「クレヨン」を含む日記 RSS

はてなキーワード: クレヨンとは

2021-02-09

絵描きママを求めてる

画用紙にクレヨンで描いた幼稚なイラストを、過去によく母親幼稚園先生に見せていた。「描けたよ〜!見て見て!」……と。すると、それを見た大人は言う。「わぁ!上手に描けたね〜!」

珍しい体験ではないだろう。現に私もそう褒められた過去を持つし、子どもが絵を描いたら皆そうやって褒める。

腐女子の私もTwitterを始めた頃は、パースも構図もデタラメBLアナログ落書きを、写真に撮って投稿していただけだった。しかし数少ない閲覧者にいいねRTをもらい、たまにリプをもらい、だんだん自信をつけていったのだ。そしてアナログから板タブになり、液タブを新調し、iPadで絵を描くようになった。次第にフォロワーも増え、本を出し、アンソロに参加し……。まだまだ欠点だらけなものの、以前よりも多くの人間に絵を見て貰えるまでになった。

振り返れば、ここまで同人活動を続けてこられたのは、フォロワー1桁代の頃の数人による反応が大きい。言うなれば幼子にとっての『ママである。絵を見てもらって褒めてもらう行為が、どんなに貴重であるかを今回の事件で痛感したのだ。

私の表現不快に感じる人も居るだろう。反応がなければ絵を描かないのか?自分が絵を好きなら問題ない?他人評価など気にしない?そう思う人はそれで大いに結構。だが私はそれを踏まえても、やはり多くの人に作品を見て欲しいし、その承認欲求が大きなモチベーションとなってきた。絵を投稿したあと、ソワソワと5分ごとに通知欄を覗く人以外は以降の文章を読まないでくれて構わない。

これから書き連ねるのは、私の懺悔と後悔も含んだ、小さくも悲しい出来事である説教したい訳では無い。ただ思ったことを垂れ流している、ただのオタク戯言である

さて、今回の事件は──ただのフォロワー同士の諍いなのだが──、Twitter上で『ママ』を求めすぎた絵描きによるものだ。その絵描きフォロワー数よりフォロー数のほうが多く、いいね数もほぼ無いオリキャラ絵をよく描いていた。よくリプを頂くので私は彼女相互なのだが、正直に言って絵が上手くない。投稿頻度が高くTLを追いにくいため、こっそりミュートにしている。

この時点ではただの絵描きだ。だが彼女は違った。相互になった絵師小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手推しキャラ推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感想を求める。いいねRTを欲しがる。彼女はそういう人なのだ

私も例に漏れずその絵を送られる対象のうちの一人であったが、適度に受け流していた。無視したり侮辱したりしては、彼女を傷つけてしまうと懸念たからだ。この頃、私は自分が絵を投稿した初期にフォロワーからママ』のように褒められていたことを自分投影し、「自分よりも下手な絵を褒めてあげる私って素敵!」などと酔っていたのかもしれない。少なくとも、尊敬の念で褒める気など微塵も無かった。それこそ幼い子の絵を褒めるように、『この装飾が素敵だね』『可愛い色使いだね』『雰囲気に合っているね』など。毒にも薬にもならないようなコメントをしていた。

しかし、そのコメント彼女にとって承認欲求を満たす麻薬になっていたらしい。私以外の人にもそういった感想を求め続けた。他の絵師にもその行為を繰り返し、受け流すことで承認欲求は倍増した。「あなたも○○ちゃんから絵送られてきた?あれってどうしてる?」などと他のフォロワーから相談されたこともしばしば。腫れ物に触るように、私たち彼女を取り扱っていた……と、思う。

昨夜のことだ。とある絵師投稿した作品彼女リプライ自分オリキャラ絵を貼った。しかし当の絵師無視し、それを見て彼女は拗ねた。メンヘラ気質なことは知っていたが、その行為ひとつ病みツイを連投し、あからさまに拗ねたのだ。(『拗ねた』という表現をあえて使わせて欲しい。それほどまでに幼稚だと思えるからだ)

絵師エアリプで「私だって興味のある作品を選ぶ権利はある」とのこと。その通り。絵師には同情しかない。だって絵師本人は何も悪いことなどしていないのだからとはいえある意味で私のほうは重罪だ。適当に褒めそやして、彼女承認欲求を膨らませてしまったのだから

