はてなキーワード: 社会的とは
SCP財団が収容しているオブジェクトの一つで、見つめられると存在を認識した者たちに恐怖や不快感を与える効果を持つ。特に、冷笑をする者に対してその対象になることが多い。
冷笑はダサいぜ、という主体的な意見の発信ならまだしも、他人の発言に対してそういう言葉を向けると、自身の意志があるというよりは単に社会の風潮に乗っかった日和見マウント仕草っぽい。SCP-015-JPに対する反応もまた、冷笑者たちの態度を浮き彫りにすることになる。冷笑を向ける者たちは、しばしばSCP-015-JPの影響を強く受け、恐怖や不快感に苛まれるらしいんだ。
他人の意見に対する冷笑は、社会的には肯定されにくい。だが、「ダサい」という言葉を使ったところで、それ以上の深い問題解決には至らない。そして冷笑やその批評に終始する言及も、実際には状況を改善するどころか、さらにしょーもない議論を引き起こすことが多い。
SCP-015-JPはその存在を通じて、こうした社会的な態度や心理の問題を反映しているのかもしれない。だからこそ、その研究と収容は非常に重要といえるだろう。
冷笑はダサいぜ、という主体的な意見の発信ならまだしも、他人の発言に対してそういう言葉を向けるのも自分の意志があるというよりは単に社会の風潮に乗っかった日和見マウント仕草っぽいし、そういう事言ってる人も単に冷笑への冷笑に終始してる感じがある
そもそも社会的に褒められたものではない行為とダサいという事は、いくら抱き合わせにして防ごうとしても結局は別問題という歯がゆさもある
なんかもう冷笑って言葉を使った時点で全ての言及がしょーもなくなる気がする
この言及も含めて……
「否定できないよな」に「私の言うことは絶対(妄想)だから反論しないでよね」がひしひし伝わってくる
Q.
世間一般に対して「容姿で人を差別するのを止めよう」と主張しながら、個人がパートナーを選ぶのに「容姿の好みを反映させるのは個人の自由である」と主張するのは矛盾でしょうか?
A.
容姿について、社会的差別の問題と個人の好みの問題を区別して考えることが大切だと思います。
社会的差別の観点からは、容姿を理由に不当な扱いをすることは望ましくありません。就職や昇進、サービス提供などにおいて、容姿で差別することは公平性に反します。容姿は個人の能力とは無関係であり、機会の平等を阻害するからです。このような社会的差別をなくしていくべきでしょう。
一方、恋愛やパートナー選びは個人的な領域に属します。相手への魅力は容姿だけでなく、性格や価値観なども含む主観的・複合的なものです。外見的な好みは個人の自由に属する問題で、他者から干渉されるべきではありません。
従って、容姿による社会的差別に反対しつつ、交際相手の選択では容姿の好みを優先することは、論理的に矛盾しているわけではないと考えます。重要なのは、それぞれの場面で求められる公平性や自由の程度を見極め、バランスを取ることではないでしょうか。
社会全体としての平等の追求と、プライベートな選択の自由は、ときに緊張関係に立ちます。しかし、一方を重視するからといって他方を全面的に否定する必要はないでしょう。状況に応じたバランス感覚を保ちながら、差別のない社会の実現と個人の多様な価値観の尊重の両立を目指すことが肝要だと考えます。
予定調整URL送ったぐらいでキレ散らかすやつとか、チラ見した範囲でUIが良くないとか言い出すやつとか、言い尽くされてるとは思うけれどもx(過去にはtwitterと呼ばれていた)は、本当に憎悪を生み出すプラットフォームでしかないと思う
いずれにしても(ただの煽りであり釣り針かもしれないが)、いい大人なんだから事実と、解釈と、そこから導かれる行動を分けて記載しましょうよ。140文字に収まらない?いやいやスレッドにすら書いてないでしょうよ。
いいですか?
