はてなキーワード: 書物とは
ギリアンは、夜の闇が村を包むと、一人静かな家の中で燭台の光を眺めながら過去を思い返していました。彼の心は深い悩みで満たされており、柔らかな声が震えることもありました。彼は言葉を紡ぐごとに、過去の失敗を覆い隠す繊細な言葉の網を編んでいきます。一方で、彼の心の奥底では、真実と虚構の境界線がぼやけていくのを感じていました。
「こんなにも、言葉は強力なのか...」彼はつぶやきます。彼の目は遠くを見つめ、彼の心は自己反省の海に浮かんでいました。「でも、これが僕を救う唯一の道だ。」彼の言葉は静かで、しかし決意に満ちていました。
彼の心の中では、言葉の力が彼の過去を塗り替えるたびに、新しい自分が生まれ、古い自分が消えていく様子が描かれていました。彼は自分の行動に疑問を抱きつつも、この秘密を守るために言葉の魔法に頼るしかないと信じていました。この深夜のひそやかな時、彼は自分自身との葛藤と向き合い、新たな一歩を踏み出す勇気を見つけていました。
エリナは、村の静かな図書館で、ほこりっぽい書物の間を熱心に調べていました。彼女の眉間にはしわが寄り、時折深くため息をついていました。彼女はギリアンの言葉の背後にある真実を知ることに強い関心を持っていたのです。灯りのもと、彼女は一冊一冊の書物を丁寧にめくり、ギリアンの過去に関する情報を探っていました。
「なぜギリアンはあんなにも言葉を慎重に選ぶのだろう?」エリナは独り言を漏らしながら、ページをめくり続けます。「どこかおかしい...」彼女の心は疑念で満たされつつありました。
夜が更けるにつれ、エリナの瞳は疲れとともに真実を求める光を宿しました。彼女は自分の考えに自信が持てないことが多いですが、この問題に関しては違いました。彼女は何か大きな秘密が隠されていると感じており、その真相を突き止めることに強い意志を見せていました。
「この中に答えがあるはずだ...」エリナはそっとつぶやき、次のページをめくりました。彼女の心の中では、ギリアンの言葉の謎を解く鍵を見つけることへの期待と不安が交錯していました。彼女は夜通し調べ続ける決意を固め、真実を探る旅を続けていきます。
その日、ギリアンは村の広場で人々を集め、自分の「魔法の秘密」について熱心に語り始めました。彼の声は柔らかく、言葉は巧みに選ばれていましたが、エリナはその中に何か不自然なものを感じ取っていました。彼女の心は疑念で満たされ、真実を知るための決意が固まっていました。
エリナは群衆の中に静かに紛れ込み、小さな録音機を慎重に操作してギリアンの言葉を録音し始めました。彼女の手はわずかに震えていましたが、その目は集中の光を放っていました。「これで何か手がかりがつかめるかもしれない」と彼女は心の中で思いました。
ギリアンは自分の言葉に自信を持っていましたが、エリナはその言葉の裏に隠された真実を見抜こうとしていました。録音機はギリアンの言葉を一つ一つ捉え、エリナはその内容を精密に分析する準備をしていました。彼女の心は、この行動がギリアンの秘密を暴く鍵になることを強く望んでいました。この瞬間、エリナはただの少女から、真実を追求する探偵へと変貌を遂げていました。
エリナがギリアンの録音を公開した時、村の広場は緊張で静まり返りました。録音が再生されると、村人たちはギリアンの言葉の真実を知り、その驚きと困惑の表情が広場に広がりました。ギリアンの言葉の裏に隠された意図と彼の過去の失敗が明らかになったのです。
しかし、村人たちが最も驚いたのは、ギリアンの反応でした。彼は怒りや否定ではなく、深い反省と謝罪の言葉を選びました。「私は間違っていました。過去の失敗から逃れようとして、皆さんを欺いてしまった。本当に申し訳ありません」とギリアンは静かに言いました。
その瞬間、エリナの心は複雑な感情で満たされました。彼女の行動が真実を明らかにしたことには満足感がありましたが、同時にギリアンの素直な反省には感動さえ覚えました。村人たちの反応も様々でしたが、多くの人がギリアンの誠実な態度に心を動かされました。
この出来事は、ギリアンにとってもエリナにとっても、そして村全体にとっても重要な転機となりました。ギリアンは自分の過去と向き合う勇気を持ち、エリナは真実を追求する力を証明しました。そして村人たちは、誤解や偏見を超えて互いを理解し、許すことの大切さを学びました。この日以降、村はより強く結束し、互いに支え合うコミュニティへと成長していきました。
