はてなキーワード: ヒーローとは
デートで割り勘しようとする、対等に話そうとして相手の意見に自分はこう思うと返す、自分でプランニングして頼らない、
機械・PC強いというところ出していくと女性はまじでモテないよ。
男を「立てない」、自分の言うことに「反対」ばかりするとか言われて。
いやこれまじで散々煮え湯を飲まされてきたから。
せめてレジでは払わせといて後でこっそり渡すとか、お昼おごってもらってそれより安いお茶は払うとか気を使ってあげないといけないとか本当に疲れるし面倒。
頼り甲斐がある、誰かのヒーローになることで保てる男の対面守るアフターケアまで全部してあげないとダメとかお前のお母さんじゃないんだよ。
小説家になろうにたくさんあるから!みんな読もうぜ女性主人公モノ!おっさんたちもみんな読もう!なかまになってよ!
ちょっと違うなと思ってもムーンライトノベルズにだいたいあるし!
なお女性開放する系統のフェミニストはワイルドなヒーローに無理やり幸せにされる系統の作品で地雷を踏み、実は家父長制大好きなラディフェミは自立した開放的な女主人公の作品で地雷を踏むであろう。
もっとリアル地球っぽく?ハーレクインのヒストリカルなやつ読もうぜ。カリフ!大航海時代!ジェントリが闊歩するロンドン!
もっと現代ぽく?やっぱハーレクイン読もうぜ!ギリシャの海運王!まだ王政の残る欧州の小国で出会った謎めいた青年!アラブのビジネスマン実は王子!アメリカンドリーム!南北戦争の前からの家柄!現代に生きるカウボーイ(牧場経営者やんけ)!
古い性役割を「抑圧」と呼んで壊そうとするのが昨今のウーマンリブであり、ディズニー作品はそういう社会を反映している。
自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
...
多様性の時代になってるわけだし、弱いものに底上げが必要なんだと思う。アファーマティブアクションってやつ。女性もそうだけど、いわゆる「弱者男性」だってそうだ。誰もが自尊心を持って生きる権利がある。
前半でこういう価値観の変化を論じていてふむふむと思っていたのに、後半になると
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
という話になって「え?」と思った。
女性専用車の話が一番分かりやすいと思うのでその話をするけど、女性専用車って結局「男は暴力的な生き物だ」「男は女を守るために献身的になるべきだ」みたいな古い固定観念を追認するものでしょ。こういう固定観念がなかったら、女を別の車両に隔離したら性犯罪が減るとか男は多少の不便さを受け入れるべきだなんて発想は生まれるはずもないよね。
そういう性別のみに基づいた役割の押し付けから脱却して、《誰かの救済を待つのでなく、みずからヒーローになる》《自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つ》ような社会を目指していくべきだっていうのなら、女性専用車という概念はむしろ邪魔だよね。女性専用車が存在する限り、我々は「男から女への性暴力だけが電車内で起こるトラブルである」「いつも男が加害者で女が被害者である」みたいなまやかしをずっと刷り込まされていくことになるんだよ。
こういう古い固定観念に基づいた差別を指摘する声に対して「どうして男は女の気持ちに寄り添わないのか」みたいなことを言ってる限り、《同じ「善良な市民」という共通項》を共有することなんて無理だよ。
始めた読んだ。
第一印象はそこまで悪いものじゃなかったんだが、10話ほど読み進めてみたら自分には合わないと分かったので読むのやめる。
もう少し結論を先伸ばしにしようとも思ったのだけど、合わないものを無理して見続けるなって富野が言ってるので辞めます。
世界を救うヒーローがモンスターと戦うついでに女の子とイチャイチャするような感覚で、企業スパイを逆にスパイする過程で不倫されると背筋がゾワゾワとする。
