はてなキーワード: 侮蔑とは
吐き気を感じる感想も感じる人の自由なので感じてもいいし感じなくてもおかしくはない
小声だろうが大声だろうが心の中だろうが罵倒も侮蔑もしていいよ
ただ結果について好ましくなかったというのなら、学習しないといけない
記憶して次に備えないといけない
まず、小声で漏らして聞かれると大声でばらまかれる奴が傍にいるって状況を確認すること
聞かれたらヤバい奴を認識してそいつに対策した状態なら思うだけでも大声で言っても問題ない
もし結果が好ましくなかったのならば、その経験値と対策が足りてなかったね
ほかには便乗するやつらとかその人数、範囲、そして状況の遷移を予測できないこともあるけど
この経験から対策を練ってよりよい次への学びを得られたらそれは価値があることなので
だれが悪いとか必要性を問う事もない
しかし初回からうまくストレスを回避して経験値だけまるもうけしたいのであれば
追及されたときに黙り込んで状況を人任せにせず自分でコントロールをする努力が必要だったのではないか
口からおもったことがでてしまう病気だと弁明しだからといって許されるわけではないという事を
すみやかに「病気を馬鹿にするのか」と攻勢に出て論点とCの攻撃を回避する手立てにでるのもひとつありなのではないか
ほかにも奇妙な行動をとるとかアクシデントを発生させる、敵対者を別につくるとか自虐的になるなど色々あるだろう
ただひとつだけ状況の進行を他人に任せてしまったらそれはどんな結果に至ろうと任せた本人の責任になる上にコントロールできなくて当然だ
もしもそれらを計算の上でAが大声できっかけを作ったのだとしても
どっかで聞いた話だな〜と思ってたけど、あれだわ。
小林ってのはイケメンで、女性ファンが多いんだけど、これがまた野球選手としては全然ダメで、打てない走れないキャッチャーなの。
打てないキャッチャーは周りから同情の意味で「でも打てないかわりに守りはできるよね?」と守備型キャッチャー扱いされるんだけど、その守備も守備型を名乗るほどの大したもんじゃない。
巨人には大城卓三っていう、最低限以上は打てて・走れなくて・最低限は守れるキャッチャーがいて、普段はそいつが使われてる。
これに小林の女性ファン(なんJを中心に女性を侮蔑するスラングと合わせてコバマンと呼ばれる)が怒るわけ。
SNS見ると、しょっちゅう大城を使う原監督・大城本人・大城のファンを攻撃してる。
ただ、巨人は(増田を見るような人は認めたくないだろうが)日本最大のエンターテイメント集団であるので、抱えているファンの数は膨大で、そういう頭おかしい人の割合も小さい。
それでも大城がミスするたびにギャーギャー言ってるのが目につくレベルなので、そりゃファンの全体数が少ないVTuberじゃコバマンみたいな連中の割合も大きくなるし、コントロールしきれないよな。
「【ある迷惑な行為を繰り返す集団】は知的障害を持つに違いない」って考えは相当危うい気がするのだが、これをナチュラルに言っちゃう人見かけるんだよな
まあ撮り鉄の話なんだけど
属性で一括りにしてまとめて知的障害者扱いって雑すぎるのがまず一点
ひょっとしたら実際に知的障害を持つ人がいるかもしれない、さらにひょっとすると何らかの傾向があるかもしれない
だがそれでも一括りで言ってしまうとやばい、口に出して公言してしまうとそうでない人々への巻き添えダメージが大きい
そして二点目、罵倒語としての知的障害者、ここが自分自身怪しい箇所なのだが
「あいつらは知的障害者だ」という言葉が罵倒として機能してしまう点
もし本当に傾向があり、迷惑行為が知的障害由来だったならば何らかの公共の福祉などの対処が必要なのだろうけれど
この属性の人々は知的障害の傾向ありと判定すること自体が差別的に感じてしまう
知的障害者は差別されるべきでないのに(すべての人類は差別されるべきでないという大前提の建前)
差別的に感じるということは、自分自身は知的障害者へ差別感情を持っているということ
とても居心地が悪い気分になる
「撮り鉄は知的障害を持つに違いない」という発言に対して「そういう言い方よくないよ」と言ってしまうと、知的障害という括り方に侮蔑的ニュアンスを持っていることの自白になりかねない