この一連の出来事を通じて、村の人々は言葉の持つ力と個人の責任について深く考えるようになりました。村の長老は集会を開き、みんなが集まる中で、言葉が持つ影響力とそれに伴う責任について語りました。「私たちの言葉は、他人の人生に大きな影響を与えることができます。だからこそ、私たちはその力を正しく使い、誠実であるべきです」と長老は言いました。
エリナはこの出来事から多くを学びました。彼女は自分の行動が村に与えた影響を見て、自信を持つようになりました。彼女は真実を追求する勇気を持ち、正義感を持って行動することの重要性を理解しました。
一方、ギリアンも自分自身と向き合い、過去の失敗を受け入れることで、新しい人生を歩む決意をしました。彼は「私の過ちが、皆さんに教訓となったなら、それが私の新しい始まりです」と村人たちに話しました。
この経験を通じて、村の人々はお互いをより深く理解し、支え合うコミュニティとしての絆を強めました。言葉の力と責任についての教訓は、村人たちの心に深く刻まれ、これからの人生に大きな影響を与えることになりました。エリナとギリアン、そして村全体が、この出来事を通じて成長し、新たな未来へと一歩を踏み出したのでした。
エリナとギリアンの物語は、村にとって重要な教訓を残しました。この一連の出来事を通じて、村人たちは言葉の重要性と真実の価値を深く認識するようになりました。言葉がどのように他人に影響を与え、時には人生を変えることができるのかを理解し、真実を大切にする心を育てました。
エリナとギリアンの物語は、次世代の村人たちにも語り継がれるようになり、子どもたちには物語を通じて教育が行われました。彼らの経験は、言葉を慎重に使い、真実を尊重することの大切さを教える貴重な教材となりました。
また、この物語は村のコミュニティを強化しました。村人たちはお互いをより深く理解し、互いに支え合う関係を築くようになりました。エリナとギリアン自身も、この出来事を通じて成長し、新たな自分を見つけることができました。
エリナの勇気とギリアンの反省は、言葉の持つ力と責任、そして真実を大切にする心の重要性を村全体に伝えました。彼らの物語は、村の歴史に不可欠な一部となり、長い間語り継がれることになったのです。それは、言葉と真実が人々の心と社会に与える影響を永遠に思い出させる物語として、村の文化の一部となりました。
2年前の衆院選において、吉良よし子日本共産党常任幹部会員が述べた表現規制発言について「共産党の良く分からん奴」、「こんな女性議員のちょっとした発言」などとして共産党全体の問題とはしない擁護が見られた(https://anond.hatelabo.jp/20231126202929)
だが、共産党員が外部に対して意見を表明する場合、党の意に反した発言をすることができない。これを民主集中制という。(https://anond.hatelabo.jp/20230212205420)
はてなにおいてもとある共産党員のブロガーが除名に追い込まれたことで、一部で話題になった。(https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2023/09/07/015416)
では、民主集中制が具体的にどういうものなのか、志位委員長はそれにどう向き合ってきたのかを、志位委員長が書いた論文「変節者のあわれな末路」を例に見ていこうと思う。
本当は除名問題が盛り上がっているときに書きたかったが、古本で一万円もして手が出なかった(https://www.amazon.co.jp/%E6%8A%95%E9%99%8D%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%AE%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96%E5%8F%B2%E8%A6%B3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/B00KSRE60K)。なかなか国会図書館に行く機会がなかったので今となった。
論文「変節者のあわれな末路」は、分派活動を行ったとして除名された伊里一智氏(当時大学院生)を全面的に批判した論文となっている。
