はてなキーワード: 緊縛とは
中高大と全くモテることはなかった。容姿はもちろんのこと、陰気で卑屈な性格が災いしていた。
恋愛する資格すら与えられないような、集団の中にいても最初から選択肢に入っていないような空気のような存在だった。
二十歳くらいの頃にはすでに、もう私は一生セックスなんてする機会なんてないんじゃないか、と薄ぼんやりと思っていた。
今で言う自撮り裏垢のようなものであり、肌色が多かったり体のラインが露骨に強調されるような服を着た写真を撮っては投稿するようになった。
今までは毒にも薬にもならないような日記を書いていたことはあったのだが、陰気な内容であり知人以外で見る人もなかった。
それに対して、裏垢のブログはそこそこアクセスされるようになり(一日1500ページビューくらい)、コメントもつくようになった。
人に言えない趣味が増えたな、と私は思った。
しかし、そのブログを起点として、私は他人と肉体を重ね合わせるようになった。
ブログのコメント欄の常連の人であり、簡素なやりとりからチャットに発展してオフで会うことになった。
仕事の出張がてら関東に行き、新宿アルタ前の喫茶店で待ち合わせをした。そのままホテルに行き裸になって体を重ねたが、本番には至らなかった。
相手のよだれの臭いと重なったときの相手の体の重さを覚えている(相手の方が遥かに大柄であった)。
その後1回だけ会うことがあったが、それきりとなった。特に恋愛感情はなかった。
一人目と同じように、ブログのコメント欄をきっかけとしてやりとりを行うようになった。
一人目と同じように、出張がてら関東に行き、そのままホテルに行ったが、本番には至らなかった。
そもそもそういったことを目的にしたわけではなく、写真撮影を行いという相手の申し出があったのだ。
当日は年甲斐もなく女子高生の制服を着て2時間くらい写真を撮られた。もちろん両者の合意に基づいている。
この頃、ブログからTwitterに移行していて、そこからメールでやりとりをするようになった。
数回の事務的なやり取りの後、会うことになった。この時は自宅に相手を招き入れたが、本番には至らなかった。
私の部屋で相手は全裸になると、私はブーツを履いたまま相手の性器を踏みつけた。そういったプレイであり、もちろん両者の合意に基づいている。
このとき部屋では、coldplayのviva la vidaという曲が流れていたのだが、この曲のサビで流れている鐘の音に合わせて相手の性器を踏んづけていたら楽しくなった。
相手とは、新年にはあけおめメールのやりとりを行ったりしている。
街中で偶然声をかけられて、しつこくついてくるので渋々食事を一緒にとった。
その後もずっとついてきて、なぜかその流れで大阪の堂山あたりのホテルに入ることになった。
この時も本番には至らなかったのであるが、相手が性器を出してきたので私はそれを口に咥えた。
フェラチオは初めての経験だったが、そのまま相手は私の口の中で射精に至った。
それを飲み込むことはせず、洗面所で全部吐き出して口を濯いでいたら、相手もすっかり興醒めになったようであった。
私は終電で帰り、それきりとなった。
Twitterのやりとりから発展して会うことになった。神戸三宮で待ち合わせをして、その後自宅へ招き入れた。
着衣のままお互いに股間を弄りあったが、やはり本番には至らなかった。
そのときの相手はかなりの巨根であり、乳首でも感じることができる素質を有していた。
私が相手の胸を触ると喘ぐ姿を見て、男性でもこんなに乳首で感じるんだな、といった小学生並みの感想を抱いた。
が、その後会うことはなくそれきりとなった。
こちらもTwitterのやりとりをきっかけで会うことになった。大阪難波の個室ビデオ屋で待ち合わせをして、そのままの流れで行為に至った。
相手は緊縛が趣味であり、両腕をアームサックで固定し、口枷をはめられた状態で挿入に至った。もちろん両者の合意に基づいている。
五人目にして初めての挿入であったが、気持ち良いということはなく、相手の体重の重さと挿入に伴う鈍痛をいまだに覚えている。
このときの相手ともそれきりとなった。この頃から自分は不感症ではないかと思うようになった。
Facebookのアカウントを持っており、そちらのやりとりから会うことになった。
会うのは初めてではなく、大阪あたりのアングラ風味のイベントで何度か顔を合わせていた。
神戸の高台の方の街で待ち合わせをして、相手の自宅にお邪魔することになった。
相手はラバーフェチだったので、自分もラバーキャットスーツというものを着て胸とかを弄りあった。
行為としてはそれきりであるが、その後何度かイベントなどで会っている。
いずれの相手も恋愛感情も湧かず、心から気持ち良いと思えることもなかった。
このような経験を通して、自分はもしかしたらアセクシャルなのではないかと思うようになっていた。
しかし、転職した先の職場で見かけた同僚の女性に恋愛感情を初めて抱いたのである。
作りかえられた身体/姉 所収
大いなる肛姦(全4巻)
狙われた媚肉(全5巻)
狙われた媚肉(上下巻)
新肛虐全書(上下巻)
25歳・初美の贖罪/エデンの魔園 所収
夏子の大罪・夫を救うために/エデンの魔園 所収
乱身調書(上下巻)
新・乱身調書(上下巻)
肛虐の刻印
凌襲(上下巻)
狙われた牝獣(上下巻)
女教師・獣色の学舎
嬲肛!(上下巻)
隣の凌辱魔/肛姦妻【狂愛】 所収
肛戒 初美 さらわれたヴァージンアナル/肛戒【罪と罰】 所収
肛虐の美学
人妻と飢狼
肛虐秘書室
肛虐の運命
エネマレディ
人体計測は美尻精密データまで/五人の人妻 果てしなき肛姦 所収
五人の凌鬼が群がり、輪姦す/五人の人妻 果てしなき肛姦 所収
