はてなキーワード: 麻酔とは
「自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる」との言葉もある
さて、痛みがあるから麻酔があると演繹的に考えて良いのだろうか
むしろ、慰謝剤や麻酔といった逃げが出来る能力があるからこそ、痛みは痛みとして成立するのではないだろうか
産まれてから一度もラーメンを食べた事のない人間が、ラーメンを食べたいと思わない様に
産まれてから一度も他人と心を通わせた事のない人間が、他人と心を通わせたいと思わない様に
「その痛みや苦しみから逃げられた体験や希望や能力」が、私達から諦めを奪っていく
諦めが支配する人生では痛みも苦しみも日常と生活の一部として取り沙汰される事もなかっただろう
私は「損害を被る事」が不幸なのだとは思わない
「損害を被る事が不幸であるという自覚」が不幸だと思う
自殺を思う事がなぜ慰謝剤となり得るのだろうか
主体である自己を消す事で、あらゆる刺激とそれに対応する感情は消え去る
刺激を遮断する事で感情を消し、それ以上不幸を感じない様にする
無知な状態に戻る事とも同義となる
何かを知る事は出来るが、何かを忘れる事は出来ない
可能であるならば、それは記憶の破壊であり、記憶の破壊は自己の破壊つまり自殺である
つまりは、知らぬが仏
引火性液体は、ジエチルエーテル、二硫化炭素、ガソリン、アセトン、エチルアルコール
メチルアルコール、灯油、軽油、重油、ギアー油、動植物油以外はほとんど出ない。
4類の蒸気は全て空気より重い。なので、どの液体が出ても「空気より軽い」という選択肢は誤り。
水に溶け難い液体は全て静電気を発生する。
二硫化炭素:蒸気は毒性があり、水に溶けず水より重いので水没貯蔵
ジエチルエーテル;水溶性ではないが、水に少し溶ける。麻酔性あり。日光にさらしたり大気中に放置すると過酸化物を発生し危険。
泡系、粉末系、二酸化炭素、ハロゲンの消火は有効。水および棒状の消化剤注入は危険。
ただし、水溶性液体(アセトン、アルコール)の消火は水溶性液体用の消化剤が必要で、これはよく出る。
あと、引火点と発火点の違いを良く理解すること。
2011年2月初旬、はじめての妊娠がわかって、とてもうれしかった。
昨日、稽留流産の手術をした。まだ、気持ちの整理がついていないけれど、幸いに術後の痛みもほとんど無いので、記憶が確かなうちに記録する。
様々な方が経験を手記やブログとしてネットで公開されていて、それがおおきな助けになったので、自分も増田として一助になれればと思う。長文お許し下さい。
筆者、36歳、自宅で自由業。結婚10年目。夫は38歳、研究職。ふたりぐらし。
仕事が落ち着き、経済状況も安定してきたので赤ちゃんをむかえることに、2010年秋からとりくみはじめた。
基礎体温は2010年7月から記録をはじめた。葉酸は、1年ほど前から意識して摂取するようにしていた。
夫は頭の中が研究のことばかり。いつも帰宅が遅く、ごはん食べてそのまま泥のように眠るのが日常。
仕事を家にもちかえって、私がデータ整理を手伝いながら、夜半まで趣味とも仕事ともつかない作業をする日も多い。
そんなわけで、いままでかんばる回数は月に2回あればいいほうだった。
夫の妊娠についての知識は「排卵日にがんばれば命中する」というもので、
「顕微鏡でためしに自分の精子を観察したところ、活動も活発で数もいた」という自負がある。
私の周期は28日で、サイクルはわりあい正確、基礎体温もはっきり2層に分かれる変化をしていた。
基礎体温記録、周期の予測、予告などで、下記のサイトを有効活用させていただいた。
記録をまとめて印刷することもできるので、医師に妊娠の経緯を説明する時にとても便利だったし、「がんばる日」の予想もしやすい。
上記の通り、夫の妊娠に対する知識はかなりアバウトであったし、私もネットを使って本気で調べるまでは、知らない事が多かった。
挑戦して、3ヶ月くらいまでは、基礎体温から予測した「だいたいこの日が排卵日」という日を中心に一晩か二晩、がんばった。
夫が仕事でつかれていて、お願いした日に寝てしまったり、お酒を飲んでいい気持で忘れて寝てしまうこともあった。
年齢の事もあり、また自分に自信がなくなってきたので、不妊治療の事も真面目に調べた。
とてもお金がかかり、体への負担も大きい事が分かった。
20代で子供を産み、子供を小学生に育て上げてから、仕事をはじめた友人や、
私の20代には、経済的にも精神的にも余裕はなかったし、夫も自分の身を立てることで精一杯だった。
たいへんでも、親に援助をもとめても、もっとはやくに赤ちゃんをむかえることにすればよかったのかな……
冬になってから、もっと真剣になった。排卵日に関係なく、回数を増やした。それでも週に1度くらい?
妊娠しやすい体にしていくためには、普段から夫婦の接触が大事で、がんばる日が多いと、
お互いのホルモンが活発になって、生殖機能が活性化されていくらしい。科学的根拠は不明?
そして、妊娠しやすい期間の前に4日やすみの日をつくり、排卵日周辺に2日おき、または1日おきにがんばった。
カレンダーに「がんばる日」の印をつけて、多忙な夫が忘れないようにしてみたけど、それでも夫は忘れることがあった。
夫は、理性では、子供と私への気持から、その「予定」に前向きだったが、仕事の締切りや年末進行などで体力的にきつかったし、プレッシャーも感じていた。
私も強制して性交させるのはとても嫌だったので、時に喧嘩になることもあった。夫はいつも一方的に謝るばかりだった。
夫が最大限に努力してくれている事はよくわかっていたはずなのに、自分は焦って思いやりを忘れていた。
年末年始、大掃除もてきとうにして帰省をせず、はじめてふたりだけの大晦日とお正月をすごした。
いつもは組立てない炬燵を出してきて、パソコン並べて仕事しながら、お雑煮やおせちをたべてゆっくりした。
その甲斐もあって、1月のおわりにくるはずの月経が来ず、基礎体温も高いままだったので、
妊娠検査薬を使わずに、2月の初めに産婦人科にいった。病院は、近所の奥様がすすめる病院を選んだ。
子宮のなかに小さな黒いまるがうつっていた。なかみはまだ見えないけど、子宮外妊娠ではない事がわかりほっとした。
妊娠が確定して予定日を告げられてから そのママ に夫婦で登録し、
2月の半ばに2回目の検診にいった。
先生がカーテンをあけて、心臓が動いているのを見せてくれて「順調です」と言ってくれた。
黒い楕円の中で、ちいさい心臓がぱくぱく動いていて、思わず涙腺がゆるんだ。
赤ちゃんは週数のわりに少し小さかった。
調べると、後から追いついて大きくなったり、排卵日が遅かったりしていたために小さく見えたりするそうで、
あまり問題はないということだったけど、今思うと、その時のことがとても気になる。
つわりは、吐くようなつわりでなく、とにかく眠くて眠くて夜も早く眠くなり、昼寝で夕方まで寝てしまう事もあった。
つわりは人それぞれで、これで赤ちゃんの状態を推測する事はできないということだった。
回数を増やすようにがんばってから、夫が活性化したらしく、要求が増えたので、手などを用いて別の方法でお世話をした。
3月の初めに3度目の検診に行った。
この日に母子手帳の手続きができるはずで、その後に、しかるべき人々に報告しようと思っていた。
ちょうど夫の仕事が休みだったので、いっしょにうきうきしながら行った。
いつものように、エコーの検査をしてもらうと、時間がいつもより長く、先生が焦っているようだった。
何度も確認してみても、前回の検診から大きさもあまり変化していなくて、あんなに動いていた心臓のあたりがしんとしていた。
先生によれば、大きさからみて一週間前に心臓が止まってしまったそうだ。
稽留流産、といわれ、先生から説明を受けた。自分では一週間前に何の心当たりもなかった。
夫によれば、ちょうど一週間前から私が吐気でえづくことが増えたので、変化?と思っていたそうだ。
ネットで調べればいろいろ書いてあるので、細かい説明は避け、私個人の体験を記す。
丁寧な説明を受け、自分でもどうして良いかわからなかったけど、
とにかく、早めがよいということで、4日後に手術の日を予約した。
待合にいた夫を呼んで、小さな部屋で、助産師さんからより詳細な説明を受けた。
「わからないことや不安な事は何でも聞いて下さい」といわれたけど、何が不安なのか、何がわからないのかも見当がつかなかった。
あまりに突然の事で、夫婦して感情が固まってしまった。とにかく、私の母と夫の両親に報告した。
母が祖父の看病で家を離れられないため、義母が私の手術前から家に来てくれる事になった。
義母がくることに私はとても不安を感じていたが、案の定、相変わらず、無邪気に笑ってはしゃいでいたので、応対にひどくつかれた。
