はてなキーワード: 市民とは
細かいこと好きだねえ…
192人、たった2人分に訂正します。ちっさ(個人事業主でも400万以下は大抵スルーだし、ミス発覚しても後日修正したらおとがめなしだよw)
スピード違反いいたとえだよね!
まさに俺が言いたかったのは
40キロ制限で100キロはつかまるけど60キロは捕まらないよね?
もし60キロを捕まえましたってなったら、全国の車の9割止めなきゃいけなくなってとても警察は足りないよね。たまに年度末に行われる「ネズミ捕り」が例外だけど、市民には「不必要な点数稼ぎ」として認識されてるよね。無駄な行為って。
で、お前の理想通りに、小物を取り締まる社会になったとして、横でまんまと80キロ、120キロが通り過ぎていきました。人が死にました。これじゃ社会回んねえんだよ。
暇アノン「不正会計はあったんだ!奴らは市民を騙していたんだ!」←どうぞ前科を貰ってください
↓こいつら訴えたのは失敗では?
スルメロック「不正会計っつーか、会計管理がずさんな事それ自体が問題なんじゃねぇの?公金頂いてる自覚あんの?」
やん「不正会計がどうのこうのはノーコメントだが、なんでこれだけ嫌われてるかわかってんの?身から出た錆だろ」
http://www.xn--4rra073xdrq.com/meiyo.html
1.公共性があり
「公共性」とは、主として政治家や官僚などの公的な職業の人に関するものですが、判例上は、宗教団体や有名企業の幹部など、社会的な影響力が強い地位の人に関するものも広く認めています。
「公益を図る目的」とは、政治家のスキャンダルや大手企業の不正、不祥事、その他、一般に、または一定の組織内で広く知らせるべき正当な目的であることをいいます。
「真実相当性がある」とは、真実であると信じるべき正当な理由や根拠があることをいいます。
つまり、公共性があり、公益を図る目的であって、その内容が真実、または真実だと信じるべき正当な理由や根拠があれば「名誉毀損罪」として処罰することが出来ないということです。
素晴らしい
増田名 | 可能性 | 備考 |
---|---|---|
複垢フェミ | ☆☆☆ | 自演で有名な特定ブクマカ(通称:🐸・🍑・🐇)という意では☆ フェミ増全般という意では☆☆☆ |
お気持ち長文 | ☆☆☆ | 確定 |
国語力 | ☆ | オリジナル(某ブクマカm氏)いわく偽物がいるらしい 別人だということにしたい可能性もあるが |
集団ストーカー | ☆☆ | 同一人物なのか? |
仄めかし (例の大事件) | ☆ | 今場所優勝候補の新星。「仄めかし」のワードに異常な速度で反応し、通報報告を短文エントリで投稿する増田。 好訴妄想に加えワードサラダまで発症しており、横領やヤクザにも一過言ある模様 |
バカ先生 | ☆☆ | バカを連呼する基地外 |
市民ミュージカル | ☆ | ピースボート系の団体を勧めてくるのが本物らしい |
問題になってるの、そう言う事じゃ無くね?
領収書って、不明な点についての証明として要求されるものなんだから、都の協力を得る時点で「公明正大に」握っておけよ
ここについて左派の人は「それじゃ対応できない、こぼれてしまう」とか言い出すが
colaboはモデル事業だったはずなんだよ
なら、監査の報告書にもあるように、その部分に関しては、取り決めに沿って動いてないとダメでしょ
足りない部分を次年度でフォローしていくとしても
初年度はお手盛り会計で行こうというのを、ジミンがやってたら、左派は何ていうよ?
