はてなキーワード: 博士とは
雪崩は、たった一粒の小石によって引き起こされることもある。
1月21日、ケンブリッジ大学の数学者 Timothy Gowers が、
長年に渡ってエルゼビア社の論文誌をボイコットしている理由について、ブログに書いた。
オランダに本社を置く同社は、一流誌 Cell や Lancet をはじめとする定期刊行誌を2000誌所有している。
ノーベル賞の数学版とされるフィールズ賞を受賞した Gowers 博士は、この状況を望ましくないと考え、
今回のブログ記事が他の学者もボイコットに参加するきっかけになれば、と望んでいた。
実際、それが起こった。
Gowers のブログに感化されて、数学者 Tyler Neylon がオンライン署名サイトを設置し、
そのサイトを通じて研究者2700人以上(訳注:日本語訳執筆時点では5300人以上)が署名し、
自分の研究をエルゼビアの論文誌に投稿せず、エルゼビアに投稿された論文を査読せず、エルゼビアの編集作業にも協力しない、と誓約した。
その数は、数学者の表現を借りるならば、指数的に増大している。
実効性をともなっていくとすれば、大出版社にとってこれは、革命をつきつけられたようなものである。
Gowers 博士による非難は3点に集約される。
第一点として、エルゼビアの製品の料金は高すぎるということ。
第二点として、論文誌の「抱き合わせ」が広く行われているために、図書館はある論文誌を購読しようとするとき、興味のない他の論文誌もセットで買わなければならないこと。
第三点として、公的資金による研究に対して政府がフリーアクセスを要求することを禁じる法案(たとえば米国議会で審議に入る Research Works Act など)を支持していること。
エルゼビア側によれば、これは誤解を招く言い方だと言う。
2010年には、20億ポンドの収益に対して7億2400万ポンド(11億6000万ドル)の利益を得た。利益率は36%。
しかし、同社の Director of global academic relations の Nick Fowler は、
購読料水準は業界の平均であり、ここ数年の値上げ幅は他社より低いとしている。
Fowler 博士によれば、人もうらやむエルゼビアの利益率は、同社の効率的な経営の結果以外のなにものでもないという。
Neylon 博士による動議は、より広い文脈での学者と出版社の衝突の表れのひとつと見ることができる。
その衝突は、オンライン出版の台頭によって、ますます鮮やかに描き出されてきた。
学者は情報の自由と流動性に重きを置く文化に属しており(そもそも論文の査読と編集を無償で行っており)、
出版社は情報へのアクセスに課金して利益を最大化しようとする組織であり、
同時に権威ある論文誌の(すべてではないにしろ)ほとんどを掌握しているからである。
一触即発の状況は長年続いていた。
2006年には、 エルゼビアが出版する数学論文誌 Topology の編集委員会の全員が、アクセスの囲い込みと料金高騰への懸念を表明して辞任した。
ドイツの出版社シュプリンガーによる論文誌 K-theory の編集委員会は2007年に解散した。
多くの人は、ことが荒立てられるまでにこれほど長くかかったことに驚いている。
出版社をそのサイクルから追い出すことができる環境は十分に整っていた。
実際、商業出版の代替物をつくろうとする動きは何度か起こった。
コーネル大学のウェブサイト arXiv (X はカイの音のギリシャ文字を模しており、「アーカイブ」と発音される)は1991年にできた。
研究者は、まだ論文誌で出版されていない物理学の論文をそこに投稿することができ、
Public Library of Science (PLoS) は2000年にできた。
そこでは生物学と医学の分野でフリーの論文誌が7誌出版されている。
こうした動きへの熱意があったにも関わらず、伝統的な出版社の支配が続いたことには理由がある。
arXiv の論文は、公開後に容赦ない批判にさらされることは確かなものの、投稿前に正式なピアレビューは行われない。
PLoS は一部を寄付金でまかないながらも、論文1件あたり2900ドルの掲載料を課す。
これは著者の負担となり、金策に悩む大学にとっては無視できない金額である。
少なくなりつつあるとはいえ、電子版のみの出版に対する偏見もある。
こうしたことが重要なのは、大学と個々の研究者が、出版した論文の数と掲載された論文誌の名声に応じて評価されるからだ。
ともすれば新しい道具に挑戦することが期待される若手研究者は、その前に既存の権威ある論文誌で出版しなければならない。
さもなければ、発言力もなく昇進もない。
そして、新しい論文の運命を決める力のほとんどが権威の高い論文誌にあるために、「権威」の定義は少しずつしか変わらない。
商業出版社は、たとえば読者ではなく著者から料金をとるなどといったオープンアクセスのアイデアを試そうとしている。
しかしボイコットが広まっていけば、ことは急激に進展する可能性もある。
けっきょくのところ、学者が出版社を必要としている以上に、出版社には学者が必要なのである。
突然失脚する直前まで、えてして体制側は無敵に見えるものだ。
来たる学術の春にはご用心を。
頭いい女って最高に貴重よ?