世間一般に侮蔑ニュアンスがあるので自身がどう思うかはともかくそういう言い方避けた方がいいよ、という逃げ方もできないことはないが……
考えをまとめるためにここまで書いたが、ふと関連して思い出した
https://twitter.com/AgingAnarchist/status/1559672947853258753
「腹が減ったらそこにあるモン食っとけ」というスタイル。もうエサ
書いてある内容の真偽は知ったことではないのでおいておくが。
日本人は特に食事に娯楽性を見出さず栄養素を摂取するだけの食事のことを「エサ」ということがままあるのだけれど、これが個人的にはあんまりピンとこない。
どちらかと言えば食事に対して娯楽性を見出して執着している方が欲望に塗れているため理性的に見えず動物的であるため飽食の方が「エサ」と言う感じがしてしまう。
特に食事は本能に直結しているためか、食事に対して拘るのは欲望に対して節制が取れていないように思える。
七つの大罪で暴食に豚のモチーフが当てられているせいでそのイメージが強いのかもしれないが、飽食にはそれこそ千と千尋の神隠しで両親が豚になりながら食べているような下品で粗野で反知性な印象が付きまとっている。
自分も食事が好きで美味しいものを食べたいと思うが、だからこそ、食事を楽しむことは不摂生に繋がっていて自分が欲望に負けている印象が強く、お腹が空いて美味しく食べているときの方が動物的な気がしてしまい、
「エサ」というならむしろ日本の娯楽性の強い食事の方が適しているのではないか。
それは言い過ぎかもしれないが、なんというか、どうにも、食事に対して欲望が少ないものを「エサ」と侮蔑するのが、自分の方がただ欲望に塗れているだけなのになぜそんな見下したことを言えるのだろうかと不思議でならない。
上手くまとまるかはわからぬが、言いたい放題言われるがままの状況に辟易しているので、この場で気持ちの整理をしたい。
非出生主義とタイトルには挙げたが、それに絡むだけで単なる日記にすぎないのだが、無論、昨今はその話題も世間では言語化
が達成されていない状況にあるように思われるので、その点も解決することを主眼においた内容になることと思う。
推敲はしないいわゆる殴り書きにはなるのだが、それで十分である。
最近、早く孫の顔を見たい、淋しいと親に言われることがあった。まあ、お盆なので、どこでもよく見る光景なのだろうが、
正直、毒親育ちだと仮に、子供が生まれても、親にはできるだけ会わせたくないと思っている。
どうして、わざわざ病質的な環境に大事な人を巻き込まないといけないのか皆目、私にはその理由がわからないのだ。
むしろ、嫌悪しており、阻止しなくてはいけないと言う使命感さえ持っている。子供は敏感にそういった、異常性を察知するものでもある。
孫から侮蔑の眼差しを受けていることを目の当たりにしては、親も狂いそうになるのではないかという憐れみの念があることも忘れないでいてほしい。
「いやいや、そういうことではないのだよ」という所詮子供の分際でバカにするなというものもいるだろう。(随分とふてぶてしいとは思うが)
まあこの手合でもあるのだが、これは答えが明白だ、親の権威性を振りかざしたいだけ、そして耄碌しているだけなのだから底が知れている。この件は以降触れない。
また、「単にに孫の顔がみたいのだよ」と食い下がるものもいるだろう。
なぜそのように考えるのだろうか。
単に生物的な本能として、生殖の連鎖を確認したいということに違いない。それが安心なのだ。
まず、この私の内心と親の心情の間にある距離感にはいわばヒリヒリとした長年の確執の賜物と思わずにはいられない。
私の関心事は個人(ここでは子供)の尊厳にある一方で、親はより本能的な生物的欲求に立脚する主張となっている。
概して、孫は見込めないと思っている前提で親は話しているのだろうが、私は子供は作るつもりでいる点は異なる前提にあるのだし、
自身は子供を作ったのにお前はという強迫も含意しているように思うと、言われる筋合いはないという苛立ちとともに、
