はてなキーワード: 混沌とは
広告業界人がどうであれ、佐々木俊尚さんは言論人としてはたいしたことはない、という一般人としての評価だけどね。
一般人というか「ITジャーナリスト」をみるギーク目線だね。彼が「キュレート」する元ネタ書いてる人らは知の巨人だけど、リーグが違う。
日本の偉大なキュレーターって誰がいるかな?まあ政治経済、安全保障の世界では、青山繁晴さんだろうな、間違いない。
しかし我が国のコメンテーター(佐々木さん含む)の「売れ方」っていうのも歪だね。
やっぱ強いのは、その道の実務をやっていた人で、政治経済のコメントでも元官僚の人らはさすがにいろいろ的確。
佐々木俊尚さんで言えば、あの人ITのキュレーターとして売ってるみたいだけど、その世界の実務経験がないのが徹底的に弱い。
キュレーションっていうのは、自分は空っぽだけど、情報収集はしていてパッケージングして商品化する能力はあるんですよ、って事じゃないんだよ。
元々その人がもってる知見のすごさに基づいて、混沌としてみえる世の各種事象を関連づけて、必要ならば新しい概念化さえしてまとめあげる事なの。
日本人が自己主張しないのは、和の美徳と相まって往々にして出る杭は打たれると云う悪習にもよる。
さっきの広告業界の人らと佐々木氏のやりとりでも思ったが、なんと自己主張のしにくいことよ。
僕なんかはさしてシガラミがない立場なので(もともとそういう方向性を指向してきた一方で社会的に無責任であると言い換えることもできる)
こうやってTwitterで好き放題言えるんだけど、ああやって社名を出してケンカするぞ!と恫喝するのは、そうやれば黙るという暗黙の了解があるからだろう。
佐々木さんはさ、言論人のつもりならば(僕はすでにTLで書いたようにまったくその専門性を評価していない)なんかやるならば言論でやれよ、って思う。
君がやってるのは、そういうシガラミで自己主張できないのを悪用した恫喝だろ?”
森さんが最後に書いておられるように、個人の見解と会社員としての見解は異なる。
言論の自由とは前者のことを指し、佐々木さんはそれをXX社のだれだれと会社員の属性を強調する形で、言論の自由を抑えこむ喧嘩の仕方をした
失礼なのはお互い様。その失礼を踏まえてドンパチやるんなら最後まで筋通せと。
それも含めて言論であって、「自分と相手の立場」を利用して黙らせようとするのは言論人として恥ずべきこと。
丸山をひっぱたきたいとか言ってた人
「言論でやれよ」っていっても、その言論に上げるまでもないわけですよ。失礼なメンション返してくる奴って。本当に上から目線で「お前バカか、ちげーよクソwww」程度しか書いてこないんだから。で、そういう人に応答してあげると、待ってましたとばかりに俺論理を振りかざす。時にはまっとうな人もいるけど、なら最初っからソレをちゃんと書いてこいよと。そんなに個人であることが重要なら、匿名のアカウント取って、それで対話を促せばよかったじゃん。個人情報が分かるアカウントでクソのようなツイートして謝るハメになったのは、完全に自爆でしょ。
だってこのまとめ見てたら、個人と個人の言論のぶつかり合いじゃなくて、
「立場があるから」「守るべきものがあるから」最後に頭を下げました、ってそういう風に見えるのは万人が追認するだろうし、
佐々木さんはそういうふうに持っていったよね?
「相手の社名や実名は判明すればどんどん暴露していくよ。」と晒し姿勢を明確にして
「こっちも容赦しないからね。自分の身に振りかぶってこないことを神に祈ってなよ。」
と言いながら「反論できないなら今後ずっと黙っててくれ」って何だろうこれ??
あくまで言論で反論できないんじゃなくて、佐々木さんが反論させないように立場を利用して、その口を封じたんだろう?
これやったら言論人として終わり。まあ僕は彼は最初からまったく評価していないけれど。
相手がうんざりして退いたら相手が退くように自分が仕向けたのだと言いはる人
「佐々木さんはそういうふうに持っていった」っていうのは「立場を言い訳に逃げるように仕向けられて」って意味じゃないんですか?
「立場を言い訳に逃げるように仕向けられて」なんてどこから見たらそうなるのかな?
「立場があるから謝らざるを得なかった」というのが普通でしょう。
逃げたのは言論のぶつかりあいで逃げたのではない。
そんな形跡はこのまとめのどこにあるんですか? 社名云々、恫喝されはじめて逃げざるを得なかったんでしょ?
そんなに個人であることが重要なら、匿名のアカウント取って、それで対話を促せばよかったじゃん。
個人情報が分かるアカウントでクソのようなツイートして謝るハメになったのは、完全に自爆でしょ。
だからこんな風に個人としての文責を取るという健全な言論を、会社員としての責任に転嫁させようとし、
挙げ句の果てに貴方のように「だったら匿名でいいじゃん」とか言わせる帰結が言論人として「腐ってる」んじゃないですかね?
「こっちも容赦しないからね。自分の身に振りかぶってこないことを神に祈ってなよ。」ってのは、普通恫喝として解釈されるが、
「立場を言い訳に逃げるように仕向ける」的に逃げ道用意してあげる、みたいな親切心だ、ってことですか?意味分かんないな。
街角で突然挑発してくるチンピラに構わないことを「腐ってる」というなら、腐っている方が正しいですよね。そんな暇ないし
だから、佐々木俊尚が相手の個人情報が丸見えだったから、それを使って恫喝して勝ったんでしょ。
広告業界の人はヘタレ逃げしたんでしょ。佐々木俊尚は正しいし、広告業界の人は情けない姿を晒した。
ソレの何が不満なんですかね? いいじゃないですかそれで。
私もサラリーマンだから、佐々木俊尚さんのいわば反則技に対してまともに戦えと言う気にはなれない。
佐々木さんも、孫さん以外で、まともな対戦してないわけだし、実力がよくわかりません。そろそろちゃんとガチンコで喧嘩してほしいな。
ちょっとどこかに書きたくなったので書く。
春にまどかマギカ見て、こんな面白いアニメ今後しばらく無いだろうなと思っていたら、
そういう話になっちゃうのねと思いつつも、ピンドラの20話以降が面白かった。
まどマギが一般解目指して枝葉を切り捨てて概念化していったとすれば、
ピンドラはその枝葉に焦点を当てた結果混沌としているって感じで色々と意味不明なんだけど、
これは選択を運命とみなす話なんやろか?とか冠葉にはぜひ刑務所に行っていただきたいとか
思いながら見ていたら…
最近ムギとか杏子とか、それ以外にも色々と食べ物を分けるキャラクターが流行みたいに
思うけれど、あれはどこから出てきたんだろうか?
