はてなキーワード: 原理主義とは
一度虐殺器官を読んだ人(=自分)が内容を思い出すためのもの。
第一部
1
死者の国の夢と、そこに現れる死んだ母さん。
2
僕は「濡れ仕事屋(ウェットワークス)」として、二〇一〇年代後半に頻発する内戦をおさめるため、「レイヤーワン」を殺してきた。レイヤーワン――罪の多寡とは無関係に、それを殺すことでもっとも効率的に争いを終結させられる標的。
仕事で殺してきた数多くの(時に罪のない)標的のことは少しも心に留まらないのに、プライベートでの、母に対する医療行為の打ち切りを決断したことで、僕は気を病んでいる。
3
仕事で、二人の標的AとBを殺すように命じられ、異国に入る。標的Bについての情報は、上司から与えられているはずなのだが、それが上司の意図により隠されている。
4
標的Aはその国で虐殺行為を率いていた為に、ぼくの手により暗殺される。
ぼくは標的Aに、なぜそのようなことをしたのかをきくが、彼はしきりに「わからない」と繰り返す。
標的Bはすでにそこにはいなかった。
第二部
1
彼はしばしば「地獄は頭の中にある」と言っていた。
ぼくの父も、かつて自殺したのだった。
標的B――ジョン・ポールを追って、僕らは殺しを繰り返してきた。彼は内戦から内戦へ渡り歩いているようだった。
だが、ぼくらが暮らすアメリカは、「ドミノ・ピザやペイムービーのリピートの平和」か支配し、戦火とは無縁だったのだ。
2
ペンタゴンに召集される。
そこで「ジョン・ポールは軍とは無縁の文人、学者でいる」、「しかし、彼が関わった国は決まって内戦が起こる」と聞かされる。
彼は今度、ヨーロッパに入ったらしい。
ぼくの新たな任務は、チェコで彼を追跡すること。
3
死者の国の夢――「死体は物質にすぎない、生きた人間も」と母さん。
幼少時、僕は家の中で母さんの視線を感じ続けて育った。その視線から逃れるために、「濡れ仕事屋」を始めたのだった。
4
ジョン・ポールと関係を持つらしい女、ルツィアと接触する。チェコ語の講師をしている彼女の生徒として。
ルツィアに、「言語は進化によって獲得された『器官』である」という話を聞かされる。
5
チェコ・プラハで行方をくらませた人間(ジョン・ポールもそうかもしれない)のIDの追跡可能性はゼロらしい。
9・11のテロとの戦い以後、認証を繰り返さなければ買い物も交通機関を利用することもでしないのに。
ルツィア曰く、「ジョン・ポールはもともとMITの学者だったが、いつからかDARPAの研究(ぼくが使う武装、SOPMODを作ったのもDARPA)をするようになった」
6
ルツィアの部屋からの帰り、若者におそわれるが返り討ちにする。おそらくは、ジョン・ポールの協力者。
IDトレースによれば、かつてジョン・ポールとルツィアが密会していたとき、彼の妻子はサラエボで核に吹き飛ばされた。
第三部
1
死者の国の夢――夢の中のプラハでは、例の虐殺が発生していた。
その夢でも、母さんが現れる。
「母さんは意識はなかったけど、内蔵は動いていた。そして、ぼくが医療行為の中断を認証した。
……母さんが死んだのは、ぼくが認証でイエスと言ったときだったんだろうか?」
「あなたは、任務での殺しでは「それは政策が決めたことだ、自分が決めたことじゃない」と、責任の重みから逃れられた。
でも、医療の中断の責任からは逃れられない。あなた自身の決断だから。
……そう思っている。もしくは、中断をする前から私は死んでいたと信じたがっている。
けれど、本当は、私だけじゃなく、あなたがころしてきたすべての人々が、あなたの決断によって死んだ。
私を殺した罪を背負い込めば、あらゆることが帳消しになると思っているの?」
2
夢の虐殺後の静けさとは裏腹に、プラハのあるクラブには、生き生きとした騒々しさが満ちている。
そのクラブでは、IDを認証せずに支払いできる紙幣(みなくなって久しい!)を使うことができる。
「プライヴァシー(認証されない)自由と、テロの自由からの恐怖はトレードオフ。自由の選択の問題」
3
ジョン・ポールの妻子がサラエボで核の熱で蒸発したとき、彼女はジョン・ポールと不倫し、セックスを楽しんでいたという罪の告白。
罪悪感の対象が死んでしまうということは、いつか償うことができるという希望を剥奪されること。
死者は誰も許すことはできない。
4
「濡れ仕事」で数々の骸を見、中央アジアからワシントンに帰ってくると、母さんは事故で死んでいた。が、彼女の心臓は再び動き出した。――危険な軍隊へ行ってしまったぼくへの復讐として、ぼくに生き死にを決断させたかったから?
