はてなキーワード: ビルマとは
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327
興味深い話が読めたのでお礼に幼少の頃によく聞いていたじいちゃんの話をしてみようと思います。
確か今年97歳。
話の時系列や史実なんかと照らし合わせてはいないので口伝だと思ってください。
ビルマという単語がよく出て来たのでおそらミャンマーあたりだろう。
向かう途中は狭い船内で古参兵が新兵を並ばせて殴ったりといった行為が日常だったようだ。
そのせいで左耳が聞こえなくなり今でも聞こえない。
船は度々狙われたようで隣の船が魚雷でやられるのを何度も見たのだという。
ぬかるみを行軍して靴を脱ぐことをも出来ずに足がただれたこと、ヒルが体中に張り付き血だらけになることもよくあったそうだ。
親指くらいの大きさになったヒルを無理やり取ろうとすると頭だけ残って余計大変なんだとか。
通信用の有線をジャングル内に設置してあるものを度々トラが切るようで3人一組の班を作り夜中に見回りをしていたそうだ。
他の班の人がトラに襲われ全員が帰ってこないこともあったとか。
機銃を撃つこともあったそうで、「○発掃射」とかのような指示がありボタンを放すタイミングが難しいがコツを掴めば簡単だったと言っていた。
前線に補給物資と共に機銃を運ぶこともあったそうで、台座に乗せて4人で運ぶ際に担ぐ肩を変える掛け声が「肩変えー右」「肩変えー左」
途中で現地住民が待ち伏せして襲ってきて隣の人が亡くなったそうだ。
通信兵のようなこともしていたときに航空機からの攻撃を受け目の前の通信機が壊されたとか。
パイロットが地上からも見えるくらいの高さで身を乗り出して何かを見ていたそうだ。
またある時に調理兵の偉い人が同じ村出身で気に入られ牛の解体とかもしていたそうだ。
川の上流で解体していると内臓は流して捨てるせいか拾いにくる現地住民と仲良くなったと言っていた。
現地の言葉の数え方で「てが あんぱ りな」と言うのを教えてもらったと。
日本語で言う「ひい ふう みい」らしい。
食べ物が無くなってくると錦蛇も食材として捌いていたとのこと。肉厚で美味しいらしい。
それでも足りなくて猪用の頭から入ったら抜け出せない落とし穴を掘っていたらしいのだが、
空腹に耐えきれず食べ物を探しにジャングル内に入った人が落とし穴にはまり亡くなることが何回もあったらしい。
おそらく戦後だと思うが、捕虜として捕まったときに見張りの兵に自分たちは連発出来る銃で日本兵は単発の銃だから負けたんだというようなことを
仕草を交えて言われたらしい。
また、何かの土木作業をしたり運んだりといったことを戦後3年間行ってやっと帰ってこれたということだった。
運ぶ作業の際に丸太橋で谷を渡ることがあったそうだが、肩に60キロくらいの荷物を担いでいたので落ちた人もいたそうだ。
こういった話を淡々と自分の感情をのせることなく語るじいちゃんです。
戻ってからの苦労話は色々聞いたけど戦争に関する恨み辛みは聞いたことはないです。
もちろん戦争を賛美するようなことも言いません。
最近の政治については話たりはしないのでどう思ってるかはわかりません。
だいたいは昔話と猫と相撲のことばっかりです。
インパール作戦って補給を無視した愚劣な作戦って世間ではよく言われる。
でも、これが当時のビルマ(ミャンマー)方面軍がビルマの防衛をするにあたっては最善手だったって話はしちゃいけない雰囲気あるよね。
当時日本が抑えてたビルマっていうのは日本軍にとって放棄、撤退できない大きな二つの理由があった。
それはビルマの後方に位置する東南アジアの資源地帯の防衛と中国軍へのアメリカイギリスによる支援ルート(援蒋ルート)の遮断。
特に後者は南方への戦力の引き抜きで弱体化しつつあった支那派遣軍を守るのにどうしても必要だった。
ここを突破されたら支援物資の米式装備で固められた中国軍が襲いかかってくることになる。
さて、この状況でビルマ方面軍が持ってる戦力といえばろくに機械化されてない歩兵師団と航空師団1つの合わせて10個師団。
ビルマの広大さから見ればあまりにも少なすぎる戦力だ。対峙するイギリス軍(15個師団以上)と中国軍(10個師団相当以上)に対して戦力は質量ともに劣勢だった。
このビルマは北部はともかく中央部はだだっぴろい平原が広がっていて自動車が動きやすい。そレに対して鉄路がすごく貧弱。(日本軍は部隊の迅速な移動は鉄道に頼りきり)
これがなにを意味するかって言うとまともに戦ったら制空権もなくて動きののろい日本軍は機械化された連合軍に粉砕されるってことだ。(実際にされた)