混沌に名前を付けて"あちら"と"こちら"を分けるのが文明の方向性だ
しかしそれには終わりがない
「然し、真理といふものは実在しない。
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です」 坂口安吾 余はベンメイすより
極限まで分化が進んだ世界は、未分化の世界と区別できないだろう
細かく分けられた世界の構成要素とその連関を全て把握できないのであれば
さて、主題に戻ろう
潔癖性とは、未分化に耐えられない状態だろう
ここでいう潔癖性とは一般的な意味でなく、自らが持つ理論や信条・信念を最も大切にするという傾向だ
例えば、婚前交渉は無くなるべきだという信念を持つ者は、それに反対するすべてを否定することで、自らの信念を大切にするだろう
このような潔癖性においては、自らの信念に反対するものは消されるべきものだろう
人間の主観で分かつものは、分かつ基準そのものに正確性を欠き、必ず矛盾をはらんだ中立・混在を作る
つまり、ある定義をした時にその定義で定義しきれない部分が生じるのだ
「αを持つものをAとし、βを持つものをBとする」として、αとβの両方をもつ、もしくはどちらも持たない存在が生じる
しかし、それには終わりがない
そして、その「終わりがない」という事に絶望しやすいのが潔癖性だ
普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか - nanapi Web
真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
他の記事もひと通り読んだので長くなるが思ったことを。
久々に様々な意見が読めて、数年前までのはてなのようで楽しかったから、感謝として。
「わたし、写真が大好きだと思われてるんですが、嫌いですね。撮るのも、撮られるのも」
写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。それでもGoogle+に写真をアップし続けているのは、「就活のため」だ。
大学3年生になり、就職活動を始めたが、「就活でしゃべれることがないんです。好きなこととか、何もなくて。何も好きじゃないし、何もできないから、流行ってることとか、これから“来そう”なことをやろうと。目標に向かって努力した経験や、自己PRが求められた時、なにか印象に残ることが言えたら」。
「恐怖感」という言葉で感じ取り、理解した者もいたことだろうと思う。自分になにもないような気がして焦燥感に焼かれるような時期のことを覚えている者なら。
彼女は賢い女性だ。自己分析も、目標設定の仕方も。早稲田という学歴を手にしたのはなんら不思議なことではないと思う。「意志が弱い」のに「恐怖感」で毎日朝3時50分に起床できる。これだけでも「普通」じゃない。褒められていい。好きでもなく、むしろ嫌いなことのため。けれど、将来に向けて役立つものを作るため。長所で点を稼ぐことでは行けない場所に彼女はいるのだろう。弱点を克服してこそ立つことができる場所に。
そして、就活を目前に控えても彼女はその方法論を用いて不器用に「これから“来そう”なこと」を選んだのかもしれないと感じた。この選択に自尊感情の低さを読み取ったとしても、病的と謗るのはどうだろう?彼女は自分と自分の人生に果敢に向かい合っている。安易に楽を選ぶような人ではないようだ。きっと彼女のいる場所では自分と同程度に出来がいいだけでは評価されないのだろう。だからこその課題解決と弱点克服。お前は何者だ。その問いにも、その答えにもおそらく彼女は気がついている。
彼女は結果を出した。Google+とInstagramということを差し引いても称えられていいのではないだろうか。確かにそれは誰にもできそうな話だ。お手軽で浅薄にも思える。パソコンとiPhoneがあればできる。インターネットは「自分だって」という幻想をもたらすツールだ。ユーザが少ないから、顔が綺麗だったから、学歴があったからということは自分も思った。嗚呼、またカモネギか、と。けれど、そういう一面もあったとしても彼女の努力は称えられていい。それがどんなやり方であろうとも自らに欠けているものを獲得しようとしている者の痛ましい努力を。壊れたiPhoneに感じるものはないだろうか?もしかしたら、壊れていたのは彼女だったのかもしれないとさえ自分には思えた。
事実、元記事にはこうも書いてある。
「1日1枚はInstagramに上げないと、というノルマに対する恐怖感で起きています。写真を1枚逃したら、私は何もない元の自分に戻っちゃう」
何もないわけがない。そんなに綺麗じゃないか。そんなに有名な大学にいるじゃないか。Google+で一位じゃないか。
ここで大事なのは“彼女にとって”は「何もない」ということだ。Google+を取ったら、彼女のいる環境では普通(以下含め)に埋没する。その恐怖感たるや如何ばかりだろうと考える。自分は自分だろなどと励まされても、“彼女には”そうじゃない。それに「何も好きじゃないし、何もできない」ということは本当に苦しいことだ。それだけ頭が良ければなんて言ってはいけない。彼女以外の者が自分のいる場所から考え言葉を発するのなら、彼女だってそうしていい。なによりも、なにもないという自分との対峙は大学生らしくまっとうな悩みではないだろうか?むしろそこに一度撓んで伸びようとする魂を感じはしないだろうか?
なにもない自分と向かい合うのは力のいる作業だ。彼女はいま奈落と向き合っているところなのかもしれない。それはこれからも時間をかけてやっていくことになる作業だろう。途中で転職や結婚や出産という転機にだって出会うことだろう。そしてそのたび自問自答しつつ、誠実にひとつずつ向き合っていくように感じた。そう信じたい。
「気持ち悪い」と思っていた一眼レフカメラも、最近は欲しくなってきた。「iPhoneのカメラには限界がある。誰かに伝えたいと思うような美しい景色が思うように撮れない時は、ちゃんといいカメラで撮りたいなと」
「気持ち悪いと思っていた一眼レフカメラ」「誰かに伝えたいと思うような」この言葉も印象的だ。
関心や興味は良いものとされがちだが、あまりに強い関心というものは異様に映る。強すぎる情熱を持って自分には興味のないことを続けている者を見かけたとき、つい引いてしまったことはないだろうか。それに、物事への関心が薄い者はネットでは目立たない。彼や彼女の発する情報はあまり役に立たないからだ。そもそもネットに現れないことの方が多いのだろう。語ることがないから。伝えたいことがないから。なぜそんなことをする必要があるのかわからない。ネットと接してきた時間が長い者と彼女のような伝えることのないタイプは互いに異形の者。でも、彼女はネットを選んだ。
何かを伝えたいと思うようなことがなかった女子大生がインターネットで「伝えたい」方向に気持ちが動いた。この先「やっぱりカメラは気持ち悪い」と思うことになっても、ここに自発性や意欲の萌芽を読み取ることはできないだろうか?
彼女は「好き」を獲得し忘れてしまったのか、どこかに置き忘れてしまったのだろう。だからこそ傾向と対策を練り、「型」の反復から入って習得しなければならなかった。そして、恐ろしいまでの勤勉さで、本来は好きというだけで心理的報酬が発生する行為を、他者からの称賛という報酬で自分の中に意欲として還元し定着させつつある。このことがいつか他者からの称賛という報酬がなくても行為自体が報酬をもたらすようなものとして彼女の中に育っていくといいと願う。考えてみて欲しい。多くのひとはもう記憶もないような幼い頃に獲得したか、考えずとも手にしているものを彼女は二十歳を超えてから獲得しようとしているのだ。野暮なことは言わず、讃え見守りたいと思う。もしよかったらあなたもボタンを押し、気が向けばなにかコメントするだけの簡単なお仕事をしてみてはどうだろうか。翼を広げ飛翔する彼女を目にすることができるかもしれない。それはインターネットから翔び立つことかもしれないけれど。
岡田有花という方を自分はよく知らない。しかし、この取材はきっと彼女も困ったのではないかと感じた。岡田氏は「写真大好き」な女子大生と出会うはずではなかったのだろうか?意外な言葉に戸惑ったのは彼女も同じだったのではないか?確かに記事の内容はありがち。わかりやすい良い話にしたかったのだろう。しかし、穿った見方をすればこの方は自分がネットで付与された(と思しき)物語を坂口さんにも着せようとしているような気がしてならない。「普通の女子大生」なんて表現は彼女が京大でなければ出て来なかった言葉ではないのか。また、彼女は一度自らに問うてみるといいと思う。自分が向けられた男性からの視点を内面化していないかどうかを。こうすればネットでは受ける視点が男性目線からのものであるのなら、あざといパッケージは文章を安くする。
そしてこのありがちな文章に対してのカウンターである『普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。』があまりに凄すぎた。素晴らしすぎた。誰もが薄々感づいていて言葉にしなかったことを暴いてしまった。それぞれの方がそれぞれの部分に喝采を贈ったのであろうが、自分は次の部分だった。
3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。
