はてなキーワード: もののけ姫とは
可哀そうに あなたはなぜ そんなにもひもじく飢えているの?
何かと思えば…妾がひもじい?飢えている?
「ええ あなたは飢えている」
いくら食べてもいくら手に入れてもいくら上りつめても満たされない
可哀そうに 哀れだわ 本当は何が欲しかったの? 何を恐れているの?
足りていると感じることさえできたなら 別の未来もあったでしょうに
(中略)
鬼は何者にもなれるが何者でもない
飢えが怖い 退化が怖ろしい
長く生きてさえたまにわからなくなる
殺し続けていた
私の中で 私の命を
三百四二万四千八百六十七 一匹以外は 全員殺して殺し尽くしてきた
もう私はここにいる
もう私はどこにもにいるし どこにでもいれる
だからここにいる
私にはね インテグラ
ひどく哀れな 哀れな弱々しく泣き伏せる童に見える」
「おまえはおれだ!!」
「お ま え は お れ だ !!」
「おれもこの通りの有様だった 俺もこの通りの様だったんだ!!」
「カッ カハ… カハッ… カハ…ッ カハハ…ッ カハッ」
「鬼が泣くなよ 童に追われたか」
鬼が泣くな 泣きたくないから鬼になったのだろう
人は泣いて涙が枯れて果てるから
鬼になり化け物に成り果て 成って果てるのだ
ならば笑え 傲岸に不遜に笑え いつもの様に
哀れなお前はいつまで生きねばならぬ?
なに 直ぐだ 宿敵よ いずれ地獄で
きっと吸血鬼になれば素晴らしいのだろう
だが私はそれはできない それだけはけっして
不死は素晴らしい 能力は眩しい
失 せ ろ !!
俺の心も魂も命も 俺だけのものだ
何と素晴らしい それはきっと素晴らしいのだろう
きっとそれは歓喜に違いない
だが冗談じゃない 真 っ 平 御 免 だ ね
私は私だ
私は私だ
私は私だ!!
うらやましいね
眩しい 美しい
だからこそお前は私の敵だ 敵に値する
遂に私は宿敵を見つけたぞ
私の戦争の
そして我々はそのための準備を営々とはじめた
50年かけて
私は永遠が何かを知っている
「これきりなのね…………」
「いや そうじゃない」
「この瞬間は永遠なんだ」
やろうと思えば刑務所くらい俺も出られる。
ただ俺は今たいした不自由を感じちゃいないんでね。外出する必要もない
さ、戻ろうや所長。バカバカしい…
なんて不自由な男だい
あの虫は我我巨大で頭のいい人間にところかまわず攻撃を仕掛けて 戦いを挑んでくるなあ!
巨大な敵に立ち向かうノミ…これは『勇気』と呼べるだろうかねェ
「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
タイトルと引用だけで9割が伝わる人もいるだろうから、これ以後はもはや蛇足である
冒頭で引用した、鬼の女王レグラヴァリマのとの会話が印象的だった
餓鬼は、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる
鑊身:私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
誰が地獄を作るか、それはまさに仏教的な意味での「縁起」や「十二因縁」である
人は足るを知らなければならない
人を知る者は智、自ら知る者は明なり
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り
その所を失わざる者は久し
死して而も亡びざる者は寿し
――老子
逆説的というか、皮肉にもというか
「欲しい」と思い込んでいるものを求め、望み、手に入れれば入れるほどそこから遠くなっていく
詳しい解説は松本俊彦の著書でも引用すれば良いが、そうなのである
そも、依存を引き起こすのは何か、何を求めてそれだけの執着になるか
冒頭で引用したセリフにあるように、「何を求めているのか」が掏り替わっているのだ
掏り替わり続け、世界と擦れ違い続けた結果、その主体者の主観的世界は地獄に生まれ変わる
潔癖症の人間が、自らの認識作用を総動員してその主観的世界を汚物で席巻するように
それは、人間というシステムが原理的に持ち得てしまうある種のエラーである
その救いとして、この世界では「自分の意思」というものを一つの解答とすることが多い
恐怖や不安を直視し、良いものも悪い物も等しく自分の中に置き、「曇りなき眼」で見続ける
倒すことはできない、消すこともできない、「ただそこに在るだけ」をそのままにしておくこと
ACTは従来型のCBTと異なり、クライアントに自分自身の思考や感情、感覚、記憶など私的出来事のよりよいコントロール方法を教えるということはしない。むしろ、ACTでクライアントに教示されるのは、「ただ気づいていること」、受容すること、私的出来事を思ったままにすることである。特に、自らにとって望ましくない事柄についてそうすることが求められる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?
