はてなキーワード: 封建制度とは
村社会息苦しい
民主主義、国民の基本的人権を堂々と否定する連中が一番大きな顔をしている。
生まれた家で職業も住む場所も結婚できるか出来ないかその相手も金持ちも貧乏も全部決まり、東南アジアから奴隷を輸入して日本人より安い賃金で働かせ続け、お上が右だと言えば全員右を向き、違うというやつがいれば村八分にされ、お上が殺せと言えば殺し、死ねと言えば死ぬ。成り上がったものは成り上がったからと言う理由で叩かれるし、本質的に称賛されるのは家柄や才能とかもって生まれたものばっかり。
だから、偉い連中は、建前としてだけ残っている日本国憲法やそれにのっとった各種法律の存在が忌々しくてたまらないんだよ。
こんな国滅びろよ
と
の話題を扱ってた。
一般人と何が違うの?
なんで報道すんの?
理由があるとすれば、生まれついた血筋とか家柄がすげえからなんだろ?
(ご本人たちには何の落ち度もないし、むしろクソなマスコミのせいで迷惑被って同情するわ)
そして若い飛び込み選手。ご両親もご祖父母も飛び込み選手だったというのがすごい。
しかもご祖父母の飛び込み映像と本人の飛び込み映像を比べると本人の方が洗練されているのが飛び込み競技なんか全然知らない俺でもわかった。さすが三代に渡って技を磨いただけのことはある。本当にすばらしいと思った。久々に感動した。こんな素晴らしい飛び込みが見れるならメダルなんかどうでもいいと思った。
だけどだよ? レポーターやスタジオが殊更に強調したのはやっぱり血筋だ。
血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統血筋家柄血統。。。
日本ってなんでそんなに家柄とか血筋とか生まれついたものばっかりヨイショして枠にはめ込もうとするわけ?
未だに江戸時代かよ?
漫画とか小説も主人公が優良な血統、裕福な家柄、みたいの多くてマジむかつくわ。
もしかして、テレビ関係がそういう血筋とか家柄で社員を採用してるのが普通だからなの?
なんなの一体?
そうやって、生まれつきの要素でばっかり人の生き方を規定して、いい家のやつは子孫もずっといい家でクソみたいな家は子孫もずっとクソみたいな家でってそんな国がいいわけ?
なんで日本人ってそんな封建制度みたいのが好きな奴ばっかなの?
最近ネットで香ばしい発言をして炎上している人たちって、大した業績もないのに社会のメインストリームにいつのまにか居座っていて、なんでかと思ったら親が政治家だったとか官僚だったとか、そんなのばかりじゃない
パワーエリートは周囲の忖度によって、本人の実力に関係なく作られるというか
この、どんなに頑張っても結局はそうなのね、こういうしょうもないのだけが表に出てきて、社会が劣化していくのね、というこの途上国的な感じ、これが結局多くの人のモチベーションをくじいていると思うんだけど、ほんとにどうしようもないのだろうか
福沢諭吉が「門閥制度は親の敵でござる」と言っていた頃からほんとに何一つ変わっていないような気がするんだが、どうしてこの国はどこまで行っても封建制度なんだろう
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
安倍以来、激鬱で生活行動すらまともにやれていないので、ましてや書くことも辛くて、思考はいくらでも自動的に出てくるのだが書けないという日々が続いている。だから、論理的にちゃんとしたことを書く気力がないので、跳躍的に短絡に書く。
近年の現象は、既得権益者の逆ギレと、社会の既成構造に馴れ合う人々のパラサイトで生まれている。そうやって、プーチンも安倍もトランプも生み出されている。
自然界の多くは、普段は役に立たない日和見でできている。人体の細胞のかなりの割合は、役に立っていない。人体に棲む細菌の大多数は日和見菌であり、「勝ち馬に乗ろう」とする。生きていくためには多少のことは辛抱するというそこそこ恵まれた人間が、人数としては多い。こいつらは日和見である。