これがレディコミならまだ耐えられただろう。
分かりやすいイケメンが分かりやすく甘い言葉を囁くだけの物語ならば。
だけど島耕作は、一応はそれなりに社会人を描いてくるし、その絵柄は漫画の中ではかなりのリアル寄りだ。
それでやっていることが出来る男はモテちまって困るぜのヤレヤレ系ハーレムだとは。
これならまだサラリーマン金太郎の方がマシだ。
あっちは5巻読んだぐらいで飽きたけど、単にバカバカしい展開でひとしきり笑い疲れてやめただけでこんなモヤモヤとした気分にはならなかったな。
空き地かどうかも怪しい場所に建設した怪しい店で捨て子を育てるって設定の時点で、現実の法律とかモラルとか持ち出したら負けなのは分かるよ。
学生さんが正義の味方に変身して痛い思いをしながら化物と戦っているのに、自衛隊も警察も何もしない世界にマジレスしてもしょうがないのは分かるよ。
でも言わせてくれよ。
なんでこんなにブラックなんだよ。
この手の類で話がややこしくなるのが、
男女関係や性の問題において自らの生理的欲求と完全に切り離した話が出来ないことだ。
女に対する言動において自らの性欲が支配的であることが多い(主語が大きいと怒られそう……。)
それこそ、創作による多くのヒャッハー世界において女はレイプされている通り、
自らの社会的常識、規範、「女は守るもの」とするヒーロー性から開放されて
「ありのままの自分」となったならば、女と見たら即レイプとなるのではないだろうか。
そういった意味で「女を守る俺はヒーロー的で格好いい」という概念は、
俺は子供の頃、ヒロイズムなんて知らなかったから、アンパンマンを見てもウルトラマンを見ても、ディズニーの王子様やそのほか諸々を見ても、「男は汚れ仕事を背負い、女は何もしないで幸せになるもの」と刷り込まれて育った。
「男がヒーローで主役で女が『良くて』サポート役なのは男性中心的」と言う見方があることを知ったのはいつだったかわからないが、まあその頃にはヒーローもののアニメとかは見なくなってたと思う。
『良くて』にカギカッコをつけたのは、「何もしないで『トロフィーのように』結婚するよりは、サポート役であっても役回りがある方がマシだ」と言う見方も俺にとっては直感的じゃなくて、後からそう言う見方があるものと知ったから。
ある物語形式が男女の性役割を表現しているとしても、どっちが中心的であるとか、ましてどっちが『良い』とか『軽んじられている』なんて注釈なしで語るのは飛躍だからやめて欲しいし、少なくとも飛躍であることに自覚的であって欲しい。
モアナとマウイは「対等」であり「恋愛感情は一切絡まないがお互い大切な相棒」と言う関係として描かれている。
精神的にモアナの方が強いのは、肉体的にはマウイの方が強い故にバランスを取るためだろう。
モアナは特に「女としての人生の困難を乗り越える女」としては描かれてないんだよね。
親から与えられた「村から出ないで親を継いで村長になれ」と言う役割を拒否して海へと飛び出すんだけど、
それは従来の男のヒーローがやりがちな事をそのままなぞっているだけ。
ヒーローの男がいると、女は人形みたいなプリンセスとか、救われる村娘Aとか、後列で回復呪文を唱える係とか、とにかく救済されたり、弱者だったり、よくてサポートの役回りを演じさせられる。物語のラストには弱い自分を救ってくれたヒーローと恋に落ちて、結婚するまでが一連の流れだ。まるで舞台装置か優勝トロフィーみたいに。
男が女装して戦闘兵器で子育てのために逃げ出した乳牛を運び政治は女がやる∀ガンダムから何年経ってこんなこと言ってんのいやマジで。
1979年の機動戦士ガンダムですらすでのこういう舞台装置なんかとっくに回避しているし、1983年のZガンダムでは女の名前を持った主人公が男性的役割を求める社会的圧力に翻弄されていたけどなんで30年も後のしょうもない外画だけ観てこういう事言うの?
アホなの?