だから最前線を戦車や飛行機が活動しにくい北部のアラカン山脈まで伸ばす必要があった。そしてその拠点となりうるインパールが必要だった。
つまりあのまま防衛していたら負けることを牟田口や陸軍の上層はちゃんとわかってたんだ。
でも、上述の2つの点から絶対に退くことは出来ない。だから無謀とも思えるようなインパール作戦が行われた。
補給無視と言われるがちゃんと必要量の補給要請はしてたけどそもそも補給部隊がないから結果的にああなってしまった。
それを少しでも埋め合わせようとしたのが食用野草の研究や水牛を連れていくという付け焼き刃の策だった。
牟田口が非難されるべき点で言えば撤退の判断が遅れてしまったことただひとつ。
ただこれにしたってインパール作戦が行き詰まった戦局を打開するという政治的な打算で必要以上に持ち上げられて
実情を知らない上層部から督戦の激励が矢継ぎ早に来てしまったせいもある。
つまり支援はしないけど攻略はしろという無茶ぶりが来てたわけだ。
たしかにこの撤退判断の遅れのせいで大多数の死者がこの時点で発生した。
でもあなたはこの状況下で撤退の判断を果たして下せるか?俺はたぶん同じ状況なら同じことをした。
このようにインパール作戦は撤退が不可能な選択肢がない中での最善手な炎上プロジェクトを指揮した中間管理職と、それが落ち目の企業の期待を集めてしまったことによって悲劇が起こった。
ビルマを放棄する=中国軍が強化、そして後方の資源地帯が脅かされる。
というどちらも出来ないという完全に詰んでいる状況だったのだ。
それをなんとかしようとしたのがインパール作戦で状況的にも最善の策だった。
http://anond.hatelabo.jp/20150715014005
(づつきです)
通常のネットは当局から禁ぜられ程なく使えなくなったが、「もう一つのネット」は問題なく作用した。
珠洲子は住まいのある東京都北区赤羽(Akabane東京都の地名。濁音化せずに日本語で書くとAkahane。ハネhaneは元来ハニhaniであり、ハニは「土」を意味する。すなわち赤いハニ(red soil)が地名の由来となっている)から脱出するまで1度だけ襲撃を受けた。都内から離れた後は襲撃はなく、追手はひとまず撒けたことになる。襲撃した相手はハーバード大学3刀流の使い手だった。この流派は2050年代にネットが身体の操縦に役立つ技術になった際、ヨーヨー・マビルマーク・ザッカーバーゲイツ・アダムズシニアジュニア3世を名乗る、ハーバード大学を後に退学になる男によって創始された。3つの刀を間違った日本の文化に即して扱うもので、その内の一つは特に電子的に管理し中空に浮かせておくのが特徴だと師匠から教わった。『名探偵ホームズ』には「バリツ」という武術が登場する。シャーロキアンのこれでもかって程の執拗かつ綿密な研究のおかげで、「バリツ」が19世紀末ロンドンで実際に教示されたことは21世紀後半の現代ではよく知られている。日本の作法が伝言ゲームで面白く意味を持つ。ハーバード大学3刀流はこの時代の「バリツ」なのだ。
珠洲子はこうした刺客(Shikakuここでは珠洲子を追捕するために派遣されたエージェント)を2秒半ほどで退けた。刀が落ちて金属音を立てるのを尻目(Shirime)に聴きながら、珠洲子は師匠(Sishou)の事を思い出した(remember)。珠洲子の師匠の一人は陳老師(Chen-raoshi、チンさん)という名前で、昔幕府があった場所の名の付いた優秀な弟子を手掛けたことで知られる。珠洲子もそのまた優秀な弟子だ。
「教えの歴史的な古さが強さをもたらすのでない。当然新しいからと言って勝つわけではない。よかったのう!」
チンさんの教えはよく分からないこともあったけれど、この言葉は間違っていない。歴史の重みはある種、不必要だ。必要なのは揃っている道具で今考えることだ。
2時間42分後、珠洲子は岐阜県関市に到着した。明治・昭和・平成、さらにその次と次の元号の時に行政区の変遷があり関市も随分様相を変えた。人も変わった。ここには鷲見(すみ)太郎という政治家がいる。彼女は彼に会いに来た。事前に「もう一つのネット体系」を経由し短報を送っておいた。鷲見はネットが身体を操作し始めた50年代に先鋭的に反対を唱えた男で、のち中央政界で1期務め、現在は岐阜県議の職にある。珠洲子の主人は、鷲見にアポイントを取るよう手筈を整えていた。珠洲子は鷲見の邸宅に予告通り忍びこんだ。鷲見は報せを受けてから警備を敢えて「普通」にして待っていた。政治家の邸宅における警備を縫うことは「普通」は不可能。しかし21時4分現在、書斎にいる鷲見の眼前に可愛らしい女性が難なく現れ、彼に簡単なブリーフィングを伝えていた。当然、ブリーフィングよりも忍びこんだ事実の方が、より雄弁に「もう一つのネット」の機能と彼女の任務とを物語っていた。