こっちが言ってることが理解できない女はイライラする。
こういう、自分が言ってることが理解できない相手=頭が悪い、と考える男は止めておけ。
この手の人間は常に自分が正しいと思っていて、相手の意見が自分と食い違う=相手は馬鹿だから間違っているんだ、と決め付けるタイプだ。
理系で博士課程、と言うとこの手の勘違い系「自称頭いい」男が寄ってくるかもしれないけど、
そういうのはスルーして本当に「頭いい」男を見つけるべし。
ちなみに手順というのはなんでしょう?
オンライン書店ビーケーワン:死にいたる虚構 国家による低線量放射線の隠蔽 アヒンサー「読んで、知って、考えて」
見逃した方のために…NHK 追跡!真相ファイル「低線量被ばく 揺れる国際基準」文字起こし - Togetter
原発稼働のため隠される低線量内部被曝の危険性-ICRP国際基準以下で小児がん倍増 - Bloggers Today - 朝日新聞社(WEBRONZA)
「マンクーゾ報告」と「T65D」 - あだち安人「サスティナビリティ」考
二本松の子ども達 福島 原発 ・放射線 の現場から: マンクーゾ報告
葬られた微量放射線の影響調査報告(新恭) - BLOGOS(ブロゴス)
http://anond.hatelabo.jp/20120103131444
http://anond.hatelabo.jp/20120103132230
しかも、博士課程+学振+育英会/JASSOの話題まで触れてもらえたのでうれしいです。
イヤミ抜きで、
音大・芸大に行って、高い楽器や衣装を用意して、師弟制度の中で頑張っても、将来が約束されない芸術家の卵や、
10代・20代で師弟制度に揉まれながら、借金を背負いながらも独立してる土木業や飲食業の人や、
不条理な文句に社内からも社外からもた叩かれて逃げ場のない企業人や、
そんな方々に比べて、
いろいろ借金を背負っているとはいえ、広義のサラリーマン職への就職を狙えるし、
「男はみんな『セックスできるおかあさん』が良いんだろ?絶対なってやんねー。セックスできるおとうさんが来い」
みたいなのあったじゃん。
あれ読んで、一瞬納得しかけたのね。そりゃあえっちできてさ、なんでも言うこと聞いてくれてさ、つつんでくれてさ、そういう相手なら一生べったり依存して生きていきたいよな。
それで子供のころのことを思い出してみたんだが、全然ダメだった。何がダメって、母と同じ傾向の行動をとる異性がぽんと現れてセックスさせてあげるって言ったとしても、私は到底やれないんだ。
近所の母親の流行について行くことに汲々として教育方針が頻繁に変わるため色々な習い事や受験をひっきりなしに変更させられたり、宗教や占いに次々とはまって私の名前の漢字をしょっちゅういじくったりあちこちの神社仏閣へ行かされて砂だの砂利だの枝だのかっぱらってこいと言われたりざくざく金を失ったりするし、健康食品やマルチ商法にはまっては金や人脈を失ったりする。
さらに常に機嫌が悪く怒っており、父に大して始終文句を言っていて喧嘩というか一方的な罵倒が毎日毎日繰り返される。私は父の職業をそれなりに尊敬していた。稼いでくるし、職人だし。だが、母は気に入らないようであんな不安定な仕事に就くな勉強しろ勉強しろ博士になれ医者になれ役人になれとぐちぐち繰り返す。
正直言って、父はあんな女と良くまだ結婚してるな-と思う。顔は一応ちょっと綺麗な方なのかも知れないが、私だったらあの生活に耐えられないよ。
私の母はさ、いわゆる最初に言った「おかあさん」じゃ全然無いわけですよ。多分私は小さい子のよくやる「ままだいすきーままとけっこんするー」って段階が全くなかった。
別に「おかあさん」じゃなくても良いのだけどさ、成人するまでの間、いや、小学生ぐらいまでの間に憧れの異性の一人ぐらいはいないと、異性をほしがる動機ってのが形成されないんじゃないかなあ、と思う。
