はてなキーワード: 指詰めとは
違うんだよ、日本は切腹・指詰めの文化で、やらかした罪に対してアンバランスなほど大きな罰を受けることが美徳とされる風潮があるんだ
言い訳をせず罰を受け入れる、多少不条理でも責任として引き受けるのが潔いという考え方
ただ、その副作用で、切腹はかわいそうなので大目に見るとか、罪を認めないことが最適解になってしまった
飲酒運転の罰を重くしすぎた結果、人を轢いても救護せずに逃げて酒を抜くのが最適解になるように
今回に限らず、昨今炎上した事件でも、必要以上に吊し上げて大きすぎる社会的罰を与えようとするSNSの反応も多いしな
本来潔さが美徳の国民が無責任な行動をとってしまうのは、こういうバランス感覚を持って適切な罰の重さを設定できないところにある
弁護士は正当な利益を擁護するためにいるということだそうだが、では利益が正当か否かの区別はなんなのか。
大量殺人のような死刑になり得る重大事件で犯行動機が死刑になりたいというものだったとしても、一般に弁護士は少なくとも死刑を回避するようなことを言うように努める。
これは死刑になるように便宜をはかるのは社会通念的にはあり得ないから正当な利益たりえないということだからなのか。一方でそもそも何が利益かというのは個々人の価値観で決まるべきものだから、死刑の要求といういかに普通人には理解し得ないものであってもそれを望むならそれがもたされることが正当な利益だと考えるべきで、弁護士の仕事はたとえば検察等のイエスマンに徹しより早く結審まで持ってくるように努めることにあるのではないかとも思う。同意傷害(ヤクザの指詰め等)は社会通念(公序良俗)上問題だから罪を問えるという説があるらしいが、対してこれはいわば同意死刑要求というものを弁護士が聞き入れるべきかという問題で、何か通底するもの感じる。
私は減刑とか無罪の要求というのはそれ自体は利益ではなく、利益につながり得る一手段でしかないと思う。
そもそも死刑になりたいから重大犯罪を起こすというのは拡大自殺の一種と捉えるべきで、そうであるならばやはり死ぬことが被告人の求めること=利益なのは明らかだろう。それは非社会的だから正当な利益とは言えないということなのか。しかしだからと言って被告人の意向にも反して心神喪失とか無期懲役を要求するのはあまりにも利益という概念を表面をなぞっただけのように形式的にしか見てなくて本末転倒な行為ではないのか。
弊家庭、11ヶ月
・半年くらいまではそもそも動かないから、授乳頻度と夜泣き、吐き戻しだけがしんどい、吐き戻しで窒息しないように気をつける
・ハイハイ、つかみ立ち、歩き回る様になるとまじでやばい、毎日がヒヤリハット
・とにかく転けて頭を打つ 床にタイルクッションを敷き詰める
・ガラスに全力で寄りかかる、強度的に不安なとこは表に厚めのアクリル板貼った
・ドアの付け根の隙間に指を入れる、ドアはきちんと閉めておく
・衣装ケースの引き戸を開けて指突っ込んで体重掛けて指詰めて怪我した、どうしたもんか検討中
◆その他
・一瞬で成長するので、グッズをあんまり気合い入れて揃えてもしょうがない、リサイクルショップで安く揃う
会社の生産性を下げる、どうしようも無いお荷物なのが50代だと判った。
こいつらの駄目な所挙げるとキリがないんだが、ありったけ書く。
・決断力が無い
・価値観のアップデートができておらず、悪しき風習や形式にだけ拘って生産性を絶対に上げさせない
・価値観を変えられないのでセクハラパワハラの自覚がない。取引先にも平気でクレームや無理難題を言う
・紙とハンコと手書きが大好きで、あらゆる電子化やシステム化を邪魔する
・自分が理解できない、付いてこれない事はとにかく批判して潰す
・ITリテラシーが絶望的に低く、これもやっぱり活用を妨げて全社の足を引っ張る