都が【これこれこういう活動なので、これこれこういう理由で処理している】と言えなかった事を
単なる仮定として書くが
・報告Aで100人
・報告Bでは90人
・請求は110人
都が活動の内容から「110人として処理する」としたなら、全部110人にすべきだよね
都がそれをしなかったから、監査で、それでは110人であることを領収書などで提示してくださいとなった
都側や監査員に、超法規的に活動して慈善事業を擁護せよって言うべき案件だよね
善い事は法を超越すべきと思っていたとしても
【法治国家においては】
まず、こいつが理解しなければならないのは、これは行政書士や税理士といった士業の扱う専門領域である、ということ。
問題なのは、単純な行政文書であれば「行政書士にお任せするべきだ」「素人判断はできない」と考えてきたであろう市民が、
もしこれが企業の会計問題であれば、素人には理解は無理だとまず考えただろう。
というか皆さんにとっても行政書士や税理士など一般的なので、このようなことは、普段から素人には無理だと考えてるでしょう。
経理や行政法に関する基礎的なリテラシーや作用が全くないにも関わらず、適当にネット記事(特に情報ビジネス屋のクソ雑煽り)だけを信じて耳学問で適当に意見を持つと、こんなにも的外れになってしまう。
何らかの専門家の方ならお分かりいただけるだろうが、普通は素人は自分で判断できることなど何もないので、専門家に丸ごと相談したり、丸ごとお任せするんだよな。
大阪人がみんな吉本新喜劇みたいな感じで話すわけじゃないみたいな?のを改めて知ったというか
ちなみに千鳥の出身の笠岡は広島との県境で、市民は基本広島側に買い物に行ったり通勤したりするので文化圏としては広島(というか福山だが)だし、言葉も岡山弁より広島弁にちかい
https://anond.hatelabo.jp/20231016145136
商業施設を騒がしく走り回る子どもたちの中に、ときどき自分の子を幻視する。並びあって登下校する中学生の集団に、電車の中で勉強している高校生たちのひとりに、自分が育てていたかもしれない子の姿を思い描く。私には子どもがいないので、もしも子がいたならば、あの小学生のようにあどけなく笑っているだろうかとか、進路に悩む姿を見守っていただろうかとか、ひとりで過ごす時間に、ふと想像をする。
40代のおじさんになってみて、子どもがいない自分の状況・環境のメリット、デメリットを改めて実感している。メリットは言わずもがな、自分たち夫婦に使う時間とお金が保てることと社会的な身軽さ。デメリットに関しては、夫婦二人が関与する世界が狭くなっていくことの不安や、人生における暇と無駄な時間の浪費や、老後の心配といったもの。それぞれ書き出すとキリがない。おそらく今はメリットが最大化されている時期で、このあとデメリットがどんどん大きくなっていくのだろう。
親が思春期の自分を育てていた年齢を迎え、よくそんなことができていたなと親を尊敬することしきりだが、周りの友人や同僚たちも当たり前のように子どもを産み育て、日々やってくる課題に立ち向かっているのをみると、自分の親に対するように尊敬の念を抱かずにはいられない。私から見れば偉業と言っていい。
その一方で「どうしてそんな苦労を背負い込むのか」と思ってしまうのも正直なところだ。想像もつかない苦労をすると分かっていて子どもをもうけるだなんてすごい勇気だと思うし、自分は若い時から今まで、そんなコストとリスクをとる気力は抱けなかった。子どもはかわいい、生きがい、子を成し育てるのは当然、という感覚や考えを抱けなかった自分は、子どもがいることに対する具体的な実感を持ち得ず、想像するのも難しいゆえに、臆病風に吹かれた弱者として、子を育てない大人であることにちょっとした引け目を感じながら中年の日々を暮らしている。
