「自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる」との言葉もある
さて、痛みがあるから麻酔があると演繹的に考えて良いのだろうか
むしろ、慰謝剤や麻酔といった逃げが出来る能力があるからこそ、痛みは痛みとして成立するのではないだろうか
産まれてから一度もラーメンを食べた事のない人間が、ラーメンを食べたいと思わない様に
産まれてから一度も他人と心を通わせた事のない人間が、他人と心を通わせたいと思わない様に
「その痛みや苦しみから逃げられた体験や希望や能力」が、私達から諦めを奪っていく
諦めが支配する人生では痛みも苦しみも日常と生活の一部として取り沙汰される事もなかっただろう
私は「損害を被る事」が不幸なのだとは思わない
「損害を被る事が不幸であるという自覚」が不幸だと思う
自殺を思う事がなぜ慰謝剤となり得るのだろうか
主体である自己を消す事で、あらゆる刺激とそれに対応する感情は消え去る
刺激を遮断する事で感情を消し、それ以上不幸を感じない様にする
無知な状態に戻る事とも同義となる
何かを知る事は出来るが、何かを忘れる事は出来ない
可能であるならば、それは記憶の破壊であり、記憶の破壊は自己の破壊つまり自殺である
つまりは、知らぬが仏