「私の反ネット勢力のツテを頼りたいのだろう」「左様です」「あまり役に立たないと思う」「何故です…」「かつてネットが身体の制御に使用されようとしたとき、多くの人が危険だと唱えた。その内に先鋭化して回線切ってネットを捨てるべきと考える者が現れた。」「…」「スイッチのようにオンとオフだけで考えてはならなかったのだ」「?」「ネットを捨てるべきと言った連中はその内コンピュータが不用と言い、テレビや暇つぶしの携帯ゲームが害悪だと訴え、車も複写機も信号機も要らない、電子的なデバイスをあれこれと捨てようとした」「…」「そしてついに眼鏡がいらない、とかスリッパが要らない、もっと自然に過ごそう! とか言い始めた」「…」「そうなると火薬も羅針盤もいらないし、文字もいらないし衣服もいらないし石器も言語も要らなくなる…ということに多くの人間は、どこかの段階で、気づいた」「??」「人間は道具を使う。ネットに異を唱えたはいいが、どこまで自分が道具を持ち、使っていたのか。そこに無自覚に、ネットだけをつついていたんだ」「反ネット勢力の名簿はいただけないのですか?」「勿論差し上げよう。だが今話したごときの懊悩、えっと悩みね。…悩み。道具に関する悩みを私や私と同じような人間は共有している。だから私の同胞では…ネットをストップしようと考えただけの時代の人間ではダメだ。おわかりいただけたかな?」「…わかりました」
鷲見の邸宅から去り、関市内吾妻町の、関市が幾度も合併する前からあるホテルに赴く。「もう一つのネット」でホテルにチェックインし、「もう一つのネット」で架空の銀行口座から架空の資金をホテルに支払う。自分の部屋でモルツビールを空けながら10時のニュースを見つつ、鷲見からもらったリストを網膜で走査する。
2缶目がもう少しで飲み干せるぐらいの時に、関係者の中に元カレ(Moto-kare昔の男性の交際相手)の名前を見付けた。「???」
前のエントリー(午前): http://anond.hatelabo.jp/20130922123915
もう用事(昼食)は済んだ。帰りたい。
ただそういうわけにもいかず、激しい帰宅衝動を抑えながら、午後は小説家養成講座の体験入学に参加した。
小説にはあんま興味ないけど、声優やお笑いのコースは“実技”があるらしく、消去法で小説講座選んだ。
腹が膨れて眠くなり始めた頃、会議室みたいな部屋に呼び出された。
オジサン「みなさんの夢を叶えましょう!」
たぶん学校職員と思しき怪しげな(名乗りもしない)オジサンが、胡散臭い話をする。
自然食料品店にお年寄り集めてやる催眠商法や自己啓発セミナーみたい。
そのインチキ話を、頭の悪そうな若い聴講者が「うんうん」と聞いている。私はこの文章打ってる。この世界はおかしい。
学科の講師陣が紹介されるのだけど、知らない人ばかり。ああ、あかほりさとるは知ってる。
余談だけど、「あかほりさとる 今」ってサジェストするGoogle先生マジ鬼畜。
怪しいオジサンが消えたあと、ヨボヨボのお爺ちゃんが現れた。
お爺ちゃん「ライトノベルというのは……」
模擬授業が始まった……ようだ。
日本語がたどたどしい若い聴講者がよく分からないことを言って、お爺ちゃんの講師が聞き取れない返答をする。やっぱりこの世界はおかしい。
お爺ちゃん講師が『涼宮ハルヒの憂鬱』のあらすじを説明し始める。突然。なぜかは分からない。
途切れ途切れに聞こえてくるハルヒのあらすじを聞いて、若い聴講生が「うんうん」ってうなづいている。何に納得してるんだよ。
お爺ちゃんが「長門」っていうたびに戦艦のそれ想像しちゃって、笑うのこらえるのが大変だった。従軍経験あってもおかしくない御年。
と思っていたら、今度は『僕は友達が少ない』のあらすじの説明が始まった。やっぱり突然。もう驚かない。いっそ太平洋戦争の話してくれ。
ホワイトボードに震える手で何か書くお爺ちゃん。読めない。
英語のリスニングテスト並みの集中力を傾けて聞くと、お爺ちゃんはライトノベルの歴史を説明しているらしかった。
おい。新井素子は? 『ブギーポップは笑わない』は? ジジイすっ飛ばし杉。
私、キャンベルの神話の構造くらいは知ってるけど、お爺ちゃんの話全く分からなかった。こいつ、本当にただの古参兵じゃないのか?
