はてなキーワード: 前近代的とは
岡井ちゃんがはじめて私たちの前に姿を現した2002年6月のハロモニを
当時20歳だった私は、一人暮らしのワンルームマンションの14型のテレビデオでぼんやりと見ていた。
8歳の岡井ちゃんはアイドルとは無関係に思える「カントリー・ロード」をたどたどしく歌っていた。
その姿はどうしても有名になりたい才気あふれる特別な女の子というよりは、
大人が笑ってくれたり褒めてくれたり叱ってくれたりすることがうれしくてしょうがない、
ただの人懐っこいひとりの子どもというように見えた。
私はハロプロキッズに対して得体の知れない忌避感と哀れみを感じた。
あんなにもかわいい子どもたちにも関わらず、なにかマズいことが起きているという直感は
それをどういう言葉で表したかは人それぞれだが、ネット上ではそれなりに共有されていたように思う。
ただ、彼女たちが成長し魅力を増していく過程のなかで、それは杞憂だったと誰もが手のひらを返した。
私もその一人だ。
ところで、「今2016年にアイドルになろうとしている15歳くらいの女の子」がいるとして
(それに何を感じ、どう行動するかは個人差はあれど)
私やこれを読んでいるあなたと大きく違わないのではないだろうか。
どうしたって突き付けられる事件が多すぎる。
そしてそこに無頓着なのは私だけではなかったのではないかと思う。
モーニング娘。がブレイクする1999年まではアイドル冬の時代と言われていた。
諸説あるだろうが、その始まりをおニャン子クラブが解散する1987年とするなら
もはやその連続性のなかでアイドル文化を捉えられる人たちはきわめて少数になっていた。
多くの人々が祝福し、「CAN YOU CELEBRATE?」が日本中の結婚式で歌われた。
ジャニーズでも20代になれば結婚してアイドルのまま家族を持つ時代がやってきたのだと誰もが思った。
そのようなおおらかな空気の中でモーニング娘。が女性アイドルを復活させ、岡井ちゃんはオーディションに合格した。
意志をもってアイドルになった、というより気づいた時にはなっていたというほうが近いのかもしれない。
ハロプロが女性アイドルに再び春を呼び戻した頃も、恋愛は絶対的な禁忌ではなかった。
週刊誌報道はスルーされ、ファンのため息がなにか風を起こすようなことはなかった。
今とあまりにも違う。
その時代の空気の変化の中に一番最初に巻き込まれ傷ついてきたのが
実は℃-uteであるということはもっと知られてもいいと思うし、
℃-uteのファンでも忘れてしまっている人もいるのではないだろうか。
詳しくは書かないが、ファンや事務所の締め付けが厳しくなる中で
実績のある先輩たちはある種の図太さを見せながらサヴァイヴしていったが
℃-uteのメンバーはいきなり力尽きるように表舞台から次々と姿を消していった。
℃-uteやBerryz工房のことを、きれいな空気のなかで大切に育てられ
人生の大半をアイドルに捧げた純粋性の高いエリートであるように言う人は多い。
長い時間をかけて深く引き裂かれてしまったのもまた彼女たちなのではないだろうか。
そして、岡井ちゃんやまいまいや梨沙子のような、本当に幼い頃からキャリアをスタートさせた子ほど、
その欺瞞を合理化するような術をいまだ持てず、混乱の中にいるのではないだろうか。
「今2016年にアイドルになろうとしている15歳くらいの女の子」や
ここ数年でアイドルを好きになったファンたちとは見えている世界があまりに違うのだ。
舞美ちゃんのブログの更新を待っている間、夢幻クライマックスを何回も聴きながら
岡井ちゃんにとって「強くなりすぎた」とはどういうことなのか、
なにが舞美ちゃんを「さみし」くさせているのか、私はずっと考えていた。
自分は男なんだけど、趣味でよく料理したりおかし作ったりするわけです
それも結構凝り性なので、フォーを出汁から作ったりレシピ本みながらタルト・オランデーズとか作ってみるわけです
そういう話を他人にすると、男女問わず「女子力高いね~」という反応が返ってきました
もちろん言ってる方に悪気はないと思うんだけど、この言葉に自分は少なからず傷ついてきたので、こういう言い方はもうやめてほしいです
これは少し被害妄想が入ってるかもしれませんが、女子力が高いと言われるたびに男性的な能力が低い、と言われた気分になってしまいます
もちろん女子力が高いからと言って男子力(なんだそりゃ)が必ず低いわけでもないと思いますが、なんだかそういう気分になってしまいます
そしてだんだんと「自分は男なのに女性的な趣味を持っていておかしいんじゃないか」という風に自分に自信が持てなくなってきます
なぜ女子力は容姿をきれいに整えておくスキルを指すんでしょうか?