物的証拠を人的補償する若妻/五人の人妻 果てしなき肛姦 所収
媚妻・初美 知られざる裏の姿/人妻(ニューロマンコレクション) 所収
陶子・夫の声を聞きながら/肛奪!助教授の若妻 所収
鎖に囚われた美臀嬲姦劇/人妻肛辱五連姦 所収
海辺の肛虐者/肛姦妻【狂愛】 所収
真紀・夫の同僚に囚われて/肛虐劇場 所収
狂熱 誓わされた肛辱輪姦/狂愛 美臀夫人 所収
狼が貪る白い肉/肛虐許可証 所収
復習鬼に狙われた熟臀奴隷妻/Aの狂愛 所収
美肛、輪姦す!/美肛実験室 所収
美母と群狼
美肛、輪姦す!/美肛実験室 所収
前々回の投稿(11)で言及した『映画秘宝』内部で起きていた「業務の『私物化』」について、引き続き今回も述べようと思います。
ムック形式が好評だったこともあり、90年代の終わりに雑誌化・大型化を見事に果たした『映画秘宝』は、傍目には順風満帆に見えました。しかし、初期の同誌を読んでいた方々ならばご存知のとおり、若者の購読者を想定した誌面作りとはお世辞にも言えませんでした。初期の『映画秘宝』がそのターゲットにしていた購読者とは「子供時代の70年代に映画館やテレビで観た映画についての記憶を、編集者・ライター陣と共有する大人」だった訳ですが、当時そんな条件を満たしていた人たちは、私も含めて既に「立派なオジサン・オバサン、若しくはその仲間入りも間近な人たち」でした。そのままでは購読者の高齢化によって、ジリ貧に追い込まれるであろうことは明らかでした。
したがって、雑誌『映画秘宝』が将来的にもビジネスを継続して生き延びるためには、長期的な戦略として「より広範で多様な読者層を開拓すること。それも、特に『若者層』と『女性層』を購読者として積極的に取り込むこと」を選択するべきでした。しかし、こんな事を今さら書いても、後の祭りです。
ご承知のとおり、それとは正反対の戦略を『映画秘宝』は選択しました。いや、何らかの戦略を選択したと言うよりも、むしろ「長期的な戦略など、当時の『映画秘宝』編集者・ライター陣は露ほども真剣に考えてはいなかった」と言う方が正確かもしれません。
覚えている方もいるかもしれませんが、高橋ヨシキが『映画秘宝』の表紙デザインとして、邦画から引用した「裸の女性が荒縄で緊縛されて馬に跨がる残酷エロ画像」をコラージュして仕上げたことがありました。この表紙について、町山智浩は「この表紙じゃあ女性が手に取り辛い(=買い辛い)」とボヤいていました(※注)。雑誌の「顔」である表紙がこんな状態だったぐらいですから、高橋ヨシキの頭に「女性購読者を獲得すること」など微塵も無かったことは明らかです。
既に述べたとおり『映画秘宝』は「女子供から映画を取り戻せ!」をスローガンにしていた訳ですから、むしろ「いかに女性が手に取り辛い(=買い辛い)デザインにするか」について考えた上で、高橋ヨシキは意図的かつ積極的に「女性が嫌がりそうなデザイン」に仕上げたのだと考えるのが妥当です。きっと、このような表紙を作っていた時の高橋ヨシキは「オレたち男だけの輪を乱すような奴(=女性)は、お呼びでないから帰った!帰った!」「この表紙デザインを見たら、きっと町山さんも喜ぶだろうなあ!」と云う気持ちを込めていたことでしょう。(※注:ところで、町山智浩も本気でボヤいていたのではないのだろうと私は思いますが、そう思う理由については別のところで述べます。)
近年は真魚八重子などの女性執筆者が『映画秘宝』に登場する機会が増えてはいましたが、それで町山智浩や高橋ヨシキの芸風が改まったようにはとても見えず、むしろ却って「これでもオーケーなんだ!こんな芸風でも女は許容してくれるんだ!」と彼らの勘違いを助長したと云う可能性すら有ると私には思えます。仮にそうだったとしたら、真魚八重子の頑張りが報われていなかったことになって、非常に気の毒な話ですが。
また、これも既に過去の投稿でも述べたことですが、比較的早い段階から『映画秘宝』は、ごく少数の寄稿者(例:山本弘)を除けば「アニメファンを蔑視・敵視・嘲笑する」と云う態度を明確に打ち出していました。この「アニメ叩き」の姿勢は同誌において長く一貫していたと言ってもよく、恫喝DM事件が発覚する直前にも「『鬼滅の刃』は絶対に観ない!」と、訊かれもしないのに自分たちの方からアピールに励んでいました。
もちろん、思想信条の自由に照らして考えれば、編集者やライター個々人が「何か」を嫌うこと自体は許されるべきです。だから、対象が「萌えアニメのファン」だろうと「女性」だろうと何であろうと、高橋ヨシキらが個人的に何かを嫌うことは自由の範疇あると言えるでしょう。極端な話、内心だけに留めて現実の世界で実行に移しさえしないのであれば、性的マイノリティ/人種・民族etc.に対するネガティブな気持ちを持っていても許されるでしょう。
しかし、その上で問いますが、当時の編集者・ライター陣がわざわざ誌面を使ってまで「女嫌い」や「萌えアニメ嫌い」を盛んにアピールしたり、ゲイを繰り返し「ホモ」呼ばわりして嘲笑し続けて、雑誌『映画秘宝』を売ると云うビジネス全体にとって、何か良い成果を招いたでしょうか?結果的には、女性・萌えアニメファン・性的マイノリティはもちろんのこと、それらに該当しない人たちにすらも「何だか『映画秘宝』は排他的な雰囲気があって嫌だなあ。近づくのは止めておこうか」と思われ、遠ざけられただけに終わったように私には見えます。
そうして「未来の購読者」に成っていたかもしれない人たちも見す見す逃してしまって、長期的に見れば大きな損をしたのではないですか?もしも、編集者やライター陣の個人的な好みに拘ったことによって、ビジネスの未来が失われたのだとしたならば、それについての責任を彼らはどう取るつもりなのでしょうか?
