はてなキーワード: 法則とは
社会学に限らず人文科学・社会科学(いわゆる「文系」)が自然科学(いわゆる「理系」)と大きく立場を異にするのが、「社会現象に絶対的真理はない」ということ。
自然科学において1+1=2というのはごく当然のことで(1+1=10という2進法を用いると法則がかわるよねとか、平行線が直交しうるという概念を新設して非ユークリッド幾何学が生まれたとか、そういう話はあるがその辺は措く)、人文科学・社会科学ではそういった明確な自然法則は存在しない。ただ、それでもやはり仰る通りの「科学」の手法をとるなら、科学的な手法で研究をしていかねば、という話は出てくる。
大学時代に受講していた政治学ゼミの教授が言った印象的な言葉がある。一字一句覚えているわけではないのであくまで要約と思ってもらいたいが、ざっとこんな感じだ。
「目の前に特定の政治現象を説明する理論があったとする。そこで重要になるのは『それが正しいかどうか』ではない。社会科学である以上、その理論に対する例外的な現象が発生するのは当然なので『例外があるから間違っている』と考えるのはそもそも誤りだ。それよりも、『その理論がどのくらい多くの現実を説明することが可能なのか』が重要な論点だ。その理論が否定されるとしたら、その理論よりも『より多くの現実』を説明できる理論が立てられたときだろう」
この辺の話はおそらく「パラダイム理論」という名前がついている。「正しいかどうか」ではなく、「どのように現実を説明できるか」というのが「文系」では論点になる、というのは覚えておいていいかもしれない。
キズナアイ騒動で社会学が話題になっている。その騒動の中で、「社会学って自分の好きなことを言っているだけの学問なの?」とか、「客観的な視点が無いならそれ学問じゃなくね?」とか、「社会学って必要なの?」とか、様々な言葉が飛び交っている。
ところで、僕は大学に進学することを考えている、文系選択の高校生である。そこでふと気づいたのだが、これから受験に臨むというのに、僕は社会学について何も知らない。知らないというのは、騒動で飛び交っている言葉に対して、「それってまぁこういうことじゃね?」という程度の考えができるだけの知識すら持っていない、ということである。将来ひょっとしたら選択肢に入ってくるかもしれない学問なのに!
そんなわけで、ネットで軽く社会学について調べてみることにした。
「社会学」と検索すると、真っ先に、ウィキペディアの一文目が表示された。
社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である。
分かったような、分からないような。とりあえず、“統計・データなどを用いて分析する”ということは分かった。とするならば、騒動で言われていた、「客観的な視点が無いならそれ学問じゃなくね?」ということに対しては、「統計・データなどを用いて分析しているらしいよ」と答えることができそうだ。でも、まだ何となく腑に落ちない。
そこで思い出したのが、「そういや社会学って、社会科学の中にある分野だったよな」ということである。それなら「社会科学」も調べてみようか。
社会科学は、客観的に社会の真実を探求する事とともに、人類にとっての有益を追求する。また、文科系の学問において基礎となる間主体的な洞察力の活用と自然科学に由来する客観的視点を両立することで成立する。
うん……? ざっくりまとめると、
・社会の法則みたいなものを見つける→それを利用することで、みんなが幸せになることを目指す
・「これ法則っぽくね?」ってカンを働かせることと、客観的な視点を使うことの、両方をする
ってことでいいのかな。
いまいち理解できないのが、“自然科学に由来する客観的視点”の部分だ。これ何?