ある男性が料理が好きなこともあれば、ある女性は料理が嫌いなこともある
そういう本来中立的なものをひっくるめて「女子力」とラベリングするのはさすがに前近代的でしょう
自分は男だからまだいいですが、女性がこれらのスキルを持ってなくて「女子力が低い」って言われたらどれだけ自己否定につながるか、性別が違う自分でも簡単に想像できます
というより無理してまで作る気になれなかった。
理由の一つは不妊治療は色んなコストがかかるということだが、それのみが理由ではない。
そこまでする気にはなれない…という消極的選択が累積した結果である。
子供は出来て当たり前のものじゃないって、気付かない人間は多い。
子供を持つと幸せは確かに事実なんだろうけれど、それを他人に強要すると「子供を持たないと幸せでない」教に容易に変わる。
不妊治療の病院を教えてくるのとか、気持ちは嬉しいが迷惑だったりする。
老後がどうのこうのと言ったって、絶対子供に面倒を見てもらえると決まった訳でなし。
子供に逃げられたり、子供の生活も大変だったりしたら頼れなかったら、どっちみち自分たちで何とかするしかないのだから。
大体コスパとかリスクとか考えたって、備えは必要だが、ある程度しか未来には対処できない。
何が起きるか本当のところは分からないんだよ、人生なるようにしかならないよ。
経済的な見返りがあるから育てるってのは何か、却って前近代的な思想のように思える。
TVで見た旧弊な大家族や貧しい発展途上国を思い出しちゃう世代である。
「愛は無償のもの」というくさい言葉でなければ、人間以外の多くの動物は何も考えずに子供を産んで、特に親は何も貰わずに成体まで育て上げるって一事で充分じゃないんですかね。自分の遺伝子を繋ぐって以外のリターンは特にない。
人間の場合は、多分子供の幸せそうな笑顔とか好意とか一緒に過ごす時間が既に報酬なのであって、金も愛情も返ってこないの前提であるべきなんじゃないの。
でもその笑顔に無上の価値があると思うから、育てられるんじゃないですかね?
それが脳内で起る化学変化に過ぎないとしても、そもそも人間てそういうもんだしね。
子供のいる人生が素晴らしいと理解できるのは、両親が私を本当に慈しんで育ててくれたからだ。
(だから、子供を頼って当然と思う親は信じられないし、嫌いだし害悪だと思う)
両親に孫の顔を見せてやれなかったことだけが残念だが、致し方ない。できないものはしょうがない。
同時に、作ろうと思わなかったから、いないでも。
ただ、相手が居ないならまだしも、「金がないから作れない」て余程極貧でない限り何か違う気がする。
それって「無理してまで作ろうとは思えない」という自分の選択でしょう?
