はてなキーワード: 土地とは
自分としてはかなりクリティカルに答えたつもりなのに反応なくて寂しい。
とりあえずこの税収のために台帳で管理を始めたのが重要で、全ての届出と権利変動はこの台帳の上で行われるようになっていくのだ。この税収のための台帳は所有者が書き込まれているので土地の権利変動の時必ず参照される。そこに金の貸借りの記録を書き込ませてくれと頼むやつが現れてそのやり方が一般的になる。登記の権利部のはじまりである。建物を建てる時も一旦謄本をみてトラブルを排する。勝手に家を建てられると上下水道その他のインフラコストが計画的に運用できないので、行政も謄本は絶対確認してインフラコストがかかるようなら建てさせない。ここら辺は土地の処分の権限が誰かということでなく公共の福祉の話だ。
英米は登記制度がないから増田のイメージする土地のありように近い。家を建てる前に調査会社に土地にまつわる権利を調査させて、家を建てた後問題がおきれば調査会社が保険を払う。
もしその土地を活用したいという時になっても、誰の土地でもなければ誰からか許可を取るということができないし、そういう時は早いもの勝ちとなれば大きな不平等と混乱を招くだろう。そういう問題を回避したいのでは。
駅の便所の個室で首吊るのが一番いいと言う結論に達して未遂したことをお知らせするで。
アパートで自殺するとどんな手法にしろアパートに損害が出て遺族に賠償が行く。
高所から飛び降りは人を巻き込む可能性があるし、そもそも最近は高所には自由に入れないところが多い。
都市圏で公園は開けたところが多いので、準備している段階で見つかって止められる可能性が高いし、そもそも首吊りに適した樹木がない場合も多い。
しかし、あまりに人がこなさすぎると腐乱死体となって匂いでご近所様に迷惑を掛けてしまうし、土地価格を下げた結果、周辺住民から遺族が訴訟されるかも知れない。
その点、駅の便所の個室は
・首吊りに最適な適度なでっぱりがある
・人に見られない密室
・腐敗が早急に進まない程度の空調
・1時間も占拠していると駅員が確認に来る(死んだ上に早期発見して貰える)
・飛び込みの名所駅なら自殺への後処理も慣れているので駅員へのトラウマ付与も避けられる
ただしドアノブの強度が自分の体重に耐えられるかを確認しておかないと、首を吊った時にドアノブが壊れて外れて落下。
サニタリーボックスのそのままダイレクトアタックして、使用済みナプキンまみれになる。
ドアノブも壊れていて外にも出れなくなって、自殺もできなくなり、ドアを必死に叩いて駅員に助けを求め、後日ドアノブの修理代を請求されることになるから注意な!
正当な所有者が来て退去させられるまで自由に使うがよい。
法律で設定されている「権利」というのは権利が設定されている範囲での全ての行為を許すわけではない。
自分が権利を持っていても、その権利の行使によって他の人の権利を侵害する形になりうるので。
しかし何をするにしても本当に誰の権利も全く侵さないと厳密に言えることはまずない。
要するに司法ってのは権利対権利の衝突を調整する機関として機能するわけ。
何らかの問題が起こったときにそれを申し立てる主体 (権利者) が存在しないという状態はなおさら存在してはならない。
明確に所有者がいる土地であっても、たとえば郵便屋が郵便物の配達のために前庭を通って玄関横のチャイムを押すことに違法性は認められることはないということはわかるだろう。
これは土地の所有権と郵便屋が業務を遂行する権利を天秤にかけたらそうなるって話だ。
国有地もまた、境界線を明示されていない場所に特に被害を与えない範囲で立ち入る分には直ちに違法性を認められたりはしない。
いくらでも入れる状態にしていたのならそれは国の管理責任が行き届いてないという不備でもあるから。
仮に所有者がいない土地という概念を認めたとしても日本の国土である限りは行政の支配が及ぶことには変わりないので国の所有ということにしているのと特に差はない。
生まれは地方の港町。5人家族、3人兄弟の3番目(姉、姉、自分)。
