はてなキーワード: 仏教とは
(他国でも自己犠牲を賛美する風潮はあるが、露骨に特攻を命令するのは貴重な兵士というリソースの無駄使いであり、普通はありえない
今の日本の政治家も悪党としては小物感が漂いすぎてて、こすいというかケチというか
WWIIもそうだけど、上層部は小悪党なのに強い言葉(コロナに勝った証とか)を言うだけで、結局は全部現場に丸投げでしかない
現場に丸投げというなら米国のベトナム戦争もそうだったわけだけど、流石に特攻を命令したり賛美したりはしない
(ベトナム戦争は北軍のゲリラ戦術が勝因ではなく、実際は中ソが米国への核攻撃を匂わせたため、米国は核による脅迫という外交で負けたのである
特攻が嫌で徴兵から逃げた息子を親が捕まえたり、特攻するために出兵する息子を親もご近所も万歳三唱したり、
GHQに支配されても、やっぱり日本人の本質は変わってないんだと今回のコロナでも思ったよ
国難というか、困ったことが起こると先に精神論に持ち込んでしまう
日本人以外に頑張る系の自己啓発は基本的に「ダルい」という反応しか得られれないと思う
(そうすると従業員やチームメンバーがついてこなくなるため、上層部は妥協案や合理化を考える
良くも悪くも基本的に真面目、
だから、上の人間にその真面目さを体よく利用されやすいのだと思う
付け加えるなら、ズルをしてでも敵国に勝つ、ズルをしてでも勝って支配する、領土を奪うという「欲」がない
キリスト教だってプロテスタントは「合理的禁欲」という考え方が根本にあるため、
お金を無駄使い散財しない→いざというときのために貯蓄する→資本主義
という流れがあったが、しかしあくまで「合理的」禁欲であり、仏教のような無欲を良いものとは考えていない
そもそも、無欲になりたい、という欲で座禅や修行をしているというトートロジーがある(一休宗純
うろ覚えだが、アニメのコードギアスでもシュナイゼルには「欲」がなかった
欲や執着心がないことがかえってルルーシュに負ける敗因になってしまった
自己啓発などで欲や執着を捨てようというネタもよく散見されるが、これはバランスの問題であって、
欲や執着が自分を苦しめるなら量を減らすべきだが、欲や執着がなければなんの成功にもたどり着かない
老後になったらオレオレ詐欺で無一文になっても構わない、なんてことはない、
それでは明日から生きていけないわけで、死ぬまでお金や何かに人間は執着するべきなのである
そう考えてみると、この国はコードギアスのシュナイゼル側に似ているとも思える
欲や執着心が足りないのに、「美しく」勝利しようとする
これが自分には良くないように思う
「美しい国」だの「国家の品格」だの言い出した時点で、アベはシュナイゼルにどこか似ているように思う
持論だが、まず「美しく勝とう」などと考えてはならない
大切なのは「みっともない形でもまずは目標を達成する」ことである
ダクトテープによるプロトタイピングとか、まずはみっともなくても完成させる、目的を達成することである
この段階から「軍神」がどうのとか、戦場に美的感覚を持ち込みすぎてはならない
勝利よりも何よりも、まずは目的を細分化し、その1つ1つをみっともないながらも達成していくことである
そして、そこから今度はそのみっともないものをブラッシュアップしていくことである
私は格闘ゲームをやったことがほとんどないのだが、人間がコンボを入力するのはバカげている、
キー操作を記録して一発のキー入力で技が発動できないか、みたいなことを考えるのである
WWIIの日本は、根性でみっともない形で達成しても、それを合理化、単純化しようとしない傾向があるように思える
また、そういった合理化や単純化を悪としたり、そういうのは美しくない、みたいな余計な美観が介入しているように思える
ズルをしてでも勝たなければならない
軍神がどうの、天皇がどうの、そういう美観を戦場に持ち込んではならない
そういう意味で、仮想敵国である中国はやはり良くやっているように思わざるをえない
ホリエモンだったか、自著の自己啓発本で「真似される奴になれ」とか偉そうに書いているらしいが、
真似をするというのは一位の背中にピタリと追随してスリップストリームを利用して走る二位のようなものである
そんな二位がゴール手前で一位を押し倒して一位になってしまうものである
たしかに「真似される奴」はオリジナルであり、ブレイクスルーを作り出すものであり、偉大な存在である
しかし、ホリエモンは起業家としてビジネスの歴史をそれなりに知っているはずではないのか?