何で他に理由付けるの?酸っぱい葡萄みたいなこと言ってないで、欲しいなら頑張ってみれば良いし、頑張ってもダメでしたでいいような気がするけど。
何が言いたいかって言うと「子供作れ教の人も子供はコスト教の人も正しい環境でしか子作り子育てしちゃ行けない教の人も迷惑だよね」というチラシの裏。
神奈川新聞にも「ブラック企業」の社会問題の記事が出ているが( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140105-00000016-kana-l14 )。
だったらやはりそもそも、そういう企業からは買わない(不買運動)、そういう企業には就職しない、そういう努力が社会的に、つまりはひとりひとりが、行う必要がある。そのような意味で「他人ごとではない」。
カネをもらう側の責任ばかりが誇張されて、カネをはらう側の社会的責任が意識されていないことも、日本社会の欠陥なのではないか。
収益を増やすことを要求する社会風潮や政策(とくにいまの安倍政権とかな)のせいで、利益を増やすために経費を削りに削っていることが、「ブラック企業」の台頭につながっている。経費を削って利益を増やし、少ない給料の人間は廉価を追求して「ブラック企業」から買う。
「ブラック企業」には少なからず、上場企業も多い。いったいそこの経営者はなんのために利益を絞りだそうとしているのか? 投資家にイイ顔したいからなのだろうか。上にばかりイイ顔しようとして、下の阿鼻叫喚地獄を隠蔽するというのは、江戸時代から続く気色悪い社会気質なのであろうと思う。いまでも、「ブラック企業」の職場など、社会のすみずみで「村八分」などの前近代的封建気質が根強く続いて、いまや全盛なのではないか。
社会全体で正々堂々と「ブラック企業を許さない」「イジメを許さない」「差別を許さない」「村八分を許さない」「すべてが他人事ではない」と確認しあって行動すべきだろう。開放的で自由な社会へと、解放しなければならない。
それと正反対に、いまの政治や社会風潮は、「収益を拡大している者が善である」という価値観に偏向している。「ブラック企業」のみならず、労働して所得を多く得ることが善であるかのようにも思われており、収益(収入と所得)の少ない公益活動やNPOなどはあまり顧みられない。
カネの論理が社会経済をまわすのに必要な理屈ならば、利益を出すことが重要なのではない。売上を最大化し利益を最小化することが、経済循環に直結するのである。利益を最大化しようとしているから、「経済成長」は鈍化するのである。
久しぶり。決して暇なわけじゃないが少し時間出来たので書くぞ。
この2011年2012年という二年間は日本国にとって大きな転機を迎える二年間であったことにお気づきだろうか?
そう、我々はもう引き返せない所に足を踏み入れてしまったのだ。竹槍装備で戦闘機に立ち向かうがごとく土足で。
ライフハック(通称LH)の衰退は一つの象徴的な出来事と言えよう。ちまたには「ライフハック」とは書かれていなくともライフハック以外の何物でも無いような幾分「時代遅れ」な書籍が立ち並ぶ。
ライフハックの一体何が時代遅れなのか?そう思った貴方はやはり確実に時代遅れなのだろう。
第一にライフハックのような小手先のテクニックはもう古い。めまぐるしく変化し多様化しきった時代に求められているのはマニュアルではなく自力で闘う力だ、なんてとっくに知られているはずなのに。
それをよく分かっていない前近代的(俺に言わせれば「モダンでない作法の」)人間がいまだにウロチョロしているのな。
そんな種族と親和性が高いのが愚直な「ロジカルシンキング」や狭視野な「コミュニケーション術」だったりするんだよな。捨てられる女あれば拾う男もありってところかw
第二にライフハックを必要とするような、激流の時代にあらがって何か事を成そうとするような気概のある任侠の徒が実に少なくなったということだな。
それは何故なのか?これには様々な要因が見てとれるのだけど、一言で言えば元気がないんだよな。もっと直接的に言えば、不健康なの。
不健康は思想や精神の脆弱性を表わす喩えなんかではなく、実際身体が不健康なの。自分が不健康だということに何年何十年間も気付き得ないほど不健康なの。
そのことに気付く暇もないくらい忙しい世の中であることにも一因があるのだがな。この問題に立ち入ると長くなるからとりあえず「周りに流されるようなロクデナシが増えた」ということで。
この社会現象を「現状に満足しているがために周囲の流れに抵抗せず流れに乗ることのできる人間が増えた」と好意的に解釈する向きもあるようだが、
しかも、遺伝上の父と戸籍上の父が異なるならば、異母兄弟がそれと知らずに出会って恋に落ちるような事だって起きかねない。その場合結婚が認められるなら、近親婚を禁じた優性保護的な規定もなくすべきだな。
などという疑問が次から次へと湧いてきて、未だに納得の行く回答にたどり着かない
オレが日本の法律関係者に訴えたいことは、民法の「連帯保証」に関する条項の一日も早い削除。銃よりも多くの人の命を奪い、鎖よりも多くの人の自由をうばっている。こんな前近代的な制度を放置しているのは、国際的な恥である。
銀行等が同内容の合意を求めることは止められないだろー。
その合意がただちに無効になるわけでもない。
茂木サンの主張に従うなら、求めるべきは「条項の削除」ではなく「規制条項の追加」じゃないか?