「自然科学」で検索すると、高校生が何となく信頼を寄せるウィキペディアには、残念ながら調べたい情報は出てこなかった。社会科学との対比の「自然」の部分に関する説明が多かったのだ。……ん? ということは、僕の調べたいことは、両者に共通する「科学」の部分にあるのではないか? その考えを以て思い返してみると、“自然科学に由来する客観的視点”、そう、“由来する”って書いてあったじゃんか。つまり、客観的視点の由来が自然科学なだけであって、社会科学が客観的視点を用いていない訳では無いってことだ。ああ、こんなことだから「最近の子供は読解力が無い」なんて言われてしまうんだろうな。ともかく、客観的視点は「科学」のものであり、それを知りたいならば、「科学」について調べればよさそうだ。そんなことを思いながら、「科学」のウィキペディアのページを開く。
こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ (Why) を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような (How) 現象が起きているのかを記述することと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
……分からん。「科学」で調べた時に、「科学とは 簡単に」という検索候補が出てきた気がするので、そっちで調べてみる。
https://www.geek.sc/archives/623
(小学校や中学校の理科の授業を挙げて)先生は実験前に皆さんに何かプリントを配って、「実験をしたらこういう結果になる」ということを説明したり、「実験によってどういう結果になると思うか、自分の考えを書きなさい」などのような指示を出したりしたと思います。そして、本当にその結果が得られるかどうかを検証するために、実験が行われたと思います。それが科学です。
なるほど、何となく分かった。科学とは、仮説→実験→検証という、小中学校の理科でやった流れのことなのか。ああ、じゃあ社会科学的な科学とは、「これ法則っぽくね?」ってカンを働かせる(仮説)→客観的な視点を使う(実験・検証)で、その実験・検証に使う客観的な視点が、社会学においては“統計・データなどを用いて分析する”ことなんだな。じゃあ、「社会学って自分の好きなことを言っているだけの学問なの?」って言葉は、半分合っていて、半分間違っていることになる。自分の好きなことだけ言って根拠が無いのであれば、それは「好きなことを言っている」ということになるけど、根拠があるならば、それは科学で証明された立派な法則だ。もっとも、優れた科学者なら、仮説の時点で言っていることはかなり正しくて、後は証明するだけ、ということもあるかもしれない。千田さんが何かオラついているのは、もしかしたらそういうことを言いたいのかもしれないなあ、なんて。
まあそれは置いといて、社会学を含む社会科学は、科学的な手続きを踏んで成り立ってきた法則を利用することで、みんなが幸せになることを目指す学問なのだから、どう考えたって人類にとって有益だ。だから、「社会学って必要なの?」というのはおかしいような気がする。
これでふわっと社会学について知ることができたし、「それってまぁこういうことじゃね?」と言うことができた気がする。ネットで軽く検索して得ただけの弱っちい知識ではあるけど、それだけでとりあえずは、例に挙げたような飛び交っている言葉は解決できそうな気がする。もちろん、議論はその上に成り立っているものであるはずだし、そうでないと時間の無駄だ。だから、これを「はっ、当たり前のことばっか書き連ねやがって」とか「いやここおかしくね? 幼稚な理解だな」とか言って、一笑に付してもらわないと困る――Twitterで何か言っている人たちとか。なので、この文章で違和感のあるところがありましたら、ご意見の程よろしくお願いいたします。
redditでDieOffだのPeakOilだののsubredditを購読してる(もちろんそれ以外にもたくさん購読してる)んだけど、やっぱりイケイケな経済成長論者とは空気感が全然違うよね
石油・天然ガス・石炭が減耗(ピークオイル論者の間ではほとんど常識だけど、これは「枯渇」とは全く異なる概念であり「減耗」は「枯渇」なんかよりずっとあり得る現実的な脅威ではあるが)するというのはおそらく事実だろうけど、それに対する資本主義者の考えは端的にいえば「何も考えてないんじゃね?」だしそれ自体はしかたない