残念ながら、弱くて卑怯な奴は日和見をするし、組織の論理で行動する。自分の命が惜しかったり、部下や親類や友人のしがらみの社会では、日和見で行動する。本当に正しく善い人でいるためには、ときには人間関係を絶たねばならない。だから、友達(笑)である。妻や恋愛や友情なんかでは、保身のエゴイスティックな行動を取るという生存欲求という意味で強くなれるだけであり、そこには正も善もない。あるのは、人間社会の利己主義に基づいた正義だ。そういう意味で「強い」のであって、正しいかどうかは別の問題だ。
既得権益者は、贅沢な地位を民主党政権時代に抑制され、被害妄想に陥った。恵まれた身分を奪われたら、「差別されている」とすら思い違いもする。もはやコントか漫才かのような笑い話だが、困ったことにフィクションではないから困る(笑)。例えば、このオッサン社会なのに、男が差別されるようになったとすら思い込んでいたりする(笑)。所得があって恵まれているのに、俺のカネを無駄遣いするなと言って税金をケチらせようとし、社会保障費は貧困者に負担させようとする。
ちょ、おま(笑 である。面倒くさいからその一言だけでもいいと思う(笑)
けど実害が甚大だから困る。物凄く困る
社会の既成構造、政体があって、そのなかで権力・権利をもっている階級身分っていうのが未だにある。封建。カースト制のようなものだ。そうして、そのカーストに基づいて人生を過ごしている人間には、その身分に基づいて生きたがるのも居る。沢山居る。世襲の政治家のイエというのは贅沢な身分でもあるが、ときには針のむしろであり、人生の牢獄である。けれどもおそらくは多くの人から羨ましがられている。
同様に人生の牢獄だが羨ましがられるとは限らないものに、夫にパラサイトする女という「孟母三遷」的な封建的人生をえらびたがる人々がある。男尊女卑で差別されているのは明白なのにもかかわらず、男にパラサイトして人生を終えたがる人というのは残念ながらかなり多い。そして実際、ひとりのちからではこの社会構造を変えることはおよそ不可能にみえるし、異論の声を上げるだけでも既成社会で生きていくにはデメリットでもあり、そしてついには、既成社会に適応して疑うどころか心底賛同するという社会適格者化すら起こる。
残念ながら、とにかく実際、女に生まれたら、結婚しないで生きていくのは困難な社会であろう。
男が外でカネ稼いで、女がそのサポートをするという、そういう武家社会かなんかの慣習が拡大再生産され相続されて、今に至っていて、未だにある。
「保守」というのは、「古来を守っている」のではない。決して、ない。単に、既成構造を死守しているということ。奴らの言う「古来」は、既成事実と封建制度。この封建制度ってのも、たかだか中近世のもので、古くはない。古来の古代のものではない。ときに儒教封建であったり。カトリック教会封建であったりするかもしれないが、そういうカースト的社会構造。そして、そうした構造の奴隷にわざわざなりたがる人はかなり多いってこと。たとえば、解放をいやがる奴隷だって沢山いたくらいだし。おそらく今でもインドに行けば、客が自らセルフサービスでやったら、俺の仕事奪ってくれるなと言うカーストの下層者が残っているだろうと思う。
男の中身は、虚栄心とエロ心しかないんだろうか。男は、隠しきれないほどの競争心=一番でありたいという欲望と、いかに女を獲得するかという欲望しか持たない。要は自己中心的で、他者への思いやりや気づかいなど本心では持ち得ない。その救いようのないエゴイズム、そしてそれを隠そうとする姑息なやり口。ゲームに勝つためだけに駆動する、サバイバル本能しかないエゴイステッィクな動物だから、女を出し抜いて、これまで歴史を、社会を占有してきた。女を貶め、あるいは利用して自らが優位に立つことだけが重要で、そうしたシステムを作るためにあらゆる詭弁、こじつけをこさえてきた。封建制度なんぞクソくらえ。単に男のご都合主義で作り出した制度にすぎない。男の作り上げた道徳、社会認識にさんざんぱら振り回され、苦しめられてきた女たちに、いっぺんの思いを馳せたことはお在りか。結婚しなければならない、子供を産まなければならないなどと、誰が決めたのか。結婚すればセックスがいつでも得られて、己の子孫となる子供を産ませれば女=母親にその世話をすべて押し付ける。欲望は拍車がかかるものだから、妻に飽きれば外でより若い女と浮気する。浮気は男の甲斐性、とはどれほどのご都合主義か。男は自分の欲望を満たすためなら、どんな虚言も欺瞞も厭わない。いかなる感情操作も試みる。