明らかに神話ではないのだが、お爺ちゃんは朗々と小説(何か分からん。タイトルぐぐっても出てこない)を読み上げ始めた。だから早く従軍体験語れよ。
もちろん北朝鮮が核兵器を持ってほしくないと俺も思ってるよ。住んでる街に核ミサイルが落っこちてくるのとか勘弁して欲しいし。だから日本政府が北朝鮮に抗議するのは当たり前。
だけどさあ、「北朝鮮は何考えてるわからない」「信じられない」「理解不能」みたいな反応がテレビでも自分の周囲でも多いんだけど、俺はそういうこと言ってる人たちのほうがわかんないよ。だってアメリカも中国もロシアもフランスもさんざん核実験やったわけでしょう。それと同じことをやってるだけで、何も不思議じゃない。そりゃあ北朝鮮の核ミサイルが日本に照準を合わせてると思えばいい気分はしないけど、それを言ったら中国の核ミサイルだってずっと前から日本を狙ってるわけで。
日本はまだしも、アメリカとか中国とかロシアみたいな国が今回北朝鮮を非難しているのは結構すごいよね。自分達はさんざん核実験して技術を蓄積しておいて、あとから来た国には「核実験やめろ」「平和を乱す行為だ」とか言ってるわけでしょ。何?そのご都合主義。そのくらい面の皮が厚くないと常任理事国なんかできないんだろうけどね。
そりゃあ北朝鮮は拉致とか大韓航空機爆破とかビルマ爆弾テロとか、酷いことやってますよ。最低な国ですよ。でも、じゃあ安保理常任理事国のお歴々がそんな、他国に指図するほど偉いのかと。北朝鮮が日本人を拉致してた頃、中国は中越戦争でベトナム人を何万人も殺してたわけで。チベットやウイグルのことは言わずもがな。ロシアはアフガンで、アメリカはイラクで似たようなことをやってたし、アメリカの偉い人たちは「核兵器による先制攻撃」を平気で議論の俎上に載せたりしてる。「核は自衛のため」って言っている北朝鮮よりも、ある意味アメリカのほうがもっと酷いよ。
インド核実験の時も国際世論は非難の大合唱だったけど、インドは実はそれまで「核兵器の全廃」をずっと主張してきたんですよ。でも核保有国は聞く耳を持たず、「俺らは持つけどお前らは持つな」っていう立場を頑なに変えなかった。だから「核保有国がどうしても核を手放さないなら、われわれも自衛のために核を持つ権利がある」って言って核保有へ方針転換した。インドの言い分が正論だと俺は思いますよ。アメリカとその同盟国(日本含む)や中国やロシアやイスラエルが核で守られてるんだから、インドだってパキスタンだってイランだって台湾だって北朝鮮だって核武装する権利はあるでしょう。本当に核の脅威から逃れるためには、核保有国の核兵器も含めて全廃するしかない。
「理屈はどうだろうが、北朝鮮から核ミサイルが飛んできたら困るから絶対反対」っていう話ならわかるんですよ。ていうか俺もそう思うし。実際、北朝鮮からミサイルが飛んできたら困るし、金正日体制なんか早く崩壊してほしいと思ってる。だけど「あいつらは頭おかしい」「何考えてるか分からない」とか言われると、「なんで?」って思うんだよな。だって日本だって自国を守るためにアメリカの核の傘の下に入ってるでしょう。北朝鮮も同じことをしてるだけじゃん。国家として自然な考えだと思うけど。
欧米のミャンマー報道は「スーチー」偏向プリズムで目が腐乱している
アウンサン・スーチー女史だけが欧米にとってミャンマー報道の全て。
日本のマスコミの取材力も解析力も貧弱だが、欧米マスコミのそれも変わりばえしない。スーチー女史が民主化のシンボルというのは、盧武鉉が韓国民主化のシンボルだった、という嘘放送同様に悪質なデマゴギーに属する。
しかしスーチー問題はここでは論じない。詳しくは高山正之氏の『スーチー女史は善人か』(新潮社刊)を参照されたい。
ミャンマーを壟断しているのはたしかに軍人政権だが、社会構造は二重になっており、軍部より上位に仏教があり、国中いたるところパゴダばかり。敬虔なひとびと、穏和な性格、農業国家。倫理性が高い。それこそ欧米の植民地時代の悪辣非道な統治に比べると、ミャンマー国民の倫理の高さ、その潔さは比べようがないのではないか。
英国植民に狎れ、英国へ留学したスーチー女史には土着の思想も発想もない。東チモールのグスマンのごとし。或いはパキスタンのブッド元首相のごとき。
ミャンマーを一週間旅行したことがあるが、その穏やかな人々と風景ののどかさに、むしろ感動した。
さてミャンマーの北方地域から北東部にかけての山岳地帯は軍事政権も統治が及ばない無法地帯をかかえる。カチン族、カレン族、モン族が実効支配する地帯で、しかも麻薬栽培が盛ん。その無法地帯と国境を接するのは?
中国です。
辺境地帯のゲリラは武装しており、独自の税金を取り立て、長年にわたって軍事政権と対峙してきた。