伊里一智事件とは、党員が宮本顕治(議長。当時の日本共産党のトップ)の辞任を求めた事件で、分派活動とされ、最終的には党から除名されている。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%87%8C%E4%B8%80%E6%99%BA)
この伊里一智氏を徹底的に批判したのが、当時党青年学生対策委員だった志位和夫氏であり、また、ここでの大批判は志位和夫氏の党内での出世のきっかけになったとも言われている。
当時党中央委員会青年学生対策委員だった志位和夫は宮本顕治の直接の指示を受け、党の規律に背いて他の代議員に対し働きかけた分派活動と断定した。
(前掲Wikipediaより)
赤旗に掲載され、論文集「投降主義者の観念論史観」(日本共産党中央委員会出版局)にも収録されているこの論文は、志位委員長の、そして共産党の体質が色濃く出ていると思うので分析していきたい。
ちなみに、論文集「投降主義者の観念論史観」は伊里一智氏批判のための書物であり、端書と目次を紹介する。有力幹部でもない単なる一党員にここまでするのかとも思う。
(はしがき)
本書で批判の対象となっている東大大学院生「伊里一智」なる人物は、1970年代なかば以来展開された反共反動攻勢のもとで、日本共産党の路線に確信を失って、不まじめで小ずるい、しかもピエロ的な反党分派活動にのりだし、日本共産党から規約にもとづいて除名された人間である(後略)
(目次)
◯変節者のあわれな末路(志位和夫)
◯敗北の「哲学」(長久理嗣)
本来であれば伊里一智事件の経緯と合わせてみていった方がいいのだろうが、それをすると異常に長いものとなってしまうので志位委員長の考え方が出ているであろう部分を抜粋し、コメントを付していきたい。
なお、双方共産主義者であり、どちらがいかに正しく共産主義を理解しているのかという議論もしているが、そこには踏み込まない。正直意味わからんし。
以下、引用は全て志位委員長の論文「変節者のあわれな末路」より抜粋したもの。
結社の自由にもとづいて自発的な意思で政党に加入した者はだれであれ、出版、言論の自由をふくむ自らの基本的人権をその政党の目的実現にむけて行使すべきである
いきなり凄いのが出てきた。仮に自民党総裁が、「自民党員はその基本的人権を自民党の目的実現のために行使すべき」とか言ったらどんな反応があるだろうか。
いくら政党等の団体に所属していたとしても、基本的人権は各種団体よりも優先されるものであり個々人が自由に行使できるものと認識しているが、日本共産党においてはそうではなさそうだ。
わが党は、「伊里」が、彼の反党文書のなかで、「理論派閥の容認」「党外出版物での批判の容認」「横の交流拡大」などの、民主集中制を完全に否定する主張をおこなっていることを、彼の解党主義、分派主義のあらわれとしてきびしく批判した
やはり、志位委員長も党内に派閥ができることや党の外での共産党批判はNGと認識しているようだ。
あと、注目すべきは「横の交流」も民主集中制的にはNGと考えていることだろう。
党の末端はあくまで中央から指導されるものであり、末端同士で連携することは考えていないようだ。分派活動になるからだろうか。
「科学的社会主義は一つしかないわけではなく」などというのは、科学的社会主義の客観的な真理性を否定する相対的な見地にほかならない
すなわち共産党は客観的な真理性を体現していると言うことだろう。
坂本中央委員からつぎのような指導を受けたことをみずから明らかにしている。
「議案提出の主体は、…代議員有志など複数であってはならない」「党会議の事前に文書を配布することはできない」「事前に他の代議員と討論したり、自分の提案に対する支持を、…求めてはならない」
坂本同志の発言は、「伊里」によってところどころゆがめられているが、こうした「伊里」の"証言"によっても、彼のおこなったような分派活動が規約で禁じられたものであることを、坂本同志がはっきりと指摘していたことは明らかであろう。
まず目につくのは複数名(連名)の提案は認められないところだ。複数名での提案は、党内に派閥を作ろうとしている(分派活動)だと言うのだろうが流石に無理がないだろうか。
ちなみに伊里一智事件においては伊里一智氏ともう一名による連名だったそうだが・・・