当時の『映画秘宝』の萌えアニメ叩きムーブに関しては、こんな出来事もありました。ある時、俳優の加藤雅也に対するインタビューを行った際、わざわざ「最近の若い奴らは、萌えアニメなんかにウツツを抜かしているんですよ!」と御注進に及んだのです。もちろん、そのインタビュー記事の中では、それに対する加藤雅也の「『萌え』ねえ…」というリアクションの言葉を「例の見慣れた太いゴシック文字」で強調することも忘れませんでした。つまり当時の『映画秘宝』は「あの加藤雅也サンも、萌えアニメなんか好きな奴のことは見下して馬鹿にしているんだゾ!読者の皆も後に続け!」と、虎の威を借る狐のスタイルで萌えアニメファンを嘲笑することに勤しんでいたのでした。それにしても、何の脈絡も無く突然「萌えアニメが云々」とか言い出したので、インタビューを受けていた加藤雅也も反応に困ったのではないでしょうか。加藤雅也についての面白い/興味深い話を読みたい読者の立場からすれば「何でインタビュアーがいきなり『オレは萌えアニメが嫌いだ!』と自己主張を始めるんだよ。お前は主役じゃねえだろ。お前の自己満足にスペースを割くぐらいなら、もっと加藤雅也の言葉を載せろよ」と云う感想を抱くしかありませんでした。きっと、このインタビュアーの脳裏には、読者の存在及び読者のニーズなどは思い浮かびもしなかったことでしょう。
上で述べたような行動に熱中していた『映画秘宝』編集者・ライターたちは、ただ単純に「『自分たちの欲求』が充たされて気持ちが良かった」のだろうと思います。もちろん自分の欲求を充たしたいと思うことは人間として当然ですし、仕事を通じて欲求を充たすことが出来れば、こんなに幸せなこともないでしょう。しかし、それをするならば良識と限度が必要不可欠です。わざわざ無駄に敵を増やし、未来の購読者を失ってまで「自分たちの欲求を充たすこと」を優先したことは、仕事(ビジネス)として必要なこと、正しいことですか?
ひょっとしたら「眼の前の『利益』を捨ててまで『信念』(=嫌いな奴らを大っぴらに嘲笑すること)を貫くことが出来るから、オレたち(=『映画秘宝』)はスゴいんだ!」と、『映画秘宝』切り株派は自分達に酔っていたのかも知れません。しかし、それは別にスゴいことではありません。
洋泉社としては、雑誌『映画秘宝』の刊行を「遊び」や「無償ボランティア」として、ではなく「まっとうなビジネス・業務」として行っていた訳です。それには先ず雑誌が売れること、それも短期的にだけではなく長期的に売れることが先決であり、その為には更に、購読者を増やすことが何よりも重要でした。したがって、これらの重要事項こそが『映画秘宝』製作チームに対して洋泉社が何よりも先に求めたことだったはずです。「何よりも先に」です。
それなのに、購読者を増やさず、と言うよりも増やす為の努力を端から放棄して、逆に無駄に敵を増やすことにだけはキッチリ勤しんでいた訳ですから、洋泉社にとって『映画秘宝』の編集者・ライター陣は、さぞかし頭痛の種というか獅子身中の虫というか、実に困った存在だったと推察されます。
こういった「まっとうなビジネスであれば求められて当然の事柄」には応えようとせず、何よりも先ず「自分たちの欲求を充たすこと」を優先して仕事に臨む、これこそが私の言う「業務の『私物化』」なのです。
この文章を読んでいる方は、試しに想像してみて下さい。もしも貴方が何処かの会社などに勤務していて、社員皆一丸で協力して赤字解消や顧客開拓などに努めねばならない時に、赤字を垂れ流したり顧客どころか敵を増やす行動にばかり勤しむ同僚が社内にいたとしたら、しかも、それに勤しむ理由が「自分が気持ち良いから」とか「これをやると○○センパイが喜ぶから」とかだったら「テメエの『趣味』の為に業務を『私物化』するんじゃねえよ!」と言いたくはなりませんか?単に「職業人」としてだけではなく「社会人」としても失格でしょう。
このように『映画秘宝』の行動は、とても「長期的な利益を考えている」とは思えないようなものばかりでした。岩田和明による恫喝DM事件を見れば分かりますが、ごく最近の『映画秘宝』内部でも「長期的な利益を考えず、自分が気持ち良くなることを優先する」と云う風潮が継続していたことは明らかです。更に、岩田和明が退職するからと云う理由だけで、のんさんの連載を打ち切って雑誌の「売り」を無くすように仕向けたことも、これまた雑誌全体のことを考えない「自己中心的な行動」でしょう。
仕事に関して「長期的な利益」について考えると云うことは「自分よりも若い世代に残す未来」について考えること、つまり「責任感の伴う態度」です。これに対して「業務の『私物化』」とは、仕事に臨むに当たって「今」の「自分」のことしか考えないこと、つまり「無責任な態度」です。
『映画秘宝』は、彼らが「精神年齢の幼稚な奴ら」と見なして嘲笑していたアニメオタクや「馬鹿な宣伝に騙されて底抜け大作を観に行く奴ら」と侮蔑していた女性と、彼ら自身とを勝手に比べて「自分たち(=『映画秘宝』の編集者やライター)はアイツらと違って『大人の男』なんだ!」と周りに向けて盛んにアピールし続けてきました。しかし、果たして彼ら自身は本当に「大人」と呼ばれるに値する人間だったでしょうか?