銀行や不動産貸主の多くが、契約時に連帯保証人をつけることを求める慣習が存在する、という意味での「制度」は
別個のものだ。
とりあげられている問題のうち、「連帯」のつかない保証なら回避できる問題が、どの程度あるんだろう。
連帯保証と単純保証も混同して扱われてて、無駄にツッコミどころを増やしている。
茂木サンは「連帯保証人制度は~」という重々しげな論じかたをしてるけども、
言いたいことは「貸し手は(連帯だろうが単純だろうが)保証人を求めるな」ってだけなんじゃないか?
この点について思うのは、
「保証人を求める貸し手」よりも「保証人になってくれと頼む借り手」の方が悪質だということだ。
・・・という書き出しで、
貸し手批判ロジックを
と単純化して、
①と②はつながらないんだよー、ってことを書こうと思ったけど、
自分の直感とあまりにあわないので、続ける気力がわかないや。
男らしさ女らしさみたいなのは失礼な意識
自ら求めたりするのも遅れていると
それで大人になった現在、
メディアの記事で「女の子として扱って欲しい」みたいな女の声を聞くと
本当にガッカリするしイライラと謎の怒りが湧いてくる
実際に接する女も
なんかそういう「女として」とか、
求められることが事実あるわけですよ
親しくなってくるほどそういう面を出してくる気がする
そのたび「お前の本性もそれか!」みたいな、
なんなの?それ?
っていう
今日テレビ見てたら上戸彩が「ガツガツした野獣のような、守ってくれそうなタイプがいい」と言ってました
公共の電波で!
こうも前近代的な!
反動的思想を垂れ流してて、誰も咎めてないんです
なにそれ?男に守ってもらうとか
21世紀にありなのそんな幼児的な願望
でまたイライラする
わかってますよ
フェミニストとそういうこと言ってる女が違う集団だという言い分は
はいはい
そこでさあ
たまーにでいい、アリバイ作り程度でいいから
そうすれば自分が子供の頃から刷り込まれてきたフェミニズム価値観を信じ続けられるし
遅れたアホ女を見たときのイライラが減ずる気がするんだ
台湾併合を宣言してから平定までに数年かかっている。
一方でいろんな「明治の偉人」達が高い理想で善政を布いてみようとしたり、インフラ整備をやり遂げたりする。
そんな人たちも現地人に暗殺されてみたり、反動暴動で「殉職」してみたりする。
でも、心打たれた台湾人の人が記念碑や祠をつくって奉ったりもしている。
日本はサトウキビも欲しかったし、台湾を日本の一部として近代化して、重工業化したかった。
「台湾の土人がぁ!」といいつつも結果的に台湾を近代化する方向へ導いている。
で、日本の敗戦後は中国大陸から国民党の敗残兵がなだれ込んで前近代的な蛮行を行って一時はどん底におちるが
植民地化や蛮行自体は褒められたことではないかもしれないが、道徳的正しさと歴史的正しさは必ずしも一致しないという見本かもしれない。
なかなか就職出来ない学生を取り上げたり、エントリーシートの書き方や面接の訓練をしてくれる塾の存在を紹介したりしていたが、基本的なテンションは「就職難の時代である」と言うもの。
ゲストの一人である大宅映子は、就職出来ない学生についてその理由を「職を選ぶからだ」「自分に合う仕事を、と甘えているからだ」などと評していた。「食うための切実感が足りない」なども言っていた。
あまりに前近代的な考えかたである。いくら老人といえども、そのひどさに笑った。
大宅映子は評論家を称しているわりには、評論すべき対象のことをあまりよく知らないようだ。
この時期に就職が決まっていない人間は、すでに「選ぶ余地のない」人間がほとんどである。
大手に落ち、中小に落ち、ブラックに落ち、それでも職を欲しがって求職活動をしている人間が、この時期に就職が決まっていない学生なのだ。
彼らが就職出来ない理由はただ一つで、求人の総数が少ないというそれだけである。
少ないパイを大勢の人間で分け合っているのだから、そりゃあ分け前がいかない人間だっている。
「甘えるな、取りに行け」と言ったところで、ないものを拾えはしないのだ。
もし評論家を称する大宅映子に存在価値があるとしたら、それは新しいパイの創造に他ならないのだろうけれど、彼女の老人的な頭ではそれはままならないだろう。
そうすると、単純かつ皮肉なことに大宅映子がそのすでに必要とされていない存在を消し、席を一つ譲るということが最善策に思えてくる。
若くて食えない評論家なんて一杯いるし、そういう人間に可能性を与えたら良い。
第一、テキトーな精神論しか言えない評論家に何らかの価値があるのか??