モアナと伝説の海やズートピアは弱い男キャラを強いヒロインが受け止めて癒す物語だったように思う。
モアナは強い意思を持ちマウイから何をされても中々めげないのにマウイの精神は弱くて脆くてすぐ折れるしコンプレックスも強い、やがてそんなマウイの弱さを理解して癒す強いヒロインと回復して強くなるマウイ。
マウイを信仰する人々から反発があったのも頷ける感じのキャラ付けだった。
ズートピアのヒロインは酷い差別をされ狐から暴力も受けてトラウマがあったけど、ヒロインはそれらを乗り越えてその差別には誰も謝罪しない。
増田は低知能のゴミだからわかんねーだろうけどクリストフの描写はそもそもモデルになっている北欧の少数民族に対し差別的だという指摘が当事者によってされている
お前のような自分の所持する属性だけに関するポリティカル・コレクトネスを一見主張しながらそこに存在する別の差別性をなんとも思っていない時点で増田の話は聴く価値がない
それとは別の話としてクリストフの自己実現が独裁者一族のお家騒動に絡んで出来たコネで非民主的独裁政権と癒着できたことで大金を得ていいクルマ(極めてアメ公的な成功モデルだ)に乗るというアレで男性的マチズモからは一歩も抜け出してなどいない
何がヒーローじゃないありのままの自分だお前の目玉はどこについているそもそも原曲のニュアンスじゃありのままの自分だのといった綺麗事じゃなく全部知ったことかボケ押し付けられた責任なんざ全部放り出してやるぐらいの意味だぞアホなのか
チン子の2センチ上にかざされていて、勃起すると切りつけられると知っていても、それでも敢えて勃起したい生き物なんだろう。
その焦燥感は女性からはよくわからないけど、ママ(大人の女性)のお手伝いをすると「業者扱い、つらい」になるのはそれなんだろうなと。
食卓にお箸がないと「おい!箸!」って怒鳴るような男には若い人はならないでほしいね
サポート役だとヒロインとくっつけないっていうのは勘違いなんだよ。
CCさくらの小狼くんとかセーラームーンのタキシード仮面なんて実質サポート役だろ。どちらも女性作家なんだが女性は自分を立ててくれる男性が好ましいと思っている。
クリストフがアナと明示的にくっつけなかったのはイケメン度がちょっと足りなかったからだろうな。これからチャンスはあると思いたいが。
結局女性にとってはヒーロー<イケメン。一人の女が目的ならヒーローになるよりカッコよくサポートしたほうが手段としては正解。不特定多数にモテたいならヒーローだが普通の人間がなるのは困難。
例のエマ・ワトソンのスピーチに関連してキモカネ論陣で多く見られる主張に、次のようなものがある。
「男性性から解放されろというが、女は男性に権力や経済力を求めている。モテるためには権力や経済力といった男性性を獲得せねばならないので、女が上昇婚をやめない限り、我々も男性性に拘り続ける。」
男性性からの解放が話題に上がるたびトラバなりブコメなりで散見される「女の方が男に男性性の呪いをかけているのだ」論。見かける度疑問に感じていたので、少し整理したい。
これは筋が通らない。そもそも「モテたい・モテなければ男ではない・女を獲得してこそ男である」という発想自体が、男性性に起因するものだからだ。
男性性からの解放は、友達と楽しくゲームしたりライブに行ったり、女を獲得せずともハッピーな人生を送る自分を肯定しようぜ!ってこと。女にモテなくてもかっこいいヒーローじゃなくても、あなたはあなたの明るく楽しい人生を謳歌できる。実際、独身貴族で趣味に生き、結婚している人よりハッピーに生きている人なんてたくさんいる。まず「僕はモテなければならない。モテなければ幸せになれない」って思い込みを捨てよう。
と、ここまで書いて思ったのは、そうは言っても異性からの承認を一切得られない人生はつらいだろうなということ。同じ男として気持ちはわからないでもない。
それでも言うに事欠いて「女は上昇婚をやめろ」は無理筋だろう。上昇婚をやめろというのは
「僕はモテたい。でも金も地位も何もない。だから女の方が好みを変えて、金も地位もない魅力度の低い男と積極的に付き合え」
と言ってるのと同義。男の側も若くて綺麗な女性を嗜好しているけど、だからといって「若い綺麗な女性を嗜好するのはブスに不公平だからブサイクババアと積極的に付き合え」と言われて従うか?