次に、事前の議論や多数派形成を認めていない部分だ。会議をやった経験のある方ならわかると思うが、これでは何も提案するなと言っているに等しい。いきなり重大案件を突きつけられて判断できる人はそうそういない。
結局、常日頃から末端を「指導」できる中央の意見しか通らないと言うことだろう。
◯「伊里」の本が、いかに低劣な内容
◯三文反共雑文を書き送る売文家たちと同じ地点まで、「伊里」が転落してしまっている
◯「伊里」が本のなかでおこなっている弁明は、卑劣を通りこして、こっけい
やたらと大仰な言葉遣いする割に、漢字で問題ないところまであえて平仮名で書くのは共産党の文化なのかな(「もとづいて」「不まじめ」「ふくむ」「おこなった」「ゆがめ」「だれ」など)。書き写しにくくて仕方なかった。
やたらと「分派活動」という用語が出てくるがそもそも日常的な用語じゃなさそうなので、辞書を引いておこう。
共産党の場合は党を分裂させようとする行為、という認識で問題ないと思う。
(デジタル大辞泉より)
2 主となる勢力から分かれて別に一派をなすこと。また、その一派。「—を立てる」
一つの団体内部で、信条・利益などの相違から派閥をつくって、主導権を握ろうと争ったり、団体の基本方針とは別の行動をとったりすること。
『投降主義者の観念論史観』と,伊里一智の著作『気分はコミュニスト』がネットにアップされてたhttps://sites.google.com/view/sokokutogakumonnotameni/%E9%A6%96%E9%A1%B5 後者は増田が言及してる宮本批判そのもので、不破にも触れられてる
誹謗中傷で訴えられても知らないよ
訴えられちゃうのか怖いなぁ
数学の書籍には、幾つかの類型が存在すると思考の深淵に耽る。まず、教育を志向したものがあり、確実にステップを踏みながら数学の底力を身につけることができると謳われている。次に、辞書的な性格を帯び、数学者自身が自らの難問の鍵を求めるために、特定の定理や概念を参照するのに重宝される。最後に、最先端のトピックを瞬時に理解するためのもので、その要点を端的に把握することが狙いとなる。従って、私はどのような目的で数学の書に触れるのか、自己を問い詰めずにはおれない。
おそらく、私は最新の知識を迅速に吸収したいと願っているのだろう。しかしながら、そのために必要とされる前提知識は、敷居が高くなることがしばしばある。このようなとき、インターネットの広がる海を航海すべきか、精緻な教材と向き合うべきか、迷いに迷うのである。
一般人でありながら、高度な数学の概念を理解するための近道、それはいったい何か。私は、フレンケル教授のような説明術が、多岐にわたるトピックに適用されることを夢見ているのかもしれない。プリンストン数学大全という書物が私の手元にあるが、これは数学の骨子を簡潔に把握するには素晴らしい資源であると感じている。しかし、定理は単なる暗記ではなく、数学を生きた魂とするためには、他の科学的領域との接点が必要不可欠だと考える。審美的な要素だけではなく、科学的な実験と理論を結びつけるのである。
確率論の領域において、私はゲームを編み出し、コンピュータを用いてそのシミュレーションを行う方法を通じて、実験を行うことが可能だと思っている。テキサスホールデムポーカーの最適戦略が解明されたように、理論的な興味に基づいてゲームを選択し、コンピュータによるシミュレーションを行うのである。経済における金融商品市場は、まさにそのようなゲームの一つだが、私は残念ながら、実際にお金を投資することには興味を持たない。もし実際にそのような分野で実験を行うのであれば、利益と損失のリスクを冒すことなく、安全なサンドボックス環境を用意するだろう。私の心の深奥に築きたいのは、理論的モデルを探求し、それをシミュレーションする世界なのだ。
hash: 9a6aec5b64eb6d8e83e087c0bbd9bba4
何の学科か分からないが、何かを調べる授業があり、何故かその調べ物をする場所がとんでもない傾斜の坂の上の山の中にある。
傾斜が凄まじく、自分は途中まで自転車に乗って登っていたのだが進む事すらできなくなり、あまりのことに笑いながら自転車を諦めて脇の空き地に横たえて置いて坂道に縋り付くように四つん這いになりながら道を登り始めた。路側帯の白線が何故か普通に帯のように紐のようになっていて握れるので、それに掴まりながら登山のようにアスファルトの道を登っていく。他にも同じ様に山の上に向かっている生徒があり、状況のとんでもなさに苦笑して笑い合いながら目的地に着いた。