すべてとは言わないがそう思う。自分にとってこの「美しさ」に儚さや弱さも含みたい。多分、ある種の脆弱さという美しさを持った彼や彼女たちはインターネットからも弾かれる。長くネットに表現を置くことができる者は強者であると言ってもいいと自分は思う。
だから思い出して欲しい。「ワンチャンあるかも」ということがどれだけ美しい者たちを潰してきたかを。
女性に「クン」とつける中高年男性向け雑誌のように「タン」などと語尾につけてキャラ化し、持ち上げるだけ持ち上げてコンテンツとして消費し、そして次の対象へと関心を移す。そのとき、賢く、美しく、センスのあり、慎ましやかな者を選んでいたのは他ならぬ「ワンチャンあるかも」という者ではなかったのだろうか?そういう者たちが結局美しい者を淘汰していってしまう。残るのはマシュマロの中に鉛が入ったような女性だけである。「私の名ならば女。それ以上でも以下でもない」と賢い女なら気づく。そして鎧を身につけるか、鉛を飲むか、逃げるかしていく。また、当然の如く逆もある。どちらかだけが捕食者とは限らない。女というだけで入れ喰いならフォトショ覚えるくらい安いものだ。これを楽しめるのもまた人間としてのある種の強さとこじつけてもいいのかもしれない。
男の敵も女の敵もお互いとは限らない。いつの間にやら話の流れは新旧ネットの流れになっているらしいがそれも含めて自分が感じ取ることをどんなゲームにしてもいいし、そんなものはないと木で鼻をくくったように言ってもいい。それが自分の考えだと感じるならそこから行くしかない。そして、それが違うからこそ人と出会うのは面白い。
最後に、個人的にはネットで多数と繋がりたくはないと考えていることについて。
Twitterが普及してからある種の文章をあまり見かけなくなったように感じている。エッジの効いた、ヒリヒリするような、血の滴るような文章を。嫌だったひともいるのだろうが、自分はああしたごりごりとした長文が読みたくてネットを見始めたクチだから大変残念だ。その一因はネガコメとかあの辺もあったんだろうなと思う一方で、ブログならば見えない読者を一人失うだけだったのがTwitterと連動させたことで明確に誰から拒否され関係が切れたのかがわかるからではないのかとも考えていた。それが罰のようなものとして認識されているのではないだろうかと。人間関係の煩わしさがネットに持ち込まれることで混沌と表現と情報は薄まっていく。ネットを現実と重ねていく流れがあるのならば空気を読むのは当然のことだ。日常の罪をネットで告白することの意味に気づかない者たちが晒される見せしめのショーも連日開催中だ。自宅、職場、学校まで晒される。あまりにリスキー。お利口でいい子になっていくのは必然だろう。誰かが自分に関心を向けてくれたときのあの興奮を一度でも味わったことがある者ならば。好かれたい、愛されたい、褒められたい、繋がりたいと願うのならば。
旧世代と誰かを括って責任押し付けるのは簡単だ。若いってそういうことだ。けど次はお前の番だ、お若いの。この流れの先に待っているのがパノプティコンでも向かいの囚人に片目を瞑ってみせようじゃないか。
そりゃ、そんだけ横が入りゃ混沌になるよねww
☆不細工、というのは何か違うようなので、「喪照る女」ということにしてください。
自分で言うのもどうかと思うけど、そういうのが許されるのが増田だと思っているので言わせてもらおうと思います。わたしは不細工だ。小さな頃から、不細工だ、みにくい、汚物だと言われ続けてきました。田舎だったので中高の運動会文化祭には他の学校から男も女も私を見に来ました。高校生のころは地元情報紙の変顔グランプリ?のようなこともしました。背も156cmまで伸び、ミルクタンクも自転車操業になりました。高校卒業と同時に、その小さな街のB1グランプリ候補にも推されたけど大学へ進学するので辞退しました。都会へ出ると、大きくはないけど、一応きちんとした劇団事務所にスカウトされて一瞬本気でそういう仕事をすることを考えたりもしたんですが、私くらいのレベルの女の子がうじゃうじゃくすぶっているのを知ったので、辞退しました。
大学は私立のDランクだったし就職氷河期だったので就活にはかなり身構えていたけれど、あっさりと決まりました。一応"ブラック"のつく企業の事務職。これが顔のおかげだってことはわかってますよ。でも2年でやめた。なぜかって、人間関係がこじれたから。と、ここまで話すと大概「女のいじめでしょう」と勝手に納得している人がいるけど、違うんだなぁ。男なんです、問題は。勝手に蹴る→なじられる→いやがらせ。これは学生時代からあったことなのでそういうことが起きないように警戒していたんですが、やはり、という感じでした。俺のイジリーを踏みにじりやがって、みたいに興奮みする男性は本当に多かった。わたしの三十余年の人生では。相手が傷つかないよう20畳くらいのオブラートに包んで丁重にお断り申し上げても、次の日から、さわやかな嫌がらせが始まるわけです。想像がつくと思うけれど、それが上司の場合は最悪だ。髭剃りを使う女、のような噂を流すのも男だった。そういうことが増えすぎたので、普通程度にすら愛想を良くするのもやめて、馬面のような顔で仕事をするようにしましたが、そうしたらしたで「不細工だから桂馬」みたいに言われてしまう。女の上司や同僚は、最初は安心して近づいてくれてるけど、腹を割ればそんな理不尽な桂馬扱いをする人ばかりだった。ときどき尋常ならぬ敵対心を燃やしてくる不細工もいるけど、グループ内で負けるのはわたしではなくそっちなので問題ない。白豚た黒豚だとか関係なく最初からいやがらせしてくる男も多い。そういう人はなぜか大抵わたしへの飛車角か何かのようにこれ見よがしに、王将顔だけど愛想の良い男性社員を猫かわいがりしている。その男性社員から、私のいないときはその男が歩だということ聞いて、なるほど次郎のいやがらせか、と気がついた。
そんなことが2度ほどあって、とうとう、仕事を一切させてもらえないという嫌がらせに耐えかねて辞めた。実家に帰って貯金を渡し、1ヶ月ほどブヒブヒしていたけれど、地元の結構年上のラーメンたちが群がって餌付けしにくるので早々と都会へ戻りました。
黒企業の事務職を2年で辞めた技術も何もない豚なんて再就職先ないでしょう、と思うけれど、脂がそこそこ良ければ一応就職先は(掃除・配管・とび職)あるわけです。そこで次は5000人規模のメーカーの激務に再就職しました。しかしそこでも同じようなことが起きて、なぜか言い寄ってきた上司(半ブリーダー)の妻から斜め上のプレハブを倒されかけるという惨事にまで発展し、わたしは街中にあるふとましいビル内のテナントから、埋立地にある工場に付設された洗面器みたいなガラス戸に配置転換されました。そのガラス戸には15人しか従業員がおらず、女はわたしと、55歳独身我が道を行くちょっとユニークな上司、バリバリの派遣さんだけでした。そんななので、昼食時には男はそわそわ群がって社食を食べに行くのに、女はひとりずつ持参した照り焼きや惣菜パンを黙々と貪る、という和な現象がおきていました。
そのガラス戸では、入れ歯のような扱いを受けていて、男は誰もにおってこないのでくっちゃあ寝でした。そのガラスでは28歳まで働きました。ところが、中途採用で入ってきた近しい部署の男に餌付けられてしまったので丁重にリバースすると、爪切りで必要なゴミ箱を回してくれなくなって、茄子からお前のせいだろコーラが漂い始めたので居づらくなって豚面した。
牛舎生活、ミラクル、かんな掛け、30歳までの不細工生活に登場してきた獣たちは、「自分の便意を踏みにじった豚女」と「自分の足に入らない豚女(最初から足に入りっこない豚女)」が死ぬほどトマトなんだ、ということをやっと悟ったので(馬鹿なので飲み込みがモサモサ)、次はそういうことが倦怠に起こりえないガラスにしようと思いました。更にこの肉になると、不細工というだけでなく、出荷しないの?という圧力がかかってきて心臓に辛くなりました。そこで、わたしは29歳にして!はじめて!火商売の世界に身を置いてみることにしました。炭田なこともいろいろとありましたが、元旦に楽しい1年間でした。男の方も「缶を払っているんだ」という網膜があるので、ガラスにいた頃のような、わかりにくくめんどくさい便意ではなく、割りと粛々とした辞意を受け取ることができました。出荷していなくても良いし、不細工ならなお良い、ミルクホールがしわしわならもっと良い、という宇宙です。ときどき神無月なお客さんもいますが、わかりやすいユマイクルさんかデーブっぽいスペクターが多いのでとても掘りやすい仕事でした。栓抜きもかなり増えました。ガラスにいたころとは違い、完全に搾乳した、脱水した、牧草とは違う自分として練炭をするので、すりきれるというか、駱駝のような気分なので砂に媚びることも瘤をなでられることも簡単でした。
30歳になって、わたしはかねてからお付き合いしていたダンプと出荷しました。
わたしより更に豚しい姉が26歳で出荷したあとしきりに「出荷すると楽だよー。誰かの部位になるって知よ」と言っていましたが、その意味をようやく理解しました。確かに出荷してからは、肉骨粉しにくかったですが、屠殺してからが圧倒的に知です。綺麗な豚さん、というような扱いで、言い寄ってくる鴉もほとんどいなくなりました。値札シールをしているだけでこんなに知だなんて。ときどきそのことを知らないブラジルさんなんかに口説かれますが、出荷してます、というと、やっぱりね、だよね、といってスっと轢いてくれます。