夫があとで「こんな時に笑うな」と言ってくれたので、助かった。
未婚の友人は、よく「夫を産んでくれたお姑さんに批判的になるのは変よ」と言うが、誰でも最初はそう思うのだ。
誰が好き好んで尊敬すべき立場の人に嫌な感情をいだくだろうか……それなりの経緯というものがあるのだ。
これを書いている今も、横で笑顔で孫がはやく欲しいなどと言っているが、赤ちゃんが亡くなった直後の無神経な発言に気分がささくれ立った。
前夜に話を戻すと、義母ひとりで付添いをするとはりきっていたが、頑なに拒み、夫ひとりについてきてくれるように頼んだ。
義母は多分いい人かもしれない。しかし、いい人がよいことをするわけではない。私は自分が我侭だと思ったが、あとでこの判断はよかったことがわかる。
海外で稽留流産をされた経験のある方の手記をネットで読んだ。その人は夫が激務でひとりで手術に行く事になったそうだ。
手術前夜からの入院で、夜中に耐えられずに泣いてしまったら、年配の看護師さんに抱きしめられて慰められ、
夫を病院に呼ぶようにすすめられ、夫が来てくれたのでとても助かった、と書かれていた。
手術前夜は、飲食禁止だったが、家で留守番をする義母と付添の夫のお昼に炊き込みご飯でおむすびをつくり、
病院に持っていく分と帰宅後の安静時に飲むための番茶をたくさん煮出して、空のペットボトルにつめ、
夫は、手術の前夜も仕事を家に持ち帰っていた。年度末の仕事がギリギリで、とても忙しい時期だ。
そういうわけで、夫は、赤ちゃんがいた実感も、赤ちゃんが亡くなった実感も薄く、私も事務的に手術の仕度をするだけで、
何が起こってどうなるのか、わからなかった。ただ、ネットで様々な人が書かれた手記や質問の応答などを読んで、
「こういうことがある」のがわかり、ふたりで「痛いことはたくさんあるようだけど、いちばんつらいのは赤ちゃんだから、耐えよう」と思った。
当日、3月7日朝9時、夫と直接、産婦人科病棟のナースステーションに行き、書類を出して手続きをした。
病院には自家用車で行った。服装は、お腹をゆるく保護する妊婦用のやわらかい部屋着のズボン、Tシャツ、パジャマの上着、フリースの長いコートで、
家に帰ったらそのまま寝られる服装で行った。手記をみると電車で行き帰りする人もいて術後は歩いて移動できるようだけど、楽にできるならその方がいいと思った。
ナプキンをつけてから、担当医とは別の当直の先生が、子宮口を開く処置をしてくれた。
赤ちゃんは最後の検診の時と変わらず、動いておらず、形も少しいびつになってしまったように見えた。
この処置はとても痛いという手記が多いが、私の場合は、それほど痛くなかった。痛覚が鈍いのかも知れない。
それから点滴で輸液をし、午前中の外来が終わるまで病室で安静にしていた。
午後になり、手術着に着替え、点滴をつけたまま、手術する部屋へ歩いていった。夫は病室で待機。
多分、分娩とおなじ場所だと思う。途中の廊下で元気な赤ちゃんの声がたくさん聞こえた。
担当医の先生が手術の道具を調えていて、天井には大きなライトがあったり、
計器をつながれたり、看護師さんがてばやく準備を整えはじめたので、急に怖くなった。
台の足の部分が開かれて持ち上がり、足にカバーをかけられて、足首を固定された。
肩に麻酔を効きやすくする筋肉注射を打たれた。これが全ての経過の中で最も痛く、
思わず呼吸が大きくなり、その痛みが引かないうちに、アイマスクをつけられ、看護師さんに点滴を刺している手を胸を載せられると、
先生の「麻酔を入れたら、手術を始めます。子宮口に詰めた消毒綿をとります。はい麻酔を…」というとこで、
器具の冷たい感触があって、下腹部が激しく痛くなったと感じたら、麻酔が効きはじめ、突然、幻覚が始まった。
事前に「意識はうっすらとあって、声が聞こえるくらい。眠くなったら寝て下さい」といわれていた。
しかし、私は意識はしっかりあったと思う。ただ外とつながっていないだけで。
もし、赤ちゃんが次に何処かに生まれることができるなら、できるだけ暖かくて自然がいっぱいあるとこへいけるといいなと考えて、出張した時に見た熱帯の森を手術中はイメージしていようと思い、痛みをこらえて、その木々の茂る風景をイメージしてみた。
だけど、アイマスクで暗いはずの視界が急に明るくなって、上からレゴブロックの白いのみたいな小さなものがザーッと落ちてきて、自分の体がとても小さくなってしまったように感じた。痛みも体がある感じも消え、白と灰色と黒の格子みたいのがある空間の底にいて、格子がうねりながら昇っていった。うねった隙間から、キミドリとピンクの光がでてきて、渦を巻いてまるくなってくっついたり離れたりして激しく動いていた。私は自分の家や猫のいる温かい感じがあるとこへもどりたい気がしたけど、仕事や、大学のころに勉強していた事、その意味が、バラバラに浮かんできて、消えていって、その間、気持ちいいテクノみたいな音楽(フロアに流れるかすかなオルゴールの環境音がアップテンポに聞こえた?)がずっと流れていた。格子の四角がだんだん大きくなってきて、その合間にフラッシュバックみたく家にいて西日が当たる暖かい感じが懐しく浮かんできて、そして、キミドリとピンクの光がうすれ、シューッシューッと機械が動く音が聞こえて、視界がもやもやした暗い灰色になって、人の話す声がなんとなく聞こえてきた。
しばらくして、アイマスクがはずされた。目を開けようとしても薄くしか開かず、まだ視界がぼやけていて、遠くから声が聞こえた。
「お腹はいたくないですか?」 「わかりません」と答えたと思う。
顔を横にして時計を見てみたら、20分くらいしかすぎていなかったのがぼんやり見えた。
ご主人を呼んできます、と看護師さんが出て行き、夫が来て手を握ってくれた。
すごく暖かい感じがして、涙が出てきた。夫も泣いていた。
麻酔がしっかり醒めるまで、一時間ほど、その場所でそのまま2人でいた。
時折、看護師さんが来て出血を確認していった。
いつの間にかパンツを履かされていて、看護師さんがナプキンを交換してくれた。
持参したナプキンのうち未使用の2コをとり、交換したナプキンと今着けたばかりのナプキンの空袋を持って、計量にいった。
重さの差から出血の量を計測しているのだろう。種類を混ぜて持ってこなくてよかった。
なので、手術の日に持参するナプキンは全部を同じ種類のものにしておくとよいと思う。
麻酔が醒めてくると、点滴の支柱と夫に支えられて、歩いて病室にもどった。不思議とどこも痛くなかった。
病室でズボンをはいて横になり、点滴がはずされると、遅い昼食がでた。
夫も昼食をとっていなかったので、いっしょに食事をした。
夫は前日まで、「手術してる間にちょっと外でごはん食べてくるから、おむすびいらないよ」と言うほど、
手術の時にどうするか何も知らなかったし、手術の間は待機しているようにと説明された事も忘れていた。
私は飲み物をのんでおかずを少し食べてみたが、点滴のせいかお腹がすいていないので、勿体ないけどほとんど残してしまった。
夫は「自分がここにいるべきだし、おむすびとお茶を持ってきてよかった」と言った。
薬がでて、会計が終わると、手術着を脱いで、帰る仕度をした。このときも、お腹は全く痛くなかった。
看護師さんが手術前に、担当医の先生は手術がはやいと言っていたが、きっと処置が上手だったのだろう。
子宮を収縮させる薬を飲むとお腹が痛くなるというが、薬をちゃんと飲んでいる1日後も痛みはほとんどない。
来週に検診があって、また病院にいく。
元気になったら、赤ちゃんのことをおぼえておけるように、地元で名木の桜の保護をしている会から苗木を分けてもらって、実家の土地のいい場所に植えようと思う。
その木がもっと時間が経って大きくなって花をたくさん咲かせたら、それとは知らなくても、いろいろな人が見に来てくれると思う。
・次の月経以降の周期に、「妊娠したい 私はこれで妊娠しました」 を参考に、排卵検査薬を使って、排卵と基礎体温変化の様子を観察し、今後に役立てる。
一人は見た目も中身も理系。話してても全然男子慣れしてないのが分かるし、頭の中は数字だらけという感じ。
先週の打ち上げで解剖の話になった。最初の子は普通にカエルとかは解剖できるし、普段も授業でやっていると言っていた。
問題はもう一人の方だ。その子は専攻が生物ではないのに、話していたら「解剖したい!」と言い始めた。
普通、文系のおとなしくて可愛い子は生きてるカエルなんて解剖できないし、悲鳴を上げて逃げそうなものである。
しかし、まさにその雰囲気を象徴するこの子が解剖したいと思ってたとは正直ショックだった。
テキサスはアメリカ全体から35%にあたる死刑を執行してる州なんだって。
死刑囚は3名出てきた。
みんな身勝手で残虐極まりない犯行で、法にのっとり死刑になるのは致し方ないかなという印象。