平屋の町営住宅で、トイレは和式のぼっとん便所。そんな家に俺は生まれた。
それが母親の口癖だったように思う。事実、実家を出るまでわたしは実家が裕福だと感じたことはただの一度もない。
高校生の時、友達が遊びに来た時「お前の家のトイレ臭せぇ」ってとても遠回しに言われたことを覚えている。(うちのトイレはハエ取りキンチョールスプレーの匂いが常にしており、なんとも言えない匂いを放っていた)
父親は公務員だが酒飲みで、自宅にはよく借金取りが来た。夜、2人組の男を母親が玄関先でを追い返したことを今でも覚えている。
父は家の中でよく暴言を吐いた。そして暴れた。
狭いリビングの中で大声を出して暴れることもよくあり、皿が良く家の中を飛び交った。
「やめてよ!!!」という声を出して、裏庭に逃げたこともある。
隣人の森田さんに何度かその話をしたことがあったが、自分の親よりも年上だった森田さん。今思えばすべて事情を把握していたのだろう。
「大変だねぇ」みたいなことを言われた記憶が何度かある。
欲しいおもちゃも満足に買ってもらえなかった。
1980年代生まれなので、ファミコン、スーパーファミコンドストライク世代。
自宅ではスーパーマリオの動く紙芝居みたいのを作って、その上でキャラクターを模した手作りの置物を動かして「ぽよーん」とか「キノコゲット!」とか言っていた。
だから母親が牛乳配達をしていたため、どうしても余る牛乳パックを重ねてひな壇を作って、その上に包装紙を貼って「おひなさまできたー」みたいなこともやった記憶がある。
注。一応私は男です。
小さな港町。裕福な家庭なんてそうそういないのだが、自宅から歩いて100mくらいのところに、たまたまお金持ちの同級生が住んでいたことも、「うちは貧乏なんだ」と思うことを加速させる一因にもなった。
彼の家は一軒家、3階建て。広い庭あり。
冬休みは家族みんなでハワイに行く。よくお土産をもらっていた(その時にもらった野球鉛筆はいまでも捨てられずに保管してある)
彼のおじいちゃんはとても野球好きで、彼にとても情熱を注いで野球を教えていた。(親が子供に野球を教える。。。のおじいちゃんバージョン)
俺の家ではとうてい変えるはずのない、ティーバッティング用のネットを自宅に用意し、休日も野球の練習が出来る環境があった。
彼の家にあるものが、うちにはない。
彼の家では誕生日に豪華な食事が出るが、うちではケーキと父親が居酒屋で買ってきた七面鳥くらい。
小学校でも「びんぼーびんぼー」といじめられていた記憶がある。
うちは、家も狭いしシャワーも無いし、トイレはぼっとん便所だし。
服だってほしいものも変えないし。ビンボーなんだ。そうなんだ。 本気でそう思っていた(今でも多少はそう思っている)
父に対して「お母さんに手を出したらぶっ殺すからな!(黒歴史)」と言って家を出たのも、あの狭い平屋の町営住宅だった。
社会に出て20年。自分は実家のことを「金持ち」だと思ったことはただの一度もない。本当にただの一度もない。
ただ最近「うちって貧乏だが、実は実家が太いというやつなのでは?」と思うようになった。
この年齢になってくると、やれ親の介護だ、やれ両親が亡くなった。家族の問題、毒親だの、いろいろな話を聞く。
職場でたまたま一緒になった同い年のヤツも、在宅勤務なのだが、その理由が母親の介護らしく、事実業務中に「(親の介護用の)アラートが鳴ったから」との理由でちょくちょく業務を中座する。
今日久しぶりに再会した、前職の知り合いも「何の前触れもなく父親が亡くなって、実家の仕事を引き継ぐことになった。加えて、兄が認知症っぽくなって、その対応に一人で追われていた」とたった1年なのに、とてもやつれた顔をしていた。
この時思った。
「家族が健康で、かつ自分に口を出してこない(なんなら必要なときに金銭的な支援をしてくれる」というのは相当な資産なのでは? そしてそれは「実家が太い」と言い表していいのではないだろうか。
