はてなキーワード: 拙速とは
検討を行いましたが、今回につきましては購入を見合わせることにしました。
理由は複数ありますが、主な理由は「納得に至れなかった」ためです。
当方としましては、「提示された見積もり自体に不満を持つ理由はない(そもそも他所も含めて初であり、比較対象がない)」「大きい買い物のため熟慮して買いたい」「結果補助金等で不利になるのは止むを得ない」と再三告げたはずですが、それに対する返事が「でも補助金がないと損ですよね」「減税がないと損ですよね」とばかりでした。
「補助金や減税のために買うのではない」とまで告げたにもかかわらず、「でも補助金が~」「減税が~」の繰り返しで、挙句「いくらだったら大丈夫ですか」と、熟慮したいこちらの意向を一顧だにしない姿勢で、決算期という時期であるにしても強引さが目立ち、信頼関係の構築というには程遠い状況でした。
上記を踏まえて検討しました結果、商品面、価格面では検討の範囲においておおむね納得できるものでしたが、心情面において、このまま拙速に商談を進める事への不安は大きく、「熟慮して納得の上買いたい」という自身のポリシーからすると金銭的不利は承知の上で現時点での購入は見合わせるのが望ましいとの判断にいたりました。
以上、上記理由等ご確認ください。 なお「ではいつ頃なら」との問い合わせについてですが、現時点では未定、または不定でございます。
電子出版だけれど、アメリカができてるからって日本でも簡単にできると思うなよ、と。
もうちょっと、ばかにするだけじゃなくて、日本の出版社の実情とかちゃんと理解してあげようよ。
まぁ今回の訴訟のような、言い訳とも言えないような見苦しい真似をされると、もうこいつらほうっておいて先に進みたい、と思う気もわかるけれどさ。
素晴らしい作品を作れる人のモチモチベーションは大事にしたいです。
津田さんあたりが「僕は裁断されても気にならないなぁ」って言ったってなぁ。
私は別に津田大介の本とか弘兼憲史の本がなくてもいっこうに困らないけど、東野圭吾が本気で本を書けなくなるのは困るんだわ。
彼らが納得して仕事できるように持っていくって目標を早々に切り捨てるのはもったいないでしょう?
あんまり拙速にやると、逆に出版社やメーカーが防衛意識で協力しちゃうかもしれない。
一昔前ののケータイ小説やら今のアニメみたいに「2話ごとに課金」とかが標準になって本より高いかねを払わされるみたいな方式になるのもいやだし、
「ユーザーが買わなくなるだけだろ」っていう意見もあるけれど、「価値のある作品」は少数なんだから、
そららを供給できる所が、出し渋り始めたり、値を釣り上げたらどうしようもない。
いくら他の本が安かろうが、電子書籍で出ていようが、読みたい本がどれもレベル低いとか興味から外れたコレジャナイのばっかりだと困るんです。
すでに本でも星海社新書とか双葉社の一部がひどい事になっていて、これは経営苦しいからその手の読者を掴みに行ってるんだろうなーと思う。
多分今急いで電子書籍はじめてもこういうところしか来ないと思う。
そもそも、今の電子書籍リーダーやらなんやらの普及率がアメリカと日本で違いすぎるでしょ。
スマートフォンの普及率を見て大言壮語してるんですかね? PCユーザーの普及率や利用時間とか見て「できる」と言ってるんですかね?
日本じゃまだ準備できてないよ。 ヘビーなネットユーザーは自分の体感で好き勝手にモノを語ってるけれど、全然無理ですよ?
何を根拠に電子書籍をやれと強弁できるのか、数字を根拠に説得していただきたいところですね。
作者型を情緒的で話しにならないとバカにするくせに、はてな民の大半が、データの一つも持たずに、情緒的に批判してるだけ。笑わせんなボケ。
あれ見てわかると思うけれど、バブル期ですら余程のことがないと成功しないよ?
出版社でもメーカーでもいいよ。今みたいなご時世に、しかも数値的には明らかに低い状況で、
リスクを取って成功する道筋をどうやって立てればいいのか言ってご覧?
今回の訴訟は馬鹿げている。それは間違いない。でもこの話はそこで終わりだ。調子に乗ってそれ以上ピーチクパーチク言ってんじゃねぇ。
そこから一足飛びにさっさと電子書籍にしろとか喚いてるバカを見ると頭痛がする。
確かな需要があるのにやりたくないとでも思ってんのか? 需要なんてないんだよ。
まだ無理なんだよ。バブル期ならともかく、先行投資すら出来る状況じゃないよ。
お前らがそうだからといって、大々的にそっちの流れに移行できると思ってたら大間違いだよ。自分がドマイナーだって認識を持てよ。
その前に「堂々と」こちらのテリトリー侵害をやられたら困るんだよ。おとなしく待ってろ。
やった後にしなきゃよかったなんて思うくらいならやんなきゃよかった
VS.
やらずに後悔するならやった方がマシ
いずれも個人の、狭い認識から継ぎ接ぎした事例と分析なので、広く一般的に通用するわけでもなければ書き手自身に意味のあるものとなるとは限りません
意義や結論を導ききる気は多少はありますがさして信念というものを持たない(保てない)ため
既にやったことに対して、その行為の意義の無さや無常観、もとより始めからそうなることの予感をえていた様子
もうこころからの後悔と、二度とそれをしないことへの決意じみた卑屈さがあります
転じて、後者では未だ結論がでていない事物に対して拙速に取り組もうとする、これから事を成すものの、挑戦者の態度です
彼/彼女は自身や自らを取り囲む環境に対し、現在を事を成す時と定めます
それが未知なるものに対峙する態度として、或いはそれが分かりきったこととして
それが唯一の正解というべきものにせよ、誤りであると気づくための数ある道の一つにせよ
と、ここらで飽きました。
ここで対立する2項はあらかじめ不可分なもので、それをひらいた切り口は、単純に行為をした、前後に分断されているだけだと云うこと。
どちらにもそれなりに合意できる同機と反芻する点があって、それを比較してみたかっただけなのだとわかりました。
(いつもの如く、有意義な結論を探し出すのに飽きた。といってはもったいないけれど)
ただ、両者のような態度のどちらも取り込んでおけば、やることなすことを、同じことを同じように繰り返し続けることはなくなるのではないかという淡い希望を持ちます。
2度はやるまいと思った事を2度とやらない。かつ、未知なること(言い換えると、新しいこと)に対する試行を続けること。
これらの指針/原則に従い行いを繰り返しすことが洗練された方へ向かう手段ともいえる。
(他にもありそうだし、なんかのアルゴリズムで言うところの局所解に陥る可能性も充分ある。)
今日はもういいや。つかれた。
市民団体が授乳中の母親に対し母乳の提供を求め、放射能検査したところ
微量のヨウ素が検出された。
(首都圏で水道水に放射性ヨウ素が検出された時期に採取した母乳のようである)
で、この値について「高いとも低いともなんとも言えない」と団体は回答した。
これについて「科学リテラシーが高いはてなー」が批判の大合唱を行っていた。
★そもそも団体が信用できない。中核派?