現在は電気イスによる死刑執行は廃止されてるそうで、薬物によって死刑を行うのだそうです。
メモがてらに書くと薬物注射による死刑は以下の3つの薬を上から順に投与されるそうです。
チオペンタルナトリウム(即効性の麻酔薬 - 死刑囚を眠らすため)
パンクロニクムウ(強力な弛緩剤)
この順番通りに投与を行えば、意識は急速に失われ、苦痛を感じることもないそうです。
確かに死刑囚みんな寝ているように死んでいたし、おだやかでした。
だからなんだって話しだけど。
表情の中で笑顔が一番ブスな女はどうしたらいいんだろう。
受け口だから笑うとしゃくれが目立つんだよ。
これでも子供の頃に相当重い矯正をしたんだけどな…。輪ゴムをつけたり。見た目怖いって言われてたし。
まだ生えてきていない親知らずを麻酔して掘り出した。顔がパンパンに腫れて学校で笑い者になったし。
ネットで小雪や綾瀬はるかとかあややがしゃくれと笑われてるのを見ると凹む。あんなに美人やカワイイ人でも言われるなんて私はどうなる…。
顎が細いのは遺伝なんだ。遺伝とかってなんていうか理不尽だよね。なのに笑われなきゃいけないんだ。どんなに努力をしてもしゃくれってだけで
笑い者にされる。スケートの荒川さんもあんなに素晴らしい業績を残してるのに笑われてるのが哀しい。
また矯正し直したいけれど、これまた遺伝的な病気持ちであまり働けなくて貧乏なので、とてもそんなお金はない。ローンもとても無理。
もう30才越えたし、諦めるのがいいのかな…ああああ
それかずっとマスクをして生きるか
笑い上戸なんだけど、男の人に醜い顔を見せるなって思われてるのかな
最初の発病のときは、急に会社に(というか家の外に)出られなくなって、
なんとか復帰して、違う職種でがんばりつつも薬で状態をコントロールできるようになり、
最終的には転勤だの職種転換だのにも対応できるくらいには回復できていた。
「わからない」が認められない。でもわからないものはわからない。
必死の思いで仕事して、なんとか進捗遅れながらも成果は出していた。
異動のあとしばらくしてから、日中に居眠りするようになってしまった。
同時に、今まで睡眠薬で不眠に対応できていたのにダメになった。
寝付きが悪く眠りが浅いけれど、それは数年間ずっとなので、根本原因ではない。
今の睡眠薬はかなり強い処方で、これで眠れないと次は麻酔しかない程度には
そのうち、気がついたら土日のうち半日が完全休息になり、それが1日、1日半と増えた。
平日も、帰ってごはんとお風呂済ませたら撃沈、朝までうとうと(熟睡はできない)。
病院でも職種転換を持ち出されるようになり、それでもがんばっていたが、
とうとうドクターストップがかかった。
もう休息や気力でカバーできる状態を超えていると。
半ば説得される形で診断書を持ち帰った。
火曜日に上司に診断書を提出し、異動の検討を約束してもらったが、
「君はうつには見えないんだよね」
「上にうつと報告すると、君の将来にも影響するし」
必死で頑張ってるからそう見えないんだよ!
本当にダメになるときは突然なんだ!前だってそうだったんだ!
将来より今のほうが大事!
たぶん上司の評価が下がるからだよね。職場からメンヘル出すと。(ため息)
でも、前々からキツイ辛いって伝えてはいたし、超意外ではないと思うんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20100909210333 だけど、
ここだけ、突っ込みいれておく。
自然分娩だろうが、無痛分娩だろうが、亡くなられる時は亡くなられます。
むしろ、わざわざ硬膜外麻酔を施術するほうが、リスクは高くなるかと。
どのみち、産道が狭すぎるとか、出産が困難であれば、帝王切開に切り替えるだけです。
麻酔のメリットとして、患者が騒がないとか、暴れないとかはあると思いますが。
反応が穏やかだと、問題の兆候を見逃しやすくなりそうで、怖いですよね。
トピ主です。
http://anond.hatelabo.jp/20100913131932
麻酔医が不足しているのは問題だと思っていますよ。
その前の段階として産科医が不足していることが大問題な訳ですが。
それはそれで解決しないといけないでしょう。
これについては
>※「無痛分娩は医学的に問題」というのであればご指摘下さい。
> 当方、酒井順子本を論拠に論を組み立てているので、
> 論拠が一気に崩れるので。
と書いている通りで、純医学的にリスクの軽重を論議したいと思います。
(麻酔医の不足というのは、純医学的問題じゃなく、医療政策的問題)
少なくとも
http://anond.hatelabo.jp/20100912005828
の投稿主は、激痛分娩の方が医学的に高リスクと考えられています。
>そりゃ「高いリスク」が周知されてりゃね。
>激痛分娩では痛みのせいで出産が滞り母子を危険に陥らせるリスクがあるらしいが、
>そのリスクは周知されていないだろうから、
>その理由で無痛分娩を選択する人間は少ない。
やれやれ。部分的には首肯してかまわないとこもあるが、こんだけ長く書いてひとを「読解力がない」といってる割にはねえ。
元増田のどこに、「酒井の論を論拠に」なんて書いてある?「酒井順子本を論拠に」ってあるだろ。「酒井順子本」の中には、
そしてアメリカの医師は、「激痛分娩は妊婦に多大な精神ダメージを与えるので、可能であれば無痛分娩をすることを医学的に勧めている」
って書いてあるわけだ。
まずここで読みきれてない。元エントリを読もう。
(酒井本では、無痛分娩は当然あっていい選択なのに)しかし、日本では「激痛分娩を経てこそ、母親になれる」という訳わからない精神論が横行し、先進国唯一の激痛分娩国になっている、と書かれている。
だから、これを論拠にして、元エントリでは
「ホメオパシーは医学的に非合理」と判断する一方で、「出産は激痛分娩でなきゃダメ!」と医学的に不合理な選択を妊婦に強要する日本社会は、ある種の「ダブルスタンダード」じゃないのか?
と書いている。タイトルに「激痛分娩を妊婦に強いる日本社会が」ともあるように、精神論があるから妊婦は激痛分娩を「強要さ」れてるんだ、と言ってる。
つまり"無痛分娩という当然の選択"VS"激痛分娩を強要する精神論"の話を元エントリではしてたはずだ。にも拘らず、最後にいきなり分娩方法のリスク量によっては論拠が崩れる、と言い出してる。上記の対立構造とリスクの話はまるで別物で、今までの論拠とは関係ないのに。
お前は元増田を正確に読めてない上に、さらに、お前の文章は意味不明だ。一番不明なのがここ。
無痛分娩で科学的リスクがいくら上がっても、精神論否定が結果的に無痛分娩数増加に繋がり、精神論の温存が(無痛分娩数)減少に繋がりさえすれば酒井論は肯定される。
ここからだらだらだらだらと、俺の論が「現実にありえない」とか言ってるんだが、これは単純に「酒井論が肯定されるには何が必要か」の話をしてるにすぎない。なのに、
日本人が、人間が今まさにもってるとする精神論が、いつのまにか勝手に否定されたりするわけないだろ。(略)何の理由もなく、いきなり否定されはじめることなんて、ないだろ。アホか。現実的にありえない仮定をもとにしてるから、この仮定は全く意味が無い。
とか言い出す。アホか。理由なんて妊婦の経験談でも何でもいいだろ。「一人目は病気のせいで無痛で産んで、二人目は痛く産んだけど、産んだ後の気持ちは変わんなかった」みたいな話がすごく有名になるとかな。ありえない仮定でもないし、問題は「酒井論を論理的に成立させる条件」なんだから、意味がないわけがない。
ま、このへんは確かに「温存」じゃないほうがいいな。「大流行りしたとしても」とかに変えようか。別にいいよ。
すると「無痛分娩の科学的リスクが高くても、精神論が否定されるなら、無痛分娩数増加に繋がる」になるんだが。(略)で、母親になれるとかなれないとかは関係なく同じならば、単純に「子を産む」に際して、なんでわざわざリスクが高いほうが選ばれるのか意味が不明。論理的に破綻してる。
そりゃ「高いリスク」が周知されてりゃね。激痛分娩では痛みのせいで出産が滞り母子を危険に陥らせるリスクがあるらしいが、そのリスクは周知されていないだろうから、その理由で無痛分娩を選択する人間は少ない。母親のなるならないも2人して死んじゃあはなから意味ないのに、精神論以前なのに、だよ。現実がどうでも、知らないことは考慮なんかしないで「わざわざリスクが高いほうが選ばれる」わけだ。実際に「論理的に破綻してる」んだな。
で、その上で「精神論が否定されるなら、無痛分娩数増加に繋がる」んであれば、酒井論も肯定するしかなくなりうる、というわけ。なぜなら酒井論を成立させるにはその条件が要るわけだから。俺、おかしいこと言ってるか?
