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はてなキーワード: エゴイスティックとは

2024-02-07

パートナーシップの有無で生きやすさが変わるとしたらそれは間違ってる

「『好き』って感情が分からないのに結婚したい理由がよく分からない」→結婚ロマンスというのが苦悩になっている

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2309267

もちろんつがいという関係性が好きで、同好の士とそういう関係を結ぶというのは各々の自由だと思うんだけど

精神体な要因以外の理由で、そういう関係性がないと生きづらいから、ってのはそうなってる社会おかしいと思うんだよね

アセクシャルセクシャリティの一つで他のものと同程度に尊重されるべきだし、

それ抜きでも根本的につがいってのは独占であってどちらかというとエゴイスティックな営みなわけだから

2023-02-23

「みんなが子供作った方がいい」っていうのは本当その通り

からみんな子供作れ。

私は作らないけど。

1 老後の介護責任管理をやってくれる

まずこれが最大のメリットだと思う。

・老化して体や頭が弱ったとき子供が面倒を見てくれる。

・それに親が何かやったとき子供監督責任を背負ってくれる。

逆に言えば子供がいない老人は

・国が老人の面倒を見る必要がある

・老人が問題を起こしたとき責任追及が出来ず補填なしの事故になってしま

という問題がある

老人の管理というコスト国家地域社会のものにのしかかってくる。

子供がいれば代わりにやってくれる。

子供管理コスト子供産みたてのまだ若い頃に親がやってくれるので地域負担は軽い。

子供問題を起こしても親に損害賠償請求できるので問題ない

2 長期的に生産能力が維持できる

みんなが子供を作り続ければ人間という比較安価で使い勝手の良い労働力社会提供される。

もしも出生率が下がると

・一部産業において人間よりも値段の高いロボットを沢山導入する必要が出る

納税者が減るので国家財政問題が発生する

(・国単位でみたとき競争力が低下する)

最後のは他の国に移民すれば解決する面もあるが、正直移民ってそんな簡単じゃないので「自分の住んでいる国が世界的に高水準な国であり続けてくれて移民というコストを支払わずに済む」という状態が維持される方がいい。

子供子供の頃は教育というコストがかかるが、それは何倍にもなって社会に戻ってくる。

非常に効率的投資となるわけで、それをせずに「個人趣味」だとか「夫婦時間」だとかの見返りの少ない分野に時間お金を浪費されたくないよね。

3 人口分布が維持できる

人口ピラミッドを単なる労働力維持の問題だけだと考えるのは違うと思う。

人口バランスが変わると社会バランスが丸ごと変わる。

それは暮らし方を変化させる必要に迫られるっていうこと。

変化っていうのはなんだかんだでコストがかかるわけで、出来ることな回避したい。

人口バランスが極端に変化してない状態が維持されるのは社会全体にとってはローコスト

というよりも人口バランスが変化することがハイコストかつノーリターン場合が多い。

社会全体の効率的運用のためにも、みんなが子供を生んで適切な人口バランスを維持してくれると助かる。

4 子供経由の人間関係の増加で相互監視できる

子供がいなくなると人間関係が減るというのは本当。

PTAだったり、ママネットワークだったりが消えると地域交流の機会はぐっと狭くなる。

地域との交流が減ると

地域に対して貢献しようという意識が弱まり寄付ボランティアをしなくなる

・周囲の目を気にして行動する率が下がって迷惑行為が増える

自己利益の優先度が上がってエゴイスティック判断を下しやすくなる

といったデメリットが発生する。

これらは個人単位だけで見れば他人の目を気にする生活から足を洗うというキラキラしたイメージがあるが、皆がこれをやると社会が混乱する。

特に日本国土に対して人口密度が高いのもあり、地域社会におけるルール違反我田引水が行われる事にかなり弱い。

また人間善意を前提に作られたシステム悪用フリーライドが行われてそれが機能しなくなると、社会効率的運用が難しくなっていく。

相互監視の機会を増やすめにも人間関係を増やす必要があり、そのためには子供を作ってもらうのが重要になる。


以上の点から、「みんなが子供を作る」というのは社会全体にとって重要な要素だと思う。

だが同時に、私のように子供を作らない人間への弾圧が行われないように「多様な価値観生き方を受け入れよう」という風潮も同時に醸成されるべきだろう。

私が子供を作らないのは、両親ともに持っていた障碍者になりやすDNAが私の世代でははちょうどヒットしてしまい、同じ苦しみを自分の子供が味わう可能性をこの世界に生み出すという判断を下すことに強烈な心理的苦痛があるからだ。

障碍者子供を産むべきではないとは言わない。

正直遺伝率がそこまで高いという気もしないし、なんだかんだ今の医療があれば大体はそれなりに食っていけるので問題ないと思っているから、障碍があっても子供が作りたい人は作ればいいと思う。

単に私は私個人世界観の中で、障碍者としてこの世界に産まれたということに自分精神がかなりの負荷を感じており、そこにコレ以上の負荷を載せたくないだけだ。

こんな私が幸せ暮らしてくためにも健康な人にも障害がある人にも、ぜひ私の代わりにドンドン子供を作ってもらいたい。

皮肉ではなく、本気でそう思っている。

多少の独身税なら払ってやるから

な?