上司でもクライアントでもない人らのお気持ち表明には大して価値はないので、持ち上げたり(なんなら言及も含めて)やめましょうよ。
これがあなたにお金をくれるなら「なんかこの辺問題なんだけど」という発言に対して「a,b,cあたりが要因になってそうですね、調べたらa,bは打ち手ができそうです、cは費用対効果悪いので後回しにして検討します」みたいなのはアリ。むしろ仕事はそうした方がいい。でも彼らはただのインプレゾンビと大差なく、「話題になる」お気持ち表明に長けているのです。それに対して積極的な論考をしたら、彼らの収益にはなるかもしれないが、あなたの収益にはならない。あなたの論考は前向きに問題点を明らかにし、社会的に価値があるかもしれないが、行為そのものは元ポストの投稿者を助長させ、悪くすればお気持ち表明だけするフォロワーが生み出されている可能性もあります。
元々のポストの人らに恨みもないし、悪口を言いたいわけではないのですが、もしも何かしらの分野に知見があるのであればふんわりしたお気持ちだけでなく、「何が課題なのか」「どうすれば改善できるか」をもっと語って欲しいのです。そういった論点が無い投稿はインプレゾンビと大差ありません。
まあなんとなく言いたい事はわかる
わかるっていうのは「あなたの思っている気持ちを理解できていて、それを会話で証明できる」ではないからね
一応、合わせて同じ方向で会話ができるとこちらが判断したという意思表明を「わかる」という単語でしていることを伝えておかないと
勘違いして「自分を複製を作って行動予測ができるってことなのか?それとも上辺だけの形だけの懐柔するためだけの添え物のうすっぺらい言葉なのか?」って
柄のついた何でもいい、とかそういうのと比較するべくもない全然別物なので思い出の切れ端みたいなメモリーとして、記念碑的なものとして入れたり
コスプレの一環とまでは言わないけどなにかとつながっている感じを思い出すマークとして入れるっていうのは、あるとおもう
それは自傷行為も同じ面があって、全部が完全に同じだから代替ができるってわけではもちろんないし、選択肢の候補として二つが同時にあがってくるわけでもないけど
それを言い出せばコスプレもメイクも柄もののTシャツも同じだろうけど、自傷行為には近い状態で得られる感覚が別のところでも一致してるという点でわりと似てると思う
裸になったときについてるそれっていう事が、その思い出を振り返るときに使える場所や雰囲気、状況みたいなものが似てると思う
自傷行為って、もちろん全部じゃないけど一部として、自分の体が無痛な時間それはそこにあるのかって不安になるみたいなものもある、もちろんそうじゃないものもある
その傷をつけるのが所有者としての印をつける安心感みたいなものじゃないって場合もあるわけで、その痛みを感じたという感覚の持ち主が自分である事に安心して、またその傷をあらためて見ることで
自分の体がそこにあったと確認したなあと、過去の自分との連続性を感じて安心感をえようとしたりするんだ
もちろんそうじゃない場合もあるし、タトゥーだって全部が一致しているのは「皮膚にプリントする」以外は全部が違っていて同じ理由や同じものは一つとしてないことは前提にしていてほしい
男性は物を貰って喜ぶとか記念品に物を贈って残す、それに実用的価値があることが多くあるし、もちろんそうじゃない男性も多数いることは承知だけど、ここで話題にしたい方向性として男性は物がプレゼントとして嬉しい
女性は花でその場が和んだとか言葉をかけたとか、体に受ける刺激の記憶なんかで思い出として記念を時点で残すことが多く、物の価値は変動するわけだからとくに拘りがないという方向性も多くある
そういう感じで記念を記憶するか記録するか、物として所持するかの一つだろうから、表現として一時的なメイクとか服装で代用するというのとは、方向性として違うと思うんだよね
自分の体をメモ帳にするという意味で、それをメモる意味というのが日本ではまだ有用性が、というか今後もその有用性を持ってくる意義がないと思うのでそんな文化が出てくるとは思えないけど
メモを記載するという事は社会的にどう扱うか、どう扱われたいかという表明になると思うんだわ
入れ墨の意図や方向性の主体が入れた本人個人ではなくて、社会的にその入れた、入れているという事についての意味や意義になるから一般的に「悪い・ダメなこと」のマークとして使われていて
そういう判断で見られるというのが現状だと思うし、実際それをそれ以外の方向に使う必要性がまったくないから今後もかわっていかないと思うんだよね
バーコードで実際に活用されるとか、入れている模様の種類とか色で何に属しているか表現できるとか、自分がなにものなのか、っていうのは移民とか入植者とかで人種や地域がわからなくなり
仲間の見つけ方とか見分け方もわからなくて、それを知る時間のうちに命がつきてしまう状況とかでないと活用できないと思う
それが日本にはないんだよね
どこに属するも何を信じるのも自由で、それを人に押し付けられたり押しのけられたりしないからしたければしたらいいじゃんで終わるので自分を入場券やメモ帳替わりにする必要がない
だけど核家族ももう一世紀ちかく続いてベビーブームも人口的ピークに終焉を迎えて各個人がそんなに人生の選択肢を自由に選べなくなって属するため条件とか、自分の記録や経緯をどこにも残せなくなっていくと
それなりに意味とか意義とかでてくるかもしれないと思う
社会的に悪だからぁ!自分の中の倫理観がぁ!とかわめいている奴って馬鹿なの?