森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ!人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前にサンを救えるか!?
分からぬ……だが共に生きることはできる!
フハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?
違う!それでは憎しみを増やすだけだ!
ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものにしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。
劇場版ポケットモンスターセレビィ(2001)を今更みました。
セレビィがどうとか言う前に、ジブリの〇〇に似てるなあと思ってしまう自分にがっかりしました。
セレビィの森に入ってく古道のような古木のトンネルは千と千尋の神隠しのトンネルに見えるし
命の湖はシシガミの森の湖はに見えるし
傷ついたセレビィを癒す金色の光は風の谷のナウシカで王蟲がナウシカを癒すシーンに見えるし
ロケット団の悪役がセレビィを操り攻撃させるときの動作とセリフはクシャナが巨神兵に「薙ぎ払え」と言っているシーンに見えるし
セレビィがツルに絡まって苦しんでいるのはラピュタの飛行石を守る木の根に見えるし
私は既に知っている作品の似たシーンを思い出し、「このシーンに似ているなあ」と思ってしまう
食肉とは違うけど「人間の権利と動物の権利」についてはこのドキュメンタリー映画を見て欲しい
https://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/1999/371.html
特に、重い筋ジストロフィー患者の方に「あなたの治療の為にたくさんの罪もない動物の命が犠牲になっているがどう考えるか?」とインタビューするくだりなどは人間の生き方そのものについてよく考えさせられる
その後でもののけ姫のたたら場にいた寝たきりお爺さんの命乞いを見ると、自分の死に方をどうするのかと考えがまた深まった
人間が人間の社会の維持の為に必要な犠牲を動物に強いている例は食肉に限らず数多あり、おそらく食肉を是とする人たちも命そのものを軽視してない「ありがとう」とたまに感謝しながら食事をとって生きてる
そういう社会状況の中で菜食主義の人達がいわゆる「普通の人達」の価値観をあえて攻撃するので、防御反応が強くでてしまう。彼らから人に対する思いやりを感じないからこそ反撃してしまうんじゃないかな
ガチ恋勢はファンですらない───とまでいってしまうのは厳しすぎるしアイドルでも芸能人でもお水のお姉さんでも何でもいいけど、応援活動を続けているうちに"本物"の恋愛感情に至ってしまうことってあると思うしそれは生理的な現象だ。
私見だがファンを定義するなら応援活動をしている人のこと。さらに補足すると外に開いた応援活動をしている人のことだと思ってる。「ファン」とは言葉の意味では「好きだ」という意識だけでも成立するみたいだけど、例えばお金を落とすだとか素晴らしさを発信するとか外に開いた応援でなければ推しに対して意味がないというか還元されないと思う。在宅や自己満足で完結していることが悪とは言わないが、推しの活躍や幸せを望むのならどれだけ間接的にせよ何らかの形で世界に対して発信していくべきだ。いつまでもいると思うな親と推し。好きを発信してけ。
だけど───ガチ恋イキリだけはするんじゃねえ。
そもそも芸能人など特別なカテゴリ内にいる人とそれを囲む人たちの接点はその人の"活動"を通してでしか得られないものだ。"仕事"といった方が分かりやすいかもしれないがそれは絶望的な言葉の響きだな。
例えばSNS上や接近イベント等においてそういう距離感を超えた領域でのやり取りや、私信を与えられてしまったと勘違いしてしまった時にこそガチ恋に"至って"しまうのだと思うけど、それはどうしようもなく"活動"の一環に過ぎない、システムの一環に過ぎない。推しが一ファンに対して"本物"の愛を与えてくれたとしてもそれはファンとしてのあなたに対するものなので、それを享受する限りあなたはファンの領域から脱することは出来ない。
芸能人がファンに対して私人としてのやりとりをすることは前提としてあり得ないにも関わらず、個人的な私信に躍起になってしまったファンの応援活動は破綻していく。ガチ恋が行き着くのは推しが売れること・人気者になることよりも自分だけのものになることに固執することに他ならない。自己顕示欲に溺れていく君は推しにとってどんな存在だ?