頼むぜ~~~

anond:20230222190044

2022-12-16

受星

じゅ-せい【受星】の解説

《昔、インターネットサービス上で、星を与え合う競争が行われた時、人に星を与えず、受け取ることのみを行なった人間が最も星を集めたという故事から独善的であること。一方的エゴイスティックであること。

2022-11-23

君の名は。」「天気の子」への返歌としての「すずめの戸締まり

ネタバレあり】

過去の重さ』と『大人子ども』について

過去の重み

君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇追体験し、不思議な力によって惨劇回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世過去現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去自分出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である


「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去震災被害経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である


翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティック世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。



過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます

大人子ども

大人論理子ども純粋さ」という対立軸日本アニメ漫画文化普遍的テーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母組紐伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。


「天気の子」では鮮明に「大人論理子ども純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立解決落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼント刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである象徴なのは須賀の義母である相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。


一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤和解が大きなストーリーライン構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸出会シングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生ベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態引き起こし当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。

もともと新海誠キャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品主人公ヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者勝手自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠最高傑作」との宣伝文句伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである


小ネタ

・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある

・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた

・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった

椅子が三本足なのは「三本足でも立って歩いていける」ということ

・昔の閉じ師の本の表紙が「Agarta」(スペル違うかも)と書かれていた(星を追う子ども異世界

2022-07-15

[]ブタがいた教室

クラス家畜を育てて食べるという、実際にあった授業を元に作られた映画らしい。

豚との絆を育む学生達の描写や、教師側や大人たちの視点も描いているあたり、テーマに真面目に向き合って作ってあるなあとは思う。

その他の選択肢もあることを提示しつつ、最終的にきっちりと決断がなされるのも物語としては収まりがいいかな。

ただ、これは本作の主旨そのものの難点だけど、他種に対する命の向き合い方って結局どこらへんに線を引くかって話でしかない(人間目線で見れば)。

そしてどこで線引きしようが、それを人間たちだけで議論している時点で酷くエゴイスティックなのは変わらないわけ。

そのことを多少なりとも分かっている人からすれば、本作そのもの茶番に見えてしまうかも。

逆に、ペットに服を着せるかどうかレベル思考が止まってる人間には上澄みしか伝わらないかそもそも理解できない(「ペット家畜は違う」とか真顔で言いそう)。

2022-03-28

本音と建前

綺麗事常識的言動を「建前」として嫌い、それとは異なるネガティブ発言攻撃的な言動悪口、見下し、エゴイスティックな考え方を「本音」と称して有り難がるのはWeb上で良く見られるが、なんか子どもっぽいとも思う。

走れメロス暴君ディオニスが、人間不信に陥って、メロスもいざとなれば親友を見捨てて逃げ出すだろう、なぜならばそれが人間からだ、人とは皆そのように醜いものからだ、と確信しているのと同じ感じ。物事の裏を知っているようで一面しか見ておらず、多面的であることを認めない。

2022-02-12

今、ミステリと言えば「マダミス」を指す

マダミス=マーダーミステリー

マーダーミステリーとは、ミステリとTRPGを融合させた全く新しい体験型ボードゲーム

ゲームによって与えられた役を演じ勝利条件を満たすためにお互いを出し抜きあう最新型のロールプレイングゲーム

逃げ切りたい殺人犯真犯人を探す探偵探偵を出し抜かねばならない警察・どさくさに紛れたい盗人・時効が迫った過去事件犯人黒幕とも言える殺人教唆犯・特ダネ目当てのジャーナリスト、そして盤面の管理者ゲームマスター、それぞれの役割が与えられそれぞれが目標を目指す。

与えられたトリック、埋め込まれギミックプレイヤーはみなエゴイスティック、それぞれの結末がドラマチック。

紙で読んで探偵に先を越されて、犯人と作者だけが知っている情報に踊らされる時代はもう終わり。

テレビ画面の向こうで続けられる推理「わかったぞ。謎はすべて解けた」解答編で突然出てくる最後証拠、そんな馬鹿げた謎解きが有るか。

全ての手札は与えられている。

探す権利も、隠すチャンスも、暴くセンスは自前で用意。

本当のミステリーはマダミスだけ!

作者都合のミスディレクションはもうおしまい

目の前の犯人との知恵比べがそこにある!