決断の材料を探す為に、母さんのいえ――ぼくの生家でもある――に行く。
かつてそこでも母さんの視線を絶え間なく感じながら、ぼくは育った。
見つめられることの安堵は、(認証され続けることの安堵は、)息苦しさの表面にすぎない。
結局、母さんの残したログは見ずに(ロックがかかっていて、他人が見ることはそもそもできなかった)、ぼくは母さんの「死」を決断する。
――母さんの視線の「気圧」から逃れたくて、ぼくは母さんを「殺した」んじゃないのか。
5
僕の告白に対してルツィアは、
「人間は生得的に善ね利他行動を行える。あなたの、お母さんを「殺した」決断も、本能による利他の行動。だから、あなたは許されるべき」
ルツィアとの帰り道、気を失う。
ジョン・ポールによる電撃を食らって。
6
とらえられた僕は、ジョン・ポールと会話をする機会を得る。
虐殺の言語は、僕の装備を作ったDARPAが協力した研究により生まれ、僕の殺す対象を選ぶのと同じシステムを利用してる。
7
ルーシャスは、〈計数されざる者〉という、ポールの協力者集団の一人だったのだ。
〈計数されざる者〉は認証を嫌う。プライバシーと平和はトレードオフの関係にあるはずなのに、実際は、認証をすればするほどテロが増加している。
それは、世界の人々が、自分のことにしか興味がないから。ドミノ・ピザとビデオクリップの平和に浸っているから。すぐに手にできるはずの現実に手を伸ばそうとしない奴らばかりだから。
ジョンとルツィアは去る。
僕はルーシャスに殺されかかる。その寸前のところで、ウィリアムズに助けられる。
第四部
1
旧印パ国境地区。そこにいるらしいジョンをとらえるように命じられる。
2
痛いと「感じる」ことはなくても、痛いと「知覚する」ことはできる。人をためらうことなく殺せても、その殺意を自分のことのようには感じない――僕は「濡れ仕事」をこなせるように、DARPAによって、そのように調整されている。
――「殺される」前の母さんと同じ、希薄な意識だ。僕が「濡れ仕事」をするために必要な、意識の希薄さ。
この殺意は、本当に僕のものなのか、僕が「殺す」前、母さんが本当に「死んで」いたのか、僕にはわからない。
3
4
ジョンを文化顧問として雇った、ヒンドゥー原理主義国、ヒンドゥーインディア。
その少年・少女の兵を、「他人の殺意」で殺しながら、ジョンのもとにたどり着き、彼をとらえる。
5
ジョンは、
「私が行っている「虐殺の言語」と、きみが施されている「「他人の殺意」による殺人」は同じだ。どちらも、良心を抑制する」と。
ぼくは、
「あんたには内通者がいるな。政府部内に。僕らの面子か、もっと上のほうだ」
ぼくらアメリカと同等の技術を持った敵によって、列車が襲われる。ジョンは僕たちによる拘束から逃れる。
僕たちも敵も、痛みを「知覚」するが、感じない。体の部分が吹き飛ばされても、戦闘は続く。お互い、「ハンバーガーになるまで弾と火薬をたたき込むしかない」。
リーランドはミンチになりながら、死の間際まで、冷静で希薄な意識で戦い続けた。
第五部
1
インドでミンチになったリーランドは、商品と違ってメタヒストリーを持たないから、つなぎ併せて一つにして、棺に納めるだけでも一苦労だった。
それでも、ミンチにさえならなければ、認証によるメタヒストリーを僕らは持つ。母さんもそうだった。
母さんのメタヒストリーがプロテクトされていなければ、僕は母さんを「殺す」か否かの決断を、認証の蓄積によるライフログを手がかりに探すことができた。
リーランドがミンチになった戦いがきっかけで、ジョンとの内通者が発覚する。
2
発覚した情報を手がかりに、ヴィクトリア湖へとジョンを追う。そこは、誰も追おうとしない人工筋肉のメタヒストリーの行き着く先。
〈ヴィクトリア湖沿岸産業者同盟〉は、人工筋肉の利権を得るために、独立しようとしている。
3
ジョンがいるはずのゲストハウスにルツィアを見つける。
ルツィアを探してゲストハウスに入ると、ジョンが待ちかまえていた。
4(物語のコア)
ジョンは、
「虐殺も利他も、進化によって得たモジュールという点で同じ。むしろ両立すらできる。生存のための大量虐殺というのもありうる。たとえば、食料を多部族から奪って自部族の仲間を生きながらえさせるためだったり」
ルツィアは、
「あなたは、サラエボの奥さんや子供を失って絶望しているから虐殺の言語をばらまいているのね?」
ジョンは、
「いや、愛する人々を守るためだ」
――そうだ。ジョンがいたどの国も虐殺に見回れていたはずなのに、彼の過ごしたアメリカとチェコでは、それが起きていない!