2018年だけでも異常気象で日本でも何百人も死んだけど、それですら気候変動(あるいはそれを引き起こしたであろう産業活動のもろもろ)との関連を多くの人は否定するんだろうから、死ぬべくして死んだ命なんだろうなとしか思えなくなってくる
とかうだうだいってる自分もエネルギー分野で研究職になるのを目指したきっかけはそういうことながら、蟷螂の斧的な無力感でいっぱいでどうしようもない。
どんなに経済が発展しようが、人間が、この社会が物理的な存在である以上、熱力学の教える物理法則から決して逃れることはできない、単純にこれだけなのに市民社会というものは経済の熱力学的制約を何も考えようとしないんだから、民主主義に従って勝手にエントロピーを浪費して溺れ死ね、としかいいようがない。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1810/04/news013_3.html
RPGにおいて、主人公というのは圧倒的な正義である。どんなにスライムがかわいい見た目をしていようと、モンスターはモンスターであり、倒すと街の人たちに喜ばれる。「ぼく、悪いスライムじゃないよ」と言ってくるスライム以外は、みんな悪いスライムなのだ。魔王も、その手下も、シンプルに「悪」でしかない。
いや、敵が絶対悪じゃないRPGなんか昔からいくらでもあるだろ
スライムとか言ってるけど、DQだって4の時点(MOTHER2より前)で魔王は絶対悪じゃないし
はてブのアプリで単語検索しようと思ったらピコ太郎と並んで知らない会社名が「話題のワード」として表示された
なんとなくクリックしてみたら表示されたもの全部10userとか20userとか切りのいい数でブクマされてた
怪しいなと思って詳細見てみたら全部初期アイコン・同じ法則のランダムなアカウント名・同じタグ・同じブクマ数のアカウントの無言ブクマだった
その会社名の横に並んだ聞いたことのない「話題のワード」はその会社の商品らしく、やはり10userとかの初期アイコンから無言ブクマされてた
こういうやり口もあるんだねえ
釣られたなあ
人間は人間であると同時に、人間の身体は物質であることは現実として受け止めてほしいなあと思うんだよなあ・・
いわゆる物心二元論的なやつだけど。
人間がある意味では物質であることをみとめたとて、精神が存在することの否定にはならないと思う。
台風で物理的に出勤不可能でも意志だけが物理法則無視して飛んでいけるみたいに思ってるんじゃないのかって連中にはわからないんだろうけど。
私が囲碁を学んだ過程を基に、どのようにして最低限囲碁を成り立たせれるレベルにまで向かうのかを書いてみたい。
囲碁はルールと実際の対局での手筋の間に、深くて暗い谷があるのではないかと思う。
ルールをどれだけ読んだとしても、対局時にどのような手を打つべきかを、ルールは論理的に教えてくれない。
なのでルールを知っているのは前提だけれども、わからないなりに対局をこなすしかないような気がする。
うちではじいちゃんに教えてもらったのだけれど(正確にはじいちゃんが撮りためたNHKの囲碁番組ビデオでルールを学んだ)
じいちゃんはルールや定石などについては何も教えず、ただただ「対局しよう」とだけ言って、私はわけわからんなりに囲碁を打っていた。
たまに「それはいい手やな」と言ってくれるのが嬉しかったのはよく覚えている。
囲碁では置いた石でより多くの陣地を囲むことが必要だが、交互に同じ数の手を打っていく以上
より広い陣地をより手を抜いて確保することが必要になる。
ルールとしては単純な話ではあるが(常人では)ルールの延長からどのような手をうつべきか知ることはとても難しく、
試行錯誤の末にあの手はよかった、あれはまずかったと身をもって知ることがまず最初の一歩ではないかと思う。
例えば走り幅跳びの飛距離を伸ばしたいとしても、物理法則から足の動かし方を考えることはしないだろう。それと同じ話。
陣地をより少ない手で確保するため手を抜くことも大切なのだが、囲碁は対戦競技であり相手を攻撃することができる。
(相手の石を全て囲うことで、石を取ることができる)
数が多ければいい、というわけではないが、基本的には数の多さは強さに繋がる。(石の厚み、というのはこの強さに関係している)
うまく手を抜くことで、石は広い範囲を覆うことができるが、手を抜いた石は弱い。
下手をすると、手を抜いた石は相手の攻撃に耐えきれず、すべて相手に奪われてしまう。
囲碁をより広い家を建てたものが勝利するゲームと考えると、プレイヤーが序盤で外壁の塗装に手数をかけることは良い戦略ではなく、
