はてなキーワード: 無責任とは
「頑張らなくていい」って言葉が嫌い。
自分が幸せがどうかって自分でしか評価できない。自分の人生の目標が叶っているか、理想通りであるか、何を持って幸せと思うかが評価基準になると思うんだけど、それって人それぞれで、人によっては努力をしなきゃ叶えられないものもある。だから人によって幸せになるためには努力は必要。
「仕事(学校)に行かなくてもいい」という言葉も嫌い。行かなかったツケは誰が払うの?誰が責任取るの?誰が困るの?そこまで考えて言ってる?どうしても行きたくなかったらこういう選択肢もあるよという提案ならまだわかるけど、単純に「行かなくていい」を強調するのは無責任。
「生きろ」という言葉も嫌い。自殺した人に「あなたには可能性があっただろうに」という言葉も。自殺した人にしかその人の気持ちはわからない。死ぬより生きてる方が地獄だから死を選んだのに。自殺を止めてあとはサヨナラなら、その人は地獄を歩んでいく。自殺だってその人の大切な意思です。(自殺を助長しているわけではない)
死ぬこと自体が悪みたいに言うな。死にたくなる環境や世の中が悪なんだよ。どうしようもない時だってある。
ただ側に「死にたい」という人がいたら、少しでも楽になれるように視野を広げさせる言葉をかけたり、こういう生き方もあるよという話はしてあげたい。決してその人の死にたい気持ちは否定しない。生きることが大事なんじゃなくてどうしたら生きててもいいと思えるかを一緒に考えたい。
世の中綺麗事を言えば楽になれるわけじゃない。ネガティブも闇も受け入れなきゃいけない。共存しなきゃいせない。
「生きろ」という言葉は、その人に一生添い遂げることが物理的にできる人、その覚悟がある人しかいっちゃいけない言葉だと思う。自殺未遂すらしたことない人が安全地帯から無責任なこと言ってんじゃねーよ偽善者。恵まれた人生で何より。
石木ダムの建設事業は前からウォッチしていたのだが、今日のニュースによると反対運動側が工事現場へ立ち入ったことについて事業者側が被害届を出したという。反対運動側に、おそらく抗議運動について素人であることによる緩みが散見されており前から気になっていたが、ついに一線を越えてしまったのだろう。
気になった運動の瑕疵はいくつかあるが、一つは抗議(対話?)申し入れのため役所に乗り込んだ際、よりによって運動相手方の役所に駐車料金の補填を求めたことだ。これは彼我のけじめがついておらず、もし筋金入りの活動家なら先方から補填すると言っても懐柔であるとして断る性質の金だ、抗議側が、何か大きな認識違い、あるいは相手方への甘えを持っていることがこの一件から分かり、この反対運動は失敗することが必然であろうと確信した。
また抗議活動として抗議FAXを皆で毎日送りつけることをTwitterで呼びかけていた。これも業務妨害への誘導として大変危険な行為であり、相手の出方によっては足をすくわれ根こそぎ運動を崩壊させる危険性がある。
そして今回の現場立ち入りの被害届の件だ。日付と関係者のツイッターを照らし合わせると、よりによってその重機による立ち入りの状況を写真に撮って公開しているのだ。その土地は、すでに彼らの土地ではないことは分かっているはずなのに。自ら犯罪の証拠を公開するという素人臭さ、支援弁護士がいるならさっさと写真を引っ込めることを指示すべきだが、さっき見たらそのままになっている。
公共事業への反対運動に外部からの支援者が乗り込んで地元を引っかき回し誰も責任を取らないとか聞く話だが、この石木ダムに関しては外部の応援団が無責任であることはもとより、地元の人も自ら素人運動による下手を打っているような感じがする。悲劇的な結末しか見えなないのだが、気の毒なのでなんとかならんものか。
自尊心はまだない。
何でも小学校の頃からイジメられていて死にたい死にたい言っていたことだけは記憶している。
他人の言った言葉をなんとなく真似て組み換えてきただけで、未だに他人が何をどういう意味で喋っていてどう考えているのかが分からない。
ウィトゲンシュタインはコミュニケーションとは子供の玉蹴り遊びの延長であり、その場その場で生まれてきたルールが連綿と連なってきたものにすぎないと語っていたとツイッターで誰かが言っていたように思う。
まさに私が苦手としているのはそのような、持って生まれついた世間一般的な共感能力と空気を読む力によって、その場に発生するルールの力場を正しく掴んでいく言語ゲームなる遊びそのものなのだ。
一流の声優は「あ」という言葉で100通りの表現ができると言うが、私はそういう人間のコミュニケーションの曖昧さが本当にもう耐えられない。