5(物語のコア)
ジョンは、
「人々はみたいものしか見ない。だから、いくら認証しても、テロはなくならない。
ならば、テロで爆発するはずの憎しみがこちら、アメリカやチェコといった先進国に向く前に、彼ら同士で憎しみあってもらおう。――そのために、虐殺の言語をふりまいた」
ジョンは、ぼくらの世界へのテロを未然に防ぐため、虐殺の旅を重ねた。
ルツィアは僕に、ジョンを殺さずに逮捕するように言う。僕らの世界の平和は、ジョンによる無数の死者の上に成り立っているのだと、みんなが知るべきだと。
と、ルツィアがヘッドショットを決められて死ぬ。
ウィリアムズによって。
「なぜ殺した」と僕。
「妻と子のためだ。彼女らは、この世界が虐殺の上に成り立っていることを知らなくていい。
ドミノ・ピザを認証で受け取る世界、くそったれの平和な世界を、俺は彼女らのために守る」
ウィリアムズはジョンを殺したがっているが、僕はルツィアの最後の言葉の通りに、ジョンを生きてアメリカにつれていき、証言の場に立たせたい。
ジョンとともに、逃げる。
「おまえを逃がせばまた、虐殺の言語を振りまくのだろう?」と僕。
「いや、死んだルツィアの望んだ通り、世界に真実を知らせよう」
タンザニア兵と合流しようとするが、それはタンザニア兵になりすました、僕の「濡れ仕事」の仲間だった。
彼がジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。
〈エピローグ〉
……僕は、プロテクトがあるためにライフログを見られなかったのではない。ただ、漠然とした恐怖があって、ライフログの閲覧を申請しなかっただけだ。
僕は幼いころ、常に母さんに監視(ID)されているような気でいたが、母さんのログを読んでみると、必要最低限にしか、僕の存在が記述されていない。
母さんの記録の中に生きていたのは、圧倒的に父、自殺したはずの父だった。
僕は、ジョンからもらった手帳を元に、虐殺の言語を語る。虐殺の言語でもって、ルツィアの願い通り、真実を世に知らせるのだ。
そして、世界にとって危険な、アメリカという火種を、虐殺に突き落とす。
僕はこの決断を背負う。ジョンがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。
☆改変版
ジョンは、
「いや、私は米国内の後ろ盾を失った。深層構造の原理を知られれば、たかが言葉だ。応用されるのも時間の問題だろう。マスコミや政府公報で、いくらでも虐殺の言語を打ち消せるさ。
だが、私は〈計数されざる者〉という新たなバックアップを得られた。認証に対して憎悪を抱く、世界的な組織だ。この力を使えば、私たちのすむ「こちら側」を静寂に保つことができる」
「なにをするつもりだ?」
僕の「濡れ仕事」の仲間が、僕がジョンの答えを聞く前にジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。
〈エピローグ〉
僕はジョンに、「真実」が書かれたテキストファイルを渡されていた。
それを世界に知らしめ、僕たちが虐殺の上にたっていることをみんなが理解することがルツィアの願いなら、僕はそうするべきなのだろう。
公聴会で、ぼくはジョンの件で見聞きしたものを語る機会を得る。
ジョンから渡された「真実」をオルタナに浮かべて話そうとする。
すると、僕が見ずにいた、母さんのライフログをオルタナに突きつけられる。――これが、〈計数されざる者〉、ジョンが最後に得た力か。
幼少の僕は、母さんに監視(ID)され続けていたと思っていた。しかし、母さんのライフログには、あまりにも父ばかりがいる。彼の死語ですら。
それを皮切りに、次々に、アメリカの全議員、いや、オルタナをつけているすべての人々の視界に突きつけられる、真実のログ。世界からアメリカに憎悪の数々が向けられているという真実。〈計数されざる者〉のルーシャスは言っていた。プライバシーの提供と、テロとのトレードオフの不均衡は、みたいものばかりを見ることによって起こると。認証の中に閉じこもり、ドミノ・ピザとビデオクリップの平和の外を知ろうとしないことで起こると。
ふと、アメリカはもう死んでいるのだと思った。母さんに視線を返せない、父さんのように。憎悪を浴び続け、しかしそれを無視しているアメリカは、死んだ父さんと同じだ。
……だが、アメリカに憎悪を向ける小国とて、自分の窮状をしらしめようと騒ぐばかりで、他の小国を知ろうとすらしていないのだ。僕が母さんのログを見ようとしなかったように。
ジョンが行った、〈計数されざる者〉の力の改変。それは、小国の内部で争いを起こす虐殺の言語よりも規模が大きなものだった。互いに無視しあっていたずの、小国と小国の視線をぶつけ合わせる。そして、小国同士で戦争を起こすことで、「こちら側」の平和を保とうとするものだった。
ジョンの考えと僕の考えは違う。
母さんが僕を見ないのは、父さんというすでに存在しない項があるからだ。アメリカからの存在しない視線を小国が期待するように。
存在しないものを、存在しないと意識させること。僕にはそれができる。ジョンから得た「真実」の欠片、虐殺の言語と、僕のマザータン、アメリカで語られる英語によった。
震災の時に家族とは電話連絡したが、それ以外は誰からも「大丈夫? 生きてる?」メール来なかったレベルのぼっちですが、
その生存確認メールから発足したらしい同窓飲み会に誘われている。来月半ば。
フリーメールのサブアド変えてはいなかったけど、それでもよく見つけたもんだ。誰だか知らんけど、卒業5年とか経ってんぞ。
ああ厭だなあ。いや懐かしいよ。懐かしいけど。でもはっきり言ってすごい鬱。
どうせアレだろ、「今何やってる?」から会社とかの愚痴を経て昔は良かった原理主義者の言論大会の流れなんだろ?