臆病風のほかに、収入・子育て費用の不安、出産の身体リスクを妻に負わせることの理不尽さ、自分は遺伝子(ジーン)よりも情報因子(ミーム)を残すんだぜといった謎イキリ、積極的に子どもを持とうとしなかった妻の意志、生まれた子の健康状態への不安、育つ中で犯罪や害意に晒され傷けられることの恐怖、膣内射精障害、劣化した遺伝子がもたらす実子への悪影響、など、子どもを作らなかった理由はいくらでも後付けで挙げられる。だが、結局ただの言い訳、逃げの一句に過ぎない。
たいした理由も展望もなく、ただ、子どもを持つことを想像できず、覚悟もできなかっただけなのだ。
この年齢になって、子どもは未来だとつくづく思う。もし子どもがいれば、成長した10年後、彼らが家庭を持っているであろう30年後、そして100年後、と続いていく未来を自分ごととして認識できるだろう。自分の子どもたちがその未来を生きるのだから、少なからず興味と関心を抱けるだろう。
ところが、子どもがいないと、未来の時間は自分が死ぬまでの時間でしかない。2050年にどんな世界になっているかなんてたいした興味も持てない。社会に生きる大人として、何らかの主義主張を持ってより良い未来のためにアクションするのが市民としての態度だとは思うが、いかんせんその未来の主体は、自分の肉親ではない他の誰かである。もちろんずっと平和であってほしいし、心が躍る進化や文化がある未来であってほしい。そんな未来を楽しむ期待はある。だが、そこにいるのは死にゆく老いた自分であって、その頃にはもう希望も期待も薄れてしまっているだろう。
もし子どもがいれば、彼らが生きる未来こそが自分の生きる意味だと実感できたかもしれない。子どもが健やかに生きられますように、と祈る未来よりも、自分たち夫婦が心安らかに過ごせるようにと望む未来は、だいぶシンプルで色褪せていて、だいぶ寂しいんじゃないだろうか。子どもがいないことは、自分の未来が短くなることなのだ。
「子どもを持ちたい」という欲を素直に少しでも抱くのであれば、どうか子どもを持ってほしいと思うし、産みやすく育てやすい社会を目指して私も努めたいし、そういう社会になるべきだと考えている。あつかましいことこの上ないが、自分たちのような人間の未来も託せる存在として、子どもは社会の宝、というのは真理な気がする。
子どもを作らなかったことは後悔していない。私はそれを選んだし、妻も納得したうえでの選択だ。ただ、もしも子どもがいたら、という妄想を時々してしまうのをやめられないだけだ。
子どもを失った人や子どもを持てなかった人たちとは全然違う境遇だけれども、子どもを作らなかった人たちも私同様にさまざまなことを感じて過ごしているだろうから、ひとつのケースとして私の今の感覚を書いてみた。
子どものために生きないかわりに、自分勝手に暇な時間を過ごせている。思っていた以上に暇で、人生のステージはずっと踊り場だ。今はそんな感じである。
ただ、街ゆく子どもの中に自分の子を幻視したとき、言ってもらえるはずだった言葉を想像したとき、あたたかく触れ合える存在がいてほしいと願ったとき。
そんな幻が消えたとき、少しだけ寂しくなる。
みんなは寂しくないのかな。
戦犯というか、強者男というか、抑圧した張本人は、メディアと自民党と統一教会とその周りとか実名で挙げられて批判されてますけどね
たぬかなさん「フェミに不美人が多い理由」 まんこ割チケットが使えない、まんこ二毛作の背景について語る – NNJニュース
https://l.pg1x.com/WMV1Vu1kNfhQWSuQ6
みんなも持っておいた方が幸せになる。
社会を良くするのは「社会を良くすることでしか幸せにならん」って奴だけが主体で参加すりゃええ。
フリーライド、って批判あるけどな、市民にあるのは「選挙権っていう権利行使」がせいぜい。
意図的に悪には染まらんでも、もうみんな身に沁みて理解してる。
社会のフェミニズムは随分とトリガー軽くなったが、価値観や内心のフェミニズムは全然重い。
別にそれでええやろ。みんな金も時間も心も余裕がないんや。無い袖は振らすな。
そもそもな。
なんぼ家族・仲間に囲まれようと、死への旅路はオマエひとりや。
幸せはオマエだけのもんや。好きにせい。