「ああ、こちらの思っていることもまた理解できずにいるのだな」と、自身が抱く親に対する恨みの思いは正しかったのだと、
やはり毒親はどこまでも変わらないのだなあという絶望感が増す一方なのだ。これまで同様、距離を置き、狂気から逃れる他ない。
毒親の問題というのは本人にとっても苦悩するものだが、往々にして、毒親の親も毒親であることを疑ってかかるとよく当たる。
毒親が私と同じ境遇の時にどう感じていた所までは私と同様であるから改めて書くまでもないだろう。
ただ、親と私は強迫に対する解決方法が違っている。それだけのことという代物ではなく、それこそが本源的な違いなのだと私は思っていて、
この認識の断絶に隔てられているままでは解決は不可能なのだと思う。深い絶望がここにはある。
これは一人の人間としての尊厳・生きる意味の問題である。その場のお気持ちだとか世間体だとかで支配・強迫したところで、尊厳は奪おうとするのは
虐待でしかない、非道い話なのである。(この支配から解放を願うというのはウクライナ戦争にあるウクライナ人も同じ心地にちがいない。余談だが。)
とはいえ、ここまで私を苦しめる親とは一体何者なのであろうか。何様なのだろうか。私の友人もこうした苦労をしているのだろうか。
この答えは私は持ち合わせていないが、私のような立場であればこうして心からの叫びを発せざる得ないほど追い込まれる状況になるかもしれないことを思い
無配慮に批判することだけはしないでほしいと思うし、心にもない世論形成には加担せず、無視せず、信念に基づいて行動してほしい。
なぜなら、この、人間関係の構造は今話題の山上と同じなのだから。
そして、こうしたいきさつを各々が抱えているというのも、出生率低下の副因になっていると思う。勿論、経済的な理由もあるのだろうが、貧しいのは金銭的なものではなく、精神的な側面にも潜んでいることを見落としてはならない。公園に苦情する地域社会というのも良い例である。
またも、「いやいや、私はそれでも産んだ」という上から目線のものも出るだろうが、正直言うが、そんなあなたは自分が毒親の確率がだいぶあると思う。
むしろ、教えてもらいたいのだ、毒親でなく、不信感なく親の言うことが正しいと信じられるその理由が。
毒親に何を聞いても間違えたことばかり教えられていると、毎日が辛いのだ。
お前いくつだよというかも知れないが、それは良い指摘である。いくつになっても親は親、子は子なのだ。
どんな間違った親で、洗脳が解けない親であっても、いくつになっても親のためを思っていることは根底にあって、
そこはしっかり外していないことを思い出してほしい。
はっきり言って最悪だ。
せめて何か起こった時に言ってくれれば対応もするが怒られるからと隠すし、
理由を付けて手を止める。
それでも従事する人間が居ないから上司はそいつらには注意も無く自分に問題があるとしか言わない。
若い人が底辺職と侮蔑するのは腹立たしくも、正直そう思いたければ思えばいいと思ってる。好き好んでやる仕事でも無いと思う。狙えるものならば上層職を狙った方がいい。
どれだけ楽かきついかは職によるだろうが、炎天下の中汗まみれになって働くよりは楽だからな。
テレビ見ててもコマーシャル見てても小綺麗な家庭向けの物しか見かけない。
上の人間はきつい事は自分らでやらず、都合のいい時だけやりがいとか家族とかその辺の言葉でごまかしてばっかだ。条件に差別を感じる。
誰だってトイレに行くしゴミも捨てし電気も使う宅配も利用するし生活インフラも利用する。
誰かに押し付けあって残り物にしたありつけない人間がやるといい。
捨てるのモラルが低いのだろうが道端には散乱している。
見ているやつも注意するやつも居ないから垂れ流して気分がいいのだろう。
道にゴミを棄てるのは面倒くさくなくて楽でいいのだろう。
もう知らない人間の垂れ流しやクソみたいな人間の行動を目の当たりにする場所にいるのは飽き飽きした。
この仕事から離れてもポイ捨てするつもりも侮蔑の目を向ける事もしない。
ただ見かけたら大変だなと遠目で見る事にする。
倒れんなよ。
誰も助けもくれないぞ。