無用の混乱を与えるだけだ。
★1ヶ月前の結果を今頃公表するのは何事だ。意図的に発表遅らせたのか?
★水道水に若干の放射性ヨウ素が含まれているなら、多少は母乳に出現し、
かつそれは期間を経ると減少していくのはわかりきっている。
しかし、自分は、この市民団体の行動は、多少拙速な面は否めないものの、
検査を行い公表したこと自体は高く評価されるべき、と思料する。
というのは、この種の調査は、本来であれば厚生労働省が率先して行うものだし、
でなければ朝日新聞やNHKが大規模な調査報道で行うものと考えるからだ。
しかし、これら公的機関や大マスコミは、失念していたのか手が回らないのか、
こういう調査を手掛けることを怠っていたのが実情。
であれば、
「ママの不安に答えるために、こういう調査をすべきでは?」と問題提起を投げかけたということ自体を
実際、日経新聞報道によれば、この市民団体の公表の1~2日後に
そういう意味では、厚生労働省から行動を引き出した、という意味で、高く評価すべきである。
団体が信用できない、サンプル数が少ないと言うが、であれば「信頼できる団体」に検査してもらえばいい。
というか、今時点でこの動きを一切報じない朝日新聞はどうかしている。
「値について判断できないのに検査するのは無責任」という批判も的外れ。
批判されるべきは「暫定基準を作成しなかった厚生労働省の側」のはずだ。
「1ヶ月前の結果を今頃公表するのは何事だ。意図的に発表遅らせたのか?」との批判もあるが、
善意に解釈すれば「検査機関が超込み合っていて、市井の団体の検査は後回しにされた」と解釈するのが自然だが・・
「水道水にヨウ素が出たのだから、多少は母乳に含有されているのは当たり前で、
かつ健康に問題ないレベルなのも予想されているのだから、そういう検査自体が無意味」という批判も当っていない。
確かに科学的知見では「多少は検出されるだろうが、健康に影響ないレベルであろうと予想」されるが、
「実際に検出され、かつそれは健康にさほど問題ないレベルだった、という事実が確認された」
「母乳過程で濃縮されない」という「科学的予想」が「(人体実験的に)立証された」というだけでも、
もっとも、あえて厚生労働省を「擁護」するならば、こういう母乳検査で異常値が発生した際に
「あなたの母乳から異常値が検出された」と「残酷な事実を本人に告知する」ことができるのか?、という重い課題がある。
加えて、母乳採取というのは、ある意味でセクシュアルな話なので、男性職員だと対応できない等の問題も生じる。
その面で「必要性はわかっていてもなかなか踏み切れなかった」という可能性はあるので、
その点は同情すべきかもしれないが・・・
いや・・・
何か極端なことをすると、必ずその悪い面が極端な形で顕在化するってことくらい、生活の知恵レベルでもっといても良さそうなのに。
なんか、雲の上目線で、地に足が付いていない発言が多いんだけど。
もともとは、
で、おっしゃられるとおり、『極端なことをすると、必ずその悪い面が極端な形で顕在化』するから
現状の制度を 大きくは変えられず、 キュウに 失業中の主婦優先にすることも出来ない。って事で。 結局、 同じことを言ってるように思うんだけど、なんで、現行制度に反対してるの?
おっしゃられるように、『何か極端なことをすると、必ずその悪い面が極端な形で顕在化』から、現行の制度を急に変えられないんだよねぇ・・・
あってるじゃん。現状。正しいじゃん現状。これから、ゆっくり、変えていこうって話なんだから。なんら、文句をいうことじゃない。
保育制度ちゃんと、変更を目指してるじゃん。ゆっくり次を待つべき。
文句をいうなら、『何か極端なことをすると、必ずその悪い面が極端な形で顕在化』というのは例外もあって、拙速が必要なこともある!という発言になるよね。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
この記事見て、
自分のイメージにある「団塊オヤジ」と会社のことについて語ってみたく思った。
http://wallstny.exblog.jp/13141694/
書こうと思ってることをまとめるとこんな感じ。
もうちょい短くすると「団塊オヤジをいくら批判してもしょうがなくね?
どうやったら会社は変わるのかみたいな議論自体無駄じゃね?」って思うんですよね。
q:基本的に団塊オヤジの中でもトップの方は頭が悪いわけではない。
問題については一通り認識しているし、それに対しての対策も考えてはいる。
2:だが、戦略が小規模で、しかも狭い。
コストダウンは得意だがそれ以外は結局若者だより、海外たより。
3:若者頼りのくせに若者を大事にしないし、海外の拠点も放置プレイ。
狭くて小さくても戦略を徹底して実行すれば効果があるのかもしれないが
その小さな戦略でさえ碌に実行されない。
細かく人を回し、小さな変化には器用に対応するが、
大枠では「何も変えさせない」為のシステムになっている。
本気の人間が腰を据えて5年~10年とそれを指揮する仕組みになってない。
大体2~3年で事業部長は入れ替わり、そのたびに方針も入れ替わり。
謎のスキャンダルで失脚した。そんなので何かできるわけがない。
5:でも会社のシステムは「昔からこんなものだ」「会社なんてこういうもの」という認識が強く
根本を変えようとする人はほとんどいない。
6:そもそも団塊オヤジの偉い人は若者と対話しようという姿勢がほとんどない。
ニコニコじゃないが「おまえが来い」ってな態度であることが多い。
というわけでぶっちゃけ典型的な老害がいようといまいとそこは関係なく、
「こうすれば会社は変わる」みたいなことを論じていらっしゃいますが
そういう話は、まぁ暇な学者さんに任せて
私たちは自分で社会人としてサバイブする方法を見つけるしかないと思うなぁ。
ここから詳細。
みんな団塊世代のことを碌に知ろうともせずに老害とかバカ扱いばっかりしてるけれど、
定年間際まで働いて平社員とか、入社以来ずっと事務系とかいうド低能老害を除き、
少なくともある程度の地位にいる人達は、
つまり、使えない老害平社員と違いものごとを動かす立場にある老人たちは
この1~6について認識していないということはまずありえない。
ではこうした問題を認識していながらなんで彼らは若者と協力して会社を変えようとしないのか?