明確で論理的で常に同じ意味で言葉が扱われることは、法律の世界においてさえ存在せず、裁判所で弁護士や裁判官がアレコレ言い合った挙げ句に出てくる判決などの中でさえ、アレヤコレやの曖昧なものがその場限りの意味と解釈を持って無数に絡み合っていると知った時は、もうこの世界には私の居場所なんて本当にないのだと絶望したものだ。
私からすればマインスイーパーの最後の数クリックのように50:50の運任せになってしまったようにしか見えない状況を、別の人間から見れば明白に99:1でほぼ正解と言えるほうが当てられるらしいというのだから恐ろしい。
恐ろしいのは、その99:1が出来る人間の割合が95:5の95の方であって、私のような人間こそが異常として扱われていることだ。
いつからそのことに気づいていたのか分からないが、なんとなく分かっていて、でもそれが未だに確信を持ちきれない所がある。
彩度いっぱいに5色で塗り分けられているはずの戦隊ヒーローの何人かが誤差でしかない状態を幼少期から強いられてきて、それを当たり前だと感じた人間は、その僅かな誤差を見出して必死に見分けている状態が実は異常であるを薄々勘づきながらも確証を持てず、その病名と共に他者との違いを伝えられてもそれを認知することが出来ないのだ。
犬笛の音を聞き分けられないことを「そんなはんずがないだろう」と誰かに言われたら、何回までその言葉に耐えられるだろうか?
ふざけているわけではない。
色盲にとっての戦隊―ヒーローであり、人間にとっての犬笛であるものが、私にとって人の語る言葉の機微なのである。
これはもう大変に厳しいことだ。
きっとこの文章を読んでいる人は「そうは言うが君はちゃんと文字をかけているではないか。それなのに言葉がわからないんなんていうことがあるのかね?」と思うだろう。
私だってそう思う。
だが分かっているつもりで分かっていないようなのだ。
これはもう自覚のないアンドロイドがある日チューリングテストにかけられて「貴方は実は人間ではないのです」と告げられても、全く自分にはその自覚が持てないかのように全く分からないのだ。
今これを書いている私は共感能力をフルに稼働して自分と似た状況にある人間の姿を思い浮かべているように見えるだろうが、実際にはある種の論理的なパズルを解くような気持ちで相似している事象を探してきているに過ぎないのである。
普通の人が心によってやってみせるようなものを、私はただひたすらに論理的にやってみせているのを、そんなことをする必要があると思わない人間が、私も同じように共感能力によってこれらの考えに辿り着いていると勘違いしてくれているわけだ。
こうやって勘違いしてもらうのは私にとってはある意味で都合がいい。
何故なら、実際にはそうではないことが分かると途端に私は人間扱いされなくなり、ヒトマネの上手なロボットであるかのように扱われるだけだから。
これもそれも親から譲られた遺伝子が生まれつき現代社会と上手く折り合えていないのが悪いのであり、私が悪いわけでも親が悪いわけでも周囲が悪いわけでもないと分かってからは、割り切ることで楽になった部分と一生終わらない牢獄の中にいる自覚とで心はより有耶無耶になってきている。
私に出来ることといえば、とりあえず今までのようにヒトマネを繰り返して何とか自分を生き延びさせつつ、同じような気苦労を持つ人間を増やさないようにヴァージンを守ったままでこの人生を終わらせて見せることぐらいだ。
行き詰まった人生に方針を求めて性格診断や適職診断なんかをやると、いつも「小説家や芸術家になりましょう」「発明家や研究者に向いてますよ」と無責任な言葉が返ってくる。
実に下手くそに「貴方は社会不適合者なので、象牙の塔なり自分のアトリエなりに引きこもって居てくださるのがお似合いですよ」をオブラートに包んでくるものだと、自覚のない悪意なのか、純粋な善意によっての社会からの排斥なのかも分からないものをぶつけられたことを感じ入る。
その度に、「ああ、やはり自分はまともに生きるのは諦めるべきなのだ。だが、特別な生き方を出来るほどの力はない。だからまともなフリをして今日も迷惑をかけながらこの社会に張り付くのだ」と自己憐憫に浸るのだ。
これはもう精神的なリストカットとしか言いようがないわけだが、同時にソレはある種の瀉血でもあるように感じる。
私がこの社会に望むのはもうベーシック・インカムの導入ぐらいだ。
もうこれ以上社会の中で「私は貴方達と同じように働ける人ですよ」と偽って暮らすのはしんどすぎる。
いい加減疲れた。
人生の先行きのなさが、生来生まれ持った脳の作りから始まっていると突きつけられ、まだなんとか自暴自棄にならずにいるのがすでに奇跡のようなものだ。
これ以上我々を責めないで欲しい。
責めるべきは、我々のような人間が人間のフリをして社会に紛れ込まなければ生きていくことさえ出来ないこの社会の仕組みの方ではないか?