いまだに「ああこの人と一緒に暮らしたいな」って思った事がないんだ、私は。
ママは魅力的でいてくれないと。ファッカーどころかマザーファッカーにすらなれない。私は、あの釣りの対象にさえなることができなかったんだ。
院生でコンビニバイトしてるクソみたいな分際だけど、ここに書いてあったことはたいていもう体験済みだった。むしろ社畜になるまでこういうことなかったの?社畜になってもこのくらいのことしか感じられないの?という意外性が大きいわ。
研究室内とバイト先でたいていこれは体験できるはず。程度は軽いのかもしれないが(特にバイト)、こういうことを一切感じずに過ごすことはできないだろ。
しかも研究室は無給。給料ないけど、「金払ってるんだからそのぶん勉強しないと」となる。その上研究室上の雑用も任されて、それをやらないと快適な研究はできない。最高の搾取対象ですよ。もちろん面倒な人付き合いや残業(?給料ないけどまあ17:00には帰れない)はわんさかある。博士まで行くと不安定なんてレベルじゃねえ。
責任感については、社畜=会社員よりも小さいだろうなというのは感じるけど。あと、親の喜ぶ顔は見れない。下手するとただの穀潰し扱い(我が家は運良く歓迎してくれてるからラッキー。仕送りはないけど。)。
大学院生なんて好きなことしてられるんだからいいじゃん、というのなら、社畜って仕事が大好きな人のことじゃないの?と言いたい。
でも、そういうことはむしろ一番最初にチェックして欲しい。
お断りだ。
一体何人から応募があると思ってるんだ?
3桁、場所によっては4桁に達する数の応募を、能力(筆記試験)で足きりしないで、全部面接しろとでもいうのか。
ふざけてんじゃない。
筆記試験や、履歴書なんてものは、足きりの材料に過ぎないんだよ。
そして、中途や博士の採用でもない限り、「能力」なんてもんは大差ないんだ。
リンク先でも書いてあるだろ?
「問題把握力を見る」って。
そりゃつまり、大学でやってきたことになんざ、興味ねぇよって事だよ。
そこを見たければ、採用がまるっきり別の物になる。
そうなった場合、面接で面接官に言えるほどの実績が、自分にあるのか考えてみると良い。
なんか、誰の役に立つのか分からんけど、私が高校生の頃にこういう説明があったら良かったなぁ……とふと思ったので書いてみた。
さて、大学の理学部物理学科に入学するとしよう。基本的に物理学科は、専門が進んでいくと、
この2系統x2分野で、4カテゴリだけに全てが収められる。意外に思われるかもしれないが、私も当時(学部3年頃)びっくりした。本当にこの4つしかない。
まず理論系と実験系だが、その名の通り。理論系に進むと実験はやらずに、ひたすら理論だけ。本当に紙と鉛筆だけで物理モデルと数式を弄るだけのツワモノもまだいるけど、最近は、第一原理計算などのコンピュータシミュレーションも多い。
一方実験系に進むと、元旦に液体窒素を汲んで延々と真空ポンプのお守りをしたり、「吸い込むと死ぬ」「空気に触れると爆発する」とかナチュラルに危険すぎるガスをぶぉんぶぉん基板に吹き付けたり、TEM(透過型電子顕微鏡)の試料作成と軸合わせに12時間かけたあとに休憩も取らず深夜3時から測定開始したりする。要するに不死身である。しかも給料ももらわずに学費を払ってこれをやるのだから真性マゾである。……話がそれた。
大学院進学の際、実験系には希望すれば誰でも進めるが、理論系へは相当の能力(とりあえずはテストの成績と言って良い)が無いと進むことはできない。まぁ学部3年くらいになれば、物理ができるヤツと物理ができないヤツの本質的な差が自他ともに見えてくるので、みんな自分がどっちに進むべきかはおのずから悟って判断する。そのため、「理論系に進みたかったけど成績が足りずに不本意ながら実験系に行った」って人は、実はほとんどいない((が、一部の実験系の人はやはり理論系の人にコンプレックスを持っており、理論の人を揶揄する実験系の人も時々いる。そういう人は学生時代はあまりそれは出ず、准教授や教授クラスになってそうなる人が多い))。私の周りでも、理論系に行った人たちはやはり「天才」と呼べるだけの圧倒的物理センスを持っている人ばかりだった。