令和の探偵小説なんてのは結局ね、自分には探偵役も犯人役も出来ないって決めつけた臆病者の駆け込み寺なんですよ。

2022-01-11

オーガニックカフェを締めることになった

相方にそう伝えたら

馬鹿か!お前は!理想デカからってチェーン店が作ったフラペチーノと戦えるほど、お前はよく出来ちゃいないんだよ!オヤジ達が何と言おうと生き残る店は一見さんを座らせるためのスペースを用意して生まれたんだ!それは何故だか分かるか?ええ?おまえ達がランチタイム歴史の中で学んだことだよな。新規客の全体人口購買力継続性、それに宣伝だけは常連以外のものを利用するつもりだったからだ。下手に借りを作ると面倒だもんな!しかし、店に居座ることは自分たちのものにした。フッ、一見って奴は金の使い方がケチくさいエゴイスティック顧客からだろう?だからお前達は、お前達に必要新参だけを接客して、地域が育てた商店街の生体エネルギーの全てを吸収して溜まり場を作るつもりだ!それがお前達だ!けどそういうお前達が何故かエンジョイ勢ガチ勢という2つに別れ始めた。しかも店と客の関係でもない。もっと根源的に、白黒とか、分離したカフェオレぐらいはっきりと反発しあう習性を持っている。何故だよ!?一つで完全無欠に永遠であるものなどこの世にはない。だからこうやってぐちゃぐちゃになってきたなら、クラファンだってそうだろう!?自分理想にあるものをこねくり回して探してるものがあるんだろう?キックスタートとかもう下火のクラファンとかさ!オーガニック有機的なものが1人のものであるわけはないのに!貴様!お前は!オタサーの姫程度の女に唆されて……うっ馬鹿野郎!お、おい。あとがないよな。どうだ、えぇ。ブレン、痛い所はないか悪口は言ったつもりなはいぞ……ヨシ!」

2021-08-21

anond:20210821135118

結論としてはミュージシャンが稼ぐためだけのエゴイスティックイベントじゃないよってことが言いたかったんで、そんな感じです

やっぱり俺はアジカンがずっと嫌いだった

俺はずっとアジカンが嫌いだった。

きっかけはリライトがヒットしたあたりからソルファ借りて一通り聞いたけど、「ナンバガイースタン大衆向けに書き換えただけじゃねーか」という感想以上のものを持てなかった。

ヨナヨしたメガネ変人フロントマンやってるのも先人のバンドをなぞっただけのような感じがして嫌いだった。似たようなバンド00年代ごろは鬼のよう流行った気がするんだけども。

というか、アジカン流行り出した頃はキューンレコード自体が丸ごと嫌いだった。キューンのバンドのやつら、どいつもこいつもアニメタイアップばっかりやってヒット目指そうとしてるのが気に食わなかった。もっと曲で勝負しろや!タイアップなんかやるんじゃねえよ!って思ってた。

でも上記感情、全部若気の至りだったよ。学生身分流行り物が全部嫌で、流行っているものに群がっている人間を見るのも嫌で、流行っているものに影響を与えているバンドだったりミュージシャンみたいなものを「今流行っているものはこいつらが先祖なんだぜ」って気持ちを雑にmixiに書き散らかして優越感に浸りたいだけの学生だった。

別に積極的理由流行り物に対して嫌っているわけじゃなかったけど、なんとなく右へならえでみんなが好きなものをみんなと一緒に好きになるのが嫌だっただけなのかもしれない。

でも自分でなんか曲作ろうとかバンド組もうとかなんかしようとかそういう感情も一切なく、ただ流行り物をdisるだけの腐った学生生活を過ごしていた。

その後就職して仕事をしていると大人になったからなのか暇がなくなってしまたからなのか、おおよそロキノン系ロックの細々したヒットチャート一喜一憂することもなくなった。流行り物の曲も「こういうのが売れてる曲なんだ」っていうのを学習する機会として割り切るようになった。キューンが散々アニメタイアップバンドをヒットさせようとしてたのも「生きるためにはまあしょうがないよね」ってなんとなく納得するようになった。後藤原発関係でなんか言ってた時も「政治に口出せるほど偉くなったもんだねえ」「エレキでジャカジャカ電気使って音楽やってんのに脱原発エコロジー標榜してんのか」と内心冷めた目で、でもそういうことをTwitterとかはてブかに書くこともなく淡々と生きていた。

で、東京オリンピックである

https://note.com/gotch_akg/n/n6352512c4041

現場に積み上げられてきた熱意。そして、そこにある人生。一方で、自分がよく知る切実な思いとその活動が乱すかもしれない公共衛生。飛び交ういろいろな言葉を前にして、グワグワになっている。

だが、久しぶりのリハーサルたかだか数時間で、自分が生き返ることも実感した。心の底から、これだ!という実感が溢れ出て、全身をめぐった。エゴイスティック音楽への欲望が俺には少なからずある。

まずミュージシャンmixiアメブロじゃなくnote一言ぶち上げる時代の変化に驚いたけど、「オリンピックdisっておいてこの文章かよ」っていう原発のころとなんら変わらないダブスタ政治信条を見せられて、落胆と安堵が入り混じった感情になった。もうこの文章だけ読んだらオリンピックに出るアスリートが書いてんのかフジロックに出るミュージシャンが書いてるのかわからないもん。