山の中腹にある開けた空き地は周囲を木々に囲まれ短い下草が青々と茂っていて、そこに図工室にあるような作業台や角椅子が整然と並んでいる。細部をよく覚えていないが、本類、資料?文献?は卓上に置いてあったのかもしれない。本棚は無かった気がする。そこで多くの生徒、教師が角椅子に座り何かを調べたり読んだりしている。
男女の教員、1人はふくよかで豊かな癖毛をした落ち着いた服装の長髪の中年の女性、1人は顔色が極めて悪い、短髪で目をひん剥いたようなギョロ目をした和装の男性。で、何故か自分はその男性の向かい側で古書を見ていて、その古書は神社の御由緒のような、神社に伝わる書物の由来が記載された目録のようなものだった。読んでいるうちに、その神社の建立当初、帝から賜った宸翰が今に伝わっていると書かれており、へぇええ〜!!!と顔を上げると、夢なので唐突に、目の前の教職の男性の脇に60代くらいの落ち着きのある痩せた神主さんが居て、「持ってきましょうか」と言う。は???凄すぎる、見て良いのか、やべー!!と心中で慌てふためきながら大人しく待っているうちに、夢なので唐突に周囲に人は居なくなり、その作業机には自分と教職の白服の男性、少し向こうにふくよかな女性の教員だけが居て、何故か神主さんが神社に贈られた上等の和菓子をあけて自分と男性教職員に出してくれる。
そのひとつをようく覚えていて、それは艶々ぴかぴかとした光沢のある、一つ一つの粒がしっかりとしている黒豆のような茹で小豆?あんこ?に覆われたぼたもち/おはぎで、実際存在するのかと検索してみるとそのような物は見つけられなかったのだが、自分が見つけられなかっただけでどこかには存在するのかもしれない、それを美味しく食べた。あまりの旨さにまた感動して目を見開きながら顔を上げて目の前の男性教職員を見ると、わかるぞと言うように相手はうなずき、「本物は内側が7層になっているんですよ」と教えてくれて、こんな小さい和菓子の内側に何が7層も入っているのか気になって仕方がなかった。
夢なので唐突なのだが、我々の机の横手には、自分達が登ってきたはずのアスファルトの急斜面は無く、けばけばしくない、ぼろくもない、使い込まれた年代物の神楽殿があった。開け放たれたそこには、奥の方に木札のような、30センチ程の高さの有りそうな折紙に包まれた書状がいくつか重ねて立て掛けられていた。あまり恭しい扱いとは言えないように見えたが、粗雑に扱われているようでもなかった。そのうちのいくつかを今から読むのだろうか?神主さんが紙を開いて書面を出してくれたあたりで目が覚めた。
艶々の黒豆に覆われたあのぼたもち様のなにかが気になって仕方がないが、ぼたもちではなく生菓子かもしれない。
文学部を選ぶことは薦められぬ。止むを得よ。何故ならば文学部の授業においては、熱意を持てば自ら調べ、書物を読むことによって身に付けることが基本とされるからである。特に国文学や歴史学の分野においては、新たな事実が滅多に加わらず、既に整理された知識を、その科目の愛好者である教授が楽しげにお話ししてくれるのみである。言い換えれば、博識なることはできるが、生計を立てる能力は授業だけでは身に付かぬかと思われた。
よもや文学部というものは汝に勧めざるべし。此を断念せよ。何が故かと申さんか。文学部の授業において聴くことは、いかなる場合も熱心さによって調査したり書物を読んだりすることにより得られるものなればなり。特に国文学や歴史学なるものは、新たなる事実の追加はほとんどなく、既に構築せられた学問の体系を、其の科科目の熱狂的なる教授が楽しげに饒舌するばかりなり。要するに識者となることは許されんとも、食物を得るための能力は授業のみによって身に付くものとは思わず候。
その方(図書禁止法を支持した保守的な親の権利団体の人物)は、聖書を「最もセックスにまみれた書物のひとつ」とし、近親相姦、獣姦、売春、性器切除、強姦に言及している文章を指摘しました。彼らは例のリストを含んでいました。
"聖書は...我々の新しい定義ではポルノであるため、"未成年者にとって深刻な価値を持たない "ことが間違いなくわかるだろう。このPORNを学校から追い出せ!"