そういうのが「男」のスタンダードなら、オタクの男はむしろそうした闘争心の薄さや、女を獲得する行動に出ないだけ、実害が少ないともいえる。ヴァーチャルで事足りさせる辺りも自己充足していて、むしろ害を自らに向けるオートマトンと化している。しかしいっぽうで、現実の女一般に対してはルサンチマンを抱えている。ミソジニーを強め、ますます現実の接触から遠ざかろうとする。それは単に、本来持つ競争心や性的欲望を現実に行動して解消できない欲求不満が、女への憎悪へと反転してしまったのか。彼らは妄想を強めるばかりで、彼らの苦しみもまた解決しない。ともあれ、オタク男が忌むべきはリア充男であって、女ではない。リア充こそ社会的利権を一挙に掌握しながら、その暴挙によって苦しむ者がいることに気付きもしないのだから。
指導者や官僚機構に関して言えば、資本主義でも共産主義でもその選別方法が違うだけで機構に大きな違いがあるわけではない。
あるいみ凡人が率いる資本主義より、スティーブ・ジョブズが率いる共産主義のほうがイノベーションは起きるだろう。
資本主義というのは、指導者の選別方法が共産主義と違うだけ。(イノベーションで見た場合)
たとえ資本主義でも、日本がやっているみたいに国が資本を特定個人(企業)に注入するという方式では実質共産主義と変わらない。
指導者の選別を、市場に任せず 世襲制や国が選んでる段階で共産主義と早々大差はないし、日本が社会主義と言われる一要因だし
アメリカでも何でも富が偏在してしまい、世襲制による影響のほうが自由経済より強くなってしまえば資本主義でも実質的な封建制度に立ち戻る。
いや、まさに、アメリカ政府が誤った判断をした時はまずは
というのは、正しい見解だと思うぞ。
その理論は 論理的に合法的に選挙によってアメリカを制御する事が大前提であるという、アメリカの大前提が抜けている。
当然 アメリカ国民がアメリカ政府に対して武力を行使していいというのは、あらゆる理性的な手段を行使したあとに、それでも、アメリカ政府が誤っていると、全アメリカ国民が判断するなら武力を持ってでも抵抗する。
というのが、アメリカの考え方だろ?
たとえば、言い方を変えれば。政府が国民の権利を停止し、議会を停止し、独裁体制を宣言した場合、国民はどうすればいいんだ?という議論と同じだ。
議会が停止されない限り、国民は議会を通じて政府と対話するのが、法治国家の常道だ。
ただし、政府が国民の権利を停止し、議会を停止し、独裁体制を宣言した場合、つまり、先に国家が国民に対して武力を行使した場合はこの限りではないといっているのだが?
それに これは、あくまでもディベートであり、例だ。本論は 日本が封建制度かどうかなのだから、日本が封建制度ではないと論述してくれ。
アメリカに対して銃社会どうのこうのというやつはいない。増田が言ったから反論したに過ぎぬ。それは議論がそれすぎる。
いじめを根絶することは非常に困難。少なくとも今まさにいじめられている自分が恩恵を受けるということはない。しかし、未来永劫というわけではない、人を介して媒介されるのが病原菌なら社会(共同体)を介して媒介されるのがいじめ。天然痘は撲滅された。
いじめは、食物連鎖、封建制度、カースト制度ではない。システムから抜け出すことは可能。当事者(いじめる側、られる側)・調停者(先生や親)・傍観者(大多数の他人、クラスメイト)という3者の関係が有ることを理解する。
勉強はできたらやったほうがよいが、無理には必要ない(学業という重みからの開放)。何でもいいからやれることをみつけることが大切(現実逃避手段やストレス解消手段になる)
