はてなキーワード: 文化資本とは
「努力できるのも親の文化資本が。。」みたいな物言いは無視して良いと思う。なんら貴方の学術活動のプラスにならない。
偶々運良く素養や環境があったとしても、それを元に貴方を形作ったのは貴方の努力や実績であることを忘れずに、今日も研究頑張っていきましょう。
元増田を含め、この手のカスが考えていることは手に取るようにわかる。
「なんでたまたま豊かな家に生まれた/たまたま頭よく生まれただけなのに公共のことなんて考えなきゃいけないの?」
というやつだ。
「たまたま豊かな家に生まれた/たまたま頭よく生まれたから」に決まってんだろ馬鹿が。
死ぬ程頭悪くてカスみたいな人生を送ってる底辺労働者やウンコみたいな家に生まれて惨めな人生を送ってる人間が、クソ人生を生きる羽目になった理由は「たまたまそういう運命の下に生まれたから」でしかねえんだよ。それと同じだっつの。
元増田とかこの増田みたいな連中は頭だけはそれなりに良いから、こういうことは薄々分かってんだよな。分かった上で都合が悪いから馬鹿のふりしてすっとぼけている。その精神性の醜悪さを批判されてるということにはどうも想像が及んでいないようだが。
「努力できるのも親の文化資本が。。」みたいな物言いは無視して良いと思う。なんら貴方の学術活動のプラスにならない。
偶々運良く素養や環境があったとしても、それを元に貴方を形作ったのは貴方の努力や実績であることを忘れずに、今日も研究頑張っていきましょう。
私も大学の教員をしているが、増田のような気持ちになることはたまにある。
この実家太い発言に納得できなかった理由は、発言者が、現在の増田を構成している要素から、過去の増田の努力や実績という要素を無視している事だと思う。
発言者の言う、実家の太さで代表されるような「運の良さ」も増田を構成する一つの要素であるものの、発言者も運がいいし、ブクマのコメントしてる人も日本に生まれているだけで相当運がいい。
運の良さを活かして、自分を作ったのは増田自身と思って差し支えないと思う。
解決策というほどのものではないが、運の良さを自覚しながら、今日もデータを解析し一文論文を書き、少しでも自分の構成要素の中の努力や実績の割合を増やすと良い。
「努力できるのも親の文化資本が。。」みたいな物言いは無視して良いと思う。なんら貴方の学術活動のプラスにならない。
偶々運良く素養や環境があったとしても、それを元に貴方を形作ったのは貴方の努力や実績であることを忘れずに、今日も研究頑張っていきましょう。
「羊文学は東京の文化資本のある裕福な家庭で育った感じがするから信用できない」という趣旨のツイートを見てほんとうに辟易した。
僕は大学教授と元美術館学芸員のあいだに生まれて人生の大部分を東京で過ごし、大学院も出たのでその形容にどんぴしゃで当てはまるのだけれど、自分の意思で家庭や人生を選べるでもないし、出自を理由に自分の創作物に不信感を抱かるなんてたまったもんじゃないよ……。
誤解を避けるために言うと家庭環境や資本力がもたらす影響を否定しているわけではもちろんなくて、単にそれをその人への人格攻撃や信頼如何に持ち込むのは筋違いにもほどがあるでしょうって話。
FF外からくそほど絡まれるので補足するけれど僕は大学院まで6年間社会学の勉強をしてるから階級と文化の関係なんていまさらみなさんに説かれるまでもないし元来僕が自分の出自への引け目を強く感じる性分なのはツイートを追ってたらわかると思うんすよね……。
資産のある家にしか文化資本は堆積しないんだよーっていうのと同じ話で、たぶん自分が求めるような文化的洗練とか価値観とかの根幹にはそれが生まれるだけの資産的余裕があるってことなんだろうけど、これじゃわたしはどこまで行ってもブルジョワ的価値観から脱却できないのでは……。
この家に生まれたくて生まれたわけじゃないんだからそのことで責められたりしても困るわという至極当然の話をしてるに過ぎないのにいい迷惑だわ……。
https://twitter.com/chelseaguitar/status/1429689115843256320
一人っ子だけど自分の部屋なんてなかったし、自分の布団もなくて18歳で家を出るまで母の布団に潜り込んで寝ていた
学習机は小3の頃に懇願して買ってもらった一万円の折りたたみ式の小さいパソコンデスク
母が昔使っていた机が家にあったもののテレビ台として使われており、受験が近付いてきてそれを使いたいと願っても叶わなかったので親の留守中に一人で模様替えして勝手に自分の机にした
低学年の頃は宿題をやれと言われてもそれをするための環境なんて整ってなかった
散らかって物で埋め尽くされたちゃぶ台でご飯を食べ、そこで無理矢理宿題をした
自分用の本棚は中2の頃お年玉で買った、それまで教科書も辞書もしまうところはなかった
だけど一応大学まで出してもらったし、親から愛されていなかったわけではないと思ってる
毎日3食ごはんを出してもらっていたし、洗濯した服を着せてもらえたから見た目としては“普通の子”だったと思う
映画 窓ぎわのトットちゃんを観た。金持ち用の多様性を認める緩い私立学校でASD児の主人公が時間をかけて矯正され卒業する話なわけだが、ヒロイン枠が心身ともに軟弱な男で、その上で涙が出るほど感動したから驚いた。
戦前に、田園調布で風呂付2階一戸建てに母親は専業主婦、百科事典全集を並べられる本棚と勉強机に柔らかなベッドのある個室を小学一年生ながら持っている。