お前だけがそんな価値観を持っても無駄だぞ?他の奴は自分のことしか考えてねぇし倫理なんて無視して自己中に生きてるからな。
自分だけ金だけって考えて生きろよ。
結婚すべき男を見分ける方。それは「貴女の仕事の話をちゃんと聞いてくれる」です。あなたの話に共感して、昇給や出世を一緒に喜んでくれる人。(ちなみに良いことがあったと話した時、一緒に喜ばずに反応が微妙な相手は男女問わず潜在的にあなたを馬鹿にしている人だそうです)
残念ながら私が過去に付き合った男はみんな、すぐ会話泥棒して自分の仕事の話にしたり「どうせ俺の仕事の方が社会的に意義も収入も『上』、例え今は違っても将来的にはそうなるし」が透けて見えた。男は私を下げよう下げようとしてくるし辛い時支えてくれなかった。
仕事は稀に震えるほど応えてくれるし、支えて押し上げてくれる。
勿論、専業主婦になっても相手を下に見ずに変わらず尊重し続けてくれる男性も世の中にはいる。でも30も半ば、ここまでの人生で出会えなかったし,そういう立派な人は私なんか選ばない。だから独身。
「差別するつもりはないよ差別じゃないけど同性愛者と黒人はポリコレに媚びてるだけだから出てくると叩くよ。女が強気だったり社会的に高い地位を得るのも差別しないけど描写するのはポリコレに媚びてるに違いないから叩くよ。作品に火付けして燃やすし規制をするべきだと騒ぐよ」
いやあ与沢は微妙だな
アレは金持ちになっても幸せに見せることはできるけど本質的に幸せになれない典型例じゃない?
形に残らない虚業で他人を騙しながら成り上がった奴は歳を重ねるほど実業家(他人の下で下積みを重ね身に付けたスキルで真っ当に生きている人)に対するコンプレックスが強くなって社会的承認欲求を拗らせる印象があるわ
何か引け目があるんだろうな
メンヘラは最初からメンヘラじゃないんだからどうやったら元に戻せるか治療できるか元のお母さんにもどれるか、っていう発展的な話が理解できないんだね。可哀想。
それが考えられなくて、母親(まれに父親)を関係もない癖に批判して自己優位性を満たしてるのは社会的憎悪の増強でただの弱者への圧力だよ。そんなことしても社会はよくならないよ。やめなね?