まあ分かるよ。ライブなんてコミケお祭りと一緒で現場臨場感さないと客は財布の紐を緩めない。運営ミュージシャンもそういうのわかってるし生活立ち行かないかライブやるんだって。でもオリンピックdisっといて自分イベントについては日和った感想しか出てこないところが、やっぱり嫌いだなあって思っちゃった。

さっき安堵って書いたのはそういうことだと思う。自分がずっと嫌いだったものを改めて引き続き嫌いでいさせてくれる。

でもこの文章ソルファ聴きながら書いたし、意外といい曲多いのでYouTube Musicアジカン、気が向いたら聴くよ。だから頑張ってください。

2021-08-09

アスリート無罪が納得できない

スポーツ選手は人気職業から戦略として攻撃すべきでないのは事実だが、オリンピック開催による感染拡大について責任がないなどと言う言説は全くのウソであるアスリート達は国から強制的に動員されたわけでもなく、本人の意思東京オリンピックに参加している。自由意志存在する以上、その行為には責任が伴う。

メシの種だとか人生が掛かっているとかい理由は、自粛を強いられる飲食店観光業の人たちも同じであるしかも多くのプロスポーツにはオリンピック以外にもデカ世界大会があり、労働者の日々の仕事なんかよりもよっぽど不要不急であるプロリーグ存在しないマイナースポーツ選手には同情の余地がある)。

「上がやってもいいって言ってたから参加しただけで、罪に問われるのはおかしい」なんてのはアスリート自己決定能力に欠けるとされる未成年だった場合にの適用される言い訳で、いい年こいた大人が僅かばかりの想像力も発揮せず、いや想像していない無邪気なフリをして大規模な人流が発生するイベントに参加するというのは福井県杉本達治知事が自宅の延長とホザいてレストランで会食したのと同じような卑劣行為である

しかし一人のスポーツで身を立てようとする人間が、世間感染拡大なんぞ知ったことかと五輪栄光を掴もうとする行為のものは正しくはないが理解はできる。むしろそういうエゴイスティック姿勢こそが美しいとも思う。前述した通りスポーツ選手は人気商売で、彼らを非難することは政治的立ち位置から戦略として悪手なので、非難する者も非難されるスポーツ選手、そのファンも誰も得をしないのですべきではない。だからといって全方位無罪無責任被害けが残るのも非常にムカつく。よって増田に以下のように書くのみにとどめる。

五輪アスリート達、お前らはクソだ。

2021-07-25

anond:20210724235553

かに内村選手発言はかなりエゴイスティックものだったけど、

あの発言日本人が殺されてるとか本気で信じ込んでるなら、もはやお薬案件だと思うんだよね。

因果関係ってものが分からなさそうなんで、仕方ないか

ワクチンなんかと意外と親和性が高そう。

私も五輪開催には反対で、こんな狂気の沙汰はないと思ってるから開会式からから一切見てないんだけど、

こういう人らってどういう訳だか、五輪の結果も気になって仕方ないんだろうね。

2021-07-11

anond:20210711165435

就職なら、別に家賃とか関係ないのにな。

コロナ禍で選考のために県境を跨いだ移動するなら、地元就職して感染リスクを抑えてほしいというエゴイスティック理由かな。

2021-07-03

SDGsってもっとエゴイスティックものだと思ってたんだよ

「俺の事業継続するために環境保護してやる」っていう

すごくツンデレ的な発想で大好きだったんだよ

それがいつの間にか「社会貢献」「リサイクル」「環境保護」みたいな感じになっちゃって

きつい

ツンデレ的な発想なら対外的に発信する必要はないんだよなあ

ブランディングに使われてるのホントやだ

2021-05-02

SDGsって個人まで降りてこなくていい話だよね

持続可能性って要はビジネス環境の両立の話なわけで

それを担うのはデカ企業であるべきだと思う

なぜか個人まで降ろしてブームにしてるけど、実効性すごく薄そう

 

そもそも持続可能性って自分らの食い扶持を失わないというエゴイスティックな話であるはずなのに

なんか善行みたいになってて違和感がある

2021-02-21

絵描きが消えるのが辛い

最近絵描きが「絵描くのが辛い」って言ってみんな消えてしまう。

私が支援しなかったせいなのかなって思ったけど、それは絵描きのみんなどう思ってるんだろうか。

でも、そんなこと言っても私は相互の絵RTするbotじゃないし、相互のこと有名にしたくてフォローしたわけじゃないし、互いの絵に胡麻すったり傷の舐め合いしたくて「フォローありがとうございますよろしくお願いします」って言ったわけじゃないし、でも、私のRT一つで寿命伸びるんだったら、変な意地張ってないで機械にでもなりゃよかったのかなあ、どうなんだろう。でもそれは私のTwitterの楽しみ方に反している気がする。