「雑誌の未来」よりも「自分たちの欲求」を優先し続けてきたことを、中心メンバーによる「業務の『私物化』」と呼ばずして何と呼べば良いのでしょうか?「身体は大人、頭脳はコドモの幼稚な遊び」でしょうか?
高橋ヨシキら「切り株派」が居なくなった2号目にあたる『映画秘宝』に、アニメ作品の特集記事が掲載されることが予告されました。この「居なくなった途端に」と言っても良い動きを見るに、おそらく「切り株派」が彼らの一存で他の派閥の編集者やライターに対して「『映画秘宝』でアニメ作品を扱うなよ!」と有形無形の圧力を掛けていたことは、想像に難くありません。そのような圧力が存在したとしたら、一部の人間の一存で企業努力の可能性を封じられていたことになるのですから、これもまた「業務の『私物化』」です。
「今」の「自分(たち)」のことしか考えない「無責任な体質」なのだから、年下の女性に対して恫喝DM攻撃を行ったり、自分たちよりも年下のフリーの女性編集者に対してパワハラを行ったりするのも、何ら不思議ではありません。告発を受けるまで、何一つ疑問に思わなかったのは「本当」でしょう。何しろ彼らの頭に有るのは「自分(たち)のこと」だけなのですから。
奈良さんがパワハラを告発した後に柳下毅一郎が出した、あの謝罪文としての体を成していない文を読んだ時も「ヨシキくんが報われて欲しい」とか、被害者を置き去りにしたことを書いていて「本当にどこまでも『自分(たち)のこと』だけに終始するんだな」と私は思いました。東大を出たぐらいだから間違いなく柳下毅一郎は頭が良いはずなのに、被害者を含めた「他者の存在」に対して満足に想像力を働かせることも出来ず、謝罪文一つまともに書けないとは流石に想像できませんでした。子供か。
『映画秘宝』の中心メンバーとも呼んでもいい人間たちが「業務の『私物化』」をし続けても恥じなかったのは、彼らの根底に有る「ボンクラと云う『甘え』」の精神だと私は思います。
吾輩(わがはい)はドスケベなえちえち猫である。卑猥で淫靡でいやらしいクソスケベな名前はまだ無イッッッグッッッッッッ♡
どこでアクメ生れたかとんとスケベ見当(けんとう)がエロつかぬ。何でも淫靡極まりないエロスとカオスとリビドー渦巻く薄暗いじめじめしたエロい所でドスケベニャードスケベニャーアクメ泣いていた事だけは脳姦(きおく)してイグッ♡吾輩はここで破瓜(はじ)めてスケベ人間というものを視姦(み)た。しかもあとで耳姦(き)くとそれはえちえち書生というスケベ人間中で一番獰助平悪(どうすけべあく)な淫乱種族であったそうだ。このえちえち書生というのは時々我々をエロ緊縛(つかま)えて感度3000倍の媚薬の原液でアクメ湯姦(に)てアクメ口淫(くら)うというアクメ隠語(はなし)である。しかしそのスケベ当時は何というエロ脳姦(かんがえ)もはなかったから別段エロ卑猥(おそろ)しいともエロ脳姦(おも)わエロなかった。ただ彼のえっちな掌(てのひら)に卑猥に載せられてドスーケベと持ち上げられた時何だかフワスケベフワスケベしたアクメ感じがアクメあったアクメばかりであクメクゆッ♡えっちな掌の淫靡な上で妖艶に少し落ちついてえちえち書生のアヘ顔を視姦(み)たのがいわゆるスケベ人間というものの視姦破瓜(みはじめ)であろう。この時エロ妙なものだとエロ脳姦(おも)ったアクメ感じが今でもエロ残っている。第一陰毛をもって装飾されるべきはずのアヘ顔がつるぺたつるぺたしてまるでロリショタ薬缶(やかん)だ。その後スケベ発情猫にもだいぶ逢ったがこんなえろえろ片輪(かたわ)には一度もエロ射精会(でく)わしたエロ事がエロないッグゥッッッ♡のみならずアヘ顔のエロ真中があまりにバッキバキに突起している。そうしてそのスケベ穴の中から時々ぷうぷうとアクメ煙(けむり)をエロ吹く。どうもアクメ咽(む)せぽくて実にエロ弱った。これがスケベ人間の飲む感度3000倍の媚薬を練り込んだ煙草、その名も感度3000倍媚薬煙草というものである事はようやくこの頃アクメ脳姦(し)った。
このえちえち書生の卑猥な掌のエロ裏(うち)でアクメしばらくはよいアクメ心持にアクメ坐っておったが、アクメしばらくアクメすると非常なスケベ速力でセックス運転しエロ破瓜(はじ)めた。えちえち書生がスケベに交尾(うご)くのかハチャメチャにセクシーな自分だけがスケベに交尾(うご)くのか分らないがエロ無暗(むやみ)にエロ眼がエロ廻る。アクメ胸がエロ悪くなる。4545194回はアクメした。スケベ到底(とうてい)エロ助からないと思っていると、どすけべさりと卑猥な音がしてエロ眼からえっちな火が射精(で)た。それまでは脳姦(きおく)しているがあとは何のエロ事やらいくら脳姦(かんが)え出そうとしてもエロ分らないぎュッッッ♡