「戻れるなら戻りてーなー」とか「学生時代に作った仲間って、ホンモノじゃん? わたしこのメンバーはホントの友達だと思ってるよ、今も」とかそういう懐古会になっちゃうんだろ?
ごめんなさい無理です。ついていけん、そういうの。
戻れるとしても特に戻りたくはない。戻っても時間の無駄だよお。あれやっときゃ良かった的後悔とかあんま無いよ。
たぶん行き着くべくしてまたここに至るだけで何も変わらないし動かないよ。
その程度にはあのころ毎日真剣にやってたよ。少なくとも手ェ抜いてたとかは全然ないよ。逃避もちゃんと全力だった。全力でぐだぐだしたり怯えたりした。
楽しくなかったとは言わんけど、戻ったって倍楽しくなったりしないよー。
生存確認メールが来なかったのは生存確認メール出さなかったからで、出さなかったのはほぼ縁がスッパーン! てなってて今更生きてるかどうかなんて言及してもしょうがねえという気まずさがあったからだし。縁の切り口見てるとむやみに関わるのが野暮な気しかしないよ。
「学生のころの仲間とはビジネスとかカネとか生臭い話や作り笑い抜きで会えるし腹割って話せるよなー」って、腹割ったことなんかねえよ。
いや一応毎回ちょっとずつ割ってるけど(酒入るし)、「ビジネス食い合う話がまるで香水のようだぜ!」レベルの悪臭放つ何かがはみ出るのが厭で怖くて、まるで香水のようだと思ってんのが結局は自分ひとりなのが痛いほど判っていて端からはずらり並んだひと山いくらの汚物群でむしろ貧相なくらいと知っているから、肝心のところは人になんかそうそう見せんよ。つうかお前ら見てねーじゃん。見えてねーじゃん。そして俺もお前らが見えねーのよ既に。
何も分かち合えないのよ、とっくに。
「いやー昔の友達はイイなー」的な癒しを求めにくんなよ。いや求めるのは勝手だけど、俺は持ってねーし欲しくねーんだよそんなもん。
「お前は偉いッ! お前は昔から偉かったよなー」とかそういうのもいいよ。間に合ってますよ。
だいたい昔から偉かったつーけどキミら昔から何を見てきたというのよ。講義かぶったこととかないでしょ? 必須のコマだけでしょ?
限りなく他人に近い知人だよ俺は。キミらにとって。本当に誰だか知らんけどよく連絡先探し当てたな。
「仕事つらいだろ、吐いてみ? ん?」とかもホントいいよ。それほど非常識なクソ上司いないし、愚痴はあるにはあるけど愚痴る余地がないんスよ。
それに言ってて自分でヒートしすぎるから、仕事の愚痴とか陰口的なアレ言わない主義なんで。
「まだまだ下っ端のルーキーに毛が生えたくらいでよくそんなこき下ろせるよな」とかセルフツッコミ入って冷めちゃうんで。
○○さんの近況情報とかは面白いけど、そもそも顔が思い出せねえ。
で、俺がいなきゃこの流れはたぶん起こってこなかったはずなんだな?
いや起こるは起こるだろうけど、もうちょっと発展的というか前向きというか、そういう方向に行ったんじゃあないのか?
一人だけ情報が遮断されてて孤島状になってる人間がいるから、そういうやつでも参加できるような汎用ネタ(ダーク寄り)から出発したら、なんかその薄暗い周辺でとぐろ巻きはじめちゃってどうしようの図なんだよな?
少なくとも卒後1年目ぐらいのお呼ばれはそんな感じだったぜ。翌日仕事あったから抜けたけど、あのときゃ二次会は盛り上がったんでしょ。
流石に懲りて今後はずっと沈黙しようと思っていたのに。ホントさあ、誰なんだよ連絡先探し当てたのはよ。
断りたくねんだよ。断りたくはねーに決まってんだろ。何だかんだで誘いがかかるのはありがたいよ。
でも誰も得しないだろうが出席したってよお!