キモイ意地張ってないでRTしろクソカス」といわれても仕方ないと思う。目に見える結果でやる気が出るのはマジでそうだし、自分もそういう時期あったし今でもちょっと思ったりするし、その気持ち肯定したい。でも、それのせいでSNSが住みづらい場所になってしまうならもうやめてほしいって、思う。相互の絵が悪いわけじゃないし、相互の絵好きだし、相互が気に入らなくて貶めたいわけじゃない、ただ、「相互支援しなきゃ」って言ってTwitter開くなんておかしいだろって。相互の絵一つ一つに引用RT一生懸命胡麻すって(ほんとうに本心だったらごめんなさい)、それ楽しいですか。どの界隈でも同じくらいそういう人がいると思うだろうから、私のようなクソザコごときが何言ったって何も変わらないだろうけど、でも、ずっとずっと引っかかってた。

いいねRTしなきゃ、相互じゃないんですか。絵描かなきゃ人権ないんですか。

自分の事有名にしてくれないなら興味もないんですか。

絵が伸びなきゃこんな垢ゴミだと思ってしまうんですか。

繋がりたいタグは、友達じゃなくて支持者を増やすためのものだったんですか。

相互にとって、わたしはどこまで行っても「1RT1いいね」でしかなかったんでしょうか。

それが間違ってるとは思わない。だけど、きっと正しくもないんだろう。

私はただ、相互がたしかに同じ日本国内存在していてそれぞれの生活をしていて、働き遊び気が向いたら好きなだけ絵を描いて、私とおなじジャンルに夢中になっているところを、別のジャンルを楽しんでいるところでさえ、見ていたかった。(さすがに全員に対してそうとは言えないけど)

でも相互はそうじゃなかったんだなって思ったら、なんだか悲しい気持ちになってしまった。それはもちろん勝手夢想してる私が悪いけれど。

いや、でも、正直気持ちマジでわかる!!!!!!!!何日も何時間もかけてエスキースたくさんして、ラフ時間の許す限りブラッシュアップして、配色も塗りもめちゃくちゃにこだわって、時折エゴイスティックになってみたりして、そんなふうにしてようやく完成した絵があまり見てもらえないとさすがにつらい!!!!それは私もわりとあるしせっかく描いたんだからもっと見てよーとは思うし、見てもらうために恥ずかしながらアップする時間とか考えたりハッシュタグつけたり、はずかしい話だけどあんまりにも「これはめっちゃうまく描けた!!」と思う絵だったら時間たってから自分RTしたりしてる!!!

でもやっぱり私たちがやってることってどこまでいってもファンアートで、二次創作で、人の作品を借りているだけでしかいから、そういうことは声を大にしてまで言えない。言わない方がいいと思っている。

高校1年生の時いろいろ教えてくれたり仲良くしていただいた方に一度お𠮟りを受けたことがあって、「見てもらえるだけの努力が足りていない」という言葉を私は今でもずっと覚えているし、それが人並みとは言えないかもしれないけど努力はしてきた。それでも伸びなかったときは、次は何描こうかなって前を向くことにしてる。みんなそうすればいいとは言えないけど、数字という無機質で無感情ものに縋らないでいることはそんなに難しいのかな、とは思っちゃう

今日、「消えるけど垢は残すしいつか戻ってくると思う」と言っている人や、おそらく息をしていない人、絡みがあんまりにも少ない人、合わない人などを何人か相互から外してしまったけれど、正直めちゃくちゃに迷った。インターネットはいってもその向こう側にいる人は生身の人間だし、リアルでもSNSでも壊してしまった人間関係が多すぎる故、関係を断ち切るって結構すごい事だと思っている。だからいくら「またどこかで会えたらいいね」という軽い気持ちだったとしても罪悪感がつきまとってすごく、すごくつらかった。

でも、「戻ってきてくれるかもしれない」という希望を捨てたかった。もう終わりにしたかった。絵描きたまごとして、絵を学んで生きている人間として、「伸びる伸びない」で絵を描く人を見ていたくなかった。絵やフォロワーを、承認欲求を満たす完全な道具にしている人を見たくなかった。絵が伸びなくて苦しんでいる姿だってもう見たくない。

やっぱり、私のせいだったんだろうか。私のせいでもあったかもしれないのに、関係を断ち切ってしまってよかったんだろうか。ってずっとずっとそれが離れない。

よほどの努力をしない限り「努力が報われる」とか微塵も思ってないしそんなこと言うつもりない、お願いだからもう、こんなことで苦しまないでほしい。こんなことで、いなくなったりしないでほしい。もちろん人間関係が辛いとか嫌がらせをされるとかもうこのジャンル飽きたとか、垢分けしたいとか、疲れたとか、それで消えるのはその人の強い意志からいいけど、でも承認欲求が満たされない事を理由に病んでしまう、なんてことが最近まりにも多い気がする。もちろんそれが全てだと思っている人もいるかもしれないし、私の悩みこそくだらないと思っている人の方が多いだろう実際。