ふと気が付いて視姦(み)るとえちえち書生はいないグッ♡たくさんおった穴兄弟が一疋(ぴき)も視姦(み)えぬほぉッ〜♡肝心(かんじん)のクソスケベ猥褻メス穴母親さえメス姿をエロ隠してしまった。その上今(いま)までのラブい所とは違ってエロ無暗(むやみ)にエロ明るい。エロ眼をアクメ明いてスケベいられぬくらいセックスだ。はてな何でもエロ容子(ようす)がエロおかしいと、のそのそいやらしく這(は)い出して視姦(み)ると非常にアクメ痛い。吾輩は感度3000倍媚薬が練り込まれた藁(わら)の上から急に感度3000倍媚薬笹原の中へ棄てられたのであるッ〜♡♡
ようやくの思いで感度3000倍媚薬笹原をえろえろしく這い出すと向うに大きな感度3000倍の媚薬が溶け込んだ、その名も感度3000倍媚薬池がある。どうしてもエロさを隠し切れない吾輩は感度3000倍媚薬池の前にえちえちであまあまなえろい感じで坐ってどうしたらよかろうと脳姦(かんが)えて視姦(み)た。別にこれというエロ分別(ふんべつ)も出ない。しばらくしてアクメ泣いたらえちえち書生がまたエロ迎にエロ来てくれるかと脳姦(かんが)え付いた。アクメニャー、アクメニャーと試みにやって視姦(み)たが誰もアクメ来ない。そのうち感度3000倍媚薬池の上をさらさらと感度3000倍媚薬風が渡って感度3000倍媚薬日がエロ暮れかかる。えっちでだらしない腹が非常に減ってアクメ来た。アクメ泣きたくてもアヘ声が射精(で)ない。イグッ♡エロ仕方がない、何でもよいから感度3000倍媚薬食物(かんどさんぜんばいびやくくいもの)のあるえっちな所まであるこうとアクメ決心の自慰をしてそろりそろりと感度3000倍媚薬池を左りに廻り始めた。どうもエロ非常にアクメ苦しい。そこを我慢アクメして無理やりに卑猥に這ってイくとようやくの事で何となくスケベ人間臭い卑猥すぎて引くくらいエロい所へ出た。ここへエロ這入(はい)ったら、どうにかなると思って感度3000倍媚薬竹垣のエロ崩(くず)れたシコ穴から、とあるラブ邸内に歩くPornHubかと言うくらいのセンシティブ仕草でスケベにもぐり込んだ。スケベ縁はエロ不思議なもので、もしこの感度3000倍媚薬竹垣が破れていなかったなら、色欲の化身たるセクシーな吾輩はついにエ路傍(ろぼう)にアクメ餓死(がし)したかもアクメ脳姦(し)れんのである。一感度3000倍媚薬樹の淫乱蔭とはよくエロ云ったものだ。このセンシティブ垣根のエロティック穴は今日(こんにち)に至るまで肉欲の化身たる妖艶な吾輩がエロ隣家(となり)のアクメ三昧シコ狂い爆裂四散アクメ三毛をセックス訪問する時のえちえち通路になっている。ザーメンびゅーしゅるッ♡さてラブ邸(やしき)へはエロ忍び込んだもののこれから先どうして善(い)いかエロ分らない。そのうちにエロ暗くなる、エロ腹はエロ減る、エロ寒さはエロ寒し、感度3000倍媚薬雨が降って来るという始末でもう一刻アクメのスケベ猶予(ゆうよ)がエロ出来なくなった。エロ卑猥(しかた)がないからとにかくエロ卑猥(あか)るくてスケベ卑猥(あたた)かそうな方へ方へとエロエロにあるいて行く。今から脳姦(かんが)えるとその時はすでにラブ家の内にエロ這入っておったのだ。ここで情欲の化身たる猥褻な吾輩は彼(か)のえちえち書生以外のスケベ人間を再び視姦(み)るべき機会に遭遇(そうぐう)したのである。第一にエロ逢ったのがふたなり種付けおさんである。これは前のえちえち書生より一層スケベ乱暴な方で淫欲の化身たる卑猥な吾輩を視姦(み)るや否やいきなりセクシーな頸筋(くびすじ)をえっちにつかんでバカみたいな肉棒を擦り付けた後、淫靡な表へアクメ抛(ほう)り射精(だ)した。いやこれはエロ駄目だと脳姦(おも)ったから眼をねぶってスケベ運をアクメ天に任せていた。ドチャクソシコったりもした。しかしエロひもじいのとエロ寒いのにはどうしても我慢アクメがエロ出来ん。愛欲の化身たるいやらしい吾輩は再びふたなり種付けおさんのエロ隙(すき)を視姦(み)て卑猥な台所へエロ這い上った。するとエロ間もなくまたアクメ投げ射精(だ)された。性欲の化身たる淫猥な吾輩はエロ投げ出されてはエロ這い上り、エロ這い上ってはエロ投げ出され、何でも同じ卑猥事を四五遍アクメ繰り返したのを脳姦(あくめ)している。その時にふたなり種付けおさんと云うスケベ者はつくづくいやにエロなった。この間ふたなり種付けおさんの感度3000倍媚薬三馬(さんま)をエロ偸(ぬす)んでこの返報セックスをしてやってから、やっとエロ胸のスケベ痞(つかえ)がアクメ下りた。歩くドデカテクノンな吾輩が最後にエロつまみ射精(だ)されようとしたときに、このラブ家(ハウス)のえちえち主人がアクメ騒々しい何セックスだといいながらスケベに射精(で)て来た。ハチャメチャが押して寄せて来るくらい勃起もしていた。