「おごられ上手」は、おごられてるばっかりじゃないのよ
でもまあ、ケツ拭きなんて発想が単なる意地だっていうのは確かにそう思う
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109
おしゃべりする相手はともだちだけじゃありません。それだけではあまりに退屈です。
ともだちだけが社会ではありません。人は、自分の興味があること、自分が専門としていることを通じて、もっと社会とつながりたいと思っています。ともだち以外の人とつながりの生まれる場所に行きたいと感じています。
個人的には全くもって同意。
で、これ、80年代は、これを全くひっくり返したことが言われてた。「もっとともだちを大事にしたり、友達を作らないとダメよ」「友達がすべてだよ」みたいなね。
生まれてこの方、この「ともだち第一」メッセージには心底うんざりさせられ続けてきたので、こういうメッセージはとても嬉しい。
「ともだち幻想=友達がいないやつは人間として問題がある」や「ともだちについての強迫観念」が生まれてきたのは70年代の末ころだったらしいです。
なんでもそうだけれど、誕生した当初はそれなりに合理的な理由があるもんです。 だいたいそれをおかしな方向にねじ曲げちゃうのがコマースメッセージなわけですが。
最初はあまりにもこの時代の日本社会が仕事一辺倒で、仕事以外で人間の価値をみとめられないこと、男社会への傾倒が急激すぎて、それへの反発が強くなったという話からスタートしてます。
(日本の男優位社会は伝統でも何でもなく、敗戦後に作られたものであるって話も大事ね)
人間関係も全部仕事がらみ、家族ぐるみの付き合いといっても結局仕事に縛られる。女の人や子供はさぞストレスだったろうと思う。
この当時は、必要があったとはいえ、仕事頑張りすぎて脳がおかしくなった男性が調子乗りすぎて、ソレ以外の人間を犠牲にしてヒャッハーしてた時代だったということやね。
(団塊世代の人とかが、「俺たちは毎晩徹夜する勢いでがんばってたのにいまどきの若いものは」とか言ってるのを聞くと、
ああ、日本人ははやく複式簿記を必修科目にスべきだ、と思う。こういうバランス無視の考えだからバブルが起きたんだよ、責任取れとはいわんがちょっとは反省しろボケが。
ああ、彼ら的には悪いのは全部日銀で政府でアメリカの陰謀なんですよね。 本当に信じられないくらいにナイーブな方々だと思う。反省したくてもできない脳のつくりなのね)
そんで、仕事における負け組や、仕事オンリーの人間関係に虚しさを感じる人達が、仕事以外のものをもとめたときにそれがともだちの存在だった、という流れ。
そういえば、この年代も、若者の連続殺人犯とかが立て続けに発生して問題になってたな。
当時から、社会的な問題があると、若者がカナリアよろしくまず発狂し、ソレを見て年寄りは「最近の若者は」って言うのは変わらんかった、と。
で、そこはなんでも極端な日本人、なんでも二元論で考える日本人。
日本人は、なにか新しいことを始めるときに、前のものを否定しなければ気が済まない上書き志向の持ち主です。
「仕事だいいち」に見切りをつけると、どっと「ともだち至上主義」に流れ出した。女の子は「恋愛なんちゃら」かな。
で、こんどは「仕事がデキない奴はクズ」「学歴低い奴は賢い奴の奴隷」みたいなカーストに復讐するかのように
「友達がいない奴は人間のクズ」「いくら偉くなってもあいつ友達いないんだろうな」って言えばなんとなくスカッとする傾向が生まれましたとさ。
とはいっても、おじさんたちは頭が硬いからそう簡単に変わったりはしません。つまり「勉強や仕事第一」主義も残ります。
夫に全面的に依存して思考停止している母親も基本的には夫の方針に従って子供を調教します。なので、勉強第一主義は根強く残ります。
「勉強・仕事だいいち派」と「ともだち100にんできるかな」が勢力闘いをするようになります。
まぁホント日本人くらいですよ、仕事とプライベートを対立関係に置いて、どっちか片方しか取っちゃいけないと考えてるのは。
仕事と私とどっちが大事なの?って慣用句自体、日本人の性格をこの上なく正確に表現してるよね。
不完全なものでも絶対の軸において、ソレにすがってないとアイデンティティを確立できないのは、やっぱり無神教国家だからなのかねぇ。とか知ったかぶってみる。
そうやって、自分だけが幸福になりたいばっかりに、それに適応しない人たちを踏みにじることを何とも思わないことがとっても生き物っぽくていいですよね。
こうやって仕事vsプライベートで対立しあって、お互いがお互いの素晴らしさを主張しようとハードルを上げ続けた結果、
もはや両立不能なレベルまでどちらも要求レベルが高くなって、両立できないからどっちか選ぶ羽目になってまたケンカする。アホかと。
両立するためには、超人的な体力を持つか、仕事時間を自分でコントロールすることが許されるくらい偉くなるか、
あるいはちきりん女史のように、全力で仕事頑張ったあと、途中で退職する以外に方法はないんだろうなぁ。いずれにしろ無理ゲー。
自分で無理ゲー作って、クリアできないとか言って文句言うのって楽しいのかなぁ。
ここで終わればまだ笑い話で済むんだけれど、さらに続き。
当然として「勉強・仕事が出来ない」「友達もいない」人はベン図の外側に追いやられて、「かのものは人にあらず」と迫害の対称になります。
まぁ簡単に言うといじめですね。いじめって人間を測る評価基準があれば必ず発生しますが、まぁ日本のいじめは馬鹿馬鹿しいのが多いですね、クソッタレです。
でまぁ、いじめられたやつがどうなるかについて全く考えてない、フォローしないのも問題ですね。で、そのつけは当然数倍になって返ってくるんですけどね。
社会から切り離されたまま長時間放置されて、社会性を失った人が大勢います。
人間以下の扱いを受け続けると、本当に人間であることを辞める人がたくさんいます。
匿名で振る舞い続けていると、人間であることの節度を失う私のような人間もたくさんいます。
で、そういう奴らはどうするでしょう。
隣人部作ってはぐれ者どうしで連帯する?そんなのフィクションです。サバイブSNSってのがありましたけど多分うまく言ってないんじゃないかと思います。
(はがないはアニメしか見てないけど、あれはともだち教へのアンチテーゼだよね。「きみらがいってるともだちとかはどうでもいいし少ないですがそれが何か?」ってことやろ?)