北東部はカチン族などの部族長らが指導権を握り、カチン民主戦線(NDA),シャン州軍(SSA),民主同盟軍(MNDAA),ワ州軍(UWSA)等、反政府では同じでも、ゲリラ間の統制はとれておらず、お互いがいがみあっている。いがみ合えばあうだけ、ミャンマー軍事政権としては分断統治がやりやすい。
しかし国際的孤立にくわえ、国内政情不安と民主化要求の板挟みにあって、ミャンマー軍幹部は、個別にこれらゲリラ頭目たちと会談しはじた。
年初から五月初旬にかけて密かに停戦を話し合ったが、長い戦闘による猜疑心が交錯したため交渉は難航し、結局、五月下旬になって破談におわっていたことが分かった(アジアタイムズ、5月29日号)。
▲停戦条件は信用できない
軍が提出したのは、ゲリラ側の武装解除とひきかえに、かれら戦闘員をミャンマー政府の『軍人』として政府軍へ参入し、給与を支払うことなどが条件だった。
とくにUWSAは、中国のテコ入れで対空砲、地対空ミサイル、190ミリ迫撃砲などで武装しており、軍部の出す条件はうっかり飲めないと踏んだ。
武装解除したあげく軍が急襲して殲滅させられた例を、カチン族らは見てきた。
UWSA軍は25000名。またワ州軍はカチン族の集団で武装兵士20000名を抱えると言われ、武装解除と自治が交換条件だが、やはり政府を信用しておらず、停戦交渉は決裂した。
これらの武器はどこから来たか
一方で、欧米が激しく非難するミャンマー軍事政権が制裁措置をもろともせずに存続する理由は最大の胴元が中国だからである。
国際的に孤立しても核武装を急ぎ、核実験を繰り返して平然としている北朝鮮も、結局は中国がテコ入れをしているからだ。
中国は国際社会の反対をよそに、堂々とミャンマー政府を支援してきた。
中国がミャンマー軍事政権への武器援助の交換として獲得したのは、インド洋アンダマン海沖合の無人島を二つ租借し中国海軍の観察基地としているほか、ミャンマー沖合の海底ガス油田開発権利をインドと競って獲得している。
中国雲南省とミャンマー南方の港湾とを結ぶハイウェイ建設、山岳での発電所建設を援助し、さらに沖合からミャンマーを南北に縦断するガス輸送パイプラインを中国が敷設する。
そうしてビジョンを持っていると同時に中国は反政府ゲリラ組織へのテコ入れを行うのである。第一はパイプラインを安全にまもるためには山岳ゲリラとの妥協が必要であり、第二に中国が最大支援国としての発言力をバックにミャンマー軍事政権を説得できるからだ。
▲ビルマ共産党に一時期テコ入れしたのも中国だったが。。。。。
一方、中国は1970年代から反政府ゲリラの肩入れしてきた。理由は彼らがビルマ共産党の流れを汲むからであり、また国境貿易の主体でもあり、麻薬の柱石地点でもある。
途中で中国はビルマ共産党の武装援助のテコ入れをやめる。理由はビルマ共産党は、とても組織的に脆弱で使い物にならないと判断したからである。
あたかもコミンテルンが辛亥革命直前から清朝の反政府組織にテコ入れし、孫文を日本から寝返らせて、周辺をソ連将校らが固め、さらに蒋介石、毛沢東の双方を援助した。西安事件を命令して蒋介石と毛沢東を共闘させるために国共内戦を終わらせ、抗日の統一戦線を組ませた。当時の中国共産党は山岳ゲリラの類い、スターリンの命令には逆らえず、また蒋介石も息子の蒋経国をモスクワに留学(という名の人質)にとられていた。
いま中国は、あたかもコミンテルンの謀略の現代版を実践するかのように、一方でミャンマー軍事政権に異常なテコ入れおこない、他方ではミャンマーの反政府ゲリラ組織にもテコ入れしてきたのだ。
山岳ゲリラの跳梁に悩まされるミャンマー現地民はタイの難民キャンプへ逃れており、これは国際的な人権問題。次の難題がそこにある。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
前回↓が途中で切れたため、その段落から改めてつづきを貼ります。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
「ホームページに載っている」と、また典拠をあいまいになさっていますね。アクセス日時を明記して、該当のURLを示すことも論文のルールとして確立しています。典拠となる論文の題名も該当ページも省略されていますが明記するのが普通です。先行研究の要約と著者の意見の区別がつかないのも問題です。先行研究の要約にオリジナリティはありません。先行研究について論じたいのであれば別でしょうが、先行研究を手がかりに、何かを主張したいのであれば、引用でも注でも根拠となる史料(この場合は「機密資料」)の該当部分を明記するのが論文のルールです。ちなみに孫引きは基本的にしてはいけません。原典にあたらずに引用元の編集が正確であるとは言えないからです。つまり、読む側からすると、根拠が示されていないがために、その主張を認めることはできません(学問のルールにおいては、主張する側に立証責任があります)。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