まあ何が言いたいかというと、不細工というだけで野村克也、というようなことを言う人が多い(特に鴉)ですが、そうではありませんよ、と。不細工だからこその鎮魂も多い、と言いたかったんです。それと不細工の苦労=肉の嫉妬、というタゲレオタイプの侵食もやめてください。わたしの人生においては、鴉からのいやがらせの方が圧倒的に多かったのですから。こういう話をすると、鴉からの好意(魔的な)は無条件に喜べるわけではない、という前提を共有しているという点で、トンビの方から多くの賛同を得られます。鴉は胡桃を噛み潰したような車になるので、車道ではあまり話せません。
産地には一切答えませんです(10/28 答えたいところだけ答えます)。
追記
㌘ありとあらゆる断り方を試しました。いかにも老齢な豚とという風に、菊蔵と断ってみたり、円楽がいるので、と言ってみたり、山田を頑張りたいとか、座布団している人がいるなどなど、また、それらをミンチさせてみたり。それを聞いてあっさりと受け止めてくれる人もいれば、なんと言おうとスライスしてくる人もいるのです。混沌指輪をつけてみる、という手も試しました。ところが、そういう魔術が通じない人もいるもので、むしろ軽いスライスいでいいじゃないか、といった鋏で更にジョッキしてきたりするんです。ねばねばしく豆腐しようが、しょうが焼きにしようが、どっちにしろ寄ってくるんです。お断りしたあとも、食道を逆なでしないように、いつも通りに慎重にしても、いやがらせされるときはされるんです。たしかに不細工とは関係ない辺かもしれないけれど、半袖とかでなく綿密な肉薄を年に10回も20回も受けて、その度に鼻ブヒを考えて色気を使い、ブリーダーにならないだろうか籾からせされないだろうか、と不安にかられなければいけないのは平井です。
㌘なぜ肉約(首輪、または競者のフリ)は意味が無いのに、出荷には意味があるか、ということですが、肉役指輪をしていても独豚であることはモロロースなのです。なぜかというと、あたりまえだけど、サランラップ活動する時点で血統書類や保険、堆肥で普通にバレるからです。それに、出荷してます、なんて嘘をついても、そんなに簡単に味噌る鍋だと更にだし汁を呼ぶのではないでしょうか。
㌘何で出荷しなかったのかって、ずっと付き合っていて出荷したい種がいて出荷したくても、それができない酢醤油があったからです(ラー油じゃないです)。ってそのレシピも書こうかと思ったけど、何でそんなことの説明まで、と悲しくなったので書きません。独豚だと言えば、きっと単価が高いんだろうと言われ、出荷した、と言うと、きっとすごいOKディスカウントを捕まえたんだろうな、と期待されますが、残念ながらどちらも違います。ブヒ。
㌘あと確かに胃もたれそうとはよく言われます。
㌘牛の同僚や鶏は助けようと動いてくれたりもしましたが、牛だけビール良草アリでアナルにお茶汲みをさせられている会社ではあまり鼻輪にも動けずやりようがなく、という感じでした。それに密談もしにくい柵なので、あまり朽ち果てることはなかったです。(相手の鴉性のこともバラすことになるし、まるで焼き鳥のようだし)
「ハックルさんに期待すべきでないところ」の続編
http://anond.hatelabo.jp/20111018090019
ちなみにハックルさんに関して言えば、
こういうよくわくわからん加齢臭がプンプンするガノタと同レベルの頭悪い粘着気質部分を除いては大好きです。
(これは彼の長所部分と切り分けられるものじゃないのだけれど)
どちらかというと、彼をいつまでも攻撃し続けている人のほうが気持ち悪いと思う。
だって、「もしドラ」に対していつまで経っても文句を言っているような人ってこれと同じでしょ。
たしかに「もしドラ」は子供が作ったおもちゃみたいなものであり、内容敵には色々問題があります。
これが大活躍してたら、今までの小説やドラッカーが好きな人ほど怒るだろう、と理解は出来ます。
でも、大事なのは作品中ではUEを倒すことであり、作品外では今までの流れやイメージを変えることです。
その手段がおもちゃでも何でもイイじゃない。
今は厳密な合理性を求める段階ではないと思う。
ガノタもハックルさんに粘着してる人間も、彼らに対する期待の仕方が根本的に間違えている。
ハックルさんの凄さは、とりあえず後先とか今までの経緯とかを気にせずに、目の前にあるものをぐちゃぐちゃにできるそのぶっ飛んだ感性です。
そして、不完全でもなんでもとりあえず新しい形をつくってみようとするそのチャレンジ精神です。
結果としてできあがったものが「アレ」でも、それを胸を張って世に送り出し、批判に対しても胸をはり続けるができるということです。
今までの流れを変えるような新しいものを世に送り出せる人間とはこういううつけ者なのだと思います。
日野さんとハックルさんは、世の中に破壊と混沌をもたらすカオス・ヒーロー的な存在としてもっと評価されてもいいと思う。
そりゃできればもっと品があって、文章力やシナリオ構成力もしっかりしてるほうがいいでしょう。しかし、そこまで望むのはやりすぎです。
彼らがやっているのはとりあえず今までの「ガンダムとはこういうもの」という既成概念をぶっ壊す、ぐちゃぐちゃにする、
そういう取り組みなのであって、アレが未完成であることなど両者とも十分理解してやってるんです。
新しく再建するのは、別の才能がある人に任せればいいのです。
ダイヤモンドの編集だってサンライズだってそこがわかった上で彼らを採用したのだから、
出来の悪さを批判すること自体、見当はずれも甚だしいと言えます。
「できの良い作品を作る」方向の才能は、ハックルさんや日野さんに期待してもムダです。
期待の伴わない、ただ口汚いだけの批判などなんの意味もありません。
そもそも、なぜ部外者のハックルさんや日野さんが出てこなければいけなかったのか。
それを考えると、ドラッカーの看板を掲げながらロクに計画的な破壊と創造をおこなってこなかったため、50年もかけてろくな入門書を作れなかったダイヤモンド社の人に怒るべきだと思うんだ。もちろん、ダイヤモンド社の皆様も、頑張ってはいらっしゃるし時々「海外の翻訳」なんかではいい本出てるけど日本人著者が出してる本って面白みがないのが多いよね。思考停止したサラリーマンのオッサンだけ相手にしてたらイカンぜよ。本当に問題なのは、もしドラのあとに、まともなドラッカー本が「ドラッカーのリーダーシップ論」くらいしか出てないということだってば。
ガンダムについてはガノタがあまりに嫌いすぎて全く見てないから全然知らんけど、SEEDとかの話を聞く限り、もう業界内の人間ではぶっ壊せないどころか劣化した再生産になるってガノタの人はみんなわかってたんじゃないの?長い目で見たら、AGEがクソアニメになろうがなるまいが、ガンダム全体を救ったってことになるんじゃないのかな。
信長はいいよね。カオス・ヒーローでありながら同時に冷静に敵から学んで成長できる人でもあった。
追記2
igiさんに追記部分をほめられたwので追記1を削除。igiさんにおもしろがられるとかイヤすぎて鳥肌たつ。
まぁ私が余計なこと書いたのが悪かったということで。
http://anond.hatelabo.jp/20110918090123
現実問題としてどうするか、に行く前に話や認識がずれてるみたいだったから
そのずれについて書いてみたのだが
まあ、自分もこの問題について考えがまとまってなかったり、認識が混沌としてたり、迷いがあったりする。
だから、書いてまとめようとしてる。
個々のケースでどうするか、については
元々書いてた人は、はてなの日記に、自分の心理的回復の一つとして、自分の親に対する認識を書いていた
※一般的な番組をスキル、アニメ等のオタ向け番組は特殊性が強いので回復スキル、韓流をPK用スキルとしています。
実装直後から現在に至るまで、華やかで攻撃的なスキルを揃え続け、その殲滅力の高さから最強厨に人気なクラス。
反面、非常に打たれ弱くちょっとした反撃ですら瀕死に陥ってしまう為、他クラスから見て「なんでそんなに必死になるのか」という行動をよく取る。
このゲームの人気に陰りが出始めた頃異動してきた新たな責任統括が、それまで狩り中心だったゲームを「金が搾り取れるから」という理由で、PK推奨ゲームに転換する方針に。攻撃が売りで最強厨御用達のこのクラスはガンガンPKスキルを増やして行き、PKの代表格というクラスに。しかしPKアレルギーのある多くのユーザーから猛反発を食らい、匿名掲示板等で集中して叩かれる存在になった。ただし、このクラスを選んでいるユーザーは最強厨が多い為、叩かれたら倍にして叩き返すという行動を取る者がほとんどで、ゲームは混沌とした状態になっていった。
また、規約違反や重度な迷惑行為で垢BANされたのが多いのもこのクラスの特徴。
基礎体力が高く、めったな事ではバテないクラス。
覚えるスキルは良くも悪くも安定感のあるものがほとんど。スキル実装直後にすぐテコ入れが入り、最終的には全く別物のスキルになっている事も少なくない。