なお、実験系から理論系へ、または理論系から実験系へ移る人も、滅多にいないがいる。そういう人はものすごい変人か、ものすごい優秀かである。もちろん、変人かつ優秀の場合も多い。
先ほど言ったように、物理学科ではこの2つの分野しかない。意外だろうけどそうなのである。
物性物理学は、モノの性質を「なぜだろう」と問う学問である(と思う)。例えば物性理論の第一原理計算では、「なぜ銅は銅としての性質を持つのか」を、原子番号の29という数字だけ入れて作り上げようとする。一方、物性実験系だった私は、毎日毎日ひたすら真空ポンプのお守りをしながら、ナノ微細構造の作成とその電気特性を測定していた((今日は作成温度500度、明日は550度、明後日は600度……お、550度が一番いいな。みたいな))。その他、金属や半導体、光デバイス、磁性や超伝導、電磁気的性質、まぁそのへん全部物性系である。応用例も広く、就職も比較的マッチングしやすいので、物性実験系が物理学科のもっともスタンダードな専門となる。
一方、素粒子は毛色が違う。「素粒子」と「原子核」で分ける人もいるけど、面倒なので一緒にする。有名なところでは加速器をやってる人たち。高エネルギーと呼んでいる大学もある。要するにモノの性質を問うのではなく、モノを作っている原子の中身とその構造を追っていく学問だ。クォーク、ニュートリノ、グルーオンなどSF好みな題材が多い。素粒子は物性と違い、その経験を活かして就職しようとしても口が少ないため、アカポス狙いになってなかなか難しい。ただ、学部卒や修士卒で就職するつもりで専門に拘らないなら、分野なんて全然関係ないので気にしなくていい。素粒子から普通にリクルートや電通、化学系企業なんかに行った人はいっぱいいる。しかし博士課程に行くと……ポスドク地獄まっしぐらが待っている、気をつけよう。
みんな大好き宇宙論は、宇宙地球科学科が無い大学だと物理学科の素粒子に繰り込まれてしまう。高エネルギーとか場の理論とかになると、どうしてもそちらなので。
なお、物理学科に入る人で「宇宙論やりたい」って人はたくさんいるけど、講義が進んで悪魔のテンソル計算が山のように出てくると、多くの人が挫折してむしろ宇宙論が嫌いになってしまう。足の上げ下げ、共変・反変、今思い出しても夢に見そうだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110929074726
蛇足。別記事に書く。
文章構成の「型」を持つことの長所は、最低限の質を自らに要求するところにあると思う。
要するに1~3を満たさないものは書かない。
多くの人は、3の着想を得たら、それだけでとりあえず書こうとする。
確かに自分が読み返すだけなら3だけで十分だろう。
しかし、それを他人に読んでもらい、何らかの反応を得ようと思ったら1や2が必要だ。
さらに、前向きな印象を持ってもらいたいなら4だって必要だろう。
本当に相手の役に立ちたいと思ったら5だってやり方しだいだが重要だと思う。
しかし、リアルの関係では3は「善意」というカタチで他人に直接向けられる。
しかし1や2といった導入への意識、4で相手が受け入れやすいように調整する意識を欠いたむき出しの善意というのは
せっかくの善意が受け入れられるどころか、相手に嫌悪されることは非常に残念なことだ。
これは「恨み」や「呪い」にもつながる。「魔法少女まどか☆マギカ」のさやかの愚かさは本当に他人ごととは思えない。
そうならないためにも、「型」に従うかどうかはともかく、