本当に、ベーシックインカムが導入されれば、我々はそれを頼りに暮らし、もう二度と社会の表側で「私は給料分の仕事ができますよ。何故なら普通の人間なのですから」と心にもないことを言ったりしないで済むのだから。
https://anond.hatelabo.jp/20230830203626
増田の新星怪人・Bさんの特徴をまとめると、
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私も似たような境遇で1人で生きようと思ってるけど、たまたま猫を引き取ったら人生の支えになってしまった
障害者が子供産んでもほぼ確実に障害があるし、今はもう世間にも当たり前に知られるようになった学習障害だってほぼ遺伝するだろ。
まあ、なんでこんなこと言うのかと、それは俺が、俺の兄弟が全員両親から学習障害を遺伝してるからなんだな。
まー生きづらい、世の中にそういうものがあると知られたって許されるか受け入れられるか認められるかは全くの別問題だしな。俺が生きてきたこれまでの間で、まだそんなに知られてない時と今とどっちがいいかって言われてもどっちも生きづらい。生まれたくなかったって何度も思った。
それでもまだ学習障害なんだって思われて諦められる今の方がまだマシかもしれない、小学生の頃や中学生の頃は何の理由もないようなものだったから、できないことややってしまうことを責められるだけだった。俺もだけど注意する周りもしんどかっただろうなと思う。
しかもうちは両親がどっちも学習障害だ、障害は父親からの遺伝がほぼらしいけど、母親もおかしいから抜け目ない感じで遺伝した。
俺はまだ長男だから頑張れた、もう古いかこれ、次男は頑張ってしまった俺と比較されてダメになった。できないわからないを全部怠けだと言われて引きこもりに、家にいても父親とはうまく行かなかったからその内家を出てしまった。今何をしているのかわからない。
三男は性格が呑気だからか、逆に次男と比較されたせいか、これも障害のせいなのかわからないけど、周りからできないキャラ扱いにしてもらったおかげでうまいことサポートされて生活してた。ただやっぱ人と話す仕事は無理みたいで整備士の仕事をしてる。
俺と三男は親ガチャは失敗したけど周りガチャにはそこそこ成功したおかげで今なんとか仕事してる。でも自覚あるだけ俺ら子供はいいんだ、いっそ肩身が狭い方が楽なんだ、両親は2人とも自分の障害に無自覚で、だから子供のできないを責めるんだけど、もう大人になった今だからこそお前らのせいだよと言いたくなる。何で俺らを産んだんだよ、しかも立て続けに、大した給料もらってなかったのに。障害もやばいけど、本当に貧乏だったなーうちは、障害者だからその辺の算段ができないんだろうな。おかげで俺ら三兄弟は貧乏三兄弟と馬鹿にされることも多かった、キッツい、トラウマ。反動で俺はブランドもの買い漁るようになっちまったwww
三男は満足に食べられなかった反動が強いのかジャンクフード依存で部屋を選ぶ基準がマックとコンビニへの距離だった、いかに歩かずに食えるかとか言っててわろた。いや、笑えんがもう俺らは俺らで死ぬしかないからまあいいんだ、しっかり納税して消費もして好きに生きよう。
優生思想、いいじゃないか、反対してる人はそんな苦労してこなかったか、うちの両親同様自分の障害に無自覚なだけだろう。能力は才能だ、優秀な人にこそ子供を産んでもらうべき、技術と一緒でちゃんと継承すべきと思う。
俺らはいいよ、まだ、これでもっと酷い障害があるような人が子供を産んだらその子供は生まれてから死ぬまで誰かのサポートなしでは生きられない。そう言う人にも生まれたら生きる権利はある、でもその中での苦しみをなかったことにしてしまうのは無責任だと思う。障害なんてわざわざ残す必要はない、生まれてなければ俺はいないのに、生まれる前から俺に生きる権利があるように思うのはそれこそ脳内お花畑じゃないか。己の欲求で誰かに不幸を背負わせる行為だ。
生きててよかった、ないわけじゃない、それでもあるかわからない幸せよりも確実な不幸がわかっているなら、優生思想の方がよっぽど健康的だと思う。