繰り返しますが、根拠のない推測は論文の中では無価値です。さて、戦った結果、無条件降伏して占領(=支配)されました。その後、戦争をせずとも、サンフランシスコ講和条約を結んで独立できましたし、奄美諸島も小笠原諸島も沖縄も返還されました。
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
しつこく繰り返しますが、風が吹けば桶屋が儲かる式の主張に説得力はありません。「国家間の問題も話し合いによって解決」とのことですが、イラク戦争やグルジア戦争は話し合いではありません。「百年、2百年」の根拠も示されていません。「人種平等」を推進した国際連合を結成したのは、勝った「強者」の国々でした。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返
また、「・・・・・・という人」、さらに「・・・・・・と思っているのであろう」ですが、藁人形を叩いても論文に説得力は生まれません。論文で心情の吐露をしても説得力は増しません。私の立場を表明しておきますが、人の生を無益だとする考え方には賛同しないことと、批判的検討を行うことは両立すると考えています。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
国を主語にしたのですから、そのように表明している公式見解くらい示してください。個々の語りについても、他者が参照できる形で提示されないものは論拠になりません。最後まで「侵略」の定義がなされないままでしたね。
戦時中のアジア諸国と日本との関わりについては以下の諸論文を参照。
吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」『東南アジア研究』19(4)、1982年、363-387ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56071/1/KJ00000133800.pdf
大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、347-377ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf
中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、149-217ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf
黒田展之・小林裕一郎「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(1)」『法と政治(関西学院大学)』49(2/3)、1998年、327-337ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0001061933
同「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(2・完)」『法と政治(関西学院大学)』49(4)、1998年、575-614ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0000592111
谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、361-398ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
「事実を丹念に」見せるのが実証的研究です。この「論文」はそうではありません。
「嘘やねつ造は全く必要がない」心の底から同意します。
以上、お目汚し失礼しました。もっと勉強しなければ……
(追記)日本の新聞記事へのリンクを貼り忘れていたので追加します。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
仏教の伝来には大きく2つのルートと二つの宗派があってだな…。
インド(原始仏教)―ダルマさん―中国―朝鮮―日本 (北伝ルート:大乗仏教)
インド(原始仏教)―ビルマ―タイ・ラオス・カンボジア (南伝ルート:上座部仏教)
というふうになるんよ。
んで、中国経由のほうの根本経典は、基本的に般若心経とか法華経とか、浄土宗だと無量寿教とか阿弥陀経とかの大乗経典。