いつか地位や権力・経済力のような男性性を獲得できる見込みがあるならそこに拘る理由もあるけれど、そもそもキモカネおじさんはそれら男性性を獲得できなかったからこそキモカネおじさんなわけで。これまでもこれからも地位・権力・経済力は手に入らない、顔もブサイクなまま、だったら女を獲得することにこだわらないで趣味に生きる人生を選択して自分を肯定した方がずっと楽だと思うんだけど、それが出来ないからこそキモカネおじさんなのかなぁ。異性からの承認を得られなくてつらい気持ちはなんとなく理解できても、男性性に拘り続ける理由まではわからない。
女は女は〜って文句を言い続けるより、男友達とボイチャしながらモンハンする人生も悪くないんじゃない?エマ・ワトソンのいう男性性から解放って、そういうことだと思うよ。
アナ雪で問題なのはクリストフの扱いではなく、ハンス王子の扱いだと思う。
増田の言うように、クリストフは従来のヒーロー像とは異なり、「ありのままのおれ」という新しい男性像を提示している。
こうした男性像が普及すれば、確かに現在の男社会でうまくやれない人々を楽にすることができるだろう。
では、ハンス王子はどうだろうか。
このヒーロー像はまさに、男社会においてうまくやれている人々に当てはまるものだ。
物語上、ハンスが罪人となったのはアナとエルサを殺そうとしたためだが、本当の理由は彼が「否定されるべきヒーロー像」だからである。
またこの増田も、「現在の『ヒーロー像』『プリンセス像』は一度打ちこわし、火にくべるべき」と主張している。
リベラルな考えでは、もはや男らしい、女らしいことは罪なのである。
しかし、本当にそれで正しいのだろうか。
このままリベラルな考えが広まっていけば、男らしい男性、女らしい女性は批判され、否定されることだろう。
それは、現在の社会的弱者が受けている「抑圧」と何が違うのだろうか。
真にリベラルに考えれば、クリストフもハンス王子も、それぞれ幸せになるべきだった。
男らしい男性もそうでない男性も、どちらも自らを受け入れ、そして他者を受け入れる世界こそ、生きやすい世界なのではないか。
って書いてる途中で気づいたんだけど、ハンスって王になりたいけどなれそうもないって設定だったよね。
やっぱディズニーって神だわ
>自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
>期待される「プリンセス像」を捨て、「ありのままに」なることが抑圧からの解放だと描くこと。
はっきり言えばいい、女が男に変わって社会的強者になりたいのであると。女がそれを言わないから、男側は疑心暗鬼にならざるを得ないだけの話。
>そんな感じで「脱プリンセス・ありのままのわたし」運動は着々と進むのに対して、「脱ヒーロー・ありのままのおれ」運動は全然進まないように見える。
いや、一部の男はすでに脱ヒーローを目指しているよ。男性の草食化であるとか、女から気に入られるように容貌に気を使う男であるとか。
しかし、今の日本の社会は、男の容貌の美しさや受け身性を評価する仕組みが無いからね。
>だけど、すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
女だって同じことだろう。全ての女が美人のヒロインになれるわけではない。いや、美人な女なんて一握りだし、大部分の女は自身の容姿コンプレックスに押しつぶされそうになりながら生きているはず。アナと雪の女王の映画は、女の自立を歌った作品であるが、女の大部分のそのような闇の部分については見て見ぬふりをしているよね。
ヒーローの男がいると、女は人形みたいなプリンセスとか、救われる村娘Aとか、後列で回復呪文を唱える係とか、とにかく救済されたり、弱者だったり、よくてサポートの役回りを演じさせられる。物語のラストには弱い自分を救ってくれたヒーローと恋に落ちて、結婚するまでが一連の流れだ。まるで舞台装置か優勝トロフィーみたいに。
これとは直接関係ないけどさ、割と真面目に思うんだよ
なんで男が無理して命を投げ出してまで、強者の役を目指さなければならないのか
女の運命を変えて、それこそ生まれ変わらせるほどの力がないと、男に価値なんかないの
逆に言えばね、女のサポート役で女体にありつけるんなら、男は地の果てまでもサポートするってw
それが成り立たないのは男の都合じゃない
ただあっちが、自分を生まれ変わらせてくれる王子やヒーローにはしょうがないから体を提供するけど、
絶対に必要なわけでもないサポート役には出し惜しみするってだけのことだ
フェミというのはいつもいつもそういうのを「男の呪い」ってだけで片付けて、
さも自分たちは一切関係ありませんみたいなツラしてるけど、それ男や男社会だけのせいじゃないから
女側の要請という面も間違いなくあって、むしろ男に呪いをかけているのは女ではないのか? とすら思うけど
まあでもぜってー認めやしないんだよなあ