https://togetter.com/li/2381518
ノリで決めてる人も多いのは確かだと思う(それが悪いという話ではない)
なんかこういうのって溝を深めるだけな気がして(普段叩かれやすいからついこういう事も言いたくなるのはわかるが)
そうじゃなくってもっと軽いものであるって認識になっていったほうが嬉しい
ちなみに自分はあんま見えないとこ(恥部とかじゃないぞ)にちょこちょこかわいらしく入れてるだけだが
人生なんて短いっちゃ短くて、なんかあるたびにタトゥーに刻むっていうのは精神的にすごく浸透するものがあって
私というものを定着させてくれるような働きがあるなと感じるんだな
モチーフを起こった出来事と直接的に結びつける人もいるけど、けっこうそれってリスキーで
それよりはこのタトゥーは~の時に入れたんだったという感じで思い出すものが多くて
入れ墨って太古では武装に近いものやスピリチュアルなものだったと思うけど
現代社会でのそれはもっとカジュアルな生きた、生きている証のような感覚
一生消えないっていうけど、一生なんてあっという間なんだよね
社会的に損することが多いから日本で入れるのは別の意味でリスキーなのは確かなんだけど
自分の身体に印をつけるという行為は「私は私なんだな」と直感的に感じることがしやすくなる
それはタトゥーを入れることで見た目として威圧したいとかそういうヤンキー発想のものじゃない
だからほんとに見えにくいとことかでもいいからワンポイント入れてみるといいと思う
タトゥーなんて親からもらった大事な体になんてことを、なんて考え方もまだあるけど
タトゥーを入れることで自分の身体がすごく大事に思えてくる、そんな効果もあったりするのだ
別に人生が豊かだと思えなくてもいいじゃん、特になんにもないけどちょっと入れてみるか、なんておじさんがやるのもシャレてていいと思うよ
なんにもなくても、ああ自分には生きた体があるんだなって実感できるよ
コメント色々ついてた・!
全身入りまくりとかだいぶ昔に入れてる人とかはリスク高いかも(医者に止められやすいかも)
今は金属含まない成分になってきてるのでそのへんの事情も変わってきてるよ
これは自分の書き方もよくなかた
入れる時ってどんな柄にするかとか、どこでするかとか、いつするかとか、何回に分けるとか、けっこう計画的にするものなんよ
他にも色々書かれてたけど温泉入れないとかは自分もいやなんよね
まあでも日本でもああタトゥー入ってるんだね、くらいの当たり前のものになったら
そもそも輩の武装、怖い、みたいなイメージもなくなるだろうし温泉にも入れるだろうしそうなってくれたらいいなーと思ってる
消えないからこそいいんだよね
子曰く、「昔者鄭人使程鄭喻於晉,曰、我雖以尺地加於鄭,若其僨也,若其猶也,不越五六年而鄭必有亡矣。鄭人以此五年不改其政,於是乎其國亡矣。」(孫子・作戦篇)
増田よ、エスカレーターでのルールと車の法定速度についての議論は、実に複雑な問題である。
孫子の例にもあるように、鄭の国が小さな過ちを続けた結果、その国を滅ぼす事態に至った。
すなわち、我々が小さな規則を無視し続ければ、大きな混乱につながる可能性があるのだ。
エスカレーターや車の運転には、それぞれ異なる社会的規範とリスクが存在する。
エスカレーターの片側利用の流れは、ある程度の効率性と安全性を保つために守られるべき一方で、法定速度の厳守は重大な交通事故を防ぐための重要な措置だ。
増田が指摘するように、エスカレーターでの片側利用が「背中押される」といった危険を避けるための自己防衛策であるという主張も一理ある。
しかし、それが必ずしも法や規則の優先度を低める理由にはならない。
全体の安全性と効率を保つためには、基本的なルールを守ることが不可欠である。
「流れを守ること」の重要性も理解できるが、「流れ」が全てのルールに勝るわけではない。
世話の問題だけじゃないんだ
自分の子が、孫が、障害児でオッケーな人はほとんどいないのが現実(隔世遺伝もありうるし)
欲しくなくてもできるときはある、確実性を期しても女の避妊手術は器質的に心身の負担がでかいし、ピルも同様
パイプカットしてまで…と嫌がる男は多いしな
施設前提でも障害者に余計にかかるコストはあるし(時間・社会的リスクなども含む)
また特に年上世代は「きょうだい」の育成環境リスクのことも考えてるはず(増田みたいに犠牲にされ続けて自尊感情が壊れてるので心身症発生リスク高い)こういうの、親は経験則で知ってるからな
増田の悪口を言いたいわけじゃないが「きょうだい」って自分がされてきたことが普通だと思っていて、それをパートナーや子供にも求めがち(なぜならそれ以外の家族の形を知るすべがなかったから)