仏教の経典っていうのは、基本的にすべてお釈迦さんが語ったものを後の世に経典に表したという形になってるんだけど、大乗経典っていうのはお釈迦さん以外の如来(ブッダ)が登場したり、観世音菩薩だの弥勒菩薩といった菩薩が登場したり、不動明王が登場したり、とにかくいろんなキャラが出てくる。
ちなみに大乗仏教ってのは、自分一人で悟って涅槃行ってもつまらんから民衆も救済してやるまいよ、という立場の仏教ね。
(これに対して自分一人が修行者として悟ることが第一と考えてるのが上座部-南伝仏教な)
もうこれだけでもわけわからんと思うんだけど、こんなわけわからんのは本当の仏教じゃない、っていうことでわけわからんことをやり出したのが禅宗で(公案とか只管打坐とかね)、それが日本に伝わってきて、明治になって鈴木大拙という人がアメリカで大々的に禅を普及したので、禅=日本というのも間違っちゃいないんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20080322120813
当時の日支戦線において、支那はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入
していましたが、このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ
しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51261997.html
気にすんな。同じ仏教国じゃないか。見過ごせないよ」
・戦時中
「おい、中国が日本ブッ叩くための補給路確保に、お前らも協力しろ。」
「日本とも国交のある我々は、最後まで中立を貫く。協力はしない。」
・戦後
チベット→日本と国交があった為「敗戦国扱い」→中国のチベット介入→今に至る
恩を返すときが今来たな
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1205769926/
かつて日本が大東亜戦争中、「同じ仏教国だから」という理由だけで羊毛を
送ってくれたのがチベットです。
チベットは一貫して「中立」を守り、日本との国交は変わらず続けられていました。
当時の日支戦線において、支那はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入
していましたが、このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ
しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。
日本との国交を継続していたチベットは、なんと国際舞台で「敗戦国扱い」をされる
ようになってしまいました。
それが支那の共産党につけこまれ、皆さんもよくご存知の現在のチベットの状況に
つながっています。
少なくとも、第二次世界大戦までにチベットを独立国として承認していたのはモンゴルくらいしかないはず。当然、日本とチベットに国交はなかったし、「敗戦国扱い」もされてない。
チベットは国際的に承認されていたわけではないが「実質的に独立」という状態だった。
ただし、中国(国民政府)は「チベットは中国の一地域」だとして国民党員を置いていた。
チベット支配のきっかけは1949年7月にチベット政府が国民党員を追放したことで、人民共和国建国目前の共産党はこれを英米など帝国主義勢力が背景にあると見なして、「祖国解放」「祖国防衛」の決意を強くしたことにある。
人民解放軍のチベット進駐が1951年と、朝鮮戦争と同時期に行われたのは、この両方を帝国主義勢力の中国侵略からの防衛であると中国が位置付けていたからだ。
第二次世界大戦でチベットが「敗戦国扱い」されたことが、現在のチベットの状況につながっている、というのは二重の意味で間違いといえる。
「敗戦国扱い」につけこまれるというなら、国民政府の方が早くチベットを「解放」していただろう。
こちらはソースというか参考文献を挙げておく。
チベット政府から大量の羊毛が送られて来ました。その理由はただ、
「同じ仏教国が苦しい思いをしているから」
でした。
国交は変わらず続けられていました。当時の日中戦線において、
中国はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入していましたが、た
このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ越えの
チベット・ルートを開こうとしました。しかし、先代のダライ・ラマ13世は
あくまでも中立を貫き、アメリカ大統領特使の強硬な
要求にも断じて応じませんでした。
悲劇をもたらす結果となりました。
「敗戦国扱い」をされるようになってしまいました。