ガチ恋自体が駄目なわけじゃないしそれは生理現象だと冒頭で書いた。要は周りの人や本人にまで届く勢いでガチ恋をイキることが醜悪な自己陶酔であり呪詛なのだ。もっと対象を広めて言うと、コンテンツ等に対して自分の好き度合いや知識量・愛の重さでマウントをとりたがる奴らはもれなくガチ恋同様の危うさを兼ね備えているよ。
ガチ恋をそっと胸の内に秘めさせたり身内でちょっとふざけてイキるくらいは人生の彩りになると思うけど、その重さを本人や周りの人間に押し付けイキり散らすようになったらそれはもう呪いだ。相手の気持ちより自己の気持ちを優先する自己陶酔だ。推しが羽ばたいていくことより重さで縛り付けることを選ぶのか。冒頭で述べた応援活動とは対極的な内に閉じていく活動だ。
ガチ恋を豪語しイキっているお前が好きなのは例えば"アイドル"であってもその人そのもではない。アイドルを愛したつもりになっているのかもしれないがその人自身を愛する以前にその人そのものを目にする機会すら存在しないのだ。そういう奴こそ推しの全てが好き、全てを受け入れられるとか抜かすのだろけどそんなものは人間の営みではない。神か??いやいやいやいやまてまてまてまて控えめに言ってウンコだ、聖母マリアの乳でもしゃぶってろ。まず人間になるところからはじめよう。猿は人間になり文明を発展させてからはじめて偶像を崇拝するのだ。
ガチ恋オタクが他界する時の呪詛の言葉は「裏切られた、理想と違った」だ。
理想と違う所があった?当たり前だそれが人間だ、それが人生だ、お前が好きだったのは理想の偶像でしかなくはじめから人間など見てはいなかった、理想を抱いて溺死しろ。
そんなガチ恋呪詛イキりのオタクが日々生まれタタリ神に落ちる現実が恐い。黙れ小僧、お前に人を愛せるか。人を愛せないお前が主人公になれるわけないだろ。「もののけ姫」でいう遠くから石を投げてるだけの猩々(チンパンみたいなヤツ)ポジションだ。ファンなら慎ましく推しを輝かせ、導け。俺たちはこだまだ。サンがどれだけ魅力的で可愛くても俺たちはアシタカにはなれない。自分が100分の1、10000000万分の1の存在であることを認めろ。スクリーン越しの映像から自分の手元に視線を戻さない限り自分の物語ははじまらねぇぞ。将棋指してる場合じゃねえ。
推しが結婚した時はファン一同でおめでとうを伝えればいいと思う、そしてそっと泣くべきなんだ。個人名義では出したくないな、その重さは呪いになる。
実家には真っ白で中型の犬がいるんだけど、実家に戻って「散歩に行くぞ!」と犬にリードをつけを引っ張るところから始まる。
自分の夢はカラーで、桜が綺麗に咲いた地元をいつものコースで犬と散歩していく。
いつも同じところをウロウロしたり、立ち止まって草で遊び始めるのだが、なんというか、別のコースにいきたがる。
「こら!そっちは危ないぞ!」と引っ張ると、いつもはちょっと抵抗するのだが、体を大きくして威圧してくるだけ。
散歩コースも終盤に差し掛かり、別のコースに行くのを阻止する度、犬はもののけ姫に出てくる山犬(モロの子)ぐらいの大きさになっていた。
家につくと、案の定大きすぎて家に入れないので「こら!小さくなりなさい!」と叱る。
すると、小さく元のサイズに戻ったので「ただいま」と家にはいると、家の中から犬が嬉しそうに近寄ってくる。
「あれ?俺が連れているこの子は?」と見ると、真っ白な猫になって犬に向かって「ニャーニャー」と鳴いていた。
犬は困惑して家の戻っていく。
俺な猫を一度外に連れていき「野良猫かな?」と思って庭に水をまくホースで体を洗ってやると、また犬のような姿になる。
あらかたきれいになったかなと家の中にあげてやると猫の姿に戻る。
犬と猫のお腹をなでている所で母親が来て「猫拾っても飼うのは外やで」といわれたので外に連れて行ったところで目が覚めた。
寝起き後は「猫って外飼できるんか?」ってずっと思ってたけど、