"日本では「激痛分娩を経てこそ、母親になれる」という訳わからない精神論が横行し、先進国唯一の激痛分娩国になっている"という酒井の論はどうやっても肯定されないわけ。
どうやってもお前の立てた仮定では、酒井の論は肯定されないんだよ。
と言ったって、酒井論を肯定しようとしたら上で言うようなアプローチしかないだろ? "論拠は「精神論が無痛分娩数増加に繋がったか否かのデータ」しかありえない"んだから。
ちなみに、これから無痛分娩が広まったとき、初めて、「激痛分娩を経てこそ母親になれるとか、それはない、関係ない」って否定されだすんだぞ。
無痛分娩したけど、ちゃんと(良い)母親ですよっていうのが自分の評価でも他人から見ても広まれば、分娩における痛みの強さは、母親になる条件ではないなーっていう認識が広まるだろ。
これはそうなるといいねえ、としか言えんな。無痛分娩者の評価がきちんと広まるかどうかについておれはそこまで楽観視できない。少年犯罪も凶悪犯罪も児童虐待も、善男善女のおおかたは現実の件数とは別に、マスコミ報道を根拠にして「増えている」と思い込んでるんだろうから。事実がちゃんと世間に浸透する保障はない。
俺はべつに酒井論が肯定されようとされまいとどうでもいいし、無痛分娩がどれほど増えようと問題はない。
ただ、酒井論の根拠がなにかも知らないうちに酒井論を根拠にした話に頷いても仕方ないし、酒井論の正否とリスクの話を混ぜても意味がわからんし、麻酔医の不足はそんな与太話よりももっと考えるべきことじゃねえのか、とは思うがな。
しかし、日本では「激痛分娩を経てこそ、母親になれる」という訳わからない精神論が横行し、
先進国唯一の激痛分娩国になっている、と書かれている。
そもそも、無痛分娩の対義語は、自然分娩なんだけどな。
わざわざ、激痛分娩という用語を創造して批判する輩の本はどうかと思うよ。
「激痛分娩は妊婦に多大な精神ダメージを与えるので、可能であれば
無痛分娩をすることを医学的に勧めている」とある。
※「無痛分娩は医学的に問題」というのであればご指摘下さい。
医者側に特にリスクが高く、その結果、母体側のリスクも高くなる。
一般的な無痛分娩と呼ばれるもので行われる硬膜外麻酔は、4mmぐらいしかマージンがなく、ミスると硬膜に孔が開いたり、他の神経に麻酔が入る。
そうすると。この国ではお約束のように訴訟されるもんだから、わざわざ難しい硬膜外麻酔やりたがる病院が出てこない。
麻酔医は絶賛減少中。
麻酔医の総数少ないと、全体的な麻酔のスキルも伸びないので、硬膜外麻酔は他の国よりリスクが高いと思う。
どうやったらお前みたいな文章が書けるのか、どうやったらお前みたいな思考になるのか、
あんまり驚いたんで長文。
自分の読解力の無さを棚上げして「まったくもって意味不明」とか恥ずかしいなお前。
空気読めとかいう問題じゃない。思い込みを捨ててまず元の文章を正しく読め。
「酒井順子本を論拠に」ってあるだろ。
「酒井順子本」の中には、
そしてアメリカの医師は、「激痛分娩は妊婦に多大な精神ダメージを与えるので、可能であれば無痛分娩をすることを医学的に勧めている」
って書いてあるわけだ。
元増田はその記述をもとに、「日本でも、無痛分娩の方が奨励されるべきでは?」って思って書いてるわけ。それくらい読みとれ。
だから最後に、「無痛分娩の方が科学的に有リスクなら、教えてくれ」って書いてる。
何故だか分かるか?
元増田は、
「もし、無痛分娩は科学的にリスクが高いならば、科学的にリスクの低い激痛分娩の方を奨励すべきだ(たとえ妊婦の精神にダメージはあっても)。」
と考えているわけだろ。
元増田にとって、科学的にリスクの低い手段を選ぶ方が当然のことなわけ。
かつ、元増田は、「これは誰にとっても当然だろう」と思ったんだろ。だから、わざわざ書かないわけ。
で、ふつう、元増田の文章だけで、何が当然のこととされているかとか、読み取れるわけ。
お前は、読み取れてないわけ。それを棚に上げて、「意味不明」って言ってるわけ。恥ずかしいだろ?
お前は元増田を正確に読めてない上に、さらに、お前の文章は意味不明だ。一番不明なのがここ。
無痛分娩で科学的リスクがいくら上がっても、精神論否定が結果的に無痛分娩数増加に繋がり、精神論の温存が(無痛分娩数)減少に繋がりさえすれば酒井論は肯定される。
これ、不足を補い整理すると、
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たとえ無痛分娩で科学的リスクが上がっても、精神論が否定されるならば無痛分娩数は増加し、かつ、
たとえ無痛分娩で科学的リスクが上がっても、精神論が温存されるならば無痛分娩数は減少するならば、酒井論は肯定される。
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になる。
で、まず前提として。
日本では激痛分娩を経てこそ母親になれるという訳わからない精神論があると、酒井は言っている。
が、日本に、そうした精神論があるのかどうかまず証明は難しいだろ。どんだけアンケート取るのか。
かつ、精神論があったとして、精神論があることが原因で日本では激痛分娩がなされているのかどうかの証明は難しいだろ。これは酒井の思い込みレベルの話なんだよ。
だから、精神論があることを前提に、「精神論否定」とか「精神論温存」ってお前は言ってるけど、まずそれが成り立たない。
たとえ精神論があると証明され、精神論によって激痛分娩がなされているとされ、
その上で、激痛分娩を経てこそ母親になれるという精神論が否定されれば、確かに無痛分娩数は増加するだろう。
だけど、そもそも、現状で精神論があるとして、その精神論を否定していく根拠、理由になるものって何だよ。
日本人が、人間が今まさにもってるとする精神論が、いつのまにか勝手に否定されたりするわけないだろ。
もし精神論が否定されていくなら、そこには必ず、それなりの根拠なり理由なり必要だろ。
日本人が、今、激痛分娩を経てこそ母親になれると考えているんだよね?
それを日本人がこれから、「いやそんなことない」って否定するんだよね?
どうしたら、「激痛分娩を経てこそ母親になれるとか、そんなことはない」って否定しはじめるのか?
いや、とにかく何かの理由で「そんなの迷信だ、思い込みだ」っていきなり否定しはじめるんだとして、
その可能性てどんだけなんだよ。
何の理由もなく、いきなり否定されはじめることなんて、ないだろ。アホか。
現実的にありえない仮定をもとにしてるから、この仮定は全く意味が無い。
後半も意味が通らない。
激痛分娩を経てこそ母親になれるという精神論が温存されそのままなら、無痛分娩数の減少には繋がらないだろ。
ここまでをまとめると、精神論はなんかしらんけど勝手に否定されたりしないし、だから無痛分娩数の増加に繋がるわけはないし、
精神論が温存されたとしても、無痛分娩数は減少に繋がらず「そのまま」なわけ。
まず、こうした意味の無い仮定に基づいている以上、
"日本では「激痛分娩を経てこそ、母親になれる」という訳わからない精神論が横行し、先進国唯一の激痛分娩国になっている"
という酒井の論はどうやっても肯定されないわけ。
さらに、「無痛分娩で科学的リスクがいくら上がっても、」の部分と絡めるとさらに意味不明。
現状で、無痛分娩がなされているわけで、そのリスクがこれから上がったりすることはない。
ここだけでもうおかしいんだが、とりあえずリスクが高い、と読み替えることにする。
すると「無痛分娩の科学的リスクが高くても、精神論が否定されるなら、無痛分娩数増加に繋がる」になるんだが。
「激痛分娩を経てこそ母親になれるという精神論」が否定されるということは、
「激痛分娩することにより母親になれるとかなれないとか関係ない、激痛でも無痛でも、同じ」だ。
激痛分娩の否定じゃないんだぞ。
それを否定しても、「無痛分娩によって母親になれる」にはならないぞ。
激痛でも無痛でも「同じ」になるだけだ。
で、母親になれるとかなれないとかは関係なく同じならば、
単純に「子を産む」に際して、なんでわざわざリスクが高いほうが選ばれるのか意味が不明。
母親になれるとかなれないとか関係なく同じならば、
自分や子どもの安全ために、痛いけど我慢してリスクの低い激痛分娩を選びましょう、ってなるだろ。
まあ、リスク高いけど痛いのはイヤだわという理由で、無痛分娩を選ぶ人もいるにせよ。
それにしても、一方的に、リスクの高い無痛分娩の方が増加するとは言えない。
さて、後半、「無痛分娩の科学的リスクが高くても、精神論の温存が無痛分娩数の減少に繋がる」。
精神論がそのままなら無痛分娩の数はそのままなのは先に書いた。
で、無痛分娩のリスクが高く、精神論がそのままならば、やっぱり「そのまま」だ。
いま、激痛分娩がなされてるんだからな。
以上まとめると、そもそも仮定の条件がおかしいことに目をつぶっても、
どうやってもお前の立てた仮定では、酒井の論は肯定されないんだよ。
おまえの書いてる麻酔科医のクダリも、それでググっただけで産科における麻酔科医の数が不足しているのかどうかは判明しないし、精神論があろうとなかろうと~って、精神論があって麻酔科医の数の少なければ現実を越えるまでも無くやっぱり精神論で激痛分娩の数は多いだろうから「あろうと」は余計だとか、いろいろメチャクチャなんだが、疲れたからコレくらいにしとく。
ちなみに、これから無痛分娩が広まったとき、初めて、
「激痛分娩を経てこそ母親になれるとか、それはない、関係ない」って否定されだすんだぞ。
無痛分娩したけど、ちゃんと(良い)母親ですよっていうのが自分の評価でも他人から見ても広まれば、
分娩における痛みの強さは、母親になる条件ではないなーっていう認識が広まるだろ。
まあ、麻酔科医の不足が原因かもしれないけどな。それはまた別の話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20100908214709
こっちはイギリス住まいなのでちょっと事情は違うかもしれないが、無痛分娩が当たり前などと言うことはない。アメリカ人の友人と話していても、出産の痛みの話なんて当たり前に出てくる。イギリスではepidural(麻酔)の投与は自由に選べるが(これでも無痛にはならない)、依然として大多数は普通分娩を選択している。理由としては、
助産婦がepiduralの使用を余り積極的に勧めない(理由は以下)
いきむタイミングが分からなくなるので分娩が長引く(タイミングを助産婦がコントロールせねばならない)
(これは邪推だが、以上の理由から病院の負担が大きいため?)