絵描きのはしくれである私としては、絵を描く行為を好きでいて欲しくて、そうやって褒めていた。しかし、私は彼女の良き『ママ』にはなれなかった。適切に指摘し、良い方向へと導くことは出来なかったのだ。ただただ自尊心を高めるだけで、彼女自身スキルを成長させるには至らなかった。

そういえば──。幼稚園の頃は落書きを褒められていた私だが、中学生の頃、美術時間クラスメイトから言われた。「お前の絵、それだと腕の動きおかしくね?」

今でもセリフを覚えているのだ。当時は悔しくて悔しくて仕方なかった。なんとか笑顔を繕い、「え〜?何それひどくなーい?」と笑い飛ばした。だが、クラスメイト言葉はその後の私を大きく変えた。確か、その頃からだろう。私が人体パーツを意識するようになったのは。過去の絵を光に透かして、反転した絵が歪んでいたと自覚したのは。

お絵描きをするのに大切なのは、褒めてくれる『ママ』ではない。ズバリと指摘してくれる『クラスメイト』が必要だったのだ。そしてそれをバネに描きまくる不屈の精神と、自己分析し見直すポテンシャルも同様に不可欠なのである。そこまでして絵を描かなければ、膨れ上がった承認欲求など満たされないのだ。世間はお前のママじゃない。そんなにSNSは生ぬるくない。

思えば、私がパースも構図もぐちゃぐちゃな頃に褒められていたのも、別に私が無条件に愛されていた訳では無い。当時は、下手でも下手なりに工夫や伸び代が見られたからこそ、フォロワーは褒めてくれたのだろう。「描く度に色塗りが上手になってる!」「どんどん自分の絵柄を確立しているね!」と、フォロワーは私の絵と向き合って評価してくれていたのだ。『ママの甘やかし』ではなく、適切な評価だったと、今更になって思う。

もちろん、絵が下手なまま、話が面白くないままSNS投稿し続ける人はいるし、それが悪いとは微塵も思わない。無条件に認めてくれる存在を求めるから反感を買ってしまうのだ。

そういった面では私も当然未熟者だ。高い評価を得る絵師を見ては、劣等感を感じ、深く落ち込む。予想していたよりも投稿が伸びなければ、反動承認欲求がどんどん膨れ上がる。だがそれではダメなのだ自分の絵が認められないのは、そうである理由存在するはずだ。成長なしに、手放しで褒めて貰おうなど甘ったれた考えでしかない。この事件を通じて私は痛感した。己のいい加減さと、未熟な考えを。

結局、彼女は筆を折るのだろうか。まだ絵を描き続けるのだろうか。私のもとにオリキャラ絵が届けられた時はなんて言おう。当事者絵師は今後どうなるのだろう。

とはいえ絵描きはいつでも褒めてくれる優しい『ママ』の存在を、心の奥底では欲しがっている。私も無意識のうちに『ママ』を求めているのだろう。きっと、この甘えん坊状態はいいねの数を気にしている状況ではずっと変わらないはずだ。絵描きとして、早く独り立ちしたいものである

2021-02-08

会社が怖くなってしまって会社にいけなくなってひさしぶりにクレヨン

相変わらずねねちゃんウサギを殴っててイカれてた。

2021-01-04

家に人が来ないのは良いかもしれない

まだ小学校低学年の頃のこと。

親戚のお姉さんから子供向け画材セットをクリスマスプレゼントにもらった。

24色の小さな鉛筆クレヨンたち。水を含ませて使う絵の具。色とりどりのカラーペン。絵を描く事が好きだった子供の頃の私は心踊った。

嬉しくて、色鉛筆クレヨンたちも丁寧に使った。

クリスマスにもらって約1週間後、自宅に母方の親戚が来た。

母方の親戚には私と2歳年下の子供がいる。

正月親族宅巡りで、当時幼稚園年長だったその子我が家で癇癪を起こして手をつけられなくなった。その子の癇癪をおさめるために、お絵描きセットが差し出された。

私が知らないうちに。

その日私は父方の親族宅を訪問していた。

自宅に帰り、私は号泣した。母に対して文句も言った。

母は「買い直してあげるからそんなに泣くな!」と言い、結果買い直してもらっていない。

あれから十数年が経ち、今年はステイホームが推奨されている。

大学進学時に実家を離れたが今年はもちろん帰省していない。1人自宅で過ごす正月も快適でとても良い!