そう考えるべきなだと思うんだよね。
「こんなこともしらないのか」とか言っても駄目だと思う。彼らはよくわかってる。
じゃあ若者たちとオヤジたちの認識で何が違うのかというと2点大きく違うことがある。
1つは、1~6の中で一番問題だと思ってるのはどれかということ。
もう一つはオヤジたちには殆ど時間がない、辛抱強さがほとんどないということだ。
1つ目だがオヤジたちが最も問題視しているのは4である。
「「草食系」男子は、上の世代より更にグローバル化に対応していない」である。
「どの時代でもあること」なので、今に限った話じゃないという認識なのだ。
6に至っては、私たちよりはるかに政治不信が強いため、
もはや政治に何かを期待するということ自体ができなくなっている。
よって、変えられる可能性がある問題は4しかないと思い込んでいる。
というよりも、自分たちの時代と比べて明らかに悪化したことが「実感」できるのが4だけなのだ。
少なくとも出世しているオヤジども、特に理系~研究職よりの人間は
何もないところから現在の日本の輸出体制の基礎を築いてきたくらいだから
「グローバリズム」のことは分からなくてもグローバルで活動することには前向きだ。
むしろ世界に出ていかないと日本は喰っていけないぞ、という認識を強く持っている。
「ずっとそうやって国の外ばっかりみてばっかりいたから
国の中が崩壊して、家庭も崩壊して・・・」みたいな話は彼らには通じない。
マザーテレサを引用して身近なものから救え、みたいなことをいくら言っても
オヤジたちは「海外にいって自分で自分を救え。俺たちだってそうしてきた」というだろう。
もうオヤジたちはあまり明るいイメージがない国内に目を向けてない。
他の能力が低くても楽勝で職得られるってのは海外経験のある人間の間では割と常識ね。
まとめると。
その代わり、海外にもっと出ていくべきだという考えでいる。
そして、海外に「出稼ぎ」にいくのは体力のある若者であるのは当然だ、と考えている。
ところがその出稼ぎにいける若者が少なすぎる。
若者が、海外に出て金を稼いでこないから不況なんだ。それが彼らの思考の終着点である。
実際、オヤジどもは国内やネットでの盛り上がりには殆ど目を向けないし、
彼が昔からずっと読んでる日経新聞はそういうオヤジたちの思惑を加速し続けている。
「なにかはわからないけれど」若者が海外に出ていって売れるものを作って金稼いでくる。
そこまで分かってるなら後は、その目標に向けて若者を育てればいいんだけれども、
真剣にそれに取り組まない。あるいは中途半端に手掛けて失敗する。
なぜそうなるか。
それがもう一つの理由だ。
他にも金がない。育てる余裕がない。最後の最後で失敗するのもいやだ。
偉い職についたらもう55歳くらいだから、10年かけて若者を育成することもできない。
いや、できるんだけどそしたら自分で成果を確認できないまま誰かの手柄になってしまうので嫌だ。
仕事以外にもプライベートを充実させたいとか「わがまま」を言いやがって、何様だ。
俺が若い時はわき目も振らずに・・・という感じで、割と人間的な度量もない。
と見える。実際はどうか知らないけれどね。
そこの心配をする必要はないと思いますが。なぜ負の所得税が移民増加につながるような心配をしているのか理解できません。(趣旨を誤読してますかね?)
もちろん不法移民はあってこれはこれで頭の痛い話ですが、不法移民は負の所得税も給付されませんよね?負の所得税は不法移民増加の動機にはならないかと。
ホームレスとかどうすんだ、というのは負の所得税で問題になりますが、移民の心配は移民推進をやってからの問題で、当面負の所得税実施においては考慮不要かと。
確かに子ども手当の時のように拙速で導入してしまうと「国外居住子」まで対象とする不備があるなど問題が起きると思いますが、きちんと準備すれば障害は僅かで済むはずです。もちろん問題はそれなりに残るでしょうけど、それを言うなら、現行の徴税システムや年金システムと変わらない不備であって、負の所得税で問題が一気に増えるとは考えづらいかと。
ニュースを見ていると民主党が反対に回ったようで、6月の議会では否決される可能性が高くなったとか。まだまだ安心はできないのだけれど、ひとまずはほっと胸をなでおろしたい。日々非実在青少年がいかがわしいことをされる漫画やアニメを楽しんでいる身としては、今回の規制案は正直たまったもんじゃなかった。今後も『非実在青少年規制』にはしぶとく反対したいと思う。
ところで僕は、「3次元の児童ポルノについては、単純所持規制まで踏み込んでも良いのではないか?」と考えている。
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かつて、児童ポルノでオナニーをしていた時期がある。大学にはいってすぐの、18~9のころ。近所のレンタルビデオ屋が大手レンタルショップに対抗するため、ビデ倫の審査をうけていない、インディーズ作品を中心にタイトルをそろえていた。友人がインターネット通販で、で裏DVDを大量に購入していた。当時、まだ大学に入学したてで、OLや女子大生の良さが全く分からなかったから、そのおこぼれにあずかって素人援助交際ものを中心としたオナニーライフを送っていた。モザイクが薄くて、フェラチオのシーンがすごくエロかったのも画期的だった。あるとき、いつものように友人の家に裏DVDを借りに行った時のこと。友人のコレクションの中に、少し毛色の違うタイトルがあった。『みさ17歳』とか『まゆ19歳』みたいな、ハイティーンの援助交際ものに交じったローティーン。『ゆみこ11歳』。
「なんでこんなもの買ってんだよ。変態かお前」
「いや、裏DVDを通販するときって、いつも10枚セット1万円で買うだろ? こないだ1枚分余ったから冗談で買ってみたんだよ」
「中身、みたのか?」
「見たけど、最低だよ、あれは」
怖いもの見たさで僕も見てみた。最低だった。
陰毛も生えそろっていない11歳の女の子を、腹の出たオヤジが舐めまわしている。女の子は全くの無表情。感情がどこかにいってしまったみたいに、うつろな目で天井を見ている。女の子は全くしゃべらない。息をしているようにも見えない。「どうなの?気持ちいいの?」オヤジが訊く。女の子は何も答えない。ただ、汚いオヤジの吐息だけが聞こえる。
僕はそこで嫌になって見るのをやめた。友人はいちおう、最後まで見たらしい。途中、女の子のインタビューがあるそうだ。「初体験は?」「お父さん」ビデオを撮影していたのも、お父さん。
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児童ポルノと呼ばれるものの中には、やっぱり『存在しちゃいけないもの』があるんだと思う。今回の東京都健全青少年育成条例に関しては、あまりにも議論が拙速なように思えたので反対の立場だったけれど、現在よりも踏み込んだ規制は、やはり必要なんじゃないだろうか。例えばの話、駅前の雑居ビルでこっそりスナッフ(殺人ビデオ)が売られていたとして、それを買うやつがたくさんいる世界。「スナッフを売ったら金になるから」人を殺すやつがいる世の中。殺すやつを罰するのは当然としても、売るやつ、買うやつにも何らかのペナルティを与えるべきではないか?という感覚。僕の見た『あれ』は、スナッフによく似ていた。
僕が見たローティーンの女の子が出ている裏DVDのシリーズは、たくさん市場に出回っていて、DVDを販売した店は本当にものすごく儲かったらしい。DVDの製作者は逮捕された。出演した女の子のうち、何人かは自殺したみたいだ。僕は少しずつアダルトビデオと見なくなって、最近はずっとエロ漫画やエロ小説でオナニーしている。
ふと、ロリコンの人たちのことを思う。胸が苦しくなる。
『外国人への憎悪を煽る者たち』それはこのエントリに、デマやリテラシーなどとタグやコメントをつけてキリッとしている、はてサやリテラシ厨や民主信者、お前らの事だ!