同じ論理で、企業にいる老人臭の酷い、古い価値観しか持たない人間も、さっさと辞めるべきだ。
「食えなくなるから」「他に何も出来ないから」という理由で企業にしがみついている人間ほど、大宅映子の云うところの「甘え」だろうに。
若者に席を譲ってもなお自分が食っていけるシステムを創造し、あっさりを身を引くような老人は、しかし、残念ながら多くはいない。
システムを作れないのなら、システムを作る側に依頼したら良い。もうちょっと真面目に選挙で投票しろ、と言いたくなる。(まぁそれは選挙に行かない若い人間にも同じことが言えるのだけれど)
個人も組織も、市民も政治家も、言いたいことばかり言うけれど切実感が出ていませんねぇ。
甘えてんじゃねえぞ、大宅映子!!(と、同じような人間たち)
「個人の偉さが集団の偉さを支えている」と見るか(私はこちらだけど)、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と見るか(そういう人が少ないとは私は思っていない)、の違いだと思う。後者の人に対して人権を常識として通じさせるのは常に何らかの難しさをはらむだろうな、と。個人の尊厳は普通は国家と個人の関係だけど、さっき言った後者の人が国家の主な層だったら、個人の尊厳は保護されるかどうか危うい。
私の表現で言い換えれば「個人の尊厳という考え自体を全く受け入れないような人種」が(少なくともこの国には)少なくないというのがあなたの認識だというのはわかった。
だが、それで本題のはてなサヨクにどうしろと言いたいのかがよくわからない。
個人の尊厳を互いに認めることが前提になるのが近代市民社会というものだとすると、この国はまだ充分に近代化していないのだから、サヨクは近代化を前提としてモノをいうのをやめて、まず残存する前近代的なものを解体していくところから始めるべきというなら、(古典的な二段階革命論だけど)理解できる。
「長いものに巻かれろ」的な処世訓から、はては「万世一系の皇室」や「とてつもない日本」への同一化にいたるまで、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と人々に感じさせている何かを解体していき、薄めていくことは必要な作業だろう。
それは実際、サヨクのやっていることでもある。
それらを抜きに例えば所得や資産の再配分や生存権の保障だけを求めても、どこかで壁にぶつかるだろうとも自分も思っている。
それはまた、あなたのいう「教育や異文化交流の構え」にも合致するかもしれない。
ただ、あなたは末尾で
と書いて、結局のところ宿命論に陥っているように見える。
要するに、あなたの思考は
「個人の尊厳が保護されるかどうかはその国の主な層の信念(個人の尊厳重視か、ヒュ-リスティクス重視か)による」
「自分は個人の尊厳を信じるが、その信念は万人に通用するようなものではない」
「他人の信念は変えられないので、もしこの国の多くの人が個人の尊厳を信じないなら、自分は観念してそのような社会に住むことを受け入れるしかない」
ということになっているのではないかと思うのだが、違ったら指摘してもらいたい。
子供手当てと高等教育無償化って、別に中年以上を対象とした政策ではないと思うのだけど。中年以上の人間は子供の養育・教育なんか半ば以上終わってると思うし、そもそもこれらの政策の主眼は、そういう親世代に対する負担の軽減というよりも、その子供達が持つ潜在的な人的資源の価値を高めるための投資じゃないのかしら。(まあ、親世代に対する効果を狙っていない、ということはないだろうけどね)
それと「施し」「開発」なんて言葉で括って現代政治を捉えるのはちょっとどうなの。国民の福利厚生・教育水準を高く保つことは、同時に将来の先端産業の発展可能性を高め、その消費者を生み出すことでもあると思うのだけど。何でそんな二項対立の構図で政治を捉えているのかが皆目見当が付かない。元増田が考える「開発」って一体ナニ?申し訳ないんだけど言ってることが凄く前近代的な印象を受けるよ。