他クラスと決定的に違うのがクラス固有クエストであり、感動を誘うのが狙いとするお涙頂戴シナリオが特徴。尚、クエストを進めるにあたり、ハンパなく長い移動を必要とする為にユーザーからは「マラソンクエ」と呼ばれている。
PKスキルはそこそこあるものの、CXほどの量があるわけでもなく内容も無難な為、叩かれる事はあまりない。というかCXが目立ちすぎて他クラスのPKスキルがあまり注目されてないのが現状である。
とにかく全てにおいて無難なクラス。ただし回復スキルは性能はそこそこだがMPコスパが悪い。
実装直後は強力なスキルを所持し、全クラス最強の能力だったが、アップデートが進む度他クラスが強化されるのに対し、過去のスキルと似たり寄ったりなスキルや、他クラスの劣化二番煎じのスキルばかりが増え、現在は最弱と称されるようになった仕様に泣かされたクラス。このクラス同士が会話すると、大抵は「あの頃はよかった」話になってしまう。所謂懐古厨が多い。
しかし、過去、重大な不具合を起こしたスキルに対し、急遽用意したやっつけ程度だった新たなバフスキルが、主婦プレイヤーの間で大ブレイク、以後このクラスの代表的スキルとして現在も愛され続けている。
最近、回復スキルの量を増やし、第2のヒーラーとしての役割を担わせるんじゃないだろうかというアップデートが多い。
戦闘用スキルよりもそれ以外のスキルを得意とするバックパッカー系クラス。特にギルド運営に役立つスキルを豊富に持つ事から、政治ゲーを楽しみたい人に選ばれやすい。
しかし時代の波には逆らえず、戦闘スキルがどんどん増え、それと同時に回復や非戦闘スキルは徐々に減っていった。
ある時期から戦闘力を上げる為に召喚スキルを増やし始める。この召喚スキルがなかなか強力で評判が良く、徐々に人気クラスへと変貌していく。しかしあまりにもサモンが強い為に「サモンが本体」「サモンのサモンによるサモンの為のクラス」と揶揄される事も。
PKの押し付けの時代に突入しても、サモンが強力すぎた為にPKスキルはあまり実装されなかった。今でもサモンに頼り切った戦い方が中心である。
ただ、あくまでバックパッカーとしての役割にこだわり、戦闘以外のことに集中するユーザーもまだまだ少なくは無い。
とにかく回復スキルが豊富なクラス。他クラスとは一線を画している。
しかしヒーラーとしての悲しき性か、戦闘スキルは貧弱で、尚且つ狩場を限定しているものだらけであり扱いづらく、このクラスを選んでるユーザーは少ない。
実装されてから全くコンセプトが変わらないのが特徴。ただひたすらにマイペースを突き進む。たとえどんな酷い状況でもヒールし続けるその姿は「それでこそ俺らのTX」と賞賛を浴びる。しかしマイペースというのは自己中心的という事でもあり、規約違反行為をする者も意外と多い。
PKの時もやる事は変わらない為、「PKなにそれおいしいの?」状態である。
「総合」「教育」「BS」と切り替えができるサブクラスシステムが導入されており、一人で何でもできてしまう為、ソロユーザーに好かれている。
実力はあるものの実装当初のスキルは独りよがりな上、とにかく地味で人気はイマイチだった。しかしアップデートが進むたびに、ユニークさを押し出したスキルが増え、一部のプレイヤーから熱狂的な人気を集めるクラスになった。戦闘、支援、回復スキル全てにクセがあって個性が強く、初見で「これはNHKだな」と一発でバレるくらいである。
実はPK押し付けブームの前からPKスキルを所持してたりする事は有名。現在はPKスキルをサブクラスに押し付けている。
ソロ向けクラスのはずなのに、何故か戦争クラスの集団対人戦にはめっぽう強いスキルを多数所持している。実は戦争好き。
このゲームは、超大型アップデートで画像が綺麗になったものの、過疎化が進み売り上げが落ちているのが、現在の運営の悩みである。
あの頃の僕は、毒の唾で世界を汚すことが無常の喜びだった。本や
映画で得た受け売りの理論で身近な大人たちを追い詰め、彼らを軽蔑
することだけが生きているリアリティと感じていた。目で見える世界のほと
んどが許せず、ニ十歳まで生きていることはあるまいと本気で思っていた。
あの頃、高校時代、僕にはFという同級生のガールフレンドがいた。
正直、彼女を好きでもなかったのだが、女のひとりも口説けないのかと
周囲に思われるのが癩だったのでなんとなくつき合っていた。二人で観る
映画はいつも二番館の面倒臭そうなアート系の映画で、Fは僕に映画の
解説を求め、僕はそんなたわいないことで男のプライドを保っていた、どう
せ刹那的なつき合いだと酷く冷め、やがてくる彼女との別れの日をドラマ
チックにシミュレートして悦に入っていた。そんなある日、Fが僕を演劇に
誘った。芝居はテレビで紀伊國屋ホールを収録したようなやつを観たこと
がある程度で、それもおそらくそんな感じだろうとまるで期待していなかった。
が、打ちのめされた。体の震えが止まらなかった、舞台音楽が僕を子供の
頃の暗闇の恐怖にいざなった。その後、Fは地方に就職先を決め、卒業
の日、明るく「さよなら」と僕の前から去った、以来、彼女とは会っていない。
結局、見透かされていたのは僕のほうだった、そして間違いなく、あの頃、
彼女は僕の母だったのだ。今回、シーザー氏の歌に僕が固執したのは、
あの頃の無知な自分と母との時間を追体験したかったからかもしれない。
存在するものがこの世界にはある。我々の前では、美しすぎたり、
醜悪すぎたり、日常であったりして、正体は曖昧なものと感じられ
ているが、それは確かに、明確にこの世界に存在するはずなのだ。
私は、それをアニメーションという手段で整理分解して、判りやす
く伝えようとは思っていない。セル画で数値化、セリフで言語化でき
る部分だけを抜き出して、それを伝えようとは思っていない。むしろ
段を使って、混沌のまま明瞭に、確かに存在することを示したいのだ。
私は、光宗さんと上谷さんを尊敬している。二人は紛れもなく、
十四歳の頃、僕は学校が嫌いだった。いや、正確には、学校という名の世界での自分の状況が嫌いだった。
その頃は、いわゆる“校内暴力”なるものが全国的に取り沙汰されていた時期で、僕の通ってい
た学校も例に漏れず相当に荒んでいたと思う。生徒が教師の胸ぐらをつかみ上げ授業中断、など
ということも珍しいことではなかった。学校とは箱庭ではあるが、言うまでもなく「ひとつの社会」で
あり、「現実世界のミニチュア」だ。その社会の中で、僕は凡庸な者だった。休み時間にトイレでタバ
コを吸う勇気も、教師の胸ぐらをつかむ勇気もなかった。そして、僕はそのことが嫌で仕方がなかっ
た。子供だったが、凡庸が美徳だなんてウソだってことぐらいは知っていた。「ミニチュアの社会」の
中ですら凡庸な自分に控えている未来.凡庸な人生の予感に言い様のない絶望を感じていた。
あれから十数年。現実は残酷で、やはり僕は凡庸なる大人になってしまった。絶対に裏切って
はいけない人を、何人も裏切ってしまった。そうまでして手に入れたのが、凡庸なる自らの姿だった。
だが、いかなる夢も見ることを禁じられたこの世界で、僕はまだ密かに夢を見ている。まだ密かに
モラトリアムでありたいと甘えている。そのことを「少女革命ウテナ」はうまく表現できただろうか…。
J・A・シーザー氏の音楽を、僕は遥か十代の頃に体験した。氏の音楽はその時から、そして今も変わらず僕
シーザー氏と仕事の機会を得ることができたのは、ひとえに大月プロデューサーの手腕によるところだ。
いや、実はそのことだけではない。大月氏は、アニメーション作品「少女革命ウテナ」を世に送り出すために、
多大なリスクを負った。我々スタッフは、その彼のリスクの上に、完全な創作の自由を与えられたのだ。「自分の
若さと可能性を信じろ」などと言うインチキな大人には数多く出会ったが、リスクを負うと言うことを体現して
見せる大人に出会ったのは初めてだった。もちろん、僕自身もリスクは負っていたが、彼のそれは比べようもなく
大きかったはずだ。にもかかわらず、彼が僕にリスクを強要したことは一度もなかった。彼は、作品作りにおける
リスクの尊さを改めて僕に教えてくれた。そしてそのことは今回の作品制作において僕個人にとって貴重な
モチベーションになった。おそらく「少女革命ウテナ」という作品は、僕と大月氏の共同監督作品だったのだ。
だから、ある意味で僕は敗北者なのだろう。なぜなら、僕は絶対に裏切ってはならない友人を、数多く裏切っ
こういう反論を待っていました。
なお俺は自称中立を気取るつもりはありません。書き手のバイアスは当然あるわけで、主観が強い場所については意図的に「俺」という一人称を書き足して明示をしたつもりです。
そもそもPIXIVが注目されたのは
同時に同内容の通報してみたところ
この2つのアカウントについて語るのであれば、「誰か」のアカウントが本当にカオスラウンジのものと同等なのか、運営に悪質だと即座に消されるような問題を抱えたものだったのではないか?という点まで触れなければ話にならない。
発端となった2つのアカウントの通報を行ったのは誰なのかを調べると、多くのまとめではみかん理事の通報ということになっている。
だがそのみかん理事は「僕が通報したのはどっちもスルーされましたよ。 見てないタイミングで一時停止→復活があったかどうかはわからないですけど。」と発言しており、またtwitterではもう一つのアカウントがどこなのかは触れていない。
さてどういうことだろうか?