きっと私だけではない。

全国のどこかでクリスマスプレゼントをもらって、お兄ちゃんからお姉ちゃんからという理由不条理に宝物を使われたり壊されたりした子供達がたくさんいるだろう。

人が来ないお正月がこれからの新様式として定着しますように。

2020-11-28

anond:20201128204947

コツはあるよね正直

考えながら描くことですわ

何も考えずクレヨングルグル輪っかを書き続けても、輪っかを描くのがうまくな…らないだろうしな

2020-11-18

anond:20201118133422

見た目だけじゃ評価はできない。

キズナアイ動画をどれくらい見た?

キズナアイパフォーマンスのあり方は総体的に見てかなり模範的だし、それをずっと貫いている。

YouTuberの例にもれず今風のラフな砕け方は多々あるのでNHKアナウンサー的な模範性とは異なるが、パフォーマーとして大人だなと感じさせる自立した個人感が初期のVには多かった。

あとキズナアイ独自志向としてかなり外向きであり、オタク系以外の多種多様コンテキストと関わり合おうとしている。

後発の「Vtuber」がその高邁さを汲んでいれば、現状のようにはならなかっただろう。

いや、そもそもフォローできなかったのだろう。企業が食いついてワナビーがその傀儡にされた時点で、自立した大人には成り得なかった。

そして企業たちはみな気づき始める。「これ全然からんぞ」と。「○億円投資したのに全然回収できんぞ」と。それで元増田が「真理じみた事実」と表現した路線へ行かざるを得なくなる。

見た目なんかよりも行動が過激になっているということの方がはるかに重大な問題だ。おそらく元増田もそう見ているように思うし、問題意識には共感できる。

色で例えるなら、キズナアイや初期のVが提示していた世界観女性が自ら描くパステルピンククレヨン世界視聴者脳内が染められていく感じであって、

後発の生配信主体でASMRやら吐息やら悲鳴やらを男性が「えっちだ」と感じる目線プロデュースされ演じているのはネオンにぎらついたビビッドピンク世界観。酔わせに来る感じだ。

もちろんそういう露骨なVの配信結構YouTube側に止められたりしているんだが、いやアンチ粘着して通報して止めさせているのかもしれないが、いずれにしろYouTube側が諸手を挙げて推薦しているわけではないというのは元増田とは見解が異なる点ではある。

おめシスなどがYouTube仕様変更を頻繁に動画解説していたりするが、そういった流れを見てもどちらかというと「あまり良くは思っていない」感じがする。

anond:20201117173333

なんでそんなに夫に優しくしてるんだ!?

夫と話すんだ!

全部言うんだ!

言わなきゃわからないよ!!

どうでもいいことしか伝わらない!!!


淡々事務的に話してもいい。

私は嘘泣きが嫌いだが、

こういう時には涙流して泣いて訴えないと、

全然からない理解できない人間がいる事を忘れるな!

泣いてもわからない奴さえいるぞ

今後は

風呂全部

洗濯物干し

(夜でもいい)

(できたら洗濯機回すのも入れても)

(ブラとか特殊なのは分けとくとか)

洗濯物取りこみ畳み

靴磨き

郵便ポスト確認

平日夕飯の野菜類の副菜1つ

(主菜は肉焼くか魚焼くだけ)

土日祝の食事関係全部

皿洗い

(食洗機無いなら可愛くおねだりしよう)

トイレ掃除

部屋掃除

ごみ捨て

おむつ替え

ミルク授乳

哺乳瓶消毒

全部が夫自身担当だって言うんだ!

家事は夫と妻の2人の担当だ!!


余裕があれば妻が手伝うが

妻は育児戦闘中から

余裕があるなら睡眠時間に回すんだ!

倒れるぞ!!!


朝8時に倒れて20時に夫帰宅で目覚めて、

赤ちゃん泣きながらウンチまみれ、

2、3才児のお菓子の食べカスオモチャにまみれ

壁と床にクレヨン油性ペン落書きだらけ

とか

実話ではありませんって言いたい!!!(恐怖)

夫が文句言うなら

赤ちゃんの夜中の担当

授乳おむつ替え、謎泣きのお世話

を代わってもらおう

夫が在宅中は

赤ちゃんは布団か夫の膝上が定位置

「パパによくなつく最近方法

とかなんたら言いくるめよう

実際なつくし何かオモチャを持たせよう


首すわってないから肩車しないように

さぶ症候群の事は伝えよう

蜂蜜はまだダメとか

虫歯菌は伝染するから

夫に言ってる?