一度自分の書こうとしていることが1~5に答えられるものかどうか問うてみるのは無意味ではあるまい。
それに応えられないなら書いてはいけないとは言わない。でも、その自覚を持っていれば相手の反応を恨みに思うことも減るだろう。
自己検証に使うツールはについては、先に紹介したQUESTフォーミュラでなくても自分に適したものを使えば良い。
http://anond.hatelabo.jp/20110823201238
個人的にオススメなのは、エドガー・シャイン博士の「プロセスコンサルテーション」という思考。
博士には「Helping(邦題:人を助けるということ)」という著書もあり、
地方公立高校出身
いま公立高校英語教師
もっと勉強しておけばよかったな
たいして充実した青春時代でもなかったし
いま高校生と接していて
彼らの未来がうらやましくもあり、同情もする
自分の力に相応ではあった
でも人に言うのは恥ずかしくもある
でもいまの日本の状況をみていると
お金を出せば容易に入れる
しかし若者の雇用情勢は厳しく、自分の夢を実現できるのは少数止まり
それは自分が若かった頃も同じだが、さらにハードな現実が待っているように思う
就職してもいつリストラされるかわからず一方で管理は厳しくなり窮屈だ
そんな社会情勢の中、大学のネームバリューはどこまで相対化されたのだろう
まあ身分相応の就職をし生活をしている
コレでよかったんだと思うときと
コレでよかったのだろうかと後悔するときと
その間を行き来し続けている
その応援をするために自分がいる
もちろん保護者の願いをかなえることにもつながる
また法科大学院をはじめとする専門職大学院の低迷ぶりが表すように
「約束された」エリートコースの存在を単純には信じられなくなってきた
最近高校教師の世界も大学院出身者が競争してようやく入り込める状況で
現実の教育現場を目の当たりにして夢や期待を打ち砕かれる人も多い
そんな彼らの死んだ魚のような目を見ながら
いまの時代に「いい大学」にいくことの意味はなんだろうと思わずにいられない
お金をかけ期待をかける価値がいまの大学ブランドにはたしてあるのか
でも私のようなコンプを抱き続けて生きていくのもどうかとも思う
博士がなのに一方的にわがままをいう関係からお互いがお互いに甘えるようになったのが13話で
ギャグなしがどうかっていうのもあるだろうけど俺が一番好きな回だな
「はかせをウザイとかいうやつはガキ」とか「子どもらしくてかわいいじゃん」みたいな意見をよく聞くけど
ぷぷぷ子どもらしいってことはウザイってことだけど。ただ子どもだからしょうがないねってだけでウザイもんはウザイ。
そして「はかせを嫌うやつはガキ理論」が正しいとしてじゃあ「はかせウザイ」って言ってるやつは精神的に未熟なガキなんだから
一々「おまえはガキだ」とかいわないでかわいいねー子どもらしいねーとでも言ってりゃいいと思うんですけど。
大体京アニはわざと博士をウザく、つまりことさら子どものわがままな部分を強調している節があった。
それは博士がなのに高校に行くのを許す13話に繋がって、博士の成長、博士となのの関係性の変化を分かりやすくするものだったと思う。
博士がうざいのはうざく見えるようにアニメ『日常』が作られているから。つまり博士うぜーって言ってるやつこそ最も素直に作品を視聴してるんだよ!!!!!!
ついでにいうと13話以降「はかせうぜー」と思うことはかなり減った。直近の24話では久しぶりにネギ食べたくないとか言ったり、風邪のふりしたりしてたけど
これに関してはなのに優しくして欲しい甘えたいっていう意図もちゃんと見えてウザイよりかわいいが強い。それでもわがままはウザイけどそれほどじゃない。
このウザ度コントロールがはかせほどうまくいってないのが麻衣ちゃんだ。はかせに謝りに行った回でバランスとろうという感じは見えたけど…うーん微妙に成功してない気がする