実は、「家族の健康は資産」という言葉は、数年前に知人に言われた言葉である(その知人とはもう連絡が取れない。あぁ。悲しい)
もちろん家ガチャもあるだろうし、家族ガチャ兄弟ガチャもあると思う。
うちの家庭は前述の通り、借金まみれ、貧乏、父は酒飲み(のちに自己破産)、姉2人はそれぞれ違う新宗教に入っているなど、傍から見ると普通の家庭では無いと思う。母も、新宗教ではないにしてもある宗教の熱心な信者だ。この話を他人にすると「へえ。凄いね・・(消え入りそうな声)」とよく言われる。
土地も無ければ、財産もたぶんない。人脈もコネも学歴も無い。両親は2人とも大学に行っていない。母親は確か高校にも行っていない気がした。
世間的な定義に照らし合わせるならどう考えても太い家では無い。それどころかただの貧乏家庭である。
それでも、その両親はわたしに何の干渉もしてこず、かつ80近くになった今でも子供に迷惑をかけることなく元気である。
父80歳。母76歳。
父はちょっと弱弱しくはなったが、それでも電話をしたら2人ともはきはき話す。母親にいたっては今でも畑仕事に精を出す。おかげで足腰は元気だ。
もし、仮に死ぬことになった場合は、費用も含めて手筈は整えているらしい。わたしとしては当然ながら生きながらえてほしいが。もっと一緒にいたい。
ただ、正直ありがたいとも思った。
実家、家庭で問題が無いという事は、それだけ自分のことにフォーカス出来る。集中できるという事を指す。
そしてこの「家庭、家族の問題に振り回されることなく自分の人生に集中できるという事は、当たり前のことではないんだ」ということに、最近まで気づかなかった。
ここ最近、職場など様々なシーンで関わる人と我が家を比較してみて、「実家が太い」とは必ずしも財産、資産などの有形資産のことばかりを言うのではないのだなと感じた。
経済的には貧乏なんだろうけれど、それでも太い。そんなわたしの実家の話し。
明治政府は米による物納を金納にしたくその根拠を地租とした。とりあえず土地の所有者を名乗る者たちにその土地の広さと使用状況を報告させ、所有を認めるかわりにロハで土地台帳(後の登記制度)を作ってしまった。この時この国に近代的土地所有の権利概念が生まれる。なので所有者ありがデフォルトである。実際にあっても台帳にない土地は法律関係上可視化されない。所有者と推定される者が申告して台帳に載せてから処分できる。この台帳の記載事項のうち地目というものがあるが、公衆用道路、条件付きで境内地、用悪水路以外は不特定多数が立ち入ると権利を害する恐れがあり、立ち入りを拒める。というところかな。疑問が解消されたら嬉しいな
学生時代に同じ大学の中で相手を見つけておくべき、という意見もあるが、結構難しいのよね
田舎の旧帝だけど、保守的な土地柄もあって女子のある程度の割合がワンナイトでもいいからって感じで、捨て身で相手探してたのが印象的で馴染めなくて病んでしまったのを思い出した
マチアプ登場以前の話しかつ、その時代だと高学歴女子はある種の化け物扱いで貰い手がないみたいな感じだったというのもあった
女子がワンナイト覚悟で突撃してくるから、男も無駄に偉そうだし、女子を見下してるししんどかった
高校まではそんなことはなかったから、大学と高校でこんな違いがあるのか当時は受け入れられなかった
登山道というほどではないけど山の道って感じの道はあるじゃん?舗装されてて車も通ってるけど、道の外側に建物があったり誰かの庭だったり軒先だったりとあからさまに誰かの土地感があるわけじゃなくて、藪や木が果てしなく広がってる感じで突き進もうと思えば進めるようになってる道。
かりにそうじゃないとしたら、誰かが持ってる山の部分に国だのなんだのが勝手に道を敷いていることになるんだから不自然だ。
で、仮に森林地帯のうちの、道も、道じゃないところも、公共の土地という点で共通なのだとしたら、なぜ道は自由に通行してよく、そうじゃないとこは入っただけで違法なんて扱いをデフォルトにしたのだろうか?
どっちも公共の地面なんだから、原則自由に通行できるようにすればよかったんじゃないの?