いじめをうけたらやり返さない→権威を利用するときに効果が現れる!(相手に手を出させる、証拠をつかむくらいの狡猾さが必要)写真に収めたり、スマホなどで録画、録音も有効
なるべくオプティミズムを保つ→いじめとか誰でもできる経験じゃない。物事を前向きに考えるようにすることは重要(皮肉屋になっても良い)
人間関係:生徒との関係より、教師との関係を優先すること
弱いものがいたらいじめたくなるのは人間性から切り離せない。加害者個人だけの問題だと思いつめない
あまり被害者面をしない(しても良いが、時と場所を選ぶこと、人としての尊厳は保つこと)
あまり「いじめられている自分」を意識し過ぎない→挙動が不審になりやすくなり、逆効果(進んで餌になりに行くようなもの)
弱者のステータスを上手く利用することを考える(やりすぎは禁物、信用をなくす。あくまで交渉のためのカード、ブラフとして用いる)
自殺というカードはある意味いつでも切れる一方で、挽回の機会を永遠に失うことになる(リスカなどの未遂行為は禁止)。だから他の手を尽くしてみるのが先
更生するにはいろいろとカネがかかる→保険と同じで事前に対策するのは無駄ではない
いじめに関する精神的なケアを両親に期待しない→事が終わった後の関係に差し支える(例えば将来親との間に揉め事が起こった時に、昔のことを持ち出されるといろいろ苦しい。良い関係を維持するのは難しくなる)
両親には学校との連絡や送迎、金銭が絡むことなどだけ頼る(立ち直るにはカネがかかる、そうなってからでは遅い、普段から子どもとのコミュニケーションはしっかり取る、それで必ず防げるわけでもないが)
いじめを傍観するという行為を責めることはできない(積極的にいじめに介入するには誰にでもできることじゃない。同時に、このレトリックは多数派である傍観者を敵に回さないためにも有効)
言葉を大切にするという姿勢をもつ。口汚い言葉を浴びせられてこそわかることである
いじめられる側にも、問題があるというのは認めにくいが一理ある(僕は何もしてないのに〜はたしかに事実だが、それといじめられることにはあまり関係はない。独善に固執しないよう心がける)。
衣服は専門家の技術がなければ作れなかったし、軍事は有能な専門家である騎士や侍が必要であったし、政治も専門家の技能がなければ動かせなかった。
これが民主制度として移行し得た理由としては、
機械化による大量生産で、熟練工1人よりも素人10人の方がよっぽど服を作れるようになったこと、
ライフル銃の誕生で、職業軍人1人よりも素人を徴兵して10人並べた方がよほどに成果を出したこと、
公教育の充実で、王や貴族が少数いるよりも平民が多数で議論した方が成果を出せるようになったこと、
これらが噛み合ったからこそ、少数の力を持つ人間よりも、普通の大多数の方がより有用となり、少数の専門家によって成り立っていた世界から、大多数の普通の人によって成り立つ世界になった。
徴兵された兵は役に立たず長い年月訓練を積んだ軍人が必要となっているし、
ただ働けるだけの人間は奴隷のように使われ、人より優れた熟練工や才能のある人間以外はまともな生活は出来ない、
ヨーロッパ中世とはどんな時代だったのかを、独自性と一般性を交えて、絶妙なバランスでまとめている。
本書の主要な記述の中で、特に気になったところだけ簡単にメモ。
・封建制度が成立するまで
→ローマ帝国崩壊後、ゲルマンによるヨーロッパ治世は次々に短命に終わった。(東ゴート、フランク、西ゴート、ヴァンダル王国)。背景にはゲルマンが信仰するアリウス派とローマ人が信仰するカトリックという宗教面の対立があった。上手く国がまとまらないままに、9世紀頃からノルマン人の侵入が始まる→略奪による領土の荒廃→国防は機能せず、地場の権力者が城壁を作ってごく小さなテリトリーの防衛を行う→そこを中心に農民があつまり、商人があつまり、騎士が集まる。自治の中心が地場の領主にシフト(国王の形骸化)。
→ヨーロッパの騎士はドライな権力関係で主君とつながる。日本の武士は忠義で主君に仕える。従って「二君に仕えず」が絶対だった日本とちがって、ヨーロッパは一人の騎士が複数の主君と契約を交わすのはざらだった。戦争の時でも、ヨーロッパの騎士は「●日間まで出陣する」と契約書に書いていれば、たとえ戦闘は継続していても、途中で帰ってしまった。
→地中海商業は破壊されずに維持された。一方で、話し言葉としてのラテン語は、人々にリテラシーを身につけるボトルネックとなった。
→皇帝の方が一段上。皇帝はキリスト教の神に認められた支配者。
「騎士道」の盛衰
→封建制の発達とともに、先頭の仕事が少なくなった兵士たちの間に生まれた。騎士が時代遅れになるのは、1400年頃の100年戦争期あたりから弓矢や大砲の技術が発達しすぎて、鎧の防御では間に合わなくなったためだ。彼らはぜいたくを美徳とした点において日本の「武士」とは違う。また、騎士は無学だった。文字が読める人間はほとんどいなかった。
「十字軍」の疑問。なんで、400年以上も前から取られてたエルサレムをとつぜん取り返そうとしたのか。
→背景にはヨーロッパ全土へのキリスト今日のて。土着の神々をキリスト教の「聖者」として吸収(例えば、サンタクロース)。
十字軍の帰結。
→封建領主に対する王権の強化。代わりに法王の権力は結局十字軍が失敗したことから凋落。
なぜその後イギリス、フランスがまとまってきたのに、ドイツはまとまらなかったのか。
→ドイツの皇帝は海外侵略に熱心で、内政をおろそかにしていたから(特に地中海遠征。たとえばフリードリヒ一世(1152-90)のシチリア遠征)
rna 人権 それなら自分の人権も疑ってからものを言えば? 試しに人権を放棄してみては。まずは私的所有権から!今すぐ全財産を赤十字に寄付するんだ!/まさか自分の平穏な日々が自分の実力で維持できてるなんて信じてないよね? 2009/11/14
なんと言う頭の悪さwww 人権なんてかけらもなかった時代から私的所有権も個人の財産もあったんだけど、そんなことすらこいつには分からないらしい。私的所有権を人権の中に統合するのはいいが、それは単にそうするべき都合があるからに過ぎない。「人権がなければほかの諸権利もない」なんて発想があるとすれば、それはなんの考察もなしに人権を思考の根拠とするものだ。そしてそれこそが元エントリにある「人権真理教」であり、「手近に転がっていた教義を自らの拠り所にすると、後はひたすら無自覚無批判にそれを絶対不可侵のものとして奉」るという態度なのだが。やれやれ、
こんなこと言ってもバカだから「なにをいいたいのかわからないだろうとは思うけど」さwww
letterdust 人権なんてかけらもない時代は、盗賊に対して封建領主の庇護があり、法律上は帝なり教会なりの土地であるという建前で成り立ってたのだと学校で習ったのだが。まさか封建制度に「私的所有権」があったとは。 2009/11/15
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091114035232
はあ…。では「封建領主」だの「帝なり教会なり」だの「封建制度」だのが成立する前はどうだったというのだろう。とうぜん「おれの肉」だの「おれの家」がのぐらいはあったと思うのだが、これは「私的所有」「私的財産」じゃないのか。
もちろんそこにあるのは今現在いう用語としてのそれぞれとぴったり同じわけではないが(なにせ制度が今日的に確立していない時点の話だからな)、それはできたての人権と今日の人権がぴったり同じものではない、というのと同様のことでしかない。人権がないとしたら全財産はどこかに寄付だ、とかいったことは全く言えないわけだから、「人権真理教」ぶりの指摘としては十分だ。「人権がなければほかの諸権利もない」のでは全くない。
しかし「人権なんてかけらもない時代」をなぜいきなり「封建制度」と直結させているのか。まさか「人権制度」か「封建制度」の二つしか存在し得ないとでも考えているのだろうか。だとすればこれもまた大した「人権真理教」ぶりではある。
スワト渓谷のタリバン壊滅作戦は政治基盤を弱め、原理主義を根付かせる
米国としては「こんな筈じゃなかった」と悔やむことしきりだろう。
パキスタンが無政府状態の混沌にある。ますます反米感情が激化している。核兵器の安全管理はむしろ危うくなった。ムシャラフ軍事独裁時代のほうが、核兵器は管理されており、国内にこれほどのテロリズムの嵐が吹き荒れることもなかった。
中国がパキスタンと半世紀にわたる「軍事同盟」を結んできた理由は地政学的に判断すれば、きわめて単純である。
インドとの間における絶対的な緩衝地帯であり、パキスタンもインドを敵視しており、軍事同盟の条件は揃っていた。中国と合弁の武器工場はパキスタン各地にあるが、戦車から戦闘機、機関銃まで量産している。
主として中国が援助したのだ。
中国のテコ入れは、両国にとっての共通の敵=インドをパキスタンが横腹から牽制し、もしインドが強ければ、代理に核兵器をぶっ放して呉れると結構とばかり、パキスタンに核兵器の技術も提供した。
美貌の女政治家、ブッドが首相をつとめていた時代のこと、核兵器開発を軍情報部が秘密に展開していた過程は首相にも知らされていなかった(ブッドが亡命先のロンドンで『TIME』とのインタビューで語ったことがある)。
まして現在のブッドの夫=ザルダリ大統領にも知らされていない。陸軍参謀長はカヤニだが、その実力は大変なものがあり、またシャリフ前首相とも天敵の関係。隙あらば暗殺される可能性がつねにあり、パキスタンの政治家は命がけである。
シャリフ元首相の再登場というシナリオも日々現実味を帯びてきている。
ならばパキスタン国民は悉くが「反米」「親中」かといえば、そういう単純で短絡的図解ではひどく誤解を招くだろう。
現地に行ってみるとよく分かるが、パキスタン人はかなりの程度、高潔である。そして狡猾・老獪である。昔も今も族長支配の封建政治がパキスタンを支配している。イスラム原理主義の猛威は、この封建制度のうえにこそ成り立つ。
むろんパキスタン人のなかには武器の密輸、麻薬に手を出す者もいれば犯罪者も多い。紛争が長引き、教育が遅れているため人々は道徳的に荒んでいる。
原因は貧困である。
貧困がアルカィーダの戦闘員を育てる。サウジアラビアやイエーメン、スーダンでなぜ、滅びたはずのアルカィーダが容易に息を吹き返しているのか。
繰り返すが、原因は貧困である。
実際にパキスタンやアフガニスタンでも、タリバンを支持する階層は三つにわかれ、!)指導層はイスラム原理主義だが、!)貧困による志願層(世直しを信じて志願兵になるから自爆テロはやりやすい)があり、そして!)タリバンが麻薬資金で得たカネで雇う傭兵である。
教育はイスラム教が牛耳っている。神学校は12500ケ所。タリバンは「神学生」の意味である。
実際にグアンタナモ基地(アフガンで捕獲した戦闘員をキューバの米軍基地へ連行)で尋問したアルカィーダ戦闘員容疑者のうちウィグル系の五人は、そのごアルバニアへ亡命を許されたが、まず傭兵といってよく、「良い働き口がある」と騙されて新彊ウィグル自治区からアフガンへ潜入したばかりだった。
パキスタンは同盟関係と武器援助最大のスポンサーでもある中国には、情け容赦なくウィグル系容疑者を引き渡したが、04年に引き渡した容疑者は中国ですぐさま処刑された。国際批判をもろともせず、パキスタンは09年にも七人を中国へ引き渡した(ワシントンタイムズ、4月24日付け)。
米国は普段の態度、原則と異なり、このことでパキスタンを咎めなかった。じつにいい加減である。
さてタリバンが猖獗する地域はパキスタンとアフガニスタンとの国境ばかりではない。
パキスタン政府の統治が及んでいない地区が多いが、西北部のスワト地区がとくにそうだった。同地区の38%が政府支配、残りの24%が武装勢力の支配下にある、とBBCが伝えた(09年5月14日)。
この地域はインドとの戦争のときにインドから逃れてきた難民が住み着いてきた。
ワジリスタン地区の南北も同様、人口密集のパンジャブ州(8200万人はパンジャブ州に暮らす)とて47%の住民は政府の遣り方に反対だという。
主流の部族はパシュトーン族、言語はウルドゥ語。ほかにインド系、タジク系、イラン系、ウズベク系など雑多な民族が混在、人口は一億七千万人!
そもそもパキスタン政府が国全体をおさめきれないのだ。部族中心主義のイスラム国家に於いてはアフガニスタン同様に西側民主主義なんていうのは、システムも発想も馬鹿の典型、部族長が決める政治である。
だからパキスタン軍はスワト地区に手を出さなかった。ザルダリ大統領は同地区に厳格なイスラム法の適用を認めるほどに妥協してきた。
まして軍情報部はタリバンのシンパが山のように潜入しているため、軍事機密情報が漏れる。攪乱情報や偽情報に振り回されるとパキスタン政府軍がタリバンに負ける恐れもある。
パキスタン政府のタリバン撲滅路線が曖昧さから強硬路線へと方針が180度変わったのは米国の変心による。
オバマ大統領は、5月6日にアフガニスタンのカルザイ大統領と、パキスタンのザルダリ大統領をホワイトハウスに呼んで会談した。会談内容は秘密だが、爾後漏れてきた情報は、核兵器の安全が米国の最大関心事ということだった。
つまりパキスタンが保有する60発から100発の核兵器がタリバンに奪取されるという空恐ろしき悪夢が現実のものになりつつあると言うのである。
これには前段がある。
ヒラリー・クリントン国務長官が議会証言で「パキスタンの核兵器隠匿場所は全土に拡大した恐れが強く、管理リスクが増大している。パキスタン政府が完璧に管理できないとなると、タリバンの手に渡らないとも限らない」(4月23日の議会証言)。
そしてヒラリーはこうも言った。
「われわれはイランの核をたいそう懸念しているが、イランはまだ核保有に至っていない。だがパキスタンは既に保有している」。
01年9月11日の同時テロ以降、米国はパキスタンに対して核兵器貯蔵場所の安全確保のために一億ドルを供与してきた。
それも水泡に帰す恐れがある。
幸いにしてザルダリ大統領はブッド元首相の夫君でもあり、欧米のウケがいい。
カルザイ(アフガニスタン大統領)は、米国あってこそ存在できる政治家であり、そのカブール政権の不正と腐敗に目をつむってくれる限りは米欧に協力するだろう。もともと米国の傀儡としてカブールに入り、しかもいまも依然としてカブールしか統治できない無能力政治家だが、タリバン退治には欠かせない人物である。
▲史上空前の難民が発生、こんな筈ではなかった
ザルダリは突如決めた。
タリバンが多く潜伏するとされたスワト渓谷への本格的攻撃を命じた。
パキスタン軍とて、2007-08年の戦闘で1400名の兵士が死亡、4000人が負傷している。
キラニ・パキスタン首相は「テロリストと武装勢力を壊滅させるまで闘う」と記者会見し、二月に合意したばかりの武装勢力との停戦合意を破棄した。
パキスタン軍の発表では爾来、1100名のタリバンを退治したという「成果」が声高に発表された。
大変な事態が付随しておきていた。
スワト渓谷の多くでは「水道が壊れ、電気がとまり、食糧が底を突き、猜疑心が交錯し、機関銃の乾いた音がそこら中に聞こえ、流れ弾でつぎつぎと住民が死んでいく。電話が通じなくなった。住民は着の身着のままで逃げ出す」(NYタイムズ、6月1日付け)。
難民は既に240万人、毎日8万5000人が難民となって周辺の集落からラホール、イスラマバード近郊の難民キャンプへ押し寄せた。すぐに食糧、医薬品不足に陥った。
西側の支援物資はとどかない、食糧支援は圧倒的に足りない。いや西側の援助団体がテロの対象となって警備が希薄なため、援助物資が届かない。
難民は暗闇の中で死の恐怖と闘っている。
「パキスタンのスワト地区で発生した難民の数もスピードは嘗てのカンボジア、スーダン、イラク、ルワンダのそれより早い」(英紙『インデペンダント』、5月31日付け)。
5月27日、ラホールで自爆テロ30名が死亡した。「パキスタンのタリバン運動」が犯行声明。この団体はブッド首相暗殺に関与したとされる。
にも関わらず5月31日にパキスタン軍情報部は「完全勝利」を宣言し、「ミンゴラを完全制圧した。治安回復はすぐだ」と豪語した。ミンゴラは武装勢力の拠点の都市である。
アルノー・ド・ボルシェグレーブは絶望的な近未来を語る。(アルノーは元NEWSWEEK編集長、アフガニスタンのロシア侵略を追求した国際的ジャーナリスト、作家)。
「神学校では毎年毎年二百万の若者が卒業する。パキスタンでは職がない。パキスタンは誰が敵か、誰が味方かも分別できない、戦争定義のない、戦争国家に陥った。タリバンは、かのロシアと闘ったムジャヒデンの子供たちである。ムジャヒデンは勇敢にロシア兵と闘い、そしてイランでは52人のアメリカ人を人質にとって米国大使館を444日間にわたって占拠した。パキスタンに猖獗するイスラム原理主義は同国政治の根幹をすでに奪胎している。イランがホメイニ革命前すでにイスラムの見えない統治があったように」(『ワシントン・タイムズ』、4月28日コラム)。