イギリスではホメオパシーは比較的メジャーだが、助産婦がepiduralを勧めないのはそれとは関係ないように思われる。何度か助産婦と話したが、ホメオパシーに共感を抱く助産婦は自分の行った病院にはいなかった。
海外の話を書く人は、「英語の読めない日本人はどうせ気がつかないだろう」と、表現を気軽に誇張するので気をつけた方がよい。後は、著者自身が大した情報を持っていないので、針小棒大に書かないと本が成立しないという事情もある。
元職場で経産婦の方が山ほどいたが、「以下に苦労・痛みに耐えて出産したか」
「これから出産するのには少々の痛みを耐えねば」
「痛みに耐えてこそ母となれる」
という精神論を聞かされた結果、私は自分が出産する時はぜっっっっっったい麻酔でやると決意した。
だってなー、産んだあとだって痛いらしいよ。なんでも会陰を切開して糸で縫うのでトイレのたびにしみる、とか、
その糸を自分で引っこ抜いた、だの、
産んだあとでもそんな鳥肌レベルの痛い話聞かされたら、どう考えても無痛にしたくなるよ絶対。
痛みは極力少なくしたいというのは普通のことだと思う。
当方、酒井順子本を論拠に論を組み立てているので、無痛分娩の方が科学的に有リスク、となると、
論拠が一気に崩れるので。
まったくもって意味不明。
酒井の論が"日本では「激痛分娩を経てこそ、母親になれる」という訳わからない精神論が横行し、先進国唯一の激痛分娩国になっている"だから、論拠は「精神論が無痛分娩数増加に繋がったか否かのデータ」しかありえない。
無痛分娩で科学的リスクがいくら上がっても、精神論否定が結果的に無痛分娩数増加に繋がり、精神論の温存が減少に繋がりさえすれば酒井論は肯定される。
で、問題は精神論でしか説明不能なのか。
多分一番の理由は「常勤麻酔科がいる産婦人科が少ないから」です。
日本ではまだ設備の整った産婦人科と大病院で、希望する人と疼痛に耐えられない心疾患などの患者のためにしか無痛分娩されておりません。
「麻酔科医 数」で検索すれば、麻酔科医が足りていないらしいことは容易にわかる。さて、その足りない麻酔科医を、医療側はどう使おうと考えるか。
つまり、激痛だろうと何だろうとひとまず産むことはできる妊婦と、麻酔科医なしでは実行不能の救急や手術、どちらに使うかだ。
前者にリソースをジャブジャブ使おうとするバカは多くはないだろう。
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
俺も痛みと麻酔で錯乱と朦朧とした状態を交互に繰り返した祖母の付き添いから看取りまでを親としたが、
目の前で見たからこそ、それを本人に言ったり、思う事はできねえよ。
見たくなかった、という気持ちはあっても、それは俺の身勝手な希望であって、
本人に対して人の親だから、最後まで自分を曝け出すな、なんて絶対思えない。
(っても暴れて叩かれる、食器をひっくり返すって類だが)
時々我に返った時に、そうした記憶ってうっすら残ってるのな。
自分はおかしくなった、って泣いて詫びる祖母に
「いいよ、気にしなくていいよ」って言い続けた。
それは本心以外の何者でもないぜ。
今の今まで親を人間と考える機会がなかった、って奴は別としても
実際に目の当たりにしたのに
お前は親なんだから、苦しくても辛くても、そうした部分を曝け出すな、って
どうして思えるんだろう?
正直不思議だ。
俺は肉親に対して甘いのか?
私は1年半前、病で母を失った。
当時の私は、「ホスピス病棟に入院する」ことはどういうことを意味しているか知らなかった。私は学生で春休みだった(とは言っても就職活動はまっただ中だったのだが)こともあり、母の病室には毎日のように通っていた。その日は大雨。いつものように車を運転し病室に行き、母に話しかけながらコンピュータをたたき、就職活動の書類を書いていた。
その日、母の様態が急変した。突然咳き込みだし、私は看護師に声を掛けた。この症状は危篤です、と告げられた。私が車で駅まで迎えに行き、徐々に親戚一同が集められる。
母はいつだって「苦しい」「しんどい」「つらい」、弱音を吐かなかった。その母に
「大丈夫? 苦しい?」
と声を掛けるとうなずき、初めて苦しいという意思表示をした。それを見た看護師は、
「少し眠らせましょう」
と言い、麻酔のような(当時よくわからなかった)点滴で一時的に眠らせる措置を執った。しばらくして母が目を覚まし、少しは目を開けていられるものの、すぐにまた咳き込み始めた。これを何度か繰り返していると、徐々に咳き込むまでの間隔も短くなってゆき、次に眠らせたときに、
「次に目覚めたときに、お別れをしてください」
と私たちに告げる。
次に母が目を開けたとき、私たちは嗚咽にふるえる声で最期に感謝の言葉を伝えた。親戚一同が自分の目の前に立ち、泣きながら自分に感謝の言葉を告げる、その光景を見るのは一体どんな気持ちなのだろうか。母は、その後に大量の点滴を投与された。翌朝、その眠りに落ちたまま、母は息を引き取った。
「眠らせて息を引き取るのを待つなんて、そんなん殺してるんと一緒やん!」
と当時は思っていたのだが、のちに「ホスピス」とは、「治療する」ことではなく、「苦しみを少しでも緩和する」ことを目的とした施設だと知った。患者の立場から考えると、苦しい思いをしてまで無理に生きながらえるよりも良い選択なのかもしれないと思えるようになった。
今でも母の夢を見る。母の夢を見るときは、決まって母は闘病生活をしている。その姿だけが夢に出てきて、母を失ったという事実は夢に出てこない。これは母の死後1年半、ただの一度も例外はない。
今では母の死から立ち直り、社会人1年生として立派に(?)働いている。人間には、きっと他のどの生き物よりも豊富な感情がある(生物学は詳しくないのでよく分からないが)。楽しいと思えることが終わることもある代わりに、どんな苦しみ、つらさからでも必ず立ち直ることができる。つらいときは泣いたっていいと思う。流した涙の分だけ、その先には幸せが待っているはずだから。
柝の音は街の胸壁に沿つて夜どほし規則ただしく響いてゐた。それは幾回となく人人の周囲を廻り、遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴えて鳴り、さまざまの方向に谺をかへしてゐた。
その夜、年若い邏卒は草の間に落ちて眠つてゐるひとつの青い星を拾つた。それはひいやりと手のひらに沁み、あたりを蛍光に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あやしんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひとところ青い蕾を喪つてほのかに白く霞んでゐた。そこで彼はいそいで睡つてゐる星を深い麻酔から呼びさまし、蛍を放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還してやつた。星は眩ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら、やがては一直線に、束の間の夢のやうにもとの座に帰つてしまつた。
やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そしてこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし、二度とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた。
いくら日本の一部の連中が癌で死にかけていたとはいえ、あのやり方はあんまりだろ。おかげで戦利品は半分ぶっ飛ぶわ、頑張ってた奴らは標識をいきなり変えられて大混乱するわ、中には一番うまく行っていたときに死ぬことになる奴がいるわ、小泉は最悪なことをやった。あいつがやったのはドサクサまぎれで自分のオナニーを日本にぶっかけただけ。んであいつの政策は弊害ばっかりだし、めちゃくちゃやりすぎてその後に変な事件が多発して社会が余計悪化するわで、結果的にあいつのせいで日本が積み重ねてきた社会は壊滅した。なんせ日本を動物園にしたんだからな。あいつが出てくる以前はもっと理性的な風潮があったぜ。みんなあいつに殺されたときは苦痛だったはずなんだよ。だけどあいつの殺し方は、犯人をあいまいにし、一瞬苦痛を感じるけどいったん死んでしまうと何も感じなくなるように巧妙に仕組んでいるから、みんな誰にいつ殺されたという最悪の事実を認識していないんだよ。言ってみれば牛や豚の殺し方と同じように、麻酔や投薬をして殺しているから、苦痛があまりなく、殺された後も誰が殺したか分からないように工夫している。しかしお前らは小泉純一郎に殺されたんだよ。こういう凶悪犯罪者は死刑で当然。誰か小泉元首相の所在を探し出してめった刺しにして殺せ。まずこいつの家族から殺して本人に苦痛を与えながら最後にこいつを殺せ。理不尽な暴力で多くの国民の努力と人生を無にした罰だ。
正確には去年の8月11日だったと思う。8月の初頭が誕生日で、去年の誕生日に20歳になった。
だから、親に何も知らせる事無く一人で同意書を書いて、出した。
相手の欄に書いてくれる人は居なかった。もう捕まらないんだろうなあ、と諦めている。
五週目の赤ん坊だった。検査薬を買ってみたら2本の線が出てたので、「妊娠したな」と思って病院行った。
「妊娠されてらっしゃるのは確実なんですけども」と言われたけれど、ああ、としか思わなかった。
「多分、今、五週目だと思うんですけど」と言うと、丸い円盤のようなものを取り出して確認した後(あれで周期を判断するのかな?)