こっちの記事だと若干詳しく載ってるけど真偽は知らない
https://newrepublic.com/post/173221/utah-school-district-bans-bible-vulgarity-violence
かつて「なんか、うんちスンナリ出る時期と出ない時期あるよな」てのを書いたことがあったけど
https://anond.hatelabo.jp/20220331150849
このスンナリ出ない時期に、うんち出そうと息を止めて「フんっ!」て気張るより、息を止めないでちょっとずつ出す方が、出やすいって気がついたw
息を大きく吸って、唇をつぼめてごく細いスキマを開け、スゥ〜〜〜〜〜っと少しずつ20〜30秒(できればなるべく長く)吐き続ける。上半身はちょっと前傾姿勢がいいかな。
まぁ、たんなるシロートのN=1のサンプルでしかなく、厳密な測定調査や統計も取ってないヨタ話で、もしかしたら禅とかヨガとかそういった方面では昔からよく知られたことなのかも知らんけどw
とくにその方面の師匠に付いたりせず、書物やYoutubeとかで勉強したわけでもないのに、自分で思いついたのがエライでしょww
そういえば、一日に一冊本を読むを習慣づけている、というのがホットエントリに入っていたよね。
でも、大抵の人は「本を読む行為」にとても高いハードルを設けてしまう。
これは、とても不思議なことだ。
なにが、これほど「本」というものへの抵抗感へとつながるのか?
決して時間がないわけではないと思う。
そりゃ学生時代とかに比べれば、一日の余暇というものは著しく減少している。
それでも「簡単なこと」に費やしている時間はそれなりにあるのだ。
簡単なこと、というのはSNS、web、漫画、ゲーム、TikTokとか人によりけりだけど、
その時間を読書に割り当てれば、それなりの読書量になることは間違いないだろう。
そして重要なのは、今やっている「簡単なこと」というのはジャンクフードのように栄養分が少ないのは自覚しているのだ。
それと比して読書はとても栄養価の高いものだ、と単純に断言してもいいのかどうかはわからないが、
少なくとも読書量が少ないことに引け目を感じる人はそんなふうに感じているのだ。
それでも読書をすることが出来ない。
この人間のやらなければいけない、と感じていることへのハードル感を克服することこそが自己啓発書の存在意義だと思うのだが寡聞にしてそれに成功している書物の存在を知らない。
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
なんかはるところを間違ってるんじゃないかと思うのだけど「なんとか主義」っていうのは「うちの餃子のつくりかた」みたいなもんだよ
・うちのであってよそのではない
・つくりかたであって食べ方ではない
みたいな話だよ
民主主義だからどうすべき 民主主義だからありえない 民主主義だからこうする
ってゆってもそうすべきじゃないと言えたり実際に言ってる人は存在するし
ありえないって言ってもありえてる状況もあるだろうし
こうするってゆってもしてない事だってある
じゃああってもなくてもなんにも意味がない主義って存在そのものの意味あんのって話になるじゃん
おかたく存在を肯定しようとすればするほどその熱意で焼しめた硬度でもろく崩壊して粉末になっていくよ
そもそもね 説明をしないといけない時点でそうなってない状態が横行してるわけ
それは民主主義じゃないって指摘をしたりこれが民主主義だって説明する時点で
昔から物理的に変わらず共通の項目として言葉にすればそれが理解できる「民主主義」なんてものが存在するのならそれを言えばいいだけ
辞書にある(出版社・編集者が作成したもの)や歴史にあるもの(その時点の使用者が使ったもの)とか現実に存在するもの(各国各団体であるもの)がそれぞれ別のしくみであるでしょ
それもありだとおもうしいいとおもうよ
主義とかいうのは二人以上の人間が共通の認識で使っていくこと そして第三者に理解ができること そのための名前なんだよ
名もないわれら増田が主義をとなえたところでそんなものに意味はないよ
共通のルールで基盤をともにしたい仲間と それをあきらかにしたい境界線の明示のために使う言葉をここ増田やほか借り物の主義の定義をもってきても意味はないよ
だから民主主義が専制君主制だという意味でつかう増田がいてもおかしくはないしその人の中ではそれが正解だろうしみんなも「それを正解としている人」という認識でいいんだよ