でも私は、ずっとずっと疑問に思ってる。絵が伸びないから消えてしまった相互にとって私ってなんだったんだろう。私は、ただ自分性癖をひけらかしてそれについてきてくれる人と楽しく話がしたかっただけ。相互とは、リアルともSNSとも違う近くて遠い友人でいたかった。誰にも言えない事を円になってこっそり打ち明けるような温かさが好きだった。時にお互いの事を褒めてえへへってするのもちょっとしかった。それで、どこか別のジャンルに旅立ちたいからとブロ解する相互バイバイってポジティブ気持ち見送りたかった。(あまりにも理想的過ぎるけど)

なんか、私も相当に参ってて感情的でまとまらない文章になってしまったけど、今日バイバイした相互とまたどっかで会えるといいなって思いながらSNSがまた居心地の良い場所になることをちょっとどこかで祈ってたりもしてる。

2020-12-03

人はそれを愛とは呼ばない

今年50歳になった。

自分セクシャリティAセクシャルであると自認してから、ほぼ20年が過ぎた。

自認はしたものの、Aセクシャルを名乗る事に迷いがあったのも事実である

それは「もしかしたら、いつか誰かに性愛を向けることが有るかもしれない」という可能性を感じていたからだ。

しかし、結局のところ私は誰にも、どのセクシャリティにもどのジェンダーにも、性愛を向けることが出来なかった。

愛情を抱く事は有っても。

愛情を抱いた人に、カムアウトして付き合った事も度々あった。

性嫌悪ではないので、行為をしようと思えば出来ないことは無かったが、私はそれを拒んだ。

その気が無いのにすることが、なんだか不誠実な気がして…

過去の幾度かの経験気持ちの伴わないセックス相手にもその「気持ちの無さ」が伝わってしまう事も判っていたし。

その「気持ちの無さ」は私にとっては「拒絶」では無かったが、そう捉えられてしまう事が多かった。というより殆どだった。

多くの人にとっては性愛恋愛感情を含まない愛情は、家族や友人間に向けられるものしかないという感覚から当然のことである

友達以上にはなれないんだね」という意味合い言葉と共に「僕が(私が)〇〇だから?」と、その人の属性(セクシャリティ人種社会的立場等)であるが故に拒絶された、その属性否定されたと思わせてしまったような言葉が発せられる度に、自分自身の無力さを痛感した。

「私が相手に抱く愛情を、(多くの)人は『愛』とは呼ばないのだ」という事は解っていたが、どうにかして伝えたかった。

その人を本当に愛していると。

身体関係に応える事が出来なくても、私に出来る事ならあなたの望みを叶えたいし、力になりたいし、あなた幸せにしたい」と。

「私にとってあなた存在のものがとても尊くて愛しくて、私を凄く幸せにしてくれる最高に素敵な人だ」ということを。

行為拒否は、あなたという人格属性への否定ではない。あなたは何も悪くない」ということを。

でも、それは出来なかった。それは私の力不足所為。(エゴイスティック性格関係してるかも知れないが)

私がもっと成熟した人間で、私の発話に説得力があったなら、少しは伝わったかもしれない。

その人達にもう会う事はないと思うけど、今でも私は伝えたい。

他人はそれを愛とは呼ばなくても、私にとっては本当の愛だったこと。

そして出会えただけでも幸せただったことを。

「愛させてくれてありがとうあなたは人を幸せに出来る素晴らしい人です。」

人はそれを愛とは呼ばない

今年50歳になった。

自分セクシャリティAセクシャルであると自認してから、ほぼ20年が過ぎた。

自認はしたものの、Aセクシャルを名乗る事に迷いがあったのも事実である

それは「もしかしたら、いつか誰かに性愛を向けることが有るかもしれない」という可能性を感じていたからだ。

しかし、結局のところ私は誰にも、どのセクシャリティにもどのジェンダーにも、性愛を向けることが出来なかった。

愛情を抱く事は有っても。

愛情を抱いた人に、カムアウトして付き合った事も度々あった。

性嫌悪ではないので、行為をしようと思えば出来ないことは無かったが、私はそれを拒んだ。

その気が無いのにすることが、なんだか不誠実な気がして…

過去の幾度かの経験気持ちの伴わないセックス相手にもその「気持ちの無さ」が伝わってしまう事も判っていたし。

その「気持ちの無さ」は私にとっては「拒絶」では無かったが、そう捉えられてしまう事が多かった。というより殆どだった。

多くの人にとっては性愛恋愛感情を含まない愛情は、家族や友人間に向けられるものしかないという感覚から当然のことである

友達以上にはなれないんだね」という意味合い言葉と共に「僕が(私が)〇〇だから?」と、その人の属性(セクシャリティ人種社会的立場等)であるが故に拒絶された、その属性否定されたと思わせてしまったような言葉が発せられる度に、自分自身の無力さを痛感した。