「詳しいですね」と驚いたように言われた。それくらい知ってる。ググった。
赤ん坊が出来ても別に驚かなかった。覚悟はしていたので、慌てなかった。
でも毎日のように本を読んだり、Webで情報収集したりしてた事に、その時初めて気づいた。
それから膣に棒のようなものを突っ込まれて(結構痛い)、エコー検診。どこに胎児が居るか全然分からなかった。
「堕胎します」と言うと、「分かりました」と言って簡単な手術の説明をされた。
とりあえずその日に同意書を貰って、銀行で貯金を下ろした。一人で上京して仕事してるので、お金はあった。
初診料、検査費用も含めて15万円だった。高いのか安いのか分からない!
だってそうでしょう。人間一人分(二人分か三人分かも)の命が掛かっているんだから。
でも、全然実感が沸かなかった。体の具合が悪かったので病院へ行って、「処置」をする。それだけ。
望まぬ子どもが出来たら泣き喚いて、絶望するものだと思ってた。
でも、全然泣かなかった。悲しいとすら思わなかった。子供が居るという事実は把握したけど、愛情も沸かなかった。
折角出来た大切な子供なのに殺すなんて! とも思わなかったし、
誰とも分からない、名前も知らない奴の子なんて憎い、死んでしまえ!とも思わなかった。
不思議で、静かな気分だった。怖いくらいに淡々としてたと思う。
ただ、何の感情も湧いてこないのを見て、「私は母親にはなれないな」と思った。
だから私はまだ、母親にはなれないんだ、と思った。(成人しておいて"まだ"もクソもないけれど)
一生なれないのかもしれない。
数日寝たら、堕胎手術の日だった。
堕胎手術は日帰りだったけど、前日は何も食べないように、と言われていた。
その頃には悪阻が始まっていた。甘い香りだけで吐き気がした。男性の加齢臭だけで吐いた。
当日の朝も、何も食べていないのに、死ぬほど具合が悪かった。
途中の駅で降りて、トイレに駆けこんで吐いた。
何も食べてないから気分が悪いだけだと思っていたけれど、黄色い胃液が沢山出た。凄まじい味がした。
病院に着いて、同意書を渡して、着替えた。看護婦さんに下着と生理用ナプキンを渡した。
看護婦さんが同意書を見て、「先日成人されたんですね」と言った。「ええ、つい先日です。だから、よかった」と答えた。
相変わらず何とも思わなかった。
分娩台に両足をかけて、腕に点滴をされた。先生に「宜しくお願いします」と言ったら、点滴の管に注射を打たれた。
起きたら病院のベッドに寝ていた。ナースコールで看護婦さんが来て、処置をした。
膣の中にガーゼが詰められていたので、それを抜かれて、少し背中をさすって貰って、数時間眠った。
途中で飛び起きた。痛い!生理痛なんて笑える位の激痛だった。
看護婦さんが「痛い?うん、痛いね…」と言いながら背中をさすってくれた。ベッドの上で転げまわっていた。
「エコー写真、頂けますか?」と尋ねたら「出来ますよ、後で渡しますね」と言われた。
水子供養にはエコー写真を使うと、どこかで読んだことがあった。する気は特に無かったのだけど、言ってしまった。
その後1時間ほど休んだら落ち着いたので、受付で代金を支払って、外に出た。受領書と一緒にエコー写真を渡された。
家に帰って、Yahooの記事で、赤ちゃんのエコー写真を見た。妊娠初期から臨月まで、沢山の写真があった。
何となく貰ったエコー写真を取り出して、同じ時期のものと比べてみた。いた。分かった。本当にちっこい、白ゴマみたいなの。
じわりと画面がぼやけた。悲しくないと思っていた。馬鹿らしいと思っていた。
子供に執着出来ない自分なんて、母親になるのは無理なんだと思っていた。これでいいと思っていた。
何も間違った事はしていないはずだった。私には関係ないと思っていた。母親なんて、自分とは遠く離れた存在なんだと思っていた。
けど、もう、駄目だった。
ぼろりと涙が出た。一晩中泣き続けた。翌日になっても、ずっと泣いていた。
結局その後1年経って、私は何がしたかったのか、何であの時泣いたのか、もう分からないくらいのボンヤリに戻った。
未だに不思議だと思う。何で泣いたんだろう。
ただ、悔しかっただけかもしれない。何で私ばっかりが。何でこんな目に。何でこんな痛い思いを。
それとも、やっぱり悲しかったのかもしれない。自分の子供だから。自分も母親になりかけていたのかもしれない。
でも、今でもやっぱり、分からない。もうどっちでもいいと思う。
結局あのエコー写真は、ケースの裏側にしまいっこみぱなしだ。たまに取り出して、眺める。
やっぱり、分からない。
最近久し振りに実家に戻り、自分の母親を間近で見て、無性に泣きたくなった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。でも、死ぬまで言わずにおく。
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2011.09.13 追記
今年の8月で22歳になった。何も感じないと思っていたけれど、違った。
最近は他人の出産や育児経験、子供の話をとても聞きたくなった。
出産経験をまとめたサイトを読んでいると、心から「おめでとう」という気持ちになる。
そして同時に涙が止まらなくなる。
堕胎した時、本当に何とも思わなかった。
そしてインターネットで病院を調べて、電車に乗って、手術して、そして帰ってきた。
今になって、それがじわじわと効いてきているのが分かる。
なら私も、ああしてあの子を育ててあげられたんだろうか。
10ヶ月も大事に大事に腹の中で可愛がって、愛して、育児教室に通ったりして、
あの日、手術を待っている時、待合室に若い夫婦が居た。
奥さんの隣に旦那さんがいて、旦那さんは奥さんにずっと話しかけていた。とても幸せそうだった。
でも、その時は何とも思わなかった。
今年になって子宮の病気になり、また産婦人科に行く機会があった。
待合室に座っていると、また数人の妊婦の方を見かけた。
一年前と同じだった。あの時のように、旦那さんが付き添っている夫婦も見かけた。
その瞬間、一気に目が覚めた。
これが、普通なんだ。
妊娠をしたら病院に来て(心配して旦那さんが付いてきてくれる人もいるだろう)、先生から説明を受けて
両親にも報告して(そして喜んでくれるんだろう)、そして幸せで、笑って、おめでとう、おめでとう。
そういうのが普通なんだ。
その時初めて理解した。これが普通なんだ。妊娠するというのは普通、とても幸せな事なんだ。
じゃあ、あの時の自分は何だったんだろう?
隣に夫となる男もおらず、誰にもおめでとうと言われず、笑えない、全てを一人で済ませたあの時の自分は。
そしてそんな私におめでとうとも言われず、ありがとうとも言われなかった、あの子は?