社会性の訓練とか人間扱いとか、匿名から引き剥がして一個の人格として扱うとか、
そういうレベルから世話焼いてくれるとこがない限り、いちど脱落したものはよっぽどのことがない限り復帰できません。
結局人はひとりひとり自分でなんとかして助かるしかないでしょうね。
ほとんどの人間は、それぞれが「人間以下のなにか」として、ずっと劣等感抱えながら生きていくだけです。
あるいは「人間以下の何科ですがなにか?」と開き直って、twitterやら増田なんかで有名人にからんだりなんなりと社会に迷惑をかけながら生きていくしかない。
人間であるための条件として「友だちがいること」「勉強ができること」ってのがかっちりと決まっているかぎりはもう人間に戻ることはない。
というような感じなんですが、そういうともだち地獄に対して、
「ともだちともだちともだちってそればっかかかお前らは、そんな人生つまんねーだろ」ってのが当たり前に言われだすとまた話が変わってくる。
「ともだち地獄」のいく末は「22世紀少年」であり「原理主義者たちの祭典」ってのがようやくわかってきたみたいで、さすがにみんなうんざりしてきてるみたいです。
勉強もともだちも大事ですが、それを必要条件のように考えると、ほんとにしんどいだけなので、そろそろやめようぜ、って話になってくると嬉しいです。
生きるのは、ただでさえしんどいことだと思うので、そこにわざわざ重荷を載せないでもいいやんか。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。
「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか、私にはよくわからんです。
阿呆な頭で平等主義を誤解したままお題目みたいに唱えるから、能力ある人に引っ張られて自分たちもがんばらなきゃいけないハメになるんですよ。
阿呆なら阿呆でいいやん。 南無阿弥陀仏言ってたら幸せになれる頭の持ち主が、TPPのこととか考えなくていいよ。
あんまり他人のことを気にし過ぎないで、ともだちがどうとか言わないで、自分が好きな事やってりゃいいと思います。
生きるほうを、選ぼう。
我ながら、名言だなぁあ
和みと原理主義 が 組み合わさるのを、目にする事があるなんてwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
いやあ さすがに、社会に適さない方々は違うwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
せいぜいネットには、はてな増田にあったような、エセ科学(ニセ科学だったかも)叩きとネトウヨの類似を指摘するようなものしか、無いのかと思っていたら、実にきめ細かい意見も発信されていて、驚いたが安心した。
http://anond.hatelabo.jp/20081209215136
これは、ちゃんとしてるなぁ、もっと挑発的な感じの、まるでネトウヨ!と決め付けたようなのがあったんだけどな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、上まで書いて、色々探していたら、つい読み込んでしまっていた。
疑似科学については、本当に一つ一つ検証して行くと、かなりの根気が要る。前の水エセの時に、私は知らなかったが、言い方についてだけでなく、反証実験がされてない事に言及していた人もいたようだ。(でも、なぜ反証実験しないかも、書いてあったが。反証実験するまでもない、という説明。それが拷問という議論や色々ある。学術的な論文が提出されてないから反証実験しようがないとも。)
こういうものについて、考える時、科学だけではなく、リテラシーについて、わざとものを考えなくさせている力があるのではないか、みたいな事を考えないでもないので、色々と考え絵しまうのかも。
興味深いというか、何ていうか、不思議だったのは、本人さんも科学的素養がある女性で、科学者だった過去もある人が、元婚約者のニセ科学やそれに準ずるような全ての事(法事や葬式なども)に対する態度に疑問を感じた話。
これ http://anond.hatelabo.jp/20101225004203 ■アンチ似非科学原理主義者を恋人に持った女のつぶやき。
男女どっちも不思議な気がした。
まだまだ興味深いのはある
http://anond.hatelabo.jp/20081118001843 ■[似非科学]ひとまずメモしておく リンク先増田中身がなくなってるのもある
http://anond.hatelabo.jp/20081119072004
>自然科学者にとって、自然科学で説明できる範囲は普通の人が思ってるよりもずっと狭い範囲でしかない。普通の人は、自然科学だったらもっとたくさんの事柄について断定的に説明・予測できると思いがちだが、自然科学者は自然科学は限定的なもので世の中のほとんどのことについて説明できないのだと、ちゃんと認識している。もし認識していないならそれは自然科学者ではない印なのだ。
ハハハ これって、精神科医についても言えたりしてwww
それを探してて、違うところを読み込んでいた
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/1314876472
この記事に関する違和感をようやく理解。
この人と私では同じ現象を見ても、根本的にみる軸も方向性も違うのだ。
「自己嫌悪につぶされるくらいなら自分に優しく」というだけのことを言うために
こんだけ人をボコスカに貶めなければいけない人というのは、戦国時代ならともかく現代では生きづらそうで気の毒だ。
気の毒なだけならともかく、そのボコスカ部分をを敷衍しようとかしてるなら母親以上に有害な存在になりかねない
(文章中から判断するに今のところそこまでは考えてないっぽいが、今後も周囲から理解されてないと感じ続けたなら原理主義者に化ける素質は十分ある)
いわゆるこの手のタイプ > http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/gihou/projectiv_id.html
私は彼女が上げている事例を見て、
「自分が嫌われないために気を使う人」なんてどこにいるんだ?と思った。
彼女が敵意を持って恣意的に解釈しているだけで、彼女の母親の行為は彼女の解釈では説明できないと思った。
なぜなら、「自分が嫌われないために気を使う」ことと「身内をぞんざいに扱うこと」はイコールではないからだ。
前者にエネルギーを使いすぎて後者は手抜きしてしまうってもっともらしい説明が書かれていたが、説明として不十分。
さて、この「なぜ?」という問は、どういう目的で問いかけるかによって全く効果が違う。
解決不可能な「性格」を持って結論とする上の記事は、相手を絶対悪に貶めるという意味で非常に気分の良いものでしょう。
そして、その影響により自分の性格も歪んでしまったので、もうそのまま生きて行くしかないという開き直りも自分にだけは心地良いものでしょう。
そういう目的でなされた「なぜ?」は非常にキレイな答えを出してくれます。なんせ変数が相手だけだからね。
でも、その「なぜ?」は常に後ろ向きなアイデアを生み出します。そしてクソの役にもタチません。ただの精神的麻薬にしかならない。
あとこの記事に幾重にも塗りこめられた無自覚な悪意が、ゲロ吐きそうなくらい気持ち悪い。
その後徐々にポロポロと自覚的に悪意を顕にしていってるけど、最初の文章だけでこの人の「普通の人」に対する悪意は駄々漏れ。
どうせ母親が悪い→母親をこんなにした世の中が悪い(そしてその中に自分は含まれてない。私はただの被害者)的な妄想があるんだろう。
基本的に「暗い人間」の書く文章は、よほど洗練されない限り表に出すもんじゃねーな、と。嵐が丘を読み直したくなったわ。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110906/1315341364
「教えてもらってない」人が人材を教育した場合、教えてもらってない人に怒られた人が受け取ることは「自己嫌悪」と「萎縮」です。
そして、そうしたことを学んだ人がそうした萎縮や自己嫌悪から来る態度を自然に外に出した時、また人材教育者が怒るという悪循環を繰り返します。
その結果、そうした教えを受けた、本来真っ白であった人はドス黒い魂を受け継いで同じことを他の誰かに受け継がせるのです。
(中略)
それは「気付き」と「考える」ことの不在から来る連鎖でもあったわけです。そうした水を飲ませない体育の授業の構図は今も続いています。
ぶっちゃけ上の記事を読んだ時に「どこの彼氏彼女の事情」だよと思ったし、その他10くらいのマンガやラノベがすぐに頭に浮かびました。
いっちゃなんだが、どこにでもある話である。
もちろん当事者にとってはありきたりのパターンでも大変なことだったことは理解できるが、
そのくせ、これみよがしになされた分析においては、自分の当事者性が欠片も考慮されていない。
母親と自分の関係として捉えるのではなく、母親の異常性だけにクローズアップする少女漫画的な安易な発想。
一見前向きだけれど、レミングスの行進を促しているようにしか見えない記事の結論。
(「私は私のままでいいんだ」ってのは一見救いのヒントのようだけど、そういう考えをこそ母親は心配してたんじゃないの?
それが許されるのは天才だけで、凡才がその道を進むには一度諦観を乗り越えて、報われぬ人生を覚悟の上で選びとる必要があるってわかってんのだろうか
普通の自分に誇りを持って生きるって、そう並大抵のコトじゃないぞ? だから私は「普通」の父親母親を尊敬するが、あなたのことはガキだと思う。)
ガキくさい上に、これが結論と言わんばかりのがんこぶり。
いろんな意味で「若さ」がダメな方向に結晶した記事だと思った。
最後に。
何でも暴力あつかい、何でもハラスメント扱い、何でも差別扱いと、自分と違うものを悪として自分から切り離すと、生きて行けないよ。
この人の文章にはとにかく「自分」が存在しない。「私は私のままでいいんだ」はどこいった
高校卒業前に、こういう「キレイなままでいたい症候群」にかかって自殺まで発展する奴いるけど、さすがに社会人になってこの幼さはちょっと痛々しい。
この記事を読んでもやもやを晴らしておきたかったので書いただけで、もっとも、ただの好き嫌いの問題かつ、年齢の違いに拠るものだと思う。
「私はこの記事が嫌いだ。私は後者の記事を支持する」は、「この記事が絶対的に間違っている」というものではない。
私がこの記事をキライで、著者を軽蔑しているからと言って、他の人にとってこの記事の存在価値がないとは思わないし、著者の人生が間違っていることにはなるまい。
北海度のキャラクター、長万部のまんべくんが戦争に関するコメントをして、運用会社が契約をとかれ、twitterアカウントは停止となったという。おそらく停止にいたるまでは、また現時点で役所等には色々と意見がよせられているだろうが、マスコミがとりあげる情報は、ただそうした状況の描写にとどまっている。民主主義国家である以上、言論の自由を尊重し、意見を交換し、またメディがそれをフォローするのが当然だと思うのだが、どうも日本ではそういうことはおこらないらしい。
なぜこういうことがおこるのだろう。日本に暮らす友人は、震災と原発事故をうけてなお、人々は社会的に沈黙をたもっている日本国民の有り様に違和感を感じると伝えてくれた。なぜ、日本の人々は喋らなくなったのだろう。私は、90年代から興った個人主義を軸にしてとらえることはどうだろうかと思う。
日本における90年代(起源としては、70年代のいわゆる革命闘争の敗北以後)の個人主義の高まりは、高度成長期とバブルを抜け、さらなる発展をシステムへの依存から脱却することを願ったというマクロな視点と、日本社会に横たわる社会的な慣わしを越えて個人の人となりを尊重しようという人権的ミクロな視点、こういったものがあわさっていたのだろう。だが結果としてはこれを小泉政権を象徴とした資本原理主義に射貫かれてしまった。「自己責任論」という奇妙な言葉は「下手なことやったら自分で自分の尻ぬぐえ、誰も助けてくれんで」と日本の国民に語りかけ、それが日本社会の通念として起上げてしまった。儲けれる人間がその立場をとどめるには、儲けれられない人間をそこから動かしたくなかったからだろう。
本来、90年代の個人主義の高まりは、先の通り社会(人と人が共に助け合う集まり)に決して抗うものではなく、先の通りむしろその発展を願ったものであったろうが、資本原理主義者たちの言動のもとに用いられる個人主義は個人を社会から引きはがし、国民に沈黙と絶望を与えてしまったのではないか。「沈黙は金」とは例え言葉であって、決して直接に儲かる,儲からないと関わる言葉ではないはずだ(同様にTime is money.のproverb。)。この沈黙は結局状況として既得権益を持つものを利し、システムの脱却を願った90年代個人主義の高まりとまるで逆な状況をつくりだしているのではないか。
まんべくんの件は、こうした日本社会の有り様を端的に現しているように思う。自虐史観にせよ正当史観にせよ、議論しつづけるという行為そのものが重要であることは、いうまでもない。歴史とは私たちがつくり積み重ねていくものなのだから。
またこうした「他者」への向かい合いを尊重する雰囲気こそ、全てを失い、光明を得ず、路傍にいきつく人々、あるいは教養を得る機会にめぐまれず育った人々をうけいれ、共に生きようという社会をつくりあげていく、礎になると私は信じる。
記事に見せかけた広告であふれちゃうの目に見えてるよね。
自社関連の宣伝規制の厳格でない今の状態はそういう状態(記事に見せかけた広告であふれ」た状態)になってるってこと?
うーん、具体的にどういう事象のことを指してるんだろう。
http://news.livedoor.com/article/detail/5749573/
『そんな中CXがお昼の時間帯に韓国ドラマをかけているのは、別に韓国の陰謀でも電通の陰謀でもなんでもなくて、
単純に安いから。そしてその割に視聴率をとるから。(もっと言えばCM枠量設定も多い。)』
韓国ドラマの多さが問題じゃないけど、
それについて冷静に判断してみせる。
問題になってるのはドラマの多さじゃなくて、
笑って良いとものランキングとか、空港での人数とか、韓日戦とか
サブリミナル的な仕掛けとか、アメリカでは違法なニュースに見せかけた広告とかだよね。
(ちょっと追記
記事に見せかけた広告であふれちゃうの目に見えてるよね。
これを経済合理性のお題目で許してたら駄目なのは誰でもわかるはずだけどね)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110719/221544/
これも失言が問われたんじゃなくて、脅迫が問題になったんだよね。
あと藤沢一樹と池田信夫が大量のゴミ情報ばらまいて混ぜっ返すとかもしてるね。
この路線最近はやってるからもっとたくさん事例あるけどとりあえず、すぐに目についたのを。
結論書くのの忘れたから追記。
基本的人権なんてものは「リソースが余ってるから」そのおこぼれで程度に応じて保障されてるだけって現実を理解してほしいな。
「世の中の全員がドロップアウトするリスクがあるんだから、みんなで保障しようよ」という主張もわかるけどね。
我が子がリソースを分けて貰い続ける人生を歩むのも辛いじゃん。
来年、日本が破綻して社会保障制度が無くなったら、どうすんのさ。
妊娠中に障害があるって分かるわけでしょ。その時点でリスクじゃないよ。もう不確実性じゃないよ。確定だよ。
あえて好き好んで突き進みたくないよ。
子供が成人するまで、生きてるかどうかも分からないよ。高齢出産の比率は上昇してるよ。一人っ子だよ。
結婚できるの?子供生まれる?家族もいないまま生涯を終えるんじゃないだろうか。
もし堕胎して、もう一度子供を産めば、孫を見れる可能性は高くなる。
これは確率の話だよ。統計の話だ。ソースは無い。自明だ。調べる手間の問題だ。
俺は元増田が結婚して、子供を出産するときに検査をして欲しいよ。
その時は、堕胎について考えて欲しい。たぶんもう法律は改正されて、違法という解釈もなくなるだろう。
堕胎して、もう一度妊娠するのと、遺伝子レベルでは変わらないかもしれない。
元増田が、原理主義に走って、遺伝子治療を拒否しないことを祈るよ。
障害は神様のプレゼントなんかじゃない。なかったらなかったでいいんだ。