今更国家主導の産業・経済政策を称揚するが如き言説をするところもそうなのだけど、元増田は政治に対する意識が非常に保守的というか、アナクロな部分があるように思う。正直、あんまり同意できないなー。例えば、かつてのシグマ計画みたいなことをやられても「開発(笑)」みたいにしかならんし、その手のミクロな経済・産業振興は民間に任せろよ、と。市場がまともに機能してないような国じゃないんだから。
あとこの辺、
民主主義における選挙では、頭が悪い人間をたくさん集めることすなわち勝利なのだ。(頭の良い
人間は、機会がある度に判断して誰を支持するか考えなおすので信頼がおけないが、無知な人間は
一度支持と決めたら「支持すること」が目的にすり代わってしまうことが多々ある、あるいはそう
導きやすいのも都合が良い)
定量的にこの主張を裏付けるような研究・文献があるようなら教えて欲しい。
正直、そんな単純な動きで政治を測ることができるなら、自民党はあんな大敗を喫することはなかったと思うのだけど。
増田の主張には全く同意なんだが、自分自身がそういうゲス男と大差なく思えるので、凄く辛い気持ちになることがあるなあ。
自分は、非処女を「中古」と言って憚らないような下品な男はどうかしていると思うし、そういう無神経な男によって傷付けられる人間がいなくなることを心から祈っているんだが、それでも理性以前の生理的感覚で「処女厨」っぽい部分が自分に残っていることに絶望してる。正直、自分の欲望と発想が理性的にはおぞましくて仕方がないし、そういう前近代的な発想を理性で乗り越えられない自分には、人を好きになる資格は全くないなー、って思う。それでも他人に好意を持ってしまうこと、他人から好意を持たれたいと思ってしまうことからは中々逃れられなくて、時々頭がおかしくなりそうになることがあるんだ。
何でこんな感覚が刷り込まれてしまったんだろうね。他人を傷付けて、自分を一層不自由にするだけなのになあ。
まあ、幸か不幸か、恋人を作ろうとしても誰も寄りつかないレベルの魅力しかないから、せいぜい一人でのた打ち回る程度で済むのが救い。
無論、「だから処女厨をあまり悪く言わないで欲しい」などと言うつもりは毛頭無いのだけど、「処女厨」の中にさえも、こういう発想の人間がいることは知ってもらいたいなと思う。そういう価値観を刷り込まれ、かつ、そうした価値観を持つ自分に否定的な人間にとって、処女厨の起こす騒動は二重の意味で苦痛でしかない。
そういう立場からしても、処女・非処女に拘る価値観が、一刻も早く撲滅されることを願うよ。
自分はもう付ける薬がないから仕方が無いが、そんなことで傷ついたり苦しんだりする男女が出るなんて、実にばかばかしいことだよな。
非モテがアイデンティティになっている人は、本質的に「自分は社会的抑圧の被害者」というポジショニングをしている。
別に恋人ができたからって、それは変わらない。深く根を張った、被抑圧者としての彼は、いつも噛み付く相手を探している。
その強い意志はどこから来るのだろう。
そうした人間が数多く現れる昨今、これは何を意味しているのか。
もしかすると、かなり深刻で普遍的な社会的搾取/抑圧構造のしわ寄せが、生物としての人間が存続していく上での繁殖行動に対してきているのかもしれない。
個人単体では生きることは許され、ある程度以上保証されているが、子孫を残していくことが社会的に難しくなる社会。
個人が子孫を残すことが社会の仕組みから分割され、自己責任の範囲で行われる「嗜好」に分類される。経済的な成功こそが遺伝子が受け継がれる最大のポイントとなる、生物学とは無関係な気もするけど、とりあえず「そういう遺伝子」が煮詰められ、濃くなっていく世界。
弱肉強食。そんな世界へ、非モテは警鐘を鳴らしているのかもしれない。
これは彼らの個人的な僻み嫉み、復讐などではない。前近代的、非人間的な競争社会の到来を憂えているのではないか。
なんてことを昨日居酒屋でゲラゲラ笑いながら友達と話していた。
床が回っているような気がする。どうして地球は丸いのだ。