あの時の自分の判断が間違っていた、とは思っていない。
当時未成年、親の後ろ盾も、夫になる奴もいない、仕事はどうなるか分からない、経済的にも精神的にも問題だらけだ。
罪悪感は無かった。無かった筈だった。今でも正しい判断だとは思っている。
でも、涙が止まらなかった。
分からなかった。ただ申し訳なかった。それと同時に、とても羨ましかった。
当時は産めるはずもない、育てるのも無理だ、経済的にもどうしようもない、親にも言えないと思っていた。
だから一人で調べて、全て一人で済ませた。誰にも言わない、なんてこと無い、ちゃんと出来る。だから大丈夫。そう思っていた。
こんなの、少しも大丈夫じゃなかった。
結局、あの後私は見事に検査で引っかかり、どうも不妊に近いものになってしまったので
恐らくあんな思いは二度としないだろうと思う。
不幸になる機会も、幸せになる機会も失った…と思えば、案外こんなものかもしれない。
男に関しては警察に届けようとした。努力はした。でも、思い出すだけで吐き気と震えが止まらなくなる。なので諦めた。
願わくば、これ以上被害を出す前に死んでいて欲しいと思う。
親には堕胎した事も、不妊になるらしい事も、結局話していない。
これでいい、余計な心配なんて掛ける必要はない。そう思っている。
当時も色々と頼りなかった私だが、去年から本格的に仕事を始め、何とか軌道に乗ってきた。
何人かに告白された。全て断った。
全てを話す気力も、そんな勇気も無い。一生一人でいい。
かわりに在宅の仕事なので、しばしば姉の子供の面倒を見ている。とても可愛い。
けれど、新しい保険証にはそれを挟む所が無い。
つい先日帰郷した時、お寺でエコー写真を渡し、水子供養をして貰った。
もう3年。やっと、やっと供養してあげられた。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
ここまで聞いて下さって有難う御座いました。
2006年の夏、建設現場で日雇いのバイトをしていました。日給1万円もらえる仕事だったのでそれなりにキツイ内容です。マンションなどを建てる際に必要な資材の石膏ボードをひたすら運び込むというものです。
新入りの頃は一枚持つのがやっとでしたが、作業を重ねるに従い、一度に運べる量が二枚・三枚と増えていき、貧弱な僕もだんだん体力がついていくのが実感できてそれなりにやりがいを感じていました。
僕はあまり体力に自信のあるほうではありませんが、1人暮らしを始めたばかりでお金が必要なこともあり、ほぼ毎日仕事に出てがんばっていました。
その仕事に就き出して三ヶ月めの06年8月2日、仕事中から腰に違和感があり、今まで経験したことのないようなだるさ・重さを腰に感じていました。夕方、仕事を終えてバスで帰る道中、腰の違和感ははっきりとした痛みに変わっていました。座席に座っていることができません。まだ立っているほうがましです。
部屋に帰ってもその痛みはますます酷くなり、激痛といってもよい程になっていきました。
ただの腰痛だと思っていたので、とりあえず横になって痛みが引くのを待つしかないと思い、次の日の朝まで寝るつもりでした。
ところが夜中になるにしたがい痛みは増していき、もう我慢できるレベルを超えていました。
それでも、油汗をかきながら朝まで我慢し、トイレに立つこともできない僕は救急車を呼ぶ決心をしました。
なんだか恥ずかしかったです。生まれてはじめて救急車を呼びました。担架で運び込まれる時、近所の人が野次馬になってじろじろ見ていました。
近くの総合病院に着き、ストレッチャーでとりあえずレントゲン室まで運ばれました。
技師が仰向けの僕に向かって脚を曲げろだの横向けになれだのいろいろ指示をとばしてくるのですが、どんな体勢でも激痛が更に増し、無理でした。仰向けで脚を上に上げようとした僕は身体全体をつらぬくような鈍い痛みに思わず叫び声をあげてしまいました。
技師もあきらめたのか仰向けのレントゲンだけ取って終わっようです。
レントゲン室を出ると、若い看護師が僕の叫び声を聞いたようで、
「なんでこんなになるまで放っておいたの?」
といわれてしまいました。それに答えることもできない僕の手を、その看護師が握って、
「私も前にヘルニアやったからどんな痛いかよくわかるよ。」
と、慰めてくれました。
診察室で仰向けになったまま医師の診断を受けました。
仰向けのレントゲンしか取れなかったわりに腰椎椎間板ヘルニアの特徴である椎間板のはみ出し具合が顕著だったらしく、即入院ということになりました。
入院が決まった時、それまで入院なんかしたことなかった僕は正直びびりました。
しかもTシャツにパンツの格好で運び込まれ何の用意もなかったし、どうなるんだろうと思いました。
ぼくが運ばれたのは整形外科の6人部屋です。僕の他は40くらいのおじさんと、中学生の男の子と70くらいのおじいさん2人でした。
ベッドに寝たまま看護師から色んな説明を受けました。酷い痛みの中で聞いたのでほとんど頭に入りません。
小林さんというその看護師は30才くらいでこれからぼくの担当になるということです。
とりあえず優しそうな女性だったのでほっとしました。
説明が終わり、最後に
と聞かれました。
大丈夫じゃありませんでした。夜中からトイレに立つこともできず今まで我慢していたのです。
「すいません。オシッコしたいんですけど・・・」
「ちょっと待っててね。」
何も言わず僕のトランクスを全部脱がせました。僕は腰を上げて協力しようとしましたが痛みでどうにもならず小林さんにまかせました。
僕のペニスはこれ以上ないぐらい縮こまっていました。もともと仮性包茎で亀頭が隠れているのに今は包皮が完全にかぶってしまって象の鼻みたいになっていました。そんなペニスを見られるのは恥ずかしいものです。
「自分でやります。」
僕はそういって尿瓶を受け取るとペニスにあてがおうとしました。ところがちょっとでも身体を起こすと激痛が走ります。
無理でした。
「ほらー。無理でしょ。こういうのも全部仕事のうちなんだから恥ずかしいなんて思わなくていいのよ。」
ペニスが小さいからずっと支えていないとすぐはずれてしまいます。小林さんは排尿の間ずっと支えてくれていました。
長い排尿が終わり、尿瓶を床におくと、小林さんはウエットティッシュでペニスを拭いてくれました。包皮もめくって亀頭のまわりも優しく拭いてくれます。女性に触られたのは初めてだったので立っちゃうかなと思いましたが、それよりも激痛のほうが勝ってピクリともしませんでした。
小林さんは拭き終わると包皮をまたもとに戻しました。そして袋や腿の付け根もついでみたいに拭いてくれました。
「今井クン、パンツいちいち履いてたらたいへんだから、これ付けとこうね。」
そういうと、ふんどしみたいな帯をつけてくれました。
「痛み止めの座薬いれるね。」
さっきのT字帯を取って僕を横向けにさせました。
「すぐ済むから我慢して!」
座薬を奥のほうまで突っ込んできます。うんこが出そうな感覚がしましたが我慢しました。
「痛みが我慢できないようだったらこのボタンを押してね。」
小林さんは戻っていきました。
それから2時間くらいすると、徐々に痛みがやわらいできました。ほっとした僕は試しに起き上がろうとしました。
ダメでした。
ちょっとでも腰を曲げると激痛が走ります。
ただ仰向けに寝ている分には痛みがないというだけでした。それでも痛みがやわらいだことで心が随分軽くなりました。
昼ごはんはおにぎりでした。寝ながら食べられるようにとのことでしょう。左手に点滴をしながら、小林さんに時おり手伝ってもらいながら、食べました。
「とりあえず寝ている分には痛みがなくなったけど、まだまだ絶対安静だからね。無理に起き上がろうとしたら駄目よ。」
そう言いながら口の周りや手を拭いてくれました。
この日、昼間ずっと眠っていたせいで夜中に目が覚めました。
やってきたのは三十代半ばの初めてみる看護師です。この人も優しそうな雰囲気でした。
「今井さん、どうしましたか?」
ささやき声で聞いてきます。ハスキーで色っぽい声です。見ると白衣の胸やお尻の所がパンと張っていてグラマーな人でした。
「すいません。オシッコしたいんですが。」
その人、川上さんは、うなずくとすぐに僕のT字帯を取り、ベッド下から尿瓶をとりあげて、ペニスをあてがいました。
昼間、小林さんにやってもらった時はすぐ排尿できたのに、なぜか今回はなかなか出ません。オシッコしたい感覚はあるのにです。
それでも川上さんはジッと出るのを待ってくれています。
ようやく小便が出始め、ほっとしました。
「よかったね。」
そういって戻っていきました。
朝食の後、清拭がありました。
近藤さんというまだ学校出たばっかりな感じの看護師が僕の身体を拭いてくれました。熱い湯に浸したタオルで力強く拭かれるのはとても気持ちの良いものでした。