しかし、小児マヒがあり左腕・右足の自由が利かず、激しい運動をできない。そのため、いつも本ばかり読んで同級生との遊びや体育の授業にも加わらない。
体育会系軍隊気質を尊ぶ戦前において泰明くんの小児マヒは大きな性的ハンディキャップで、しかも孤立気味だ。一方で、幼少からの読書により得た思索力と文化資本を背景にした包容力を、親しい相手に対しては見せる。
作中トットちゃんが遊びの中で手加減し意図的に負けたシーンでは、手加減されたことに激高するシーンもあった。男性としての「プライド」を傷つけられたと推測する。
主要な展開として、活動的な主人公のトットちゃんと物静かな泰明くんが新しい学校でガールミーツボーイし、お互いを変えて変わっていく化学反応が描かれる。泰明くんは親しくなった後病の影響でか亡くなり、主人公に消えない傷と社会性を与えてエンディングとなる。このプロットはギルガメシュ叙事詩そのままであり、何も特筆すべきことはない。
しかし、エンドロールで作中の主要シーンが原作絵に近づけてスライドショーされているとき、自然と涙が出てしまった。
涙が出た理由は質のいいアニメーションが第一だが、ヒロインが良質なマクガフィン兼ロビンとして不自然なく場面を印象付けるよう機能していたことを忘れてはならない。
「あとドストエフスキーがニーチェ的なのではなく、ニーチェがドストエフスキーの無神論に影響を受けてる。」そういう話をしてるんではないよ、ニーチェ読んでみ。ドストエフスキー的なものとは全然違う。
「楽しんでいる人たちの大多数はもっと感覚的なところで素朴に純粋に楽しんでいる」
ここで目にする増田に比べると君は本読んでそうだけど、「感覚的なところで純粋に楽しんでる」なんてそれらしいだけで中身のない雑な表現をしてきて残念だよ。文化資本がなければその「感覚」がないって話をしている。そしてたとえば草枕を読んだり徒然草を楽しめる感覚と、フリーレンを楽しめる感覚は似たセグメントにある、という話をしてるんやで。
そう言う知識がない文化資本が貧困な層が地底にいくから悪知恵が働かないのよ
まあ地元サイコーみたいな人が大半だからそれはそれで否定するわけじゃないけど
東京のカスヤローどもが、「アテクシ、美術館とライヴのない生活は無理でしてよ!」とか抜かしてんのを見ると、なんかスゲ〜ムカつくので、じゃあ家の周りに美術館がねえこの俺が、キサマより美術や音楽に詳しくなったるわ!という気持ちをもってのことです
やり方については詳述しねえ
詳しくは言えねえけど、ある海外人気の高い大型SNS(って言ったらもう分かりそうだけど…)で、美術とか食とか旅行とか写真みたいな、そういう徳の高いコミュニティ(5chでいうところの板みたいなものがメインのSNSなので、タイムラインを個人ではなくジャンルで作ることになる)をまとめたフィードを作って、それを毎日みる
カザフスタンの旅行写真とか、デトロイトスタイル・ピザとか、マックスフィールド・パリッシュの絵とか、Coq au vinっつうカッコいい上にうまそうなフランス料理とか、そういうものの知識が毎日流し込まれる
マックスフィールド・パリッシュの絵なんか、実際結構気に入った 名前を覚えるくらいに気に入った
冬の風景画の、明朝の深い青色の空の感じが非常に「わかる」感じで、大変よろしい
こういう風景、実際に目にして感動して、あとで見返そうと思って写真にとっても、ぜんぜん感動を切り取れないんだよな
絵で味わえるのはホントにありがてえ
今日見た中だと、秘密ですよ、Alex Colvilleという人のPacificって絵、これがマジで超カッコよかった
オーシャンビューの、開放的で生活感のない部屋で、上半身裸の男が気だるげに海を見ている、のを後ろから見ているって絵なんだけど、なんといっても手前の机にぽつんと置かれた拳銃が目を惹く
この銃はなんなのか、既に使われたのか、これから使うのか?男は何者なのか?何を思っているのか?
男の方から上がフレームアウトしていて、表情なんかがまったく伺えないのもシブい
この絵にインスピレーションを受けた映画があるっていうのも頷ける話だ これはカッコいいよ
いい絵を見ましたねえ!
実際、旅先で美術館行っても、あーこれモネなんだあ、モネって誰だっけ?マネと関係あるんだっけ?とか思って、ただ見たって事実に満足してしまって、画家のこととか個別の絵のエピソードなんて全然覚えないことが多い
まあそれはそれで贅沢なことで、非常に文化的であることは否定できねえが、しかし、東京野郎がそうしている間に俺は俺の組み上げた電子美術館で文化資本を積み上げていくぞ
そんで、東京から来たんスよ、とのたまう野郎のTシャツを見て言うんですよ、「あれ?この絵ってコルヴィルの"パシフィック"じゃないですか!カッコいいですよねえ」とかってさあ!「えっ…ああ、このシャツですか?へー…そんな名前の絵なんだ、気にしてなかった」「あら、そうなんですか?残念、マイケル・マン監督がお好きだったりするのかなと思ったんですけど!」
ウゼー 書いてて嫌になってきた
こんな瞬間は訪れなくていいんだけど、しかし、カードとして切れるものが増えるのは嬉しい
カードとして切るっつうのはなにもマウントを取るだけのことじゃねえ 適当に行った美術館で偶然見かけた絵の青色に見覚えがあって、これはパリッシュ・ブルーなんじゃねえの?!と思って作者名を見たら実際にそうで、ヨッシャ〜とか小声で言って、だれに共有するでもなく、ただマスクの下でニヤつきながら観光を続行、そういう瞬間に俺のもつカードは確かに切られているということになる