あ?なに訳わからない寝事抜かしてんだってか?
特別に知能は低い癖にプライドだけは高いバカなお前らにも分かるように噛み砕いて説明してやるわ。
先ず、この590人という荒唐無稽な数字の"デマ"の拡がる背景を考察する。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100404/trd1004040702001-n1.htm
ここにあるように、既に税金対策のために戸籍を偽って扶養者を増やす手口は常套手段となっている。
ここでは節税と表現しているが、これは実態を捕捉出来ない点をついての脱税に他ならない。
悪質外国人が働きに来たところで日本の貨幣が外国に流れるだけで、日本の行政サービスはフリーライドされ税金は入ってこないのである。
このように税金を納めない外国人が、同じ手法でブローカーを通じたり組織だって子どもや養子縁組をしたならば、それをチェックする方法はない。
とってつけたように、
などと施行前日に通達を行っているが、そんな事実際にどうやって調査するんだ。現地国とネットワークをもって組織だって書類を仕上げてくるプロに対し、窓口の公務員がそれをチェックできるとかどんだけお花畑なんだよ。
こんな稚拙なザルなシステムを強行した事に民の怒りが蓄積されている事をまず理解しろ。
この590人登録事件は、その真偽が問題なのではなく、このような不正な請求が実際に組織的に可能である事そのものに起因して発生した現象である。
可能であるならば、やってくるに違いないという思い込みは、たとえそれがバイアスがかっていても消去する事は出来ない。
いいか?ここでそのバイアスを責める前に、システムに不備がある点が問題だという事実、それをその物覚え悪い頭に叩き入れておけよ。
で、そのような条件下で、蓄積した怒りの発散先として、この"デマ"が590人登録騒ぎという形を為し、市井の民の怒りのシンボルと化した。
そしてそのシンボル化がさらに、怒りの表明の焦点を一箇所に集中させる事が、薄ぼんやり暮らしているバカどもに有効に認知を拡めるツールとして機能する事に気づかせ、さらなるスパイラルを描いたのは至極当然である。
高津区役所が電話攻撃でサービス不能になる程度の事で、政府の愚策の問題点を浮き彫りにできるのならば実に合理的な抵抗であろう。
市井の民が、お上の決めた暴挙に対抗するならば、このような手段で対抗するのは当然でありレトリック的に言えば防衛本能の発露でしかない。
だから、これをデマだよキリッとか言ってるだけのうすらバカのみなさま方におかれましては、その指摘になんの意味もない程度の事は理解していただけませんかね?
この"デマ"に寄り添って声を上げる人間の事を、リテラシー強者(笑)なるデマの真偽の判断を否定ツイート一つ如きで判断しておきながら、『デマに乗せられる情弱』という構図で見下して、空っぽな脳を自尊心だけで満たしているだけの単なる思考弱者どもは、妖怪どっちもどっちどころではなく救いようがないうすらバカなんだよ!
まぁバカに言っても無駄かww
もっとも、はてサ脳に侵されてない人間の中でも、"デマ"を使ってこのような煽りを蔓延させる事に眉をひそめる良識的な立場のまっとな人もいるだろう。
だが、その認識は甘いと謂わざるを得ない。
この"デマ"騒ぎさえ、民主教に帰依したバカのやり口に比べるととてもまともな穏当な反対意思の表明にしか過ぎないんだよ。
たとえば、この頭を叩くと空っぽでぽむぽむするから名前が id:pompom20 のブコメ
http://b.hatena.ne.jp/entry/hamusoku.com/archives/2987779.html
id:pompom20 ネトウヨ 子ども手当で民主党叩きしている、この手のレイシストウヨは全員逮捕すべき。ネトウヨの存在は日本の民度を下げる害悪のガン細胞、よって切除手術が必要。
まぁ充分これでもすごいが、これを省略せずに説明すると、つまりはこのような思想である。
これほどまでにガチでやばい本物のキチガイ思想になんの留保の情も抱かないロボット達に今の政権政党が支えられている。
これを敷衍していけば、本当の言論弾圧・ニーメラーが待ち構えているのに、非実在青少年なんていう言論の自由(笑)ごっことかやってる場合じゃねーってのwww
さて、まとめておくか。この"デマ"に乗じて声を上げる者たちを、ネトウヨだの排外主義だの情弱だのと呼びあらわす者たちに告ぐ。
この現象を生み出した最大の責任は、票とりのために拙速な法案を施行した民主政権にある。
致命的な欠陥に対し、とりあえず緊急的な方法で指摘をしているだけに過ぎない者たちに、その手段の稚拙さを謗る事を良識などと考えているうすらバカどもが、いくらヘイトスピーチ、レイシストとレッテルを貼っても、それは外国人を差別する意志(意味もなく外国人にお金を渡すのを阻止するのは差別じゃないよw念のためww)もないのだから事実とは異なる誹謗中傷でしかない。
こうして普通の日本人を悪魔にでっち上げるのは、思考回路の作り方の失敗が産み出した幻影であり、それこそ日本人へのヘイトスピーチ以外の何物でもない。
そのような不当な中傷により、本当にレイシズムが発生する事態が起きる事があったら、お前達こそ本物のレイシスト生成装置であり、非難されるべきはお前らだ。
民主教徒の諸君。自民時代の児童福祉手当と同じとかレイシズムだとか言っても世の中何も解決しないんだよ。
根本的な原因に向き合い、民主政権を支持した自分がバカでしたごめんなさい。
まずそこからはじめるんだ。わかったかな。まぁわかんないだろうがなww
ただ、自らの罪の償いを他罰に求めてもなんの解決も得られないぞとだけ言っておくわ
非実現青少年の話。思いついたので書きます。
twitterとかみてても、なんかどうもどれだけ理性的に話をしようとしても、規制賛成派の人には「救いがたい変態が大声で反対してる」としか思われないようなので、普通のひとにもこのもやもやしたかんじを理解してもらえないかと、例え話を考えました。
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例えばですけど、今回の規制の話って「自動車事故で死ぬ人が多いから、『速いスピード出したら捕まえます』って法律つくります」っていきなり言われたみたいなもんなんですよ。そんで「『速いスピード』ってなんだよ」って質問したら「人が死ぬぐらいのスピードです」って答えが返ってきたから、みんな「常に徐行運転しろってのか」「運送会社の人はどうすりゃいいんだ」「馬鹿じゃねえのか」って憤ってる。
そりゃ確かに自動車事故で人は死んでるし、痛ましい事故があってそれを少しでも減らしたいって問題意識も理解できる。「アウトバーンなんだから、どんだけスピード出してもいいんだよ!」っつって馬鹿みたいなスピードだしてるやつがいて、「それってどうなの」って言いたくなる気持ちもわかる。普通に車に乗ってるひとでもそういう問題意識を持っている人は多いと思う。でも現状、普通の道路では速度規制が行われているし、急ぎたい人用として高速道路が別に区分されている。高速道路の入り口にゲートはもうけられてて、自転車や原付は入れないようになってる。まあ、そりゃときどき原付が迷い込んでくることぐらいはあるだろうけど。おれも実際、原付で高速道路乗ろうとしたことあるんだけど、あれ、だいたい入り口で「原付のやつは乗れねえんだ」ってやんわり断られるよね!まあそれでもがんばって必死に原付で高速に乗ろうとするのが、若さってやつなんだろうけど。
今回の規制の話で一番問題なのは、あまりにも大雑把でむちゃくちゃな規制が行われようとしていること。「『速いスピード』みたいな曖昧な言い回しで速度規制されたら、こわくて車乗れねえよ」「いきなりむちゃくちゃな規制を押し付けるのってフェアじゃない」「規制するにしても、もっと議論を深めてからするべき」「車文化めちゃくちゃにするつもりか」「『わたし車のらないから関係ないです』って言ってるやつ、そんなことないから!みんなが大好きなスイーツだって、運んでくれてる運送会社がつぶれちゃったら食べられないんだから!」今回の規制に反対してる人は、大半が普通に車に乗ってる人なんですよ。もちろん「アウトバーンでスピード出しまくるの最高に楽しい!」って思ってるひともいるだろうけど、それはきっとごく一部で。じゃなきゃ、ネット上でこれだけ多くの人が反対の声をあげないと思う。
だから、今の車社会について問題意識を持っている人も、すぐ「ネットで規制反対のやつはスピード狂ばっかりだ」とか言わないで、冷静に「やっぱり自動車事故で人は死んでるのは見逃せないから、今回のケースは拙速だったにしても、やっぱりなんらかの規制は必要じゃない? 一緒に馬鹿みたいなスピード出してるひとをなんとかできないか、考えましようよ」って言ってもらえないかなと思う。そしたらきっと落ち着いて、建設的な話ができるはず。少なくとも、おれは有意義な議論を交わしたいと思います。
実際、痛ましい事故は本当に多い。おれも以前、悲惨な事故の映像を目にする機会があったんだけど、あれは本当に非道い。吐き気がして、すぐにみるのを止めました。同じ人間として許せなかった。あんなものが流通しているなんて信じられないし、信じたくない。強い怒りを感じます。なので、個人的には事故で悲しい思いをする人がいなくなるように、速度制限なり、エアバッグ、シートベルト着用の徹底なんかは絶対に必要だと思う。もちろん、車文化が生んだ様々なメリットを損なわないような形で。
で、おれの大好きな『自動車ゲーム』なんだけどさ、「あんなすごいスピードで車を走らせて、すごく怖いと思った」って言うけど、誰も轢かれないし死なないんだから、そんなにヒステリックにならなくてもいいんじゃないかって思うんだけど。どうかな?
元増田です。自分語りばかりになってしまいましたが投稿します。
「みんな」が食べていくには、相応の「生産量」が必要なので、「誰かがさぼれば、その分、自分にしわ寄せがくる」と考えてるからじゃないかなあ。実際、社会保障なんてさ。誰かが納めた税金から、生活保護費とか出るわけでしょう? 余力があるなら、もっと生産して、納税しろよって税金たくさん納めてる人は思うよね。
その視点はあえて追求するのを避けていました。
理由のひとつは、あまりにも殺伐とした短絡的な考えに思えるし、自分にもいわゆる「社畜的な面」があると知っているからです。
私自身、アルバイトなどで明らかに手を抜いている人間を見るといらっとくるのも事実です。さらに言えば、そのいらつきの原因が、おそらく賃金以上のものを相手に求めているから、自分の立場を管理職や経営者のそれに誤って置いてしまっているから、であることも認めなくてはなりません。だから、時給1000円前後のアルバイトに求められるクオリティのハードルはそんなに高くない、と思うようにしています。20歳~25歳の社会人のいったい何パーセントが時給換算で1000円を超えるかは分かりませんが、正社員なら福利厚生やボーナスや社会的地位もありますものね。いらつくたび、手を抜いているかどうか決めるのは自分ではないと自制するし、そのうえで相手が自発的に動くような、自らのパフォーマンスの改善を楽しく有意義に捉えてもらえるような声かけをするよう心がけています。
もうひとつは、そうした社会的葛藤を解消できる、あるいはすべきなのは、葛藤している者同士の対立によってではなく、第三者である(さらに言えば、力ある第三者になれる)政府機関などによる調整によると考えているからです。
国民に納税の義務があるならば、国家には最大多数の最大幸福を果たす義務があるはずです。最大多数から漏れた人は不平不満を訴えるでしょうが、しかし訴える相手を「最大多数派」だけに定めてしまい、選挙権を放棄したり、政治における勢力拡大のための周知活動やロビー活動をしないというのはおかしい。社会を放棄してしまうこと自体もひとつの行動になるのでしょうが、連携がなければ早々に各個つぶれていくだけで終わるでしょうし、攻撃は自分の陣地を増やすには非効率的。だからこそ、私のような少数派はアジテーションの次の段階(たぶん潜在的支持層増加のひそかな促進)に進まなければならない気がします。
個人的意見としては、いまの日本において「最大多数の最大幸福」を実現するには、税収を増加させる以外の解決法はないような気がします(嫌だけど)。でも、それを目に見える形(逆進税=消費税アップ)で断行すると政治的支持を失い政権を失うため、表向きには少数の高額負担者からの収入を増やす格好を取りつつ、多数派層であるサラリーマン層や高齢者層の負担をじりじりと増やす、というのが自民党政権末期(たとえば後期高齢者保険制度とか)で、それを拙速に反転(改善ではない)させようとしているのが民主党(子ども手当⇔扶養者控除廃止とか、高校無償化とか)ではないでしょうか。どちらにしてもこの経済状態では財源確保は難しいでしょうね。
元増田は十分納税義務を果たしていると思うから、その程度で罵倒されるんなら、ニートや引きこもりなんて、どうなることやら。心身の不調は誰でも起こすことだし、努力ではどうにもならない部分が多いのだから、「お互いさま」の気持ちであたたかく見守ってもらいたいもんだとは思う。
私は昨日からの増田さんたちとのやりとりで自分が完璧に心の不調を起こしていると気づかされましたwww生暖かく見守ってwww
ほぼ同意します。「お互いさま」の対義語が、きっと(本来の意味から逸脱していた使い方をされている)「自己責任」なのでしょうね。自己責任は、自分で負うかどうか決めるもので、強迫的に責め立てる理由にはならない。「俺たちの税金」「空気読め」と同じくらいへんてこだし、人々を萎縮させるだけにしか作用していない。そりゃチャレンジ精神も沸かないし、閉塞感も蔓延しますよね。「日本は嫉妬社会」という字面を昨日どこかで見つけて、自分を含めてそのとおりかもしれないなと、とても憂鬱になりました。
それはやはり、私自身が余裕のある生活をしているからで、1日14時間働いても1日の生活費は256円くらいしか計上できません。なんて暮らしだったら、余裕ありそうな人はもっと稼げばいいのになあと思うかも知れない。
余裕ありそうな人はもっと稼げばいいのに、というのは、もっと稼いでもっと税金払えばいいのに、ということでしょうか。
切羽詰まったら「もっと稼げばいいのになあ」なんて思う前に余裕ありそうな人を片っ端から蹴落とすくらいするんじゃないですかね、人は。
「毎日フォーラム2009秋シンポジウム」で登壇し意見を述べる仙谷由人行政刷新担当相=東京都千代田区で2009年11月12日、内藤絵美撮影 毎日新聞の政策情報誌「毎日フォーラム-日本の選択」のシンポジウム「政治は変わったか~民主政権の課題と自民再生への展望」が12日、東京都内で開かれた。
仙谷由人行政刷新担当相は、来年度予算の圧縮を目指す「事業仕分け」について「これまで一切見えなかった予算編成プロセスのかなりの部分が見えることで、政治の文化大革命が始まった」と意義を強調。そのうえで「見直し、縮減との結論が出た項目でも、予算を付けなければならないことも出てくる」と述べ、最終的には仕分け結果の当否を政治判断する考えを示した。
これに対し、自民党の石破茂政調会長は「スピーディーだが、乱暴だ。いったん『無駄だ』といえばイメージが定着し、ひっくり返すのは難しい」と指摘し、拙速な議論にならないよう求めた。
「文化大革命」にネガティブなイメージを持ってないあたりが「いかにも」だな。まあ、ある意味「大虐殺」だから間違ってはいないけどさ。
http://chinachips.fc2web.com/argue/090706.html
さて、わたしは様々な事を「考える」ようにしていますが、このように「考えない」方もおられるようですので、代わりに考えなければいけないのかなぁ‥という気もします。 問題は2パラ目にあります。 ドイツのナチスのケースも、ソヴィエトの共産党のケースも、出発点では多数決だったのです。ーーーその多数決で「多数決をやめて、総てあなた方の判断で進めてください」と決めたのが「一党独裁」という結果になったわけです。 古い例を見れば、古代ギリシャで、直接民主制最盛期に、保守派の「キモン」を失脚させて登場した「ペリクレス」の、事実上の独裁を許したのも「民主政体」です。つまり、 この意見がいうところの「多数決原理そのものが否定されかねません」は、無責任な「他人事・評論家風」発言であり、その政局の当事者達の想いとは乖離しているのです。 これは「多数決原理」が正しい、という誤解が土台にあります。 しかし、歴史を見ると、世情が混乱し多数決では纏まらず、「民主政体」では結果的に国が滅ぶケースもあり得るのです。
先日の都議選でもつくづく思ったのだが、どうしてみんなこう、右へならえが大好きというか
勝ち馬に乗りたがるというか、一党をバカ勝ちさせるような投票行動に出てしまうんだろうねえ。というか、よくこんなことが可能だなと、むしろ結束の強さに感心する。
それも60年近く似たような事を続けていて、一向に良くなってないのだから学習能力がというものがない。
上の方も言うように、議会があればいいというもんではない。
こう考えているのは少数派なのかもしれませんが、議会というのは意思決定の場であると同時に(実は)討論のための場でもあって、まともに討論するには各勢力が均衡していることが望ましいのだから(ゲームと同じで、1000対3とかでサッカーとかそんなのゲームと言わん)政権云々ではなく、等しく力を持っている、あるいは等しく無力であるべきであり
一党バカ勝ち戦略はどう考えても頭悪いし、現にあっちこっちにツケが回りまくっているよ。つまり皆さん意思決定の面しか見ていないんでしょうな。
その結果が拙速に次ぐ拙速で、出てきた法律は互いに殺しあってたりでわけがわからんです。
背脂で米炊いてるようなもんですよ。それを60年続けている。老舗の味ですかそうですか。いい加減にしてくれよ。
ねじれ国会とか言われましたが、この時期に少なからぬ膿を搾り出せたことには大いに意義があったし
しょっちゅうバカやらかしているとはいえ、そこそこ良いものを見せてもらったと思うのだがどうだろう。
このままねじれっぱなしでも構わないのだが、別にねじれてあるのにどの政党でなければならないという必要もありませんわな。
というわけで、今必要な調節機能とはむしろ団結しないこと(笑)、乱数的であることだろう、と
従って積極的に負け馬に賭け続ける戦略にも大いに意味があるのである。
(あまりに知性が感ぜられない候補者は勘弁だがのー)
http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2008/04/post-003c.html
民主主義的に意思決定する際、最後は「では、多数決で」と決議することが多いと思います。 しかし、多数決そのものは、民主主義ではありません。 私自身は、民主主義とは、異なる立場の意見をお互いに話し合い、理解しあい、相手のよい部分は取り込み、自分のよい部分は相手に認めてもらい、より高いレベルの解決策を見出していくプロセスである、と理解しています。このためには論理的な議論が必要です。 多数決に持ち込まざるを得ない、ということは、このようなプロセスが十分に働かず、より高いレベルの解決策が見出せなかった場合に起こります。
我々はそのレベルに達していないということですねわかります。
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)
「規制したいひとたちが頑張る→政治家動く→審査機関が自主規制を強化します、と答えて手打ち」
この流れはエロ、暴力、ホラー/映画、漫画、ゲーム等々、種類やメディアの別を問わずしょっちゅう起こっていること。いきなり法律そのものが変わって全ジャンルで暴力禁止!となるわけではない。
今回、騒ぎが拡大したのは「自主規制」の範囲が「凌辱全禁止」という夥しく広いもので、さらに自主規制決定までの期間が異常に短く、なおかつマスコミの報道が異様に早かったことによる。
TBSはあまりにも早すぎたが、憶測、出鱈目とは言いがたい。ソフ倫と政治団体の会合を受けたフライング報道といったところだ。6/2のソフ倫集会の翌朝には毎日、NHKも報道している。非常に早い。
これは「規制したいひとたち」をとにかく一度納得させる必要があってのことと思う。審査機関がみずから規制を強めたいわけがない。ソフ倫を責めるのは筋違いだ。拙速だったのは、拙速でなければならなかったからだと思うのが妥当だ。
運用上の落としどころはソフ倫や関連団体が急いで決めているところだろう。現在の各会社の対応を見る限り、少なくともパッケージやタイトルにおいては凌辱・レイプ等が言葉狩りされることが確定。シナリオについてもガイドラインが敷かれ、一定の制限が行われるだろう。あるいは、ロリ規制のように「本ゲーム内のキャラクターは定められた架空シチュエーションを演ずる役者として描かれており、すべての性行為は合意のもと行われております」といった前置き等が必須になる可能性もある。洋ピンでは暴力的なセックスシーンの後で女優がインタビューに答えて合意であったことを確認することが一般的で、エロゲでも似たようなことをさせられる可能性とてある。
しかし、こういった規制内容は憶測でしかないし、実際の内容がことこまかに発表されることは(作り手に対してすら)無いと思っていい。せいぜい、この言葉は使ってはいけません、こういう言葉を起動時に入れてください、程度。そうしないと、規制推進派に手ぬるさを突っ込まれる恐れがあるし、作り手がギリギリを狙いすぎて無茶をする恐れもある。
ぐだぐだ書いてしまったが、要は「今は各審査団体を信じて待て」ということだ。彼らも彼らなりに戦っている。ソフ倫叩きは「叩く方向を間違っている」。受け手ができるアクションは、それこそ「ソフトを予約する」ことくらいだ。
政治的活動の有効性に対して自分は懐疑的。政権が混乱すれば規制の推進が遅れる、程度の効果はあるのかもしれないがあまり実質的な意味はないだろう。
スワト渓谷のタリバン壊滅作戦は政治基盤を弱め、原理主義を根付かせる
米国としては「こんな筈じゃなかった」と悔やむことしきりだろう。
パキスタンが無政府状態の混沌にある。ますます反米感情が激化している。核兵器の安全管理はむしろ危うくなった。ムシャラフ軍事独裁時代のほうが、核兵器は管理されており、国内にこれほどのテロリズムの嵐が吹き荒れることもなかった。
中国がパキスタンと半世紀にわたる「軍事同盟」を結んできた理由は地政学的に判断すれば、きわめて単純である。
インドとの間における絶対的な緩衝地帯であり、パキスタンもインドを敵視しており、軍事同盟の条件は揃っていた。中国と合弁の武器工場はパキスタン各地にあるが、戦車から戦闘機、機関銃まで量産している。
主として中国が援助したのだ。
中国のテコ入れは、両国にとっての共通の敵=インドをパキスタンが横腹から牽制し、もしインドが強ければ、代理に核兵器をぶっ放して呉れると結構とばかり、パキスタンに核兵器の技術も提供した。
美貌の女政治家、ブッドが首相をつとめていた時代のこと、核兵器開発を軍情報部が秘密に展開していた過程は首相にも知らされていなかった(ブッドが亡命先のロンドンで『TIME』とのインタビューで語ったことがある)。
まして現在のブッドの夫=ザルダリ大統領にも知らされていない。陸軍参謀長はカヤニだが、その実力は大変なものがあり、またシャリフ前首相とも天敵の関係。隙あらば暗殺される可能性がつねにあり、パキスタンの政治家は命がけである。
シャリフ元首相の再登場というシナリオも日々現実味を帯びてきている。
ならばパキスタン国民は悉くが「反米」「親中」かといえば、そういう単純で短絡的図解ではひどく誤解を招くだろう。
現地に行ってみるとよく分かるが、パキスタン人はかなりの程度、高潔である。そして狡猾・老獪である。昔も今も族長支配の封建政治がパキスタンを支配している。イスラム原理主義の猛威は、この封建制度のうえにこそ成り立つ。
むろんパキスタン人のなかには武器の密輸、麻薬に手を出す者もいれば犯罪者も多い。紛争が長引き、教育が遅れているため人々は道徳的に荒んでいる。
原因は貧困である。
貧困がアルカィーダの戦闘員を育てる。サウジアラビアやイエーメン、スーダンでなぜ、滅びたはずのアルカィーダが容易に息を吹き返しているのか。
繰り返すが、原因は貧困である。
実際にパキスタンやアフガニスタンでも、タリバンを支持する階層は三つにわかれ、!)指導層はイスラム原理主義だが、!)貧困による志願層(世直しを信じて志願兵になるから自爆テロはやりやすい)があり、そして!)タリバンが麻薬資金で得たカネで雇う傭兵である。
教育はイスラム教が牛耳っている。神学校は12500ケ所。タリバンは「神学生」の意味である。
実際にグアンタナモ基地(アフガンで捕獲した戦闘員をキューバの米軍基地へ連行)で尋問したアルカィーダ戦闘員容疑者のうちウィグル系の五人は、そのごアルバニアへ亡命を許されたが、まず傭兵といってよく、「良い働き口がある」と騙されて新彊ウィグル自治区からアフガンへ潜入したばかりだった。
パキスタンは同盟関係と武器援助最大のスポンサーでもある中国には、情け容赦なくウィグル系容疑者を引き渡したが、04年に引き渡した容疑者は中国ですぐさま処刑された。国際批判をもろともせず、パキスタンは09年にも七人を中国へ引き渡した(ワシントンタイムズ、4月24日付け)。
米国は普段の態度、原則と異なり、このことでパキスタンを咎めなかった。じつにいい加減である。
さてタリバンが猖獗する地域はパキスタンとアフガニスタンとの国境ばかりではない。
パキスタン政府の統治が及んでいない地区が多いが、西北部のスワト地区がとくにそうだった。同地区の38%が政府支配、残りの24%が武装勢力の支配下にある、とBBCが伝えた(09年5月14日)。
この地域はインドとの戦争のときにインドから逃れてきた難民が住み着いてきた。
ワジリスタン地区の南北も同様、人口密集のパンジャブ州(8200万人はパンジャブ州に暮らす)とて47%の住民は政府の遣り方に反対だという。
主流の部族はパシュトーン族、言語はウルドゥ語。ほかにインド系、タジク系、イラン系、ウズベク系など雑多な民族が混在、人口は一億七千万人!
そもそもパキスタン政府が国全体をおさめきれないのだ。部族中心主義のイスラム国家に於いてはアフガニスタン同様に西側民主主義なんていうのは、システムも発想も馬鹿の典型、部族長が決める政治である。
だからパキスタン軍はスワト地区に手を出さなかった。ザルダリ大統領は同地区に厳格なイスラム法の適用を認めるほどに妥協してきた。
まして軍情報部はタリバンのシンパが山のように潜入しているため、軍事機密情報が漏れる。攪乱情報や偽情報に振り回されるとパキスタン政府軍がタリバンに負ける恐れもある。
パキスタン政府のタリバン撲滅路線が曖昧さから強硬路線へと方針が180度変わったのは米国の変心による。
オバマ大統領は、5月6日にアフガニスタンのカルザイ大統領と、パキスタンのザルダリ大統領をホワイトハウスに呼んで会談した。会談内容は秘密だが、爾後漏れてきた情報は、核兵器の安全が米国の最大関心事ということだった。
つまりパキスタンが保有する60発から100発の核兵器がタリバンに奪取されるという空恐ろしき悪夢が現実のものになりつつあると言うのである。
これには前段がある。
ヒラリー・クリントン国務長官が議会証言で「パキスタンの核兵器隠匿場所は全土に拡大した恐れが強く、管理リスクが増大している。パキスタン政府が完璧に管理できないとなると、タリバンの手に渡らないとも限らない」(4月23日の議会証言)。
そしてヒラリーはこうも言った。
「われわれはイランの核をたいそう懸念しているが、イランはまだ核保有に至っていない。だがパキスタンは既に保有している」。
01年9月11日の同時テロ以降、米国はパキスタンに対して核兵器貯蔵場所の安全確保のために一億ドルを供与してきた。
それも水泡に帰す恐れがある。
幸いにしてザルダリ大統領はブッド元首相の夫君でもあり、欧米のウケがいい。
カルザイ(アフガニスタン大統領)は、米国あってこそ存在できる政治家であり、そのカブール政権の不正と腐敗に目をつむってくれる限りは米欧に協力するだろう。もともと米国の傀儡としてカブールに入り、しかもいまも依然としてカブールしか統治できない無能力政治家だが、タリバン退治には欠かせない人物である。
▲史上空前の難民が発生、こんな筈ではなかった
ザルダリは突如決めた。
タリバンが多く潜伏するとされたスワト渓谷への本格的攻撃を命じた。
パキスタン軍とて、2007-08年の戦闘で1400名の兵士が死亡、4000人が負傷している。
キラニ・パキスタン首相は「テロリストと武装勢力を壊滅させるまで闘う」と記者会見し、二月に合意したばかりの武装勢力との停戦合意を破棄した。
パキスタン軍の発表では爾来、1100名のタリバンを退治したという「成果」が声高に発表された。
大変な事態が付随しておきていた。
スワト渓谷の多くでは「水道が壊れ、電気がとまり、食糧が底を突き、猜疑心が交錯し、機関銃の乾いた音がそこら中に聞こえ、流れ弾でつぎつぎと住民が死んでいく。電話が通じなくなった。住民は着の身着のままで逃げ出す」(NYタイムズ、6月1日付け)。
難民は既に240万人、毎日8万5000人が難民となって周辺の集落からラホール、イスラマバード近郊の難民キャンプへ押し寄せた。すぐに食糧、医薬品不足に陥った。
西側の支援物資はとどかない、食糧支援は圧倒的に足りない。いや西側の援助団体がテロの対象となって警備が希薄なため、援助物資が届かない。
難民は暗闇の中で死の恐怖と闘っている。
「パキスタンのスワト地区で発生した難民の数もスピードは嘗てのカンボジア、スーダン、イラク、ルワンダのそれより早い」(英紙『インデペンダント』、5月31日付け)。
5月27日、ラホールで自爆テロ30名が死亡した。「パキスタンのタリバン運動」が犯行声明。この団体はブッド首相暗殺に関与したとされる。
にも関わらず5月31日にパキスタン軍情報部は「完全勝利」を宣言し、「ミンゴラを完全制圧した。治安回復はすぐだ」と豪語した。ミンゴラは武装勢力の拠点の都市である。
アルノー・ド・ボルシェグレーブは絶望的な近未来を語る。(アルノーは元NEWSWEEK編集長、アフガニスタンのロシア侵略を追求した国際的ジャーナリスト、作家)。
「神学校では毎年毎年二百万の若者が卒業する。パキスタンでは職がない。パキスタンは誰が敵か、誰が味方かも分別できない、戦争定義のない、戦争国家に陥った。タリバンは、かのロシアと闘ったムジャヒデンの子供たちである。ムジャヒデンは勇敢にロシア兵と闘い、そしてイランでは52人のアメリカ人を人質にとって米国大使館を444日間にわたって占拠した。パキスタンに猖獗するイスラム原理主義は同国政治の根幹をすでに奪胎している。イランがホメイニ革命前すでにイスラムの見えない統治があったように」(『ワシントン・タイムズ』、4月28日コラム)。
Wikipediaはニュース速報のページじゃないことを知らないのか。使っている人間ならこの手の警告はうんざりするほど見ているはずだ。Wikipedia日本語版の質は他国語の同じ記事と比べるとひどいものだ。Popons氏が事件発生から数時間もたたずに拙速な編集をした軽率さは新聞の誤報の質よりも悪い。以下の記事を見てもWikipediaに書くような内容ではないことだ。
記事は、Wikipediaの「社会保険庁長官」の項目の編集履歴について報じた。それによると、「18日正午すぎ」に、「歴代の社会保険庁長官」というタイトルのすぐ下に『×は暗殺された人物を表す。』というただし書きがあり、一覧表の中の吉原さんの名前の前に『×』がつけられていた」という。
引用元は http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0811/19/news051.html
同日午後11時の時点で、書き込みはすべて削除されている。アクセスの記録などから書き込みがなされたパソコンが特定できるとみられ、捜査本部は慎重に調べている。