はてなキーワード: アナログとは
絵が上手い人なんて昔から今ぐらい居た
ただそれを外に発信する手段がなかっただけ
ネットが普及し始めた平成中盤の頃でも、絵を発表するにはアナログだとスキャンしたりなど、色々と手間が掛かったから余程好きじゃないと発信しなかった
昔はパソコンがないと出来なかったデジタル絵も、無料ソフトで簡単に手でも描ける
単に表に出てきただけだよ
https://anond.hatelabo.jp/20200813115920
https://anond.hatelabo.jp/20200813164528
久々に日記を書きたくなったので、今回は方向性を変えて年代記風の記事を投下してみます。
私自身は業界の全盛期である80年代~90年代前半を経験しておらず、当時の状況を記述するのに十分な知識がないため、その時代については省いています。
ということで、私がこの業界に入ることになる少し前の90年代半ばから物語を開始します。
※工場の呼び名は企業の再編によって変わる事が多々あるので、原則立地で表記している。
80年代後半に栄華を極めた日本半導体産業であったが、日米貿易摩擦の影響で一時に比べて勢いを失っていた。
また、韓国企業の台頭により得意分野のDRAMの雲行きが怪しくなり始めたのもこの時期である。
(余談だが、日本の半導体衰退の原因としてよく話題に上がる韓国での週末技術者バイトはさらに昔の話である。このころにはすでに強力な競合に育っていた。)
とはいえ世界的にみると日本の電機メーカーは資金力・技術力ともに上位であり、一時的な不況を乗り越えさえすれば再び繁栄が訪れると誰もが信じていた。
そんな時代背景の元、日本企業は貿易摩擦に対抗しつつ、さらなる勢力拡大を図るため、自動車産業の成功例に倣い世界各地で現地生産を進めることで変化に対応しようとしていた。
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | カリフォルニア州ローズビル | 1981 |
富士通 | オレゴン州グラシャム | 1988 |
三菱 | ノースカロライナ州ダーラム | 1989 |
日立 | テキサス州アービング | 1990 |
松下 | ワシントン州ピュアラップ(National Semiconductorより買収) | 1991 |
東芝 | ヴァージニア州マナサス(IBMとの合弁でドミニオンセミコンダクタ設立) | 1996 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 英 リビングストン | 1982 |
日立 | 独 ランツフルト | 1990 |
三菱 | 独 アーヘン | 1990 |
富士通 | 英 ダーラム | 1991 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 中国首鋼集団と合弁工場設立 | 1991 |
三菱 | 台湾力晶半導体(Power Chip)と提携しDRAM技術供与 | 1994 |
東芝 | 台湾華邦電子(Winbond)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
沖電気 | 台湾南亜科技(NANYA)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
日立 | 新日本製鉄及びシンガポール開発庁と共同出資でシンガポールに工場建設 | 1996 |
Windows95ブームの終焉による半導体のだふつき、アジア通貨危機後の韓国メーカーのなりふり構わぬ安値攻勢、ITバブル崩壊による半導体需要の激減と、短期間で何度も悪化する半導体市況。
次第に半導体産業は将来性を危ぶまれるようになり、成長分野から社内の『お荷物』とみなされるようになっていった。
かつて半導体事業の中核だったDRAMは、優位性を失い韓国企業に覇権を譲り渡してしまった。
資金面でも徐々に脱落するメーカーが現れ始める。はじめについていけなくなったのは、バブル期に事業の多角化を進めて半導体に新規参入した鉄鋼メーカーだった。
続いて総合電機各社も規模縮小に向かう。世界中に作った半導体工場は投資の回収ができないまま次々と閉鎖されていった...
工場の現地化の試みは失敗に終わり、10年程度という短い期間での工場立ち上げ・閉鎖はマンパワーと資金の浪費に終わった。
こうして各社は体力を削られ、余力を失っていくのだった。
NEC、日立、DRAM事業の統合を決定。エルピーダメモリ設立。
神戸製鋼、米TIと合弁の西脇の半導体工場を米Micronに売却
日立、台湾UMCと合同で初の300mmェハ(従来の主力の直径200mmのウェハから2.25倍の面積になり、ざっくりいえば同じ工程数で2倍程度のChipが取れてコストを削減可能。現在に至るまで主流のウェハサイズ。)を使用する工場、トレセンティテクノロジを常陸那珂に設立
東芝、DRAM撤退。北米拠点のドミニオンセミコンダクタを米Micronに売却。
NEC、非メモリー半導体事業を分社化、NECエレクトロニクスを設立。
繰り返す半導体市況の激しい変動も落ち着きを取り戻し、待ち望んだ好景気がやってきた。
90年代後半からの不況で体力を消耗した日本企業だが、いまだ技術力は健在。
折からブームとなっていた『選択と集中』を合言葉に、各社の得意分野に集中投資だ!
パソコンではアメリカ企業に後れを取ってシェアを失ったが、液晶・プラズマをはじめとするテレビ、DVDレコーダーにデジカメ等、日本のお家芸である家電のデジタル化が進展する今こそ最大のチャンス!
さらに、世界中で規格が共通化された第三世代携帯電話が普及すれば、圧倒的な先進性を誇る日本の携帯電話が天下を取れるのだ!半導体復活の時はついに来た!!!
製造業の国内回帰の波に乗り、生産性に優れる300mmウェハの工場をどんどん建てて再起をねらうのだ!
日立と三菱がロジック半導体事業を統合、世界三位の半導体メーカールネサステクノロジ誕生。
富士通、米AMDとNOR型Flashメモリ事業を統合、Spansion設立。
エルピーダ、三菱電機からDRAM事業を譲渡。日本の残存DRAM事業が集約。新社長を外部招聘し、反転攻勢開始
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash工場、四日市第3工場建設開始
Spansion、会津若松に300mm対応のNOR型Flash工場建設を発表
ルネサス、UMCからトレセンティテクノロジの持ち株を買収。完全子会社化
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash第4工場を建設開始
2000年代の日本企業の反転攻勢は、リーマンショックで終わってしまった。
日本の電機業界が成功を夢見たデジタル家電は韓国勢との競争に敗れ、携帯電話でも海外展開に失敗した。
90年代から繰り返し計上してきた赤字と、2000年代の大規模投資を経た今、半導体工場への投資を継続する資金的余力はもはや残っていなかった。
不採算部門とみなされるようになった半導体事業は設備投資が止まり、建設されてからわずか数年で時代遅れとなってしまった。
これ以降は、東芝のNAND型Flashメモリや、ソニーのイメージセンサーといった競争力を維持している分野、また旧エルピーダのDRAM工場といった外資の資金を得た分野のみが投資を継続されることになる。
ルネサス、日立時代からの欧州拠点、ランツフルト工場をLファウンドリーに売却
日立、シンガポールの工場をシンガポールのチャータードセミコンダクタに売却
ルネサスとNECエレが合併。世界第三位の半導体メーカー、ルネサスエレクトロニクス発足。フィンランドのノキアからモデム部門を買収。
ルネサスエレ、NEC時代からの北米拠点、ローズビル工場を独テレフンケンに売却
米オン・セミコンダクター、三洋電機の半導体事業を買収
ルネサスエレ、ノキアから買収したモデム事業から撤退、さらに2300人リストラ。またNEC時代の中国の合弁を解消し撤退。
富士通、マイコン・アナログ事業を再建したSpansionに売却
東芝、四日市の300mm第5工場2期分稼働。200mmの第2工場を300mmに建て替え
Panasonic、半導体工場をまとめてイスラエルのTower Jazzに売却
富士通とPanasonic、SoC設計部門を統合、ソシオネクスト設立
この時期に至ってようやく主要半導体メーカーの工場再編が一通り完了し、現在につながる枠組みがほぼ出来上がった。
リーマンショック後の大規模再編で日本企業の世界的地位はかつてないまでに低下し、国内の工場においても外資系の傘下に入るところが増えた。
現在半導体の先端工場に継続投資できる日本企業は、イメージセンサーに強いソニーと東芝のメモリ事業を引き継いだキオクシアだけである。
はたして日本の半導体産業は今後どうなるのだろうか?再び世界に飛躍する日はやってくるのだろうか?
東芝、四日市の第2工場建て替え完了。大分と岩手の200mm工場を分社化、ジャパンセミコンダクターを設立。
東芝、本体の粉飾決算のあおりを受けてメモリ事業を分社化。東芝メモリ設立。四日市に300mmの第6工場建設開始。さらに北上市に300mm新工場を建設
ルネサスエレ、米intersilを買収
東芝メモリ、四日市の第6工場が稼働。多国籍連合のファンド、パンゲアから出資を受ける。
富士通、桑名の300mm工場を台湾UMCに売却。また、会津若松の200mm工場も米オン・セミコンダクターに売却。
Panasonic、残ったマイコン等の事業を台湾Nuvotonに売却して半導体から撤退
みてねというアプリに子供の写真を入れて、親と祖父母が子供(孫)の画像を共有するのが今のトレンド
しかし、自分は毎日写真を撮らない親なのでみてねアプリに親たちを招待したらもーガッカリするしいつのまにかみてねは「あぁ、そんなのあったな」と忘れ去られた存在になるだろうから使ってない
子供の画像は自分が送りたくなったり、親から「孫の画像を送れ」と言われたりしたときにスマホからおくっている
スタジオで撮った子供の写真は当たり前だが見られることを前提にプロが撮影するため、普段の写真とは全然違う。見映え最高。どこに出しても恥ずかしくない写真なので現像して、自分と夫の祖父母と自分と夫の両親に手紙を添えて送りつける。これがけっこう楽しい
自分の土台が理解が出来ないの辛いよなあ……自分の足元がどうなっているかというのを意識しだすと大抵の人は精神を壊しがちになる
ある問題があった時にその問題は複雑で巨大でそれ単体で挑むと全然わからん状態になる。だから「分割する」。
おそらく元増田に関して言えばループとif文というのはわかっているのだろう。
じゃあそれがどういった風に組み合わせればゲームというものが組み上がるか、という点に関していきなり挑戦しだすと大変なことになる。
ーそれらを操作が出来る
という定義をしてみる。これで三要素。
次に「画面に画像を出す」を分割する
画面に画像を出す、ということは「画像を画面の決められた位置に置いて表示する」ということが必要だ
さらに画像は「色の粒」と「その色の粒がどこに置いてあるか」というので表現できる
ピクロスとかあるだろ?あれと同じだ
ということは
・画像の色の粒を抜き出して画面に表示する
となる。
ここでまた問題が出てきた。「画面に表示する」だ。
画面に表示するということは画像の色粒情報が何がしかデジタルな情報から自分たちのアナログな世界に出すということになる
これをしてくれるのは画面に並んでる赤と青と緑のめちゃくちゃ小さな電球(LED)だ。
昔のブラウン管テレビなんかすごい近くで見ると赤と青と緑の粒が並んでる。
俺たちが画面を通して色を知るのはこの粒が「ある面積(1cmでも1mm四方でもいい)の中でどれだけの割合でどの色の電球が光っているか」という情報でしかない
例えば赤だけ光っていれば赤と認識するし、赤と緑が同時に光っていれば混ざって黄色に見える
つまり、画像の粒の情報から「ここの赤はこの数値だった光る、そうでなければ光らない」ということで色が決定される
ほら、if文が出てきただろ?
ここまで分割してようやっとif文の世界にたどり着く。しかし、逆に言えばこれだけ分割すればifの世界にたどり着けるということでもある。
もし「わかっている人」がいるのならその人はどこまでもこの問題の分割を行って分かる範囲まで落とした人だ。
プログラムをやるには実はこの「問題を分割する」という行為が一番大事になる
ただの四則演算とループやif文の組み合わせでなぜゲームが出来るのかといえば、それはゲームというものをそこまで分割しきったからだ。
んで、この分割を毎回色んな人が繰り返し実装するのはきついのでみんなすでにある道具を使ってしまう
「画像を表示する」という解決だけしたいからみんなそれがすでに出来るようにしてくれる道具を使う
それがライブラリだったり、もっと大きくなるとUnityというゲームエディターだったり、更に広い範囲でいうとOSになったりする
とまあ、ここまで言ったがこの「分割」をあらゆるものにやっていくのは本当に大変な作業だ。
色んなものを分割していくと「じゃあなぜ俺たちはifという命令をPCにわからせることが出来るんだ?」とか
「なぜループできるんだ?」というところまでに行く
けれどそこまで行くこと自体がある種の経験だしそれが自分たちが立っている土台を知る学ぶということでもある。
現状を変えたくても何も出てこないのは、新しいものをアウトプットするだけのインプットが足りないからだ
自分の中の憎しみが膨張するのは、感情を生み出すばっかりでどこにも吐き出していないからだ
まず、新しい何かを生み出すのは一旦諦めて、ひたすらインプットに徹しろ
自分の内部だけでは決して生まれない、外部からの刺激を取り入れろ
そして、生まれた憎しみを思考の中だけでグルグル回すのはやめろ、その憎しみをこそアウトプットしろ
文字を書くのが嫌いじゃないなら文字に起こせ、デジタルでもアナログでもいい、オンラインでもオフラインでもいい