トイレも夫と一緒に入らせて

「男は立ってオシッコする事を教えてね」

って

夫にカワイクおねだりしよう

「シーシーするからトイレ行こうね」

って夫が言うようになったら

トイレトレーニングにも良いんだって、とか


レトルトだってベビーフードだって良いんだよ!!


予防接種の予定確認も夫に頼むんだ

「一緒に見て欲しいな」

病院どこにするか困ってる」

最初だけでいいから一緒に行って」

かけらも思ってなくても巻きこめば、

そのうち夫だけで連れて行ってくれる例もあり


気になるのはわかるけど

泣いてもあんまり気にしないで

赤ちゃんは泣くのが仕事から

泣かしてて良いよ!


それから

夫が何かしてくれたら

洗濯物シワだらけでも

お気に入り食器割れていっても


「ありがとう」

最近眠れなくて頭が痛かったけど楽になったよ」

「いつもありがとう

って感謝を伝えて

スキンシップ嫌がらない夫なら

抱きしめるんだ

いつか返ってくるよ

抱きしめてくれるのは子供かもしれないが

2020-10-10

ちゃんと歳取る長寿作品って無いの?

サザエサンとかクレヨンシンチャンとかほぼ同じ年齢でずっと続いてるけどちゃんと歳とって欲しい。

2020-10-07

天才が見たい 1/2

幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケートファミリーコンピュータ。皆覚えている。

幼稚園の頃には、既に自分他者とは異なる存在であることを認識していた。

幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。

ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園落ち葉拾いをして、その落ち葉ちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデ落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手バイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。

作ったちぎり絵先生に見せた時、「これは・・・バイク・・・・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明必要だな」と何故かひとり勝手確信し、画用紙に黒のクレヨン物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。

「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。

俺のちぎり絵物語幼稚園話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。

発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。

その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。


区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。

両親は平凡だった。見合い結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。

ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。

俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校地元公立のほうが良いように思えた。

幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バス苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間為人を把握して対応方法ほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立ゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。


両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校地元公立小学校入学することになった。

小学校に入っても、特に自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。

この頃になると、自分状態客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。

俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。

言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。

何より、公立小学校毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。

「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間コミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。

ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息けが荒い小学生だったと思う。


─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。

─────日本一大学東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。


そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃であるいかにも小学生摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対京都大学に入ろう」と思った。

そこから俺は色々と京都大学情報収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校先生などに尋ねたりしていたが、小学生調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。

しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないもの・・・模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。

日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。

だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。

看守は

給付型の奨学金制度などもある」

経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」

増田君には質の高い教育を受ける権利がある」

などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。

この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているか私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。


当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。


そうして地元公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試偏差値が出るからである

そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベル高校が無理なら、こりゃ京大東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。

悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く

「成績がいいのに何故」

「塾はお金がかかる」

「家でも勉強はできる」

などなど、様々な言葉で塾に通うことを拒否された。

小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。

また、塾が無理なら定性的定量的評価可能代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。

結局、中学3年の春から、塾に行く事を許してくれた。

半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。

そんな母を尻目に意気揚々進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるか勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。

その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつ教室に雨後のタケノコのようにポコポコ存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。

毎日がただ楽しかった。自分天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃん数字が、成績がついてきてくれた。

幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。


高校公立北野高校というところに入った。維新橋下弁護士とか、日本マクドナルド創業者藤田田ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家岡田あーみんとかが通っていた高校である

本当は東大寺学園に行きたかった。学力模試偏差値は足りていたと思う。赤本自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校絶対公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。

中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金申請手続きを自分自身で済ませた。

北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強必要であると思ったからだ。

俺は詐欺師丸出しの口調で「高校学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費予備校に回してほしい。予備校バイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。

