな
遥かな昔ではあるが、小学校のスキー教室で滑ってたら「太陽戦隊サンバルカン」が流れてテンション爆上がりした覚えがある
最近七歳になったばかりの娘がいて、彼女の物心がついた頃、何となくでも過去の思い出を話せる頃、っていうと三歳の頃からになるので、そうか彼女にとって人生の半分はもうコロナ禍なのかと。
「with コロナ」っていうと一般的には、多少の感染は諦めましょう、自粛しすぎず経済回していきましょう、みたいな事を指していると思うのだけど、彼女にとっては今の自粛している状況がすでに with コロナになっているんだなって。
どういうことかと言うと、彼女の発言や行動を見る限り、現在の手指消毒励行・常時マスクな環境がすでに当たり前になっていて、なんら不便と思っていない。そもそもコロナ禍以前の彼女の世界はほとんどが家族と共にある時間で、そこには大きな変化がないから当たり前と言えば当たり前なんだけどもね。小学校の行事や授業の内容に関しても、自分たちからすればずいぶんと残念な状況で時に悲しくなったりもするのだけれども、彼女たちは違う。なぜなら現状が彼女たちにとってデフォルトだから。
だから親として心掛けているのは「あれが出来なくて残念だね」「こうだったら良かったね」と、そもそも彼女の人生に未だ存在していないものを嘆くののでは無く「コロナでもこれが出来て良かったね」「そんな工夫で上手くやってるんだね」というポジティブな言い換え。コロナ禍以前の人生を多く知る大人がどんなに残念に思っていても、彼女の人生の半分を残念なものと評価するような事は避けるべきだと思う。
強い心を育てる
No.1643
私は、ささいな事で、「死にたい。」「自殺したい。」と軽々しく言う人は、心が弱いんだと思います。最近は、ネットなどでそのような事を発信している人をよく見かけますが、見ていると、不可解に思います。理由は、ふたつあり、ひとつは、本気で思っている訳でもないのに、そのような発言をする事、もうひとつは、命をムダにしようとする事に対してです。今までに、テレビや、本などを読んで、生きたくても生きる事のできなかった人達を、数々見てきました。しかし、それとうらはらに、自ら命をたとうとする人も、数々見てきました。なぜ、生きたいと思っている人が生きれず、死にたいと思っている人が生きているのか、簡単に命をたとうとする人に、イラッときます。
私の考えでは、どんな時でも生きる事をあきらめようとしない人は、心が強い人。何かあったらすぐに、生きる事をあきらめてしまう人は、心が弱い人だと思います。だから、命が減ることを防ぐには、まず、ひとりひとりが強い心を育てていく事からだと思いました。
19歳女。ある日ふと子どもの名前を考える。彼氏はいるが子どもはいない、なんならまだ処女。
最初は視野の広い子になってほしいなって、いろいろ考えた。陽斗とか湊とか啓とか。ちなみに湊がお気に入り。
名前にはいろいろ意味が込められるけどエゴなのかも。願いと言うと聞こえはいいけど、結局そこに子どもの意思はないわけで。「なってほしい」は呪縛かも?
私の名前は生まれた月の名前で、意味らしい意味はほとんどない。だから正直「素敵な意味の込められたいい名前ね」って言ってもらえる名前の子が羨ましかったりもした。小学校でよくある「自分の名前の由来」作文のときとか。だけど、あんまり名前に意味を持たせすぎると重しになるかも、とふと。
社会的に弱い立場に置かれている人に対して「おまえは社会的に弱い立場に置かれているんだ」と言うこと
「おまえと強者との関係は対等なものではない。おまえが一方的に搾取されているんだ。それに気づいていないおまえはバカで哀れだ」と言うこと
本当に慎重になったほうがいい
仮にそれが正しいとして、正しいことだったらなんでも言っていいのかなっていう、本当に小学校の道徳の授業レベルのことだと思うんですけどね
3歳の息子を昨日、公園に連れて行った。
いつも行く近所の公園ではなく、
歩いて15分ほどの方に行くことにした。
「あそぼーーー!」と大きな声をあげた。
声が大きすぎた。一人で滑り台で遊んでいた
少年が「いーいーよー!」と言いながら
こっちに向かって走って来る。自分への
呼びかけだと勘違いしたのだ。
小学2〜3年生くらいだろうか。どうしよう、
彼はとにかく良い子であった。
ブランコでも滑り台でも先に息子に遊ばせ、
息子が上手にできない時は自分がやって手本を見せ、
遊んでいる中で息子が電車が好きだと分かるや、
最終的にはぐるぐると追いかけっこするだけの
遊びとすら言えない行為に延々付き合ってくれた。
腰掛けて、ずっと二人を眺めていた。
しばらく追いかけっこをすると
よほど楽しかったのか、余韻を楽しむように
まだ一人でぐるぐると走っている。
君はいくつなの?と聞くと
7歳。でも、来月に8歳だと言う。
読みはだいたい当たっていた。
本当はこっちから声をかけようと思ったんだけど
嬉しかったと話してくれた。いや、それは
ずっとコロナだね、と聞いてみると
あるんだと。それは大変だねと返事して
なかなか二の句を告げられずにいると、
喉乾いたから水飲もうと言って
ねえ、君も水を飲みなよ、と彼は息子を
水飲み場に呼んでいる。
走る彼の背中を見ながら、
ああ、随分と長い間彼のような子たちに、
胸が傷んだ。そうして我々が手にした物は、
小学生のみならず
無為に過ごさせてまで
そんなふうに自問してしまう。
あと2か月もすれば春になる。
これまでどおりの生活ができるように
してほしい。めいっぱい
しゃべって、遊んで、楽しんで
日々を過ごしてほしい。そんなことを思いながら、
夢中で遊び続ける二人を見ていた。
お昼ご飯も食べぬまま1時をまわり、さすがに
もう一度バイバイしてくると言って
息子は少年のところに駆け戻り、随分と長い間
バイバイしていた。ようやく戻ってきて
二人で歩き始めると、振り返る度に少年は
手を振っている。曲道で僕達が見えなくなるまで
彼は手を振り続けていた。
私は父が大嫌いでした。
末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族で旅行に行ったのもベビーカーで東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。
誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りのアンパンマンのケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコか競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。
そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初は日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテルの厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。
なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉のサポートも無く、余裕がないから我慢するしかないと言われ続けました。
そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立の二次募集も落ちました。父からは私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!と喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)
そして在学中のバイト代は完全母管理。バイト代を自身のお小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。
やってきました修学旅行。私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。
ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いからお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所に遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。
その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます。奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式の振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。
なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。
今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています。
30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。
父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。
最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生。
何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。
あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います。天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。
母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。