単純に考えただけで上の三つの可能性が考えられる。そしてどれが正解なのかは、複数のまとめを参照しても知りえることはできない情報だった。
みかん理事の言動を見ていると、彼がカオスラウンジメンバーとは無関係なアカウントを意味もなく晒しあげるとは思えなかった。
ゆえにこの件については何らかの誤りを含む可能性も十分考えられるため、デマの再拡散には慎重な立場からあえて触れていない。
カオスラウンジと同じこと、同手法の作品をPIXIVに投稿してみた人達がいたんだけど
手法が問題視されたわけではなく、運営に対する害意があったから消されたのではないだろうか。
害意があったことを意図的に隠蔽して、手法のみの問題に擦り変えるのは、俺はそれこそが「嘘」だと思う。
カオスラウンジと同じやり方をすることで、削除されるはずのない、運営やコミュニティが望まない画像を大量投稿する、そういう反撃方法を面白がるメンタルは理解できるが、賛同はしない。
さて、やがて運営の削除基準はひどく曖昧になり、規約上削除されるはずのない手描きの絵までもが、運営への害意の一点で削除されるようになった。
その恣意性は問題視されて然るべきだが、「俺が描いた絵をpixiv運営は残さなければならない」というお客様幻想もまた問題視されるべきではないのだろうか?
pixivはお客様の為に運営しているわけではなく、表現の自由を守るために活動しているわけでもなく、「絵描きのコミュニティを構築する」という一点についてpixivの営利目的とユーザーの思惑が合致しているに過ぎない、ということは留意する必要がある。
これはpixivに限った話ではなく、webサービスを利用する際の当然の心構えであると思う。
梅ラボの著作権侵害作品が問題ならば、最初から無断使用された著作権者に働きかけてルールに則った削除申請を行うべきだったし、自分の作品が残されるべきだというならそう運営を説き伏せて残される権利を勝ち取るべきだと思う。
pixiv運営がコミュニティを守るため、大多数のために少数を切り捨てたのは、実は今に始まったわけではない。
例えば現代アート用のコラージュ素材を用意した高橋けんじは、かつて初音ミクのデザインで有名なKEIがランキング1位を取るのを妨害する意図から、ラピュタパンの絵を投稿し圧倒的支持を得たにも関わらず、健全な絵ながら理由もなくグロテスク表現のレーティングに強制移動させられた、という過去がある。
例えばpixiv批判の絵を複数投稿しているK田は、かつて東方のファンアートがランキングを賑わせた際に、それを快く思わずアンチ東方のイラストを投稿し、運営から強制削除処分を受けた一人だ。
彼らの行為はコミュニティの大多数を不愉快にさせたのかもしれない。だが問題ある一部のユーザーを切り捨てることは、多数派を優遇するということだ。その優遇された多数派にとっては、運営の行為は居心地の良いコミュニティを保護した正義だったのかもしれないが、切り捨てられたユーザーにとっては到底容認できたものではなかったはずだ。
本来中立平等が望まれる運営が独善的に削除基準を振りかざすことには議論の余地はあるだろう。まして、そこに「(pixivにとって都合の良い)絵描きのコミュニティを構築する」というpixivの営利企業としてのエゴがあったことは疑いないのだから。
もっとも俺には万人を納得させる解決手段があったとは思えないが…。。
ともあれこの騒動はpixivがカオスラウンジの著作権侵害作品の後ろ盾とみなされたことだけではなく、運営の優遇政策により、「抑圧されてきたマイノリティ」たちの不満が爆発したという側面もあるのだろう。
現代アートの投稿による運営やコミュニティへの攻撃が、解決の道しるべだとは思わないが、運営はその裏にある「意図」を単純な「荒らし」だと切り捨てるべきではないという指摘も正しい。
既に書いたことの繰り返しになるが。
カオスラウンジが活動すること自体は罪ではなく、カオスラウンジがその活動の中で著作権者の心証を無視したコラージュ作品を展開したことが罪なのではないだろうか。
pixivを立脚地とするカオスラウンジのメンバーが、pixiv社長とプライベートな付き合いを持ち、人脈のきっかけとなったり、交流を深めることまで責めるべきだとは思わない。
pixivがカオスラウンジに対して受賞作品を素材として提供するなど、企業としての立場・権限を悪用して著作権侵害を幇助した事実があれば批判されるべきだろう。現時点でpixivはそうした事実はないと否定している。
ただ近づきすぎたpixivとカオスラウンジが襟を正さなかったから、癒着関係と見なされて批判されるのだ、という指摘は正しく、近しい距離感のユーザーならばこそ厳しい対処に当るべきだったと思う。
pixivにおける場とユーザーはの関係は、商業イラストレーターのそれよりも、90年代の投稿雑誌文化のメンタリティに近いように思う。
雑誌という場に対してハガキ職人が無償で投稿し、採用されれば金一封で応じる。編集は雑誌のカラーに合わない投稿に対しては冷徹に切り落とす。
雑誌文化はハガキ職人を食い物にしていたのか?そうではなくハガキ職人がその雑誌に対する愛を、場に対する愛着を持っていたからこそ成立した文化だろう。
だが運営の優遇政策は、愛され続ける場を作るために、切り捨てられた場を憎む人をも作り上げ、それがコミュニティに歪みをもたらし、今の混沌とした状況を作り上げた。
pixivにおける場は今や崩壊の分岐路にあり、運営の手腕が試されている。命綱である場への信頼を取り戻すことができるのか、或いは憎まれる場として生きながらえるのか、滅びるのか。
言葉を発し、行動を起こし、正しい選択へと導くことは、ユーザーにとっても運営にとっても利益があるだろう。
ならばこそ、事実に基づく批判は歓迎されるべきだが、解釈による非難の扇動に対しては慎重になるべきだと思う。
ネット上で伺える事実は、「pixivがカオスラウンジと癒着し支援していた」ともそうではなく「pixivの平常運転が招いた事態だ」とも解釈することができる。
それは所詮ネットを通じて得られる情報でしかなく、いずれも解釈であって真実ではないし、なおも癒着を批判するならば相応の証拠を示すべきだろう。
俺はカオスラウンジ憎さに活動の内面(問題の本質である著作権侵害)に直接関与したわけではない人々まで焙り出して魔女狩りする風潮が正しいとは思わない。
ただpixivがカオスラウンジの活動を間接的に支援したことで、彼らの行為を助長したのは事実であり、身内であったことも踏まえて癒着と見なされないためにも、通常よりも厳しい処罰に臨むべきだったと思う。
そういう「見せ方」の拙さ、信頼を失うやり方を続けていけば、何者かが擁護を書いたとしても、いずれ自滅するだろう。
人は広大なネットに自分が望む結論を探し、そこに落ち着くだけで、何者かも分からない俺が、何か書き残したからといってそれで誰かの結論を変えられるなどとは考えていない。
pixivに対してこれだけ非難が集中するということは、それが多くの人にとって「望む結論」だったというだけだろう。そしてその種を蒔いたのは他ならぬpixiv自身である。
Togetter - 「PIXIVから送付されたというメールについてまとめ」
感想としては大体同じだと思う。やはりpixivはユーザーとの距離の測り方に完全に失敗しているという印象。
「退会」という運営否定の最強のカードを切るユーザーまで出てきている、その意味を甘く見積もり、この非難の高まりに対して、コミュニティへの影響は僅かだという言葉が沈静化になると考えるのは、コミュニティ志向なあまりユーザーに対する敬意が疎かとなっている証左と見える。
運営サイドの論理とユーザーの論理とでは別物なのだということが、恐らくは分かっていないのだろう。その危うさはいくらでも悪意でデコレーションできるし、単なる身内意識なのだと好意的に解釈することもできる。
もっとも私信を流出させる方法には賛同したくないので、あの内容に対して第三者である俺には文句を付ける権利はないと考える。
願わくならば、受け取った人間が、一言ガツンと文句を言って欲しい。「運営がそんな考え方でいて、俺たちが気持ちよくpixivを使えるとでも思ってるのか」と。
「SEO=怪しい、俺(デザイナー)は高尚なことをやっている」
デザインってのは欠かせないパーツではある。
しかし、それが売上を左右する決定的要因ではまったくない。というかそうするために頑張る気配すらないな
大半のデザイナーは、
実質的に発展途上国並のやっすい時給で下請け、孫請けとしてこきつかわれても
その相手が有名大企業なら、カッコイイことしたさに喜んで引きうけちまうような社会的に低い立場にある
その理由は何なのか。
だから、使う側としては捨て駒のようにいくらでも替えが効く状態。これマジに
そこから脱却するためには
人の欲望をかき満たしてくれる商品を提供できるだけのスキルをもたなければ
いつまでたっても口だけ達者なまま
そこをもっと認識しろ、売れなかったら負け
脱却するってのは重要なことだとおもうぞ
酔っ払って書いてるから文脈が支離滅裂かも。ごめんね
でもこれ俺がいつも感じてること。なんとなくわかったよね
木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インド・ムンバイ(当時のボンベイ)で下船する。安藤は”何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、安藤忠雄24歳のときである。