・信じ難いほど精神が幼く、機嫌で仕事をする。気に入らないことがあると口を利かないで無視するとかザラ。
・酒の席が何より大事で、クソみてえに程度の低い話しかできない
・デリカシーが無くて不潔。会社で爪を切ったり、指の皮だの爪だのを一日中弄って口で噛んだり、耳をほじったり、書類に触る前に指を舐めるな!指詰めて二度と社会復帰できないカタワにしてやろうかってのを毎日必死で我慢してるが明日にも耐えられずにやっちまうかもしれん。
文章を書くときの一人称は迷う。特にこの文章では迷う。一番間違いがないのはやっぱり「私」だろうと思う。その「私」が厄介だ。
前置きは早々に、とにかく本題に入りたい。あるゲームの話をしよう。「バンドやろうぜ!」というソーシャルゲームがある。今確かに。そしてこれからも。
バンドやろうぜ! (以下バンやろ)は配信開始して一年以上たつ。ピカピカの2年生だ。ここではゲーム自体知っている人向けにこういう人間が存在しているということを伝えたいのでゲームの詳細は割愛する。私とバンやろの出会いは去年のお正月で、ふとテレビを見てると流れてきたバンやろのCMから興味を持ち、黒沢ともよと梅原裕一郎の2人を見つけてアイドルマスターと言いながらダウンロードした。元々いたジャンルが百合だったこともあり、最初に選んだバンドはキュアキュアトロンだった。なんで百合で選んだのかの理由は単純で、普通に純女のバンドだと思ってたから。女と男が仲良くバンドかー女性向けは懐深いなあと思ってたら全員男だと知って驚いた。と同時に深く惚れ込んだ。男の娘が大好きだったから。それからバンドやろうぜをやり続けて、幾万の金を恒常SRにし、とても楽しい時間を過ごした。ソーシャルゲームとして満点の娯楽を提供してくれたと思う。しかし、バンやろが私の人生にもたらしたのはそれだけではなかった。
ここでクイズです。筆者の性別は何でしょう。ジェンダー論的な論議は置いておいて、男か女かという2択で答えると私の性別は男だ。文脈からもわかると思う。何でそんなこと言ってるんだと思われるかもしれない。こんなに回りくどく言うのには訳があって、それがつまりこの文章で言いたいことなので読み進めてもらいたい。もう更新終了のお知らせでかなりの衝撃を受けているのでまとまりのある文章書けるわけないしさっさと本題に入ろう。
バンやろを初めてバンやろ繋がりのツイッターフォロワーも何人ができた。その中でとても運命的な出会いをした人がいた。
その人は女性だ。もう本当に紛れもなく女の人で、きれいで、そして生物学的に男だった。キュアキュアトロンのように。不思議な雰囲気の人だというのが第一印象だったと思う。相手がこちらに興味を持ってくれて、交流するようになった。
誰でも今の姿で生まれてくるわけがない。いわんや男の娘や。数え切れないほどの変化を経験してきたのだ。色々な話を聞くにつれ、私の中にひとつの欲望が芽生えた。
「人はこんなにも変われるんだ。フィクションじゃなくても。自分もこう変われたら」
キュアキュアトロンのように変われるのかもしれない。変わりたいという気持ちがだんだんと大きくなった。
んで、ここで私はこんなに変わりましたーみたいな素敵なサクセスストーリーでオチがついたら最高だったんだけれどね。うん、まあ。せいぜいが多少肌質が良くなったり服の趣味が変わりつつあるくらいですよね。なんと間が悪い。
まあ今はこんなしょうもない感じなんですが。ソーシャルゲームが確かに一人の人間の人格に影響を与えたし人生に寄り添い続けるし、そういうやばいコンテンツが確かに存在しているという事実をただ言いたかったのですよ。今はこれが精一杯。(まあもう少し色々整理してちゃんとした文章にしてバンやろ布教の一助になればとも思うので加筆修正してちゃんと公開したい)。
PS:最近ログインできてないし2部終わってから一気見するかーとか舐めた態度とって本当にすみませんでした。指詰めます。