ビジネスの世界で意外と最後に勝利するのは二番手だったりすることが多いのである
シュナイゼルについてうろ覚えなのでググってみたが、この文を書いていて、ついアベ氏と似ていると書いてしまったが、
goldhead氏だったか、安倍晋三氏がテレビで演説しているのを観て、
なんて空っぽで空虚な人なんだろう、みたいに思ったようなことをブログだかに書いていたと思うのだけど、
それは自分も同感であって、
安倍晋三氏=シュナイゼルと考えると意外と彼という人物を理解できる気がしてきた
まず、生まれながらにしてすべてが揃っているため「欲」がない、執着がない、
そして、「周囲が望むことを喋り、実行するだけ」の、
ある意味、気味が悪いぐらいよくできた長男みたいな人物だということだと思う
それが見える人には見えるのだけど、見えない人には見えない
なぜなら、安倍晋三氏が空虚に見えない人にとって、そういった一部の大衆が望むようなことを声高に喋るからである
自分のフラストレーションを代弁してもらっているような気分になるから、彼が空虚に見えない
しかし、その崇め奉っている彼は単なる「鏡」でしかないのである
端的に言うなら、二世だから出自が恵まれすぎている、生まれてこの方金銭関係などで大した苦労もない、
それが人間性に反映されて「欲」がない、
しかし、悪い意味で「いい子ちゃん」だから、周囲の望んだことを喋る、
そうやって有権者中の有力者の気持ちを代弁することで味方を増やす、勢力を付けるという戦法だったように思う
そう考えてみると、私はマシュマロ・テストというのがやはり解せないのである
今はルルーシュにくれてやるとしよう、みたいな台詞がうろ覚えだがあった気がする
もちろん、戦争であれ何であれ、意図的に負けてやる、忍耐みたいな姿勢も大事であることは理解できる
しかし、マシュマロ・テストというのはあれも極論めいた話であって、場合によるのである
では、目の前のマシュマロを誰よりも先に奪わなければ死ぬとしたらどうだろうか?
ふと不思議に思ったのだが、
「地獄」って聞くと、あの血の池や針の山があって、鬼とか閻魔大王がいる「地獄」を思い浮かべるよな?
反対に「天国」って聞くと何を浮かべるかっていうと、赤ちゃんみたいな天使に連れられて、
そこには死んだ人(善人)がいて、みんな頭の上に輪っかがあって、幸せに暮らしてる、みたいなイメージじゃないか?
逆に仏教における天国ってのはないらしい(「極楽浄土」はまた「天国」とは違うらしい)し、
キリスト教における地獄がどんなものかはよくわからない(「地獄」と「冥府」は別らしい)し、
神道では「地獄」も「天国」なく「黄泉の国」だけど、これが一番しっくりくる気がする。
宗教ってやっぱり「死後」を考えるところから始まるんだろうなーと思うが、
逆に宗教にとって「死後」ってクリティカルすぎて、当たり前だけど答えはないし、宗派によって無限に説があって定まってない。
イスラム教が割と最強に近いと思うんだよね、社会を安定化させ、個人が幸福に生きられる思想としては
仏教は人依存というか、仏教のルールそのものじゃなくて、ルール外の人間の振る舞いでうまく調節できてる部分があって、
そこが結構危ういと思ってる
周りにいる人によってどの程度幸福になるか決まる感じというか
キリスト教みたいに時代に合わせてアップデートしていければよかったのだが、今のところ原理主義が幅を利かせてたり、どうしようもない
ともかく、イスラム教をベースに磨いていけば、良い宗教が出来るかな
ムハンマドはただのヒト、コーランはただの紙、マッカもエルサレムもただの地表の一部、くらいにやった上で
性差別的な部分やらいろいろ改良していく感じかなー
・「俺は無宗教だ」と自称するか、もしくは「仏教だ」と主張する
・外人には干渉しないが日本人が無宗教以外の信仰を持つ場合は嘲る
・「無宗教」の名誉を守るのは義務。神社や坊さんへのお布施は宗教ではと疑われた場合、「日本ではこれが文化だ」「普通のことだ」と言い張る