この頃になると、奨学金申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。

自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。

俺が小学生中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。

家計ほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。

高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。

昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。


しかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。

大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。

大学合格したこときっかけに、京都に引っ越す事にした。

ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。

大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。


後編に続く

anond:20201007170042

2020-09-05

5万円の高級自転車から5000円の中古自転車の10倍の速度が出るわけじゃない

高いカメラを買えば良い写真が撮れるようになるか?という問いに

『6色クレヨンを64色色鉛筆に変えても絵がうまくなるわけではありませんからねえ...』と答えるヨドバシ店員

https://togetter.com/li/1586443

2020-08-11

どんな色がすき♪

「どんな色がすき」という歌がある。歌詞の一番では「あか」が好きである、といい、赤のクレヨン最初に無くなってしまう、という。その後、2番、3番では、青や黄色が好きだといい、その色のクレヨンがなくなると歌う。これはつまり、人の好みや嗜好の多様性に関する歌で、また親の目線では、我が子に個性が芽生えてきたことを、少し困って見せつつも微笑ましく見守る歌である

問題は、この歌の最後だ。「どんな色がすき」の後に、「ぜんぶ」と言ってしまう。全部の色が好きだから、全部の色が全て無くなるのだ、と。恐らく、平等だとか公平性などに対して製作者が斟酌したためにこのような歌詞にしたのだと思われるが、多様性個性肯定するメッセージがここに至って台無しとなる。非常につまらない歌にしてしまったものだと思う。

2020-07-12

呪怨 呪いの家

実際の有名事件を臭わすの趣味悪い。

作品の中で恐怖を作ってクレヨン

(有名事件の乱用だ)

解決事件もあるし、遺族もいることを考え始めると、

恐怖よりも、気持ち悪さが勝つ。

ホラーとはこんな方向性もあるのか。

疲れてしもうた。

2020-07-04

昔見た絵本だかビデオだかの詳細を今でも探している

・2003〜2005年くらいのもの

・もしかたらこどもチャレンジ付録ビデオ絵本?)だったかもしれない

・描いたものを具現化できるクレヨンが出てくる話

・ゾウとあと何だったか動物が登場する

黄色クレヨンバナナを描いてそれを食べていた

・最終的にお別れするために扉を描くといった話

しかしたら自分記憶違いで全く別の話だったかもしれないし、おそらく二度と観ることは叶わないだろうけれど、時々ふと思い出すのだった。

2020-06-23

増田イチオシの子守唄を教えてクレヨン

すっげえ眠れない。

つらい。

あと最近クレヨンって差別語らしいな?!

クレオンじゃないとダメだって

2020-06-19

anond:20200619123725

絵師と言われている人だって幼稚園の頃はオレンジクレヨンで描いたグチャグチャをママだって言い張ってたんだぞ

ここ好き

なんで同人文字書きって絵の練習しないの?

絵。絵というやつは0.1秒もあれば「上手い・下手という技量」「かわいい・かっこいいなどの快楽情報」がスッと入ってくる。

勿論頭を使って絵を見ようとすれば「光の表現に白じゃなくて水色を使うのかセンスあるな」「三角構図を上手く活用している」「パースが正確だ」などと見ることが出来ると思うが、

大抵の情報受け手はそんなこと考えていない。

漫画漫画というやつは絵の要素にプラスして、「面白いなどの快楽情報」がスッと入ってくる。

勿論頭を使って漫画を読もうとすれば、「コマ割りの構成が単調じゃなくて読みやすい」「このセリフと構図がマッチしている」「タチキリの使い方が上手い」などと見ることが出来ると思うが、