餃子ににらをいれようがにんにくをいれようが、あいびきが豚100%だろうがみんなそれぞれ自由でいいんだよ
もし具体的に固定的な意味を使いたかったら名前のついた主義主張をしたらいい
民主主義が何年のどこでつかわれただれによるものとか、だれが定義したものでその情報をもとに共有したかったらその書物を読めばいいとか、その書物にないバージョンだとか、自分で考えたものなら自分の名前を出すとか
餃子ってだけならみそでたべるのか酢醤油でたべるのか塩なのかもしかしてそれワンタンなのではってものとかなんでもいいんだよ
「陳さんの餃子」とか「こだわりおやじの餃子」とか「東京式餃子」とかそういうものがあるならその名前でだせば、きみの考えてる主義も理解されるよ
ただ「今の日本の民主主義においては」みたいな話の仕方をすると「おいしい餃子」みたいなもので「おいしいの基準はなんだよ」ってなるよ
あれ透明に近い水色なんだよ、もとは。何故かというと、人工池が元ネタだから。
古代って、ダムの概念無いから池に水ためるじゃん。水って古代から資源じゃん。だから税じゃん。
ここに池作りました!承認お願いします!って地方の長がやる。大体地方の上位の長が立ち会う。
上位長は立ち会えば税取れそうか見れるから。当然下位長は池を綺麗にしておく。だから、水も綺麗。
池って水張った初日は水綺麗じゃん。だから透明で美しい。見た日には一句詠めそうなくらい美しい。
でも水は日を経ると腐る。
偉い人は「この池いとすみわたってへき!」とか言っちゃう。水色のつもりで。
でも古代は立会すら日がかりで、役人が見に来るのはさらに数日後。
予想通り役人は「この水くっさ!へきってこの草色かよ」と書物に書いちゃう。
ここで認識の食い違いが生じる。
ブロックされてなかったらどうということのない発言だったのだけれど、いちいち対象をブロックしてから発言しているのが面白い。
所謂「ゲーム史」的な書物があまり出版されていないのは、オタクの「ここが違う」というツッコミがあまりにも細かすぎるせいで、それらの書物の出版を困難にしてるんじゃないかと。(アニメ史も同じことが言えるかも)
ゲームの歴史、俺なんかがWikipediaとか片手に読んでもいくつもミスが見つかるであろうとは思うんだけど、あれくらいの網羅的な読み物がこれまであったかと言うと、多分ないので、まともなのが作られるのを待たれる
という発言を受けた上で、ブロックした上でこういう発言をされているわけですが。
『ゲームの歴史』はゲームの網羅的歴史書がないから意義があるとかいう妄言が流れてきたが、ちゃんと日本デジタルゲーム学会 https://digrajapan.org という学会があり、学会誌「デジタルゲーム学研究」という学会誌もある。ググれば論文読めるし、調べないオタクが不勉強なだけだ(断言)
https://jstage.jst.go.jp/article/digraj/3/2/3_191/_article/-char/ja/ 上村 雅之 とビデオゲーム黎明期をきっちり論じた論文もあるのに「網羅的な歴史がない」とか言い出すオタクはオタクとして不勉強すぎる。自分の怠慢を棚において、偽史を弁護する輩は歴史研究者の端くれとして許せんわ。
ちなみに、5分でググって見つかった論文だとPDFで無料で読める。他にもゲームの歴史を論じた論文は多数無料で読める。「自分で調べないのに文句を言う」オタクの怠惰さが『ゲームの歴史』とかいう偽史偽書を生み出したとも言える。怠惰に逃げるやつはオタクじゃねえ!
わざわざブロックしてくるということは、これがRTされたりすると燃えるというのは自覚があるのかなと思うんですけれど、それでも
Twitterでわざわざ発言せずにはいられないというというところがちょっと理解できない。
しかも、ツイートの内容自体は有意義なものであり、書き方さえ気にしなければブロックする必要もなかったはずなのに。
behuckleberry02 妄言を相手取って討論する気が無いからでしょ。相手取る気はなくブロックしても言いたいことは言う。普通です。
さすがはてブ民、もう自分がダサイという感覚すらなくなっている。
わざわざFANBOXの有料プランで見えないようなところで書いているのだから
Twitterでは一切黙っていればいいのではないかと思うのだけれどどうして、いちいちちょっとだけTwitterでにおわせのようなことを書いてしまうのだろうか。