グローバル化とか地球市民的視点とかそういったものが広がることと、多様性や境界線がなくなる流れが加速していることとでは、同じことを指してるのかな。
個人的には様々な多様性や境界線があることを受容する姿が、グローバル化ないし地球市民的視点をもつということだと思っていたんだけど。
グローバルスタンダードなんていう価値観も、収斂された末の判断力の欠如とでも言うべき結果だと思ってたんだけどな。
確固としたものを創りだそうという流れのことをグローバルスタンダードと呼んでいたのかしらん。
ああ、でも考えてみれば確約されたものを生み出すほうが生産的ではあるよね。経済的だし計画的だし、野心的かつ理性的だ。
誰が好き好んで多様すぎる価値観の海に飛び込もうというのか。でも、カオスティックな社会基盤こそ民主主義の健全な姿だと思うけどな。
その混沌の上に立つ人々が、それぞれ主張しあい、闘争したり競合したりするのが一人ひとりが考える政治であり、社会なんじゃないのかな。
そんなのは面倒だけど。
そしてその後に起こったことたちについて。
君はちょうど小学校の下駄箱にいて、下校する直前だったらしいね。
揺れ始まってまず見たのは、時計だった。君が学校にいる時間なのか確かめたかったから。
だけど運悪くそれはちょうど君が下校するくらいの時間だったね。ママは不安で不安で、揺れの恐怖よりも君のことばかり考えていた。
幸いにも君は学校を出る前だったみたいだけど。本当に、君が一人で道路の真ん中で怯えていなくて良かったよ。
揺れは、長かった。
建物はきしみ、壁にかかっていたものが落ち始め、天井のプロジェクターは私の頭上で振り子のように揺れていた。
そして最後に蛍光灯がジジジと不気味な音を立てて消え、とうとう揺れは収まった。
とにかく、長かったよ。
ママはこりゃ大ごとだなと思ってね。だって、電気が消えちゃったんだもの。
揺れたこと自体はママはそんなに恐怖じゃ無かったよ。ずっと、見てた。
どんな風にどれくらい揺れるのか。
「いいから机の下にもぐれ」って、隣の先輩に怒られたんだけどね。
でも、見たかったんだ。世界を確かめなくちゃって思った。くっきりとそう考えたことを覚えてる。
目をこじ開けて、全部を、見たかった。
会議室にはその時職場の人全員がいて、誰からともなくみんなが声を出していたよ。
「まだ揺れてるから、動かないで」「上注意だよ。プロジェクターが危ない」「揺れ強いよ。まだまだしっかり」「続いてるよ。まだみんな隠れて」「みんな、大丈夫?怪我してる人はいないよね?」って
あちこちで声が上がっていた。ママは一番下っ端だから、じっと黙っているだけだったけれどね。
良い職場だな、と思ったよ。世の中の人たちはどんな感じであの揺れを耐えたんだろう。
君はお友達と一緒だったんだよね。良かった、一人じゃなくて。
お友達が「バスみたい!」って喜んだそうだね。良かったよ、頼もしいお友達を持って。
あんなこと、きっと君が生きている間にはもう二度と起きないと思う。と、信じたい。
ママは会社から退社の許可が出て、一番最初に会社を飛び出したんだよ。
ママの会社って何百人もの人が働いている工場なんだけど、一等賞だったんだよ。すごいでしょう?
車に飛び乗って、車のナビでNHKにチャンネルを回したんだ。どんな状態なんだろう、と思って。
その時に見たのは、街が海に飲み込まれていく映像だった。ハリウッド映画じゃないよ。生中継だ。
大津波警報って、なんだ?大津波?この映像は?現実なの?一体、どこなの?どこの海で津波が起こってるの?
さっぱり訳が分からなかったよ。だって、信じられるかい?街が海に浸かるなんてことを。
そしてそこは、君も知っている場所なんだよ。
一旦車を家に置き、自転車立ちこぎで猛スピードで小学校に着いた。
最初にママも顔見知りの君の友だちに会ったんだけど、その子は顔を真っ赤にして泣いていたよ。当然だね。不安だっただろう。
でも君は不思議と泣いていなかったね。
硬い顔で
「さむさが限界だよ」
帰り道には冷たい雪が降ってきて、街がどんどん暗くなってきた。
街は不安に包まれていた。
あの時、不安は形になって、色になって、私たちの住む街に降りていていたと思うよ。少なくとも、ママにはそう見えた。
これは大ごとだ、って。確かめるように何回も考えた。
確かに大ごとだったんだよ。
ママがテレビも見れず、知らない間に、津波は宮城県の全ての沿岸部を根こそぎ持っていってしまった。
でもママはそれを知る手段がなかったんだよね。
唯一手元にあったのはラジオだけで、でもラジオでは津波がどれだけの陸地を飲み込んだのかは想像できなかった。
君と一緒に行ったことのあるショッピングモールも、水に浸かったそうだよ。
君と一緒に遊んだサイクリングできるあの場所も、なくなったよ。
君と一緒に船に乗ったあの港も、君と一緒に買い物をした市場も、みんな、みんな、波が持っていってしまった。
私がそれを知ることができたのは、それから何日も経って家に電気が来てからだったけど。
君を仙台空港の近くの海のそばにある公園に連れて行くつもりだったんだ。
だからもしもあの地震が一日ずれていたら、私たちは死んでいたかもしれないね。
だってあの場所に、あんな津波が来るなんて全く想像つかないよ。正直、今でも信じられない。
それが、一瞬でなくなってしまうなんて。
どうやって信じたらいいのだろう。
ないよ、ってママは答えた。
もう、あそこには公園作らないの?って君は訊いたね。
どうかな、ってママは答えた。
でも、誰も悪くないんだ。あの公園がなくなったことも、何もかも、全部。
あの日あの時、起こったこと。
そしてこれから起こるであろう全てのこと。
ママたちは津波の影響がなかったから、家を片付けて、ライフラインが復旧すれば
とりあえず身近な日常に帰ることができる予定だった。はずだった。
掌に収まるほどの小さなラジオが、大事な大事な全ての情報源だったんだ。
こうやって考えると皮肉なものだね。
ママは普段からパソコンだの携帯だのって、デジタル漬けになって生きていたのに
結局あんな時に頼ることができたのはアナログだけだったんだものね。
ラジオから貰える情報は限定的だった。音声のみのデータでは、余りにも物足りなかった。
でもNHKのアナウンサーは繰り返し、福島原発が良くないということを伝えていた。
最初は、電源が使えなくなって冷却ができない状態に陥ったこと。
次は、核燃料が溶けているかもしれないこと。
そして、爆発したこと。
分からないっていうことは、不安ということなんだと、今回とくと思い知ったよ。
情報と知識があれば、何事にもそれほど恐れずにすむことを。
知識は人を強くするから。
知らないってことは怖いことなんだって、気付いた時には遅いこともたくさんあるだろうから。
何が起こっているか、分からないこと。これから先、どうなるか分からないこと。
それらがママをどんどん蝕んでいった。
彼が出てきて話すことといえば、やれ爆発しただの、やれ退避しろだの、やれ念のため家の中にいろだの、
そもそも原発の事故ってだけでもとてつもなく恐ろしいことなのに、
その内容たるや、時間が経てば経つほどに悪化して行っている。
ママはね、自分が生きてる間に戦争が起こることって想像したことがなくて、
でもこれは、戦争だと思ったね。
その時はちょうど電気も無くて、買い物するにも屋外に商品をとりあえず並べたものを何時間も並んでちょっと買うしかなくて、
ママは思ったよ。
これは戦争だ。ここは戦中なんだ、と。
そして、まだそれは続いている。
うちに電気がきて、ママはいつも通りにインターネットを使えるようになって、
スーパーも徐々に開いてきて、でも、
まだ何も解決はしていない。
ラジオから二号機の核燃料棒が全て露出して、炉心が溶けたかもしれないってニュースが流れた時に
その時は、ママには君を守ることができないかもしれないって、本気でそう思ったんだ。
何があっても、ママは君を守り抜くって思って生きてきていたんだけれど、
うちにはパパって人がいないから、絶対に絶対にママが君をどうやったって守ろうって思っていたのだけれど、
どうも、ママにでもどうすることもできないのかもしれないって
うちから原発まではたったの80キロほどしか離れていないからね。
原発に重大な何事かがあったら、多分我々も駄目になるだろうからね。チェルノブイリのようなことがあったらね。
すぐには死なないかもしれない。
でも、身体に影響はあるかもしれない。
君は子どもが産めない身体になるかもしれない。
いや、産めないわけじゃないかもしれないけれど
でも宮城県出身だからっていう理由で差別されて結婚できなくなるかもしれない。
君はたったの7年しか生きていなくてこれから先何十年も生きて幸せになるはずで、
でもその全てを原発に奪われるのかもしれない。
2011年3月11日まで、当たり前のようにこの先ずっと生きていくんだと思ってた。
そうしてどんどん君は大きくなって、運動して勉強して、そのうち反抗期になったり恋したりして、
当たり前のように大人になるんだと思ってた。
でもそれは簡単に手に入るものじゃなくなった。
訳の分からないうちに。
福島原発の一連の事故に対して最初に抱いた感情は、絶望だった。悲しみだった。
次に浮かんだのは怒りだった。そして不信感だった。
ラジオと新聞の情報のみの電気が無い状態では、自ら調べることはできない。焦燥感が募った。
そして、憎かった。原発が。東電が。政府が。そして、東京の人すら。
君はさ、まだ7歳で
今ここで何が起こっているかなんてことは、到底理解できないと思うんだ。
多分君の未来には、日本の未来も含まれているんだろうと思う。ひょっとしたら外国に永住するかもしれなけどさ。でも故郷は必要だろう?