大抵の情報受け手はそんなこと考えていない。

かに同人世界では最近よく音楽動画という技法も用いられるようになった。

音楽ボカロをはじめとした自作楽曲BGMなど関連曲のアレンジ最近はよく「人力」と呼ばれる技術同人表現として用いられるようになった。

動画。これは音MAD手書き動画という古典からMMDなど綺麗な3Dモデルが踊るようなものまでいろいろとある

著作権的なことはここでは触れないが、このようなオーディオビジュアル同人表現も昨今珍しくはない。

でも、ここでもやはり大抵の情報受け手は難しい事を考えていない。

「変わったコード進行活用できてるな」とか「このモデリングポリゴン数凄い!」とかじゃなくて、大抵は「エモい」とか「うまい」とか「ここすき」ぐらいしか言えない。




このように数ある同人表現の中でも、最高峰に知能を活用した表現。それが小説である

まず書き手受け手の両方にある程度の語彙力・読解力・想像力が最低限必要とされる時点で、小説は難しい。

静止画オーディオビジュアル表現場合は、ただ出てきたものを食べれば良いだけなので、それほど咀嚼する必要はない。

知識はあったらあっただけ深く理解できるようになるが、ないからと言って拒絶されるようなことはない。

漫画こそ多少文法理解できるべきだが、「読解したものを頭で想像する」というスキル要求されない。

にも拘わらず、同人文字書きの大半は下記のような要求を読者に対して行いがちだ。

・気軽に読んでもらうこと

・早く読んでもらうこと

大勢に読んでもらうこと

誤読せずに読んでもらうこと

・読んでもらったうえで、正当に評価してもらうこと

こんなんムリに決まっとるやろ。小説ってそういうものじゃない。実は高い教養と知能のある人間の、高い教養と知能のある人間による、高貴な遊びなのだ

それを理解せず、小説特性にそぐわないもの要求するのはちゃんちゃらおかしいのだ。

絵師に対するコンプレックスを抱える者も多いが、絵と同じ性質評価が得られるわけがない。ほしいのなら、絵を描くべきだ。

というと大体口を揃えてこう言うのだ。

「絵の才能がない」

アホか。絵の練習してないだろ。神絵師と言われている人だって幼稚園の頃はオレンジクレヨンで描いたグチャグチャをママだって言い張ってたんだぞ。

そもそも経験上、”絵の才能がないから字を書いてる人”の小説が上手かった試しなどない。

「この人すっげえ同人小説書くな……感動した……」という人はみな相応に、”小説を書くのが上手い人”とか”小説好きな人なのだ。日々表現を磨き、文学精通している。

日本語文章を書くだけなら、識字率ほぼ100%のこの国では容易である

から「絵やオーディオビジュアルの才能がなかった人間」が「文字書き」という肩書きでそこに所属しようとしている。そんな奴が多すぎる。

だが、そういう人間文字書きの冷遇を嘆く前に絵の練習をするべきではないだろうか。

何故ならそういう人間別に小説を書く才能があった人間」でもないからだ。

自称文字書き」の人は、本当に文字という媒体自分に合っているのかを今一度考えた方がいいと思う。

2020-05-05

おいおい今までどうして黙っていたんだよ あの界隈(クレヨン肌色に噛み付く界隈)の人たちは

もしかして悪いことをしたヤツを「クロ」と読んでしまうのも肌の色的なやつなの?

あと身の潔「白」とか

ポジティブものに「白」が多く、ネガティブものに「黒」が多いのも肌の色を潜在的に想起していたりする?

2020-02-25

幼い頃、カレーパンマン憎悪していた

4歳くらいのときカレーパンマンヘイトしていた。顔の形から茶色い顔色から波打った分厚い口のラインから衣装から、何から何までダサくてキモいと思ってて、幼稚園にあったすべての絵本に出てくるカレーパンマンクレヨンバツ印を書いて怒られた。友達にはカレーパンマンいかに悪くてキモいやつか触れこんでファンを減らそうとしていた。とにかくカレーパンマンを傷つけてやりたいという気持ちでいっぱいだった。

最低だよな。でも4歳くらいでもヘイトするんだなと自分自分を興味深く思う

2019-12-28

子どもが「離婚しないで欲しい」と言います

下記ねほりんぱほりん児童虐待回まとめを読み自分のことを書く。

https://togetter.com/li/1438906

私はこの家とほぼ同じ環境で育った。結論から言うと小学校二年の時に両親は離婚した。そこに至るまでの話をする。

母は結婚した時から父の暴力モラハラを受けてきた。そしてセオリー通り貧困の中子どもを産んだ。

そのうち父はギャンブル三昧になり家に帰らないことが多くなったが、帰ってくると服のたたみ方が雑などイチャモンをつけ暴れるようになった。

これは別居する少し前の話。

「お母さんは離婚したいけどあなたたちはどう思う?」

姉と私は当時小学校二年と幼稚園年長。意思などあってないようなものだ。

記憶あやふやだが私の姉もいやだというようなことを言った。

ただ単に不安だったからだ。そして離婚した後の生活が何も見えておらず、安心約束されていなかったからだ。

暴力を振るい気に入らなければ家でも外出先でも暴れ、大声で怒鳴る父を好きなわけはない。もちろんそんな生活から離れたかった。

ただ、離婚したらどうなるのかわからない不安の方が大きかっただけだ。

母は職歴などないに等しく妊娠を期にパートを辞め専業主婦になっていた。

母の実家も裕福ではない普通の家庭だ。

子どもの私は言語化できる範囲が狭かったため、どうやって母ひとりでお金を得て家庭を保守運用していくのかというところまで想像が及ばなかったが、つまりそういうことだ。今後の人生の安定が全く保証されていないことが不安の根幹にあったと今ならわかる。