「オシモのほうは洗いますね。」
そういうと、お尻の下に差し込み便器を置いて、ぬるま湯と石鹸で洗い始めました。袋の皺の部分や、お尻の穴まで丁寧にやさしくこすってくれます。
勃起しそうな感覚はありましたが、とても恥ずかしく、また入院したばかりの不安な精神状態だったためかペニスはやわらかいままでした。
依然として起き上がれず、つらいです。
入院してから一度も大便をしていません。
まだ、ウンコが出ない。看護師さんが浣腸しようとしたが強硬に断りました。そんなの恥ずかしすぎます。
今日こそベッド上で排便しようと試みました。
でもだめです。いくらきばってもでません。
小林さんが浣腸してくれました。初めての浣腸です。浣腸した直後から鋭い便通がきました。
「5分我慢してね。」
とのことだったので必死で我慢しました。
「まだよ。まだよ。」
と囁いています。
5分後、差し込み便器めがけてシャワーのように排便しました。大量のウンコです。差し込み便器にはおさまらず、下に敷いたビニールシートにもウンコが垂れました。
小林さんはさすがに排便の間カーテンの向こうにいてくれましたが、すごい音やニオイは隠しようもありません。他の入院患者に対しても恥ずかしく、申し訳なく、もう死んでしまいたい気持ちでした。
「おー、いっぱい出たねー。よかった、よかった。」
小林さんは笑顔で僕の汚いウンコを始末してくれます。ほんとに穴があったら入りたい気分でしたが彼女の笑顔に救われたように思います。
「お尻洗うね。」
なんだか汚いウンコも見られたせいか恥ずかしいとかいう感覚がなくなったようです。パンパンに張っていたお腹もすっきりして心まで軽くなりました。
小林さんに洗ってもらってる間ペニスが半立ちになってしまいました。こんなことは入院以来初めてです。スッキリしたせいでしょうか。これはこれで別の恥ずかしさがあります。必死で違うことを考えて勃起をしずめようとしました。
「今井クンは本読むの好きなんだね。いっつも本読んでるもんね。」
小林さんも気をそらそうとしてるのか、それとも単なる世間話のつもりなのか、話しかけてきます。僕も母に持ってきてもらった村上春樹を語ったりしました。
おかげで完全に勃起せずにすみました。でも小林さんの洗い方はとても気持ちよく、やばいところでした。
ブロック注射を打つにはベッド上で横向きになりネコのように身体を丸めないといけません。そんな姿勢は今の僕には発狂しそうなほどの痛みをともないます。
それで全身麻酔を打ってからということになりました。
麻酔を打って、徐々に薄れていく意識の中で、なぜか小林さんのことを考えていました。
なぜかペニスが痛い。どうやら尿道に管を入れられているみたいです。しかも勃起しているから余計です。起き上がってみようとしましたが麻酔が抜けきってないのか身体に力がはいりません。
勃起が収まってからナースコールを押そうと思っていたのに、その前に看護師が来てしまいました。初日、夜中に小便をとってくれたグラマーな川上さんです。
「目が覚めたんだね。どんな具合?」
「まだ、身体に力が入らないです。」
「ブロック注射は何回かに分けてやるから、すぐに痛みが取れるわけじゃないよ。無理に起き上がろうするのは絶対だめよ。」
川上さんは点滴の具合を確かめ、それから僕のお腹をさして言いました。
「ちょっと確認するね。」
ふとんをはがしT字帯をとりました。
ペニスに管が入れられているのが見えます。しかもまだ勃起しています。
「はあ、痛いです・・・。」恥ずかしさをこらえて言いました。
「抜いちゃうね。」
そういうなり左手で陰茎を持ち、右手でそろそろと管を引き抜き始めました。
痛いのかと思っていたのは杞憂で、それどころかなんとも言えない快感が走りました。
なんというか、射精寸前のような感じです。
「あっ・・・・」思わず声が漏れました。
「痛い?」川上さんはいったん抜くのをやめました。
「あ、いや、そうじゃなくて・・・」
「じゃ、抜くよ。」再びそろそろと管を引いていきます。また変な感じがしてきました。なんかほんとに射精しそうです。
しかし、無事、管は抜かれました。ペニスは腹側に向かって反りあがり、ビクンビクンゆれています。オナニーしてて射精寸前でやめた時みたいなもやもや感がありました。
「洗うね。」
「え?あっ、今はいいです。明日でいいです。」
必死で言いました。今、洗われたらホントに射精しかねなかったからです。
そういいつつ、川上さんは腰の下に差し込み便器を入れました。彼女の目の前でペニスはビクンビクン動いています。
「大きくなったこと気にしてるの?若い子はたいていそうなるんだから、いいのよ。」
川上さんは先に薄いラテックスの手袋をはめます。ほんとに薄そうな感じで、はめても彼女の綺麗な白い手がほとんど透けて見えています。あんなのでこすられたら・・・。どうなるんだろう。
僕は川上さんの準備している様子を伺っています。彼女はいわゆる綺麗なおばさんとでもいうか、色っぽい熟女とでもいうか、とにかくそんな感じの女の人で、ただ若いだけの女性よりも本当に妖艶な雰囲気を漂わせています。しかも、オッパイが大きいのが服の上からでもまる分かりで、白衣の胸の部分がパンパンに張っています。
そんな彼女を見ていると僕のペニスは全く小さくなる気配も見せず、血管を脈打たせてビクビクうごいています。
(ああ、どうしよう。射精しちゃったらどうしよう。)
そんな僕の思いにもかまわず、川上さんは僕の脚をカエルみたいに左右に広げ、容器に入ったお湯をペニスにかけました。
(うわっ、なんだ?すんごい気持ちいい。)
ただお湯をかけられただけなのに柔らかな羽でさっとなでられたような感覚が走りました。
「あ・・・、くっ・・・。」
言葉にならない声をあげてしまいました。
「熱かった?大丈夫?」
「はい、大丈夫です・・・。」
川上さんはガーゼで石鹸を泡立てています。クリーム状になったところで、両手でその泡をすくい、ペニス全体に塗りだしました。
ラテックスの手袋はほとんど意味をなしていません。彼女の温かくてすべやかな手がそのまま僕のペニスに絡みついてきます。
彼女はまずお尻の穴と睾丸から洗い始めました。左手でお尻の穴をなでながら右手で袋をゆったりと揉んでいます。僕はあまりの気持ちよさに汗をかいています。必死で別のことを考えてはいるのですが、意味がありません。特に睾丸をやさしく揉まれることがこれほど気持ちいいとは思いもよりませんでした。自分でオナニーする時に睾丸をさわるなんてしたことなかったのです。
「あっ・・・。」
「どうしたの?ここは汚れやすいのよ。」
「あんっ!」思わず大きな声をあげてしまいました。
「痛いの?だめよ。がまんしないと。綺麗にしないとだめなんだから。」
新たにソープをすくうと今度は陰茎部をゆっくりと洗い始めました。左手で睾丸をやさしくマッサージしながら輪を作った右手で陰茎を上下にゆっくりとしごいています。確かに洗ってはいるのですが、その動きは僕にとってもはや快感を送る以外の何物でもありません。
「ほらぁ・・・。だんだんきれいになってくねぇ。」そんなことを言いながら、川上さんは包皮をむいて亀頭を完全に露出させました。
左手でおもいっきり皮を下にさげ、人差し指と親指で輪を作った右手で亀頭のカリの部分をクリクリと撫で回しています。
「はぁ・・・あぁぁ・・・」僕はもう気が変になりそうです。
「んー?どうしたのぉ?今井クン、ちょっと変な気持ちになっちゃったかなぁ?でも、だめよ。キレイにしてるんだからぁ。」
言いながら、川上さんの右手は亀頭全体をコネコネとこねくりまわしました。
総毛だつような快感が下腹部を襲いました。白衣を着た肉感的な女性が僕のペニスを撫で回している。想像するだけで射精しそうなのに、今、その手が実際に快感を送り込んでいるのです。
「ここは念入りにしないとぉ・・・」
過敏な亀頭全体を逆手に握り、ひねりを加えながら上下になで上げています。ぬちゃぬちゃという音が病室に響いています。
もう、限界でした。腰が甘くとろけ、溶けそうな甘美な快楽につらぬかれました。
「あーっ・・・・!!」
信じられないほどの快美な感覚に包まれながら、僕は射精していました。今までのオナニーなんて比べものになりません。ペニスを中心に腰がどろどろにとろけてしまったようです。
身体全体をビクビク痙攣させながら長い長い射精をしました。射精している間も、川上さんは優しく亀頭をこねくりまわしています。おかげで精液が飛び散らずにすんでいます。
「今井クン、出ちゃったねぇ・・・、いいのよ。しょうがないよねぇ。全部出しちゃってね。」
そんなことをつぶやきながら、川上さんは優しく亀頭を撫で回し続けます。
「フフッ、よかったねー。気持ちいいねー。いっぱい出してね。」
ようやく、最後の一撃まで出尽くしました。まだ腰は痙攣していますが。
「今井クン、全部出たの?全部出さなきゃだめよ。」