「私が相手に抱く愛情を、(多くの)人は『愛』とは呼ばないのだ」という事は解っていたが、どうにかして伝えたかった。

その人を本当に愛していると。

身体関係に応える事が出来なくても、私に出来る事ならあなたの望みを叶えたいし、力になりたいし、あなた幸せにしたい」と。

「私にとってあなた存在のものがとても尊くて愛しくて、私を凄く幸せにしてくれる最高に素敵な人だ」ということを。

行為拒否は、あなたという人格属性への否定ではない。あなたは何も悪くない」ということを。

でも、それは出来なかった。それは私の力不足所為。(エゴイスティック性格関係してるかも知れないが)

私がもっと成熟した人間で、私の発話に説得力があったなら、少しは伝わったかもしれない。

その人達にもう会う事はないと思うけど、今でも私は伝えたい。

他人はそれを愛とは呼ばなくても、私にとっては本当の愛だったこと。

そして出会えただけでも幸せただったことを。

「愛させてくれてありがとうあなたは人を幸せに出来る素晴らしい人です。」

人はそれを愛とは呼ばない

今年50歳になった。

自分セクシャリティAセクシャルであると自認してから、ほぼ20年が過ぎた。

自認はしたものの、Aセクシャルを名乗る事に迷いがあったのも事実である

それは「もしかしたら、いつか誰かに性愛を向けることが有るかもしれない」という可能性を感じていたからだ。

しかし、結局のところ私は誰にも、どのセクシャリティにもどのジェンダーにも、性愛を向けることが出来なかった。

愛情を抱く事は有っても。

愛情を抱いた人に、カムアウトして付き合った事も度々あった。

性嫌悪ではないので、行為をしようと思えば出来ないことは無かったが、私はそれを拒んだ。

その気が無いのにすることが、なんだか不誠実な気がして…

過去の幾度かの経験気持ちの伴わないセックス相手にもその「気持ちの無さ」が伝わってしまう事も判っていたし。

その「気持ちの無さ」は私にとっては「拒絶」では無かったが、そう捉えられてしまう事が多かった。というより殆どだった。

多くの人にとっては性愛恋愛感情を含まない愛情は、家族や友人間に向けられるものしかないという感覚から当然のことである

友達以上にはなれないんだね」という意味合い言葉と共に「僕が(私が)〇〇だから?」と、その人の属性(セクシャリティ人種社会的立場等)であるが故に拒絶された、その属性否定されたと思わせてしまったような言葉が発せられる度に、自分自身の無力さを痛感した。

「私が相手に抱く愛情を、(多くの)人は『愛』とは呼ばないのだ」という事は解っていたが、どうにかして伝えたかった。

その人を本当に愛していると。

身体関係に応える事が出来なくても、私に出来る事ならあなたの望みを叶えたいし、力になりたいし、あなた幸せにしたい」と。

「私にとってあなた存在のものがとても尊くて愛しくて、私を凄く幸せにしてくれる最高に素敵な人だ」ということを。

行為拒否は、あなたという人格属性への否定ではない。あなたは何も悪くない」ということを。

でも、それは出来なかった。それは私の力不足所為。(エゴイスティック性格関係してるかも知れないが)

私がもっと成熟した人間で、私の発話に説得力があったなら、少しは伝わったかもしれない。

その人達にもう会う事はないと思うけど、今でも私は伝えたい。

他人はそれを愛とは呼ばなくても、私にとっては本当の愛だったこと。

そして出会えただけでも幸せただったことを。

「愛させてくれてありがとうあなたは人を幸せに出来る素晴らしい人です。」

2020-09-26

妻の話題から自分気持ちまで

妻が仕事から帰ってくる。管理職相談したが、管理職は成果報告を求めてきた、とのこと。妻は鬱を患っていて、この4月から職場に復帰をした。ここまでの半年間、なんとか仕事を続けていた。しかし、その仕事っぷりは鬱明けの人間の働き方ではなかった。医師から診断書にはおそらく、残業はしないように、という勧告もでているはずだが、膨大な仕事量が与えられていた(ように思う)。そこに対して管理職からフォローが入るわけでもなく、ここまで心身を確認するための面談が行われるわけでもなく、毎日3〜4時間くらい残業をこなして帰ってきた。到底家事をすることもままならず、風呂洗濯食事などのいわゆる日常を回していく家事は、全てぼくがこなしていた。早く管理職に「しんどい」といいなよ。と伝えていた。

冒頭にもどる。妻が管理職面談をとった。昨日の17時ごろ、妻から連絡が入る。「面談をする」と。とうとう妻が管理職と向き合うことができたのか、と嬉しく思いながら帰宅をした。カレーを作って待っていた。帰った妻は、暗い顔をしていた。仕事の成果をみとめてもらえていないのが悔しい、と。ん???体調について話をしてきたのではないのか、と混乱する。詳しく聞くと、半年間の仕事評価のための面談をしてきたようだった。仕事量が過度であること、体調が悪くなっていること、そういうことにはほとんど触れることがなかったようだ。

絶望した。

もともと、妻の職場の在り方にはずっと前からがっかりしていた。同業種だから、知人もいる。なんとなく職場イメージ検討がつく。ゆえに、組合機能しない。同僚性もない。管理職想像力が欠如している。そして、誰かを助ける余裕もない。そんな職場に、妻ではなくぼくがずいぶん前からがっかりしていた。今回のことは、そのがっかり感によって途方もない穴に落とされたような気がした。

カレーがグツグツにられている横で、妻がしゃがみながら、どうしたらいいかからない、と嘆く。ぼくもしゃがみこみ、妻に、職場に、どうしようもない自分に苛立ちながらしゃがみこむ。気持ちのやり場がなくて、身動きがとれなくなった。本当に深い怒りに包まれたり、悲しい気持ちになった時には動けなくなるのだと、ぼんやりと思った。

どんよりとした思い空気の中、カレーを食べた。少し落ち着いたときに、その中で文脈に沿わないのだが、その後別居の話をぼくから持ち出した。正直にいうと、この一件もふくめ、ぼくの何かが限界に近づいているのを感じていた。夫婦生活限界を感じていたのかもしれない。仕事に復帰しようとしている妻に対して、全部の面倒をみている保護者のような振る舞いをすることが多かった。それは妻も呼応するように、ぼくにたいして依存をしているようであった。今回の職場のことに関してもだけれども、ぼくがいないと次に進むことができないような状況に、妻自身がなっていた。買い物を行くときにも、いつも一緒にきて欲しいと言われる。どこかに行くときにも一緒。そういう妻から依存的傾向に、ぼくはうんざりとしはじめていた。じゃあ、自分はどうなんだと言われたら、妻の依存的傾向に拍車をかけるような関わりをしていたのは間違いがないと思う。だから共依存状態なんだ。妻のかかりつけの医師カウンセラーからは療養休暇明けの一年間は環境を変えずに、仕事ができるといいと言われていた。別居とか引っ越しとかそういうことをするのは、まぁ今年度を乗り切ってからだろうと思っていた。我慢もしていた。しかし、今回の一件でぼく自身気持ちの栓が開いてしまった。

限りなくエゴイスティックな話なんだとわかっている。苦しんでいる妻を見ているのは辛い。妻との何をするのも一緒、みたいな共依存的な関係も苦しい。一人の時間が多少は欲しい。結局自分エゴなんだな、とここまで書いて改めて思うし、実は知っていた。でもこの気持ち現実をどうすり合わせていくのか、まだまだ悩むしかないのか。

2020-08-16

anond:20200815092248

ホームレス支援に賛成」というが、ホームレス支援をうたう候補政党投票すらしない。結果、公園に住み着くしか「仕方なくなった」人を排除したあげく「ホームレス支援には賛成だけどさー」という偽善者。そして、自己の在り方を擁護するために、真っ当にホームレス支援する人々を批判する醜さ。

あんたはさー、中途半端なんだよ。自分エゴイスティック悪人だと気付いてるなら素直に認めりゃいいんだよ。

2020-08-15

ノロケが腹立つ理由を自省する

自分は一人でいるのがが好きだし、人恋しさもより煩わしさのが勝つ人間から嫉妬じゃなくて。

じゃなんでイラッとするんだろう。

たぶん、頭お花畑のやつが無邪気にマウント取りに来てるのを拒みたいから。

マウントとるなんて意図はないよーっていうんだろうけど、

そういう人は、赤の他人に聞いてほしいとまず思わないから。

聞いてほしいってことは、すごーいとか良かったねとか好意的感想を勝ち取りたいわけで、

それがうっとうしいんだよね。図々しいというか。

で、わざわざ人にそういう不快な思いを強要してまで、

自分脳汁欲求を優先する人間を見るとイラつくってことなんだろう。

想像力働かせろやって。

繊細チンピラと言われればそれまでだけど、自分はそういうタイプなんだよな。

こっちからはお前に手出さないから、お前もこっちに入ってくれるなみたいな。

自分人生で一貫しているのはこの思想かもしれん。

まあでも自分みたいな人間の方がよっぽどエゴイスティックな気もするし、

柔軟性なくて、他人からしたら面倒な人間なのかもしれないな。

社会がこういう人間であふれるのはイヤだなって自分でも思うし。

人生って難しい。

2020-06-18

エゴサーチ

昔は自分名前検索をすることだったし、今も大抵そうだと思うけど、中には推し画像とか情報検索することの意味で「エゴサ」と言う人もいる。「エゴイスティック検索」だからエゴサ」というわけだ。

2020-02-27

anond:20200227121447

およそエゴイスティックな話だな。Elsevier 辺りから訴えられんで。あとな、研究者場合論文探索・管理能力って研究者としての能力に比例すると思うで(ただし前者が後者保証するものではないのだが)。自分無能だって言ってるようなもので。

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