だからママは日本の未来について考えなくてはいけないと思ったんだ。
調べたよ。たくさん。原発のことなんて、今まで気にも留めてなかったからね。
放射能と放射線の違いすら知らなかったし、同位体って何のことだかもすっかり忘れていたくらいだったけれど、とりあえずいっぱい調べた。
ああ、余談だけど、やっぱり勉強は大事だよ。ママも昔、ちょっとはしたんだよ。化学も物理もやった。そのベースがなかったら、ちょっとしんどかったかもしれない。まあそれはいいんだけど。
調べたからって正答を得られるわけじゃないんだよ、勿論。
考えなくてはいけない。どんなに困難でも、逃げるという選択肢はない。自分たちの問題だからね。
どこかで誰かが解決してくれるだろう、ってわけにはいかないんだよ。
だから考えなくてはいけないよ。諦めずに、信念を持って、考える必要があるんだ。
ましてや人の命よりも大事な電力なんてものもないんだってこと。
原発がなくなったら、確かにしんどいことが起こるだろうと思うよ。
とんでもなく不便で、そして貧乏になる。私が貧乏なのはまあ、いいけど、日本という国の全てが貧乏になるだろうね。
不便もどれくらい我慢できるんだろうね。今まで無尽蔵に電気を使ってきたからね。
とてもとても、想像つかないけど、どうにかできないこともないはずだと思うよ。
でも、仕方ないよ。
何だって変わり始めはしんどいもんだよ。当たり前だよ。
ママも離婚したての頃はしんどかった。する前は不安だった。でも、どうにかなったよ。どうにか、したんだ。
でもこれは日本という国全ての話だからね。ママの離婚と比較するのはおかしいだろうね。
国の全てがしんどくなるって分かってる方向に向かって、舵を切るのが困難だってことも分かる。
勇気がいる。痛みも伴う。そして、犠牲も。変化は怖いものだよ。いつだって、どんなことだって、そうだ。
だけど私たちは、ずっと先のことを見なくちゃいけない。これから先の、未来のことを。
今この瞬間が辛くてもいいんじゃないかな。十年後、二十年後、五十年後、百年後、いやそれよりもっと先でもいい。未来が幸せになれるんなら、いいと思うんだ。
でも、原発を使い続けて、明るい未来はやってくるのかな。何百年後かの君の子どもの子どもの子どもだって、困るんじゃないのかな。
人間はさ、失敗するもんだよね。
でも失敗は成功のもとだよね。君にもいつも教えてるよね。
勿論、国だって馬鹿じゃないから、津波対策とかはするだろうよ。
多分、無理だよね。だって人間は失敗するんだもの。いつかは必ず、何かが起きるよね。
ママは何かが起こったときに、誰かが命張ってじゃないと止められない仕組みなんてあっちゃいけないと思うんだよね。
今もどこかの誰かが命掛けで、どうにもなんない原発をなだめようと頑張ってる。
でもそれが、家族だったら?君だったら?
日本は変わるよ。変わらなくてはいけないんだ。ママにはそれがはっきりと分かったよ。
こんなこと考えたのは生まれて初めてだよ。でも必ずどうにかしなくてはいけない。
強く強く、そう思ってる。ママにはなにができるのかな。きっと、何にもできないとは思うよ。
だってママは東北の片隅の工場でチマチマ働いてるだけの人だからね。政治家でも学者でもないからね。
だけど考えることはできる。そんなに賢くはないちゃらんぽらんで頼りないママだけど、君のためなら必死に考えるよ。
2011年3月11日は、日本にとって重大な日になるはずだと思う。
君もママもこの瞬間に立ち会えたこと、そしてその渦中にいたこと、これはとてもとても貴重な経験だと思うよ。
人によっては運が悪かったって思うかもしれない。
でも、違うんだよ。
私たちはね、歴史の変わり目に立ち会えたんだよ。
2011年3月11日に始まった悪夢を、一つも無駄にしてはいけない。
これを二度と繰り返さないために、未来に伝えていかなくてはいけないんだ。
私は君に伝えたいと思うよ。
この全てのことを、忘れないで。
【計画停電】 加藤コミッショナー 、SMAP引き合いに 「SMAPだって何だって、自分たちでやるんだということを昨日、言ってます」
1 :影の軍団ρ ★:2011/03/23(水) 13:30:30.78 ID:???0
蓮舫節電啓発等担当相(43)が22日、セ・リーグの決めた試合日程に強烈なダメ出しをした。
東京・霞が関でNPBの加藤良三コミッショナー(69)、新純生セ・リーグ理事長(ヤクルト常務)=(58)、
井上智治パ・リーグ理事長(楽天オーナー代行)=(56)、日本プロ野球選手会の新井貴浩会長(34)から報告を受けた。
加藤コミッショナーがSMAPを引き合いに出した。3省庁訪問後の会見で「この状況下で野球を行うことを不謹慎だとは思わない」
と発言し、「SMAPだって何だって、自分たちでやるんだということを昨日、言ってます」と続けた。
21日に放送されたフジテレビ系「SMAP×SMAP生放送~いま僕たちに何ができるだろう~」でSMAPが番組を通じて
見てみぬふりをしてきた。
権利ばかりを主張するようになった。
そんな国民性が生まれてしまったからこんな世の中になってしまった。
でも、こんな発言をする年寄りや東電や民主党の駄目な人達のような人が今の混沌を生み出してしまったように思えてならない。
で、このごに及んでも【他人事】
いい迷惑だ。
ここにコピペしてみる。
念のため注意:以下の放送の予定は(3.22訂正)(独自ドメイン公式には)掲載されておりません
(3.27追記:一週遅れで放送される模様です)
「春来たるGOSICKスペシャル -美しき怪物は混沌の先を視る-」
二人がさまざまな混沌を集めて、「GOSICK」の先を予測するという。
果たして二人は無事に混沌の再構成ができるのか? そして気になる「未来」とは――?
出演:悠木碧・江口拓也・下屋則子・鹿野優以/桜庭一樹/yoshiki*lisa
★オンエア日程
テレビ東京 3月18日(金)深夜1時23分~ # 3.27追記→1週遅れの3月25日に放送済み
テレビ大阪 3月22日(火)深夜1時30分~ # 3.25追記→1週遅れの29日か?
テレビ愛知 3月21日(祝)深夜1時28分~ # 3.25追記→1週遅れの28日か?
テレビせとうち 3月23日(水)深夜1時18分~ → 深夜1時38分~に変更になりました # 3.25追記→1週遅れの30日25:48か?
TVQ九州 3月23日(水)深夜1時43分~ → 深夜2時3分~に変更になりました # 3.25追記→1週遅れの30日26:13か?
上記のオンエアの回は、通常の本編はお休みとなり、特番の放送となります。ご注意ください。
http://megalodon.jp/2011-0314-1933-42/www.gosick.tv/story/index.html
↑(3.22修正)放送不確定(1週遅れで放送するかも?)
ひとつひとつの自由が許容されるほどに、全体は不安定になっていくのに
全体が不安定になりすぎれば個人は不安を覚えて偏向的な理想を通そうとする
流れはたくさんの支流を巻き込みながら、全体の中で大きな存在感を持ち始める
そうすると、不安定な混沌の中で納得できていた別の個人が嫌な思いをする
混沌のままであろうと流れに逆らうために堰を設けようとする
でも、堰ではダメなんだ
流れそのものをなかった事にしない限り、元の不安的な混沌には戻れない
元の心地良い空間は再現されない
多様であることとか画一的であることとか倫理的であることとか秩序だった社会であるとか
そんなことよりももっと根本的に、この社会や世界や世論というものは流動的なものでしかなくて、
そうあることが唯一間違いなく正しいんだろうな
認めるとか許容するとか譲歩するとかそんなの関係なしに、あるべき形として流動性が基板に組み込まれている