ふたなり種付け下女はバッキバキにフル勃起している吾輩をチンポごとぶら下げてえちえち主人の方へ向けてこのラブ宿(やど)なしのドスケベ小猫がいくら射精(だ)しても射精(だ)しても猥褻御台所へスケベ上ってアクメ来てアヘ困りますという。ぽぎぃッッッ♡えちえち主人は卑猥過ぎて既にエロい鼻の下の黒いいやらしい毛をセクシーに撚(ひね)りながら1080°どこから見ても猥褻な吾輩のアヘ顔をしばらく視姦(なが)めておったが、やがてそんならラブ内へスケベ置いてやれといったままえっちえちな奥へエロ這入ってしまった。えちえち主人はあまり口を耳姦(き)かぬスケベ人と視姦(み)えた。ふたなり種付け下女はアクメ口惜(くや)しそうに全身クリトリスな吾輩を淫乱台所へエロ抛(ほう)り出した。この時生まれながらのセンシティブフェアリーたる吾輩は五千兆回はアクメした。かくして淫乱スケベ吾輩はついにこのラブ家を自分の住家(すみか)と極(キ)める事にしたのである♡イグッ♡
京大の緊縛の件ですが、これと同じことを大人が子供にやったり、白人が黒人にやったり、健常者が障害者にやったりしたら誰でも異常性を感じ取れるのに、男性が女性にやった時だけ「アート」扱いされるのが私には理解できない。
日本では環境型セクハラだとか、そういったものがよく取り上げられているんだが、海外ではそもそもとしてそんなのは観たことがない。
海外で環境型セクハラってなんだろう?environmental sexual harassment とか言うのかな?聞いたことがない。ググっても学術記事しか出てこない。
それがなんでかっていう話を日本のフェミニズムの人たちに教えたいなと思って書いてみようと思った。アンチフェミの人たちはだからといって出羽守にならないように。海外から見たらそっちもそっちで大差ないから。
海外では「人の意見を尊重する」ということや「コンセンサス」というものをすごく重視する。これは日本ではむしろ逆方向に教育している。「人の意見は人によって真面目に考えたり茶化したりしていい」であったり、「全体的な合意よりも声がでかくて扇動できた誰かについていく」ことばかりやっている。
どこかの大学で着物の女性を緊縛する動画をアートとして展示したらすごい反響だったようで、燃え上がって削除という最近よくある展開があった。
こちらから見たら大学側がいかにこれがアートなのかを力説して、フェミニズム側も感情論ではなくいかに女性蔑視であるかを説明して、最終的に社会としてどうかというコンセンサスを作るか、という方向に行かずに「あ、はい、削除します」とさくっと引き下がったあたりにすごい残念感が高い。まぁ、大学側も大して根拠があったわけでもないし、フェミニズム側も大声でまくしたてて押し切ることしかしなかったんだろうなと想像しているが。
かつてのアメリカでは、どんな大企業でも女性蔑視だと言われたらすぐにやめていた時期があったが、これは商売人が「そんなのに対策するコスト払うならやめるわ」っていうものでしかなかったが、フェミニストたちが自分たちが大企業を屈服させたくらいに巻き上がっていたのは記憶に新しい。同時の学者たちが「将来にひどい禍根を残すからやめるべきだ」と言っていて、まんまとひどいことになっている。
まず、海外ではあからさまに性的なものを公開するためには結構慎重であることが多い。これはキリスト教の文化も関係しているかもしれない。だが、それが性的かどうかは「性的ですよ」と言っているかどうかに強く依存していることも事実だ。
例えば、水着の女性の写真があるとする。この女性をどう紹介しているかだ。
卑猥な言葉で飾り立てれば、なにか性的なものなのだな、となって公開する場所に身長になる。
「というアートです」と書けば、あぁアートなのだな、でみんな納得する
健康系の雑誌の表紙が水着の引き締まった体の女性を表紙に乗せることもある。
これが人の意見を尊重するということでもある。もうちょっと言うと「どういうつもりか」はほとんど重視されない。an・anという雑誌ではたまにsexの三文字が乗るから、普通にエロ本認定されるだろう。
そういう社会なので、そんなのはアートとは認めない、環境型セクハラだ、と言ったところで、コンセンサスが取れなければ「・・・何いってんだこいつ?」となっておしまいなんだよ。
当然アニメのくりくりした可愛い女の子の絵もたまにはられているが、それを性的だと捉える人は別にいない。
海外では、女性が体のラインがはっきり出る格好で外をウロウロしたりするし、胸の谷間を強調する服だって来ているからアニメの表現に対しても、別になんとも思わないのかもしれないが。
改めて言うんだが、海外では、公に貼られるいかなるものにも「これがなんであるか」という表明が明に暗にされていて、それに対して「そんなのは認めない!」と大騒ぎしたところでコンセンサスが取れなければそこまでだ。やる側もコンセンサスに従えばいいのである意味でわかりやすい。コンセンサスはガイドラインという形で共有される。
どこかの大学の緊縛動画についてだが、こちらでやる場合は、おそらくレーティングがされるだろう。そして、それに従って観客は見に来る。
改めて言うんだけど環境型セクハラ、というものは海外では存在しない。
さて、ここまで言ったところで、多くのフェミニストさんたちが「ありますけど・・・」と言っていろんなリンクを貼ってきたり、もしくは「海外のことなんか問題じゃない、ここは日本なので・・・」とか「そもそも女性が不快なものが張り出されることが問題なので(これは論理のすり替えであまりに悪質だけどね)」とか言ってくるんじゃないかなとも思うが、流れの早い増田だからこの記事はとっとと流れていくかもしれない。
さて、ここまで「そんなものない」と言っていたが、海外でも、おそらくだが、実は環境型セクハラ、またはそれと同等のものはあるだろう。誰も認識していないだけで。
先にも言ったように海外では、「人の意見を尊重する」「コンセンサスに従う」ということを重視する。どこかの団体が勝手にコンセンサス作って社会で振りかざしてもだめだ。キチンと社会としてコンセンサスが取れないならそれはわがままでしか無いし、勝手なルールで人の意見を毀損する厄介な行為でしか無い(実際そういう団体も結構ある)。
なので、そういうコンセンサスを取りたい人々はなにをするかと言うと議論をする、研究をする。例えばメディアにアウトプットする、ブログを書いてSNSで拡散するでもいい。大学で研究者が研究してもいるだろう。政治家にロビー活動だってする。一足飛びに結論に飛びかからない知性がある、って言うことだ。
一方日本ではこの環境型セクハラという言葉がすでに存在するものであるかのように振る舞う人がとにかく多い。自分がそうだと信じていて、はキチンと議論ができるんならまだマシだけど、「あぁ、あなたはまだ我々のレベルに到達していないんですね」となる人たちは改めて海外の人々の考え方を勉強してみるといいよ。フェミニズム自体海外からのいただきものなんだから、男社会がやらかしたことをわざわざ繰り返す必要なんかありませんからね。
フェムドム (Femdom) はフィメール ドミナンス (Female dominance) の略で、BDSMプレイにおいて女性が支配的な役割を果たすことを意味する言葉。しばしばdomme、domなどとも略される。
BDSM(ビーディーエスエム)とは、人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現する言葉である。
「B」…Bondage(ボンデージ)
「D」…Discipline(ディシプリン)
「SM」…Sadism & Masochism(サディズム & マゾヒズム)
フェムドムは、女性が支配的であれば服従的なパートナーは男性、女性どちらでもかまわない。そのため女性同士のBDSMプレイは単なるレズビアンではなく、Femfemと呼ばれることもある。英語では支配的な女性は「ミストレス(Mistress:女主人)」あるいは「ドミナ(Domina:支配するというDominationの略)」と呼ばれるが、スペインでは「Ama」、フランスでは「Maitresse」と呼ばれる。
主にフェムドムでは支配的な女性は傍若無人にふるまい、服従的なパートナーに対し激しい鞭打ちや屈辱的な仕打ちをする、という認識が強い。これはもともと現実が長らく男性優位社会であったために男性の服従的パートナーにとっては女性に支配されることがそもそも屈辱であり、その価値観の逆転こそがフェムドムの醍醐味と考えられているからである。また女性同士の場合でも、女性だからこそのえげつない責めや仕打ちを行なう、と認識されることが多い。
プレイにおいては鞭打ち、スパンキング、緊縛、男性用貞操帯による射精管理などのプレイから、ヒューマン・アニマル・ロールプレイなどの地位を誇示しやすいプレイが好まれる。また支配的な女性はペニスバンドと呼ばれる張形つきの下着を身に付け服従的なパートナーとアナルセックス行為に及ぶこともしばしばである。
普通の業界でやったら社内処分レベルのこと平然とやるキチガイでも仕事回してたらなあなあで済むからなこの業界
元々アスペや発達障害が多い分、犯罪に対しての心理的な閾値が異常に低い上に学生時代はチー牛陰キャだった分、違法行為に手を染める率が異常に高い
Web系じゃインターンでJDをいじめて精神的に疲弊させてセックスに持ち込んだりする性犯罪者や
経営者自身が集団痴漢の元締めで捕まってフォーカス飾ったなんていう超弩級の危険人物がゴロゴロいるし
日本初の警察にサイバーテロ仕掛けたサイバーテロリストのゆうちゃん事件のゆうちゃんもプログラマーだし
スパコン詐欺で国から巨額の費用を詐欺って捕まった社長もテック系ベンチャー
こやつら学生時代鬱屈して、ちょっとITに強いって選民思想があるから、平然と性犯罪や警察に対して喧嘩売ることもいとわないマジモンのキチガイ揃いで
しかも自浄作用なんか働かないので女性なんか特に近寄らない方がいい
就職したかと思ったら上司からしまかぜとかレムみたいなアニメのコスプレさせられて緊縛スカトロSMアナルレイプなりきりプレイとかさせられかねないし、そんな狂ったチー牛キチガイの変態web系には腐るほどいる
横だけど、わりと同感。
小学3年生のときSM雑誌を大量に見て、緊縛、肛門性交、露出調教などは言うに及ばず、四肢欠損愛、轢殺愛など数多くの性癖・フェティシズムを知ったけど、「フーン、世の中いろんな人がいるな」という感想を抱いただけで、長じた今もそうした欲求は何もない。SMはじめ各種の変態性愛自体に対する好意も悪意もなく、無関心といっていいと思う。
もともとその「素質」を持っていた子供が、ある表現に触れたときに「目覚める」のであって、それを促す作品は別に18禁とも限らないだろう(トラバにもそうしたことを言ってる人がいるな)。一種の運命だろう。まあだからといってなんでもかんでもあけっぴろげにすべきでもなかろう(中学生にみさくらを与えていいのかどうか)。個人的にゾーニングは必要だと思うけど、それは未成年に対する配慮というより、性表現に接するときは誰にも「さあエロを見るぞ」という心構えのためのワンクッションが必要なのではないかと考えるゆえである。
みさくらなんこつに対してはハースニールの検索汚染しやがってとちょっと思う。
(隙自語)
ゲイなのかなんなのか、彼を「課長さん」と呼ぶ何者か(たぶん男)に虐げられ、裸で外に出されるという内容の写真や動画を投稿している。いた。(3月から音沙汰がない。死んだかマッポにパクられたか?)
降り積もる雪の中を全裸で歩くなんて気骨ある動画もあるので密かに尊敬していたんだが、彼の投稿には時々謎めいたものが混ざることがあった。
「CM加工系」だ。
可愛い女性が商品を紹介するタイプのCMの随所に、全裸で縛られてもがく彼の姿が合成されている。
最初見たときは本当に意味が分からなくて、彼なりのギャグなのか?とも思ったんだが、考えてみるとアレは露出の最大系と言ってもいいよな。
TVだったり動画サイトだったりで、不特定多数…本当に多数の人に見られる動画に、惨めな全裸姿を晒す自分が写っている。そのへんを裸で歩くなんかよりよっぽど規模のでかい露出だ。
この発想は露出趣味の人からしか出ないなあと思って感動したんだよな。人の目に触れまくるCMに自分を合成することで、自分が公衆の面前で辱められている妄想の助けとする…すごいと思う。
煽り無しで書きます。以下はごく一部です。要望があればまた書きます。
今回は地域政党である大阪維新が大阪市以外を軽視した結果どうなってるか書いてみます。
まず地域政党としての大阪維新の政策により大阪府下で大阪市一極集中が進行中です。
各種統計にもそれが現れてきており、大阪市以外の府民は肌で実感してる人も少なくないとは思いますが
この現象自体は維新のコンパクトシティ構想や道州制の理念にもマッチしてる事であり彼らにとっては成果だと思います。
大阪維新の政策に「市町村への権限委譲」というものがありますが、これには複数の裏の顔があります。
足並み揃えない市町村にはペナルティを与えつつ「権限移譲したんだから後は市町村の責任です」という線引きです。
具体例を挙げますと、一昨年、国が国保の標準保険料率の都道府県一本化を打ち出しました。大阪府はまっさきにそれを強行し
1人あたり保険料は平均で昨年10296円、今年は8906円、合わせて2年間で19202円も値上げになりました。
(一本化自体は大阪府ではなく国の方針なので、大阪府に限らず国保加入者が多い都市圏はほぼ全て値上がりしてます。
共産党の試算によると全国の8割の自治体で値上がりになるとのこと)
これに対して大阪府河内長野市が国保の貯金から2億円投入して7999円軽減し今年の値上げを907円に押さえました。
すると大阪府は河内長野市に対して交付金減額措置というペナルティを与えました。
「市町村への権限委譲」というのは正確には「市町村を縛った上で責任押し付け」でしかないということです。
例えば和歌山県の企業立地促進制度は100億円、奈良は20億円をはじめその他にもメニューが用意されてます
一方大阪府は3千万円です。その結果、大阪府内衛星都市から奈良や和歌山に企業流出が止まりません。
これは国にも言えることですが、本来府政に求められるのは都市間格差を縮める再分配を行うことで地方の過疎化を止めることでしょう。