まずは空き地に家の基礎となる柱を立てて家の骨格を築いていくべきだろう。囲碁は碁盤という限られたスペースで戦う。
あなたが1軒の家の外壁を固めている間に、相手が3軒分の基礎を固めてしまっているならば、もうそこで勝負はもう決まっているだろう。
どこまで手を抜けるか?というさじ加減が重要で結局は実践の中でしか身につかないのかと思う。
その強さが話題になったAIが強いのも、結局膨大なトライエラーを経ているから。
これらの勘所をまとめたものが「定石」と呼ばれる。どのように打つことが効率的であるかは、すでにある程度定型化されている。
囲碁のとっかかりがつかめない人に向けて書いたつもりではあるが、何か分からないようなそんな記事になった。
また質問があれば答えたい。
私が囲碁を学んだ過程を基に、どのようにして最低限囲碁を成り立たせれるレベルにまで向かうのかを書いてみたい。
囲碁はルールと実際の対局での手筋の間に、深くて暗い谷があるのではないかと思う。
ルールをどれだけ読んだとしても、対局時にどのような手を打つべきかを、ルールは論理的に教えてくれない。
なのでルールを知っているのは前提だけれども、わからないなりに対局をこなすしかないような気がする。
うちではじいちゃんに教えてもらったのだけれど(正確にはじいちゃんが撮りためたNHKの囲碁番組ビデオでルールを学んだ)
じいちゃんはルールや定石などについては何も教えず、ただただ「対局しよう」とだけ言って、私はわけわからんなりに囲碁を打っていた。
たまに「それはいい手やな」と言ってくれるのが嬉しかったのはよく覚えている。
囲碁では置いた石でより多くの陣地を囲むことが必要だが、交互に同じ数の手を打っていく以上
より広い陣地をより手を抜いて確保することが必要になる。
ルールとしては単純な話ではあるが(常人では)ルールの延長からどのような手をうつべきか知ることはとても難しく、
試行錯誤の末にあの手はよかった、あれはまずかったと身をもって知ることがまず最初の一歩ではないかと思う。
例えば走り幅跳びの飛距離を伸ばしたいとしても、物理法則から足の動かし方を考えることはしないだろう。それと同じ話。
陣地をより少ない手で確保するため手を抜くことも大切なのだが、囲碁は対戦競技であり相手を攻撃することができる。
(相手の石を全て囲うことで、石を取ることができる)
数が多ければいい、というわけではないが、基本的には数の多さは強さに繋がる。(石の厚み、というのはこの強さに関係している)
うまく手を抜くことで、石は広い範囲を覆うことができるが、手を抜いた石は弱い。
下手をすると、手を抜いた石は相手の攻撃に耐えきれず、すべて相手に奪われてしまう。
囲碁をより広い家を建てたものが勝利するゲームと考えると、プレイヤーが序盤で外壁の塗装に手数をかけることは良い戦略ではなく、
まずは空き地に家の基礎となる柱を立てて家の骨格を築いていくべきだろう。囲碁は碁盤という限られたスペースで戦う。
あなたが1軒の家の外壁を固めている間に、相手が3軒分の基礎を固めてしまっているならば、もうそこで勝負はもう決まっているだろう。
どこまで手を抜けるか?というさじ加減が重要で結局は実践の中でしか身につかないのかと思う。
その強さが話題になったAIが強いのも、結局膨大なトライエラーを経ているから。
これらの勘所をまとめたものが「定石」と呼ばれる。どのように打つことが効率的であるかは、すでにある程度定型化されている。
囲碁のとっかかりがつかめない人に向けて書いたつもりではあるが、何か分からないようなそんな記事になった。
また質問があれば答えたい。
高校卒業者のいったいどのくらいが、中学卒業程度の知識を持っているのだろうか?
有名人がテレビやネットで発言しているのを見聞きするたび、半分もいないだろうと思う
高校で勉強させられることと言えば、三角関数、数列、ベクトル、微分積分、
運動方程式、気圧と温度と体積の関係式、絶対零度、遺伝法則などなど
高校レベルの三角関数を知っていればメルカトル図法の問題点は理解できる
運動方程式を知っていれば映画のウソが気になって夜も寝られない
e.g.東野圭吾原作の映画で、ヘリから落下した子どもを追って自衛隊員が降下する
当然追いつくはずはないのだが、なぜか雲の中で追いつき、
パラシュートを開いた隊員が子どもを抱いて、雲の中から出てくる
しかしこのようなことが就職する際求められるかといえば、そうではないだろう
パーキンソンの凡俗法則