自然保護目的で踏み荒らされたくない場合に限って国だのなんだのが個々に決まりを作るというブラックリスト方式のほうがルールとしては素直でシンプルだと思うのだが。
地面自体、人が移動するために存在しているという側面があるのに、道以外の地面を移動のために利用してはいけないとは不自然だろう。地面による二次元的な移動ではなく、そのうちのごく一部分の道による一次元的な移動しか許していないのはただ不便さを増しているだけだろう。
そもそも、すべての土地に所有者がいるという前提に立っているのがおかしいと思う。
「国有林」という概念があって、これは明治維新の際に藩有林、社寺有林、所有が明確でない森林を継承して成立したという。
「所有が明確でない森林」というところに注目してほしい。あたかも不明なだけで所有者がいるみたいな言い方だけども、これには正真正銘「誰の土地でもなかった土地」が含まれていたのではないか?
つまり誰も存在を認識していなかった土地があったはずで、これを伊能忠敬が作った日本列島の海岸線の地図という、日本の土地全体を俯瞰的にとらえる手段のおかげで、その地図から誰かの土地だと確定している部分を全て取り除けば、それ以外の場所は全て所有が明確でない土地として間接的に存在を把握できるようになったというところだろう。実際は誰も見ても足を踏み入れてもいない土地(誰に帰すべき実効支配性がない土地)なのに。
(もし全宇宙の地図があったら、その何万光年先の直接見たこともない空間について「ここは俺の土地だ」と主張するようなものだ。伊能忠敬は日本列島においてこのバカげた主張を形式的に可能にした。)
そういう土地を無理に国有林化しただけの話ではないか。もっと素直に「誰の土地でもない土地」と別区分にすればよかったのではないか?
誰の土地でもない土地というのは、誰にも占有する権利はないということだ。ゆえに誰が移動の用に足を踏み入れても問題ないということになる。
誰の土地でもないので、ぶっちゃけそこに勝手に家を建てても問題はない。早い者勝ちだ。ただし別の人がその家を打ちこわししても問題ない。問題ないというのは語弊があるなら「その家を建てた人がその土地での所有権を根拠に狼藉を主張することはできない」ということだ。
つまりこの場合器物破損だし、この公有の空間のなかで先にいた人を後から来た人がそこを自分のお気に入りの場所として見出し喧嘩になったら暴行罪だし、というように、個々の事例に合わせて既存の法律で裁くべき問題ということになる。
頭でっかちに「すべての土地は誰かの土地だ」という固定観念ありきで法律を作ったために、はっきりいってスマートじゃない法体系になってると思う。
なぜ「誰の土地でもない土地」と別に難しくもなんともない概念を素直に受け入れられなかったのだろう?
dorawiiより
うちは東西から高速が伸びてて、国道1号線も繋がってて、海岸線はないけど隣の市にあって、空港も県に2、3個あるから全部だめになる可能性はあれどまだ救援には来やすい土地かな
もし日本がイスラエルだったら、パレスチナ人に土地を返して静かに暮らすだろうに
もし日本がトルコだったら、コンスタンティノープルを東ローマ帝国に返して独立させてあげるだろうに
増田のとこよりは世帯年収低いと思うけど似たような感じで都心にマンション買って、かなりよかった。
タワマンは住民のミーハー感が嫌で築古リノベ物件にした。その代わり立地は最高でどこに行くにも近いし街はしっかりしてるしで素晴らしい。マンションは出口がない云々と言ってる奴がトラバにもいるけど、そこは買うときに管理状況や周辺の土地の状況などを調べて考えればいいだけの話だと思う(個人的には将来建替えになった場合の増床負担金がどのくらいになりそうかまで自分なりに計算して判断した。2000万くらいで収まれば御の字かなという感じ)。
タワマンっぽい高級感あるマンションが好きなら素直にタワマン買えばいいと思うけど、豊洲とかあの辺は人気タワマンとすぐ近くにあるちょっと地味なマンションとの価格差がでかすぎて流石に資産価値の裏付けが乏しいんじゃないかとは思うんだよなあ。