はてなキーワード: スティクスとは
「個人の偉さが集団の偉さを支えている」と見るか(私はこちらだけど)、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と見るか(そういう人が少ないとは私は思っていない)、の違いだと思う。後者の人に対して人権を常識として通じさせるのは常に何らかの難しさをはらむだろうな、と。個人の尊厳は普通は国家と個人の関係だけど、さっき言った後者の人が国家の主な層だったら、個人の尊厳は保護されるかどうか危うい。
私の表現で言い換えれば「個人の尊厳という考え自体を全く受け入れないような人種」が(少なくともこの国には)少なくないというのがあなたの認識だというのはわかった。
だが、それで本題のはてなサヨクにどうしろと言いたいのかがよくわからない。
個人の尊厳を互いに認めることが前提になるのが近代市民社会というものだとすると、この国はまだ充分に近代化していないのだから、サヨクは近代化を前提としてモノをいうのをやめて、まず残存する前近代的なものを解体していくところから始めるべきというなら、(古典的な二段階革命論だけど)理解できる。
「長いものに巻かれろ」的な処世訓から、はては「万世一系の皇室」や「とてつもない日本」への同一化にいたるまで、「個人は偉くないが集団になったら偉い」と人々に感じさせている何かを解体していき、薄めていくことは必要な作業だろう。
それは実際、サヨクのやっていることでもある。
それらを抜きに例えば所得や資産の再配分や生存権の保障だけを求めても、どこかで壁にぶつかるだろうとも自分も思っている。
それはまた、あなたのいう「教育や異文化交流の構え」にも合致するかもしれない。
ただ、あなたは末尾で
と書いて、結局のところ宿命論に陥っているように見える。
要するに、あなたの思考は
「個人の尊