https://anond.hatelabo.jp/20210414001604
この件、2つ思うところあり。
1:しずかちゃんはのび太の憧れの美少女、ジャイアンはいじめっ子、スネ夫はその子分…と一見わかりやすいキャラ設定に初期の『ドラえもん』はなっていたかといえば実はそうではない。あとから時代の要請でそのようにキャラクターがひん曲げられていったわけで、宗教も同じである。キリスト教も仏教もイスラム教も、原初の姿をとどめているものはほとんどなく、宗派によって解釈が大きく曲げられて原型をとどめていないことも少なくない。使っているツールが「神」だったり「仏」だったり「イエス」だったりするからその宗教の一派とみなされているだけなのだ。例えば浄土教系の「ひたすら阿弥陀如来に祈る」などというのは本来自分で悟りを開くというシャカの原始的な教えからすれば、めちゃくちゃなところへぶっ飛んでいる。ああいう絶対神の設定はもうキリスト教とかイスラム教に近い。だからどんな宗教を作っても、(科学のような客観的基準がないので)原初の姿はとどめておくことなんかできないし、時代やコミュニティの要請に応じてどんどん変化してしまうのが宗教というものである。
2:そういうときに現代に必要な宗教をさあ作ろうぜ、っていうときになんで「天地創造」から入っちゃうのかなあ。客観的な世界創造は科学に負けてしまう。そうじゃなくて、やっぱりここは「願えば叶う」という、世界=自分、つまり世界は自分が創造したというセカイ系こそ最強の宗教だと思うんだが。この世界は他でもない、私たち一人一人が創り出したもの。私たちが強く願えば、叶えられないことはない。「言霊」という考えが昔からあるように、言葉にして外に出ることで、それは疎外されて自分に対立し、客観的な力になって、自分を縛り、他人を縛る。例えば作家になってしまう奴はみんなそうだ。強く願ったんだ。「どうしたら作家になれますか」なんて他人にぼんやり聞いてるやつは作家になれるはずがない。私は作家になりたい、なりたくてたまらない、そんなやつだけが、めちゃくちゃなことをやって、どんなことがあってもとうとう作家になってしまうんだ。あきらめたらそこで試合終了だぜ? 限界は自分の中にあって、その限界を作り出す、つまり世界は自分が創造しているんだ。
「無意識になんとなくやっていること」でいうなら、毎日なんとなくスマホいじってるし、
大して意味ないと思いつつ宿泊先に温泉を選んで温泉に浸かったりする(実際に行って温泉入ってる時間は1時間ぐらいしかない)
そういう「なんとなく単なる大浴場じゃなくて源泉かけ流し温泉を選ぶ」
「カレンダーの曜日の並びが日曜日が左端にあるのが当たり前で月曜日が端だと見間違える」
が、元増田のは「宗教施設だと思われてるものを使用する」という限定条件が重要そうであり、
そうすると宗教施設や宗教行事という条件に入らない「なんとなくの行動」は宗教扱いされないんだろうなと思う
では自然発生的な願掛け「どっかの橋の欄干に鍵をかける」はどうか
あるいはそれを商業的にパクった「どっかの展望台の欄干に鍵をかける」はどうか
逆に宗教施設の「宗教色」を薄めて「パワースポット」という呼び方に変えて集客するやつ。あれは宗教なのか
「トランプが大統領選挙で落選したのは秘密結社の陰謀のせい」とかは宗教になるのか
そのへんも含めて全部が宗教なのか、そういうのは除外して既存の宗教施設とみなされてるものに関わる行為だけが宗教なのか
もし、既存の宗教施設に関わるものだけが宗教というなら、既存の宗教の枠組みが大事ということで、
日本の特徴は、仏教と神道を混ぜ合わせて一つの宗教にしていた点にある(神仏習合)。
しかし明治に入ると、日本は仏教と神道を分離し(神仏分離)、結果として仏教を破壊した(廃仏毀釈)。
そして国家と神道を一体化させた末に(国家神道)、敗戦によってその国家が破壊されたため、
いま日本人が神社に参拝し、寺で葬式を挙げ、墓の前で祈るのは、