また、遺伝子に埋め込まれ心理作用で父と離れてしまう寂しさもあった。上で述べたように暴力モラハラなど酷いことをされてもなお、ごく一部の普通の人に近い振る舞いを思い出し父を受け入れようとしていた。

怒鳴るし嫌なことたくさんしてくれるけどこないだクレヨンくれたし…とか。

(そのクレヨンは5色入りで絵を描けるカラーバリエーションはなかったしパチンコの景品だと何年か後に母から教えられた)

小学校一年の途中で母の実家に姉と3人で住まわせてもらうことになり束の間の安堵を得た。

その後母は離婚を決意し私と姉にこう言った。

「お父さんと離婚する。離婚したら苗字が変わっちゃうけど、法律離婚しても今の苗字を使えるの。あなたたちどうしたい?」

と聞かれた。

姉と私は当時小学校三年と一年。やはり意思などあってないようなもの言語化する力も乏しい。

私の姉もいやだというようなことを言った。

理由はただ単に変化を恐れてのことだった。片田舎だったため名字が途中で変われば離婚したと周りにバレてしまう。恥ずかしい。いじめられるかも知れない。

みんなが持っている両親の揃った家庭を失っている時点で惨めなのに、惨めが可視化されることに耐えられなかった。

もちろん母の実家住まいという時点で大人からはお察しではあるが、子どもの狭いコミュニティでは名字が変わったことが決定打となる。

そしてこれは完全に子ども特有理不尽わがままなので理解し難いかもしれないが聞いて欲しい。

この時私は母に名字旧姓に戻したい理由を述べて説得して欲しかったのだ。

悩んでいるが故に父のことしか見ていなかった母がやっとこちらを向いてくれるようになった。やっとかまってもらえる。うれしい。そういう気持ちだった。

しかし、共依存ハラスメントを受けやす人間特有自分意志のなさで母はすんなりOKしてしまった。

(のちにわかることだが母は重要決断他人に仰ぎ、何か不都合なことが起こると他人のせいにするという女だった)

話は最初に戻る。

ねほりんぱほりんに出演していた女性子どもの「離婚して欲しくない」という言葉に動揺しているようだがはたしてそれは子どもたちの本心なのか。

この場合子ども言葉理由に楽な方へズルズルと行き離婚しないまま生涯を過ごすのかも知れない。わからない。

(楽な方というのは離婚は疲れるのでダメになっている人ほど決断できないという意味で使った)

もし同じように離婚しないで欲しいと言われている人がいたら、子ども言葉鵜呑みにするのではなくいま一度自分の頭で考え客観的判断を下して欲しい。

そしてまた、あらゆる不安に苛まれ打ち明けられる人もおらず、言語化もできない子どもがかつて存在したことをできれば忘れないで欲しい。

以下は余談。

父の苗字は画数が多い上に書きづらい。私の名前は父が考えたものでやはり画数がとても多い。あれから30年近く経つが何かにサインをするたびに父のこと、受けた暴力離婚後の貧困生活などを思い出す。

母は「あんたたちが苗字変えたくないって言うから変えなかったのよ、お母さんは変えたかったのに」と未だに何度も吐き捨てるように言う。

姉との仲は悪くなくごく普通といった関係だ。だが当時も、大人になった今も父の暴力離婚後のつらさについて考えを分かち合ったことはない。

父が家で暴れ母に部屋に戻りなさいと言われ、二人で一枚の布団をかぶり息を殺していた時も私たちは何も話さなかった。

子どもの頃はクラス名簿に住所・電話番号と並んで両親の名前も書いて配られていた時代で「片親」(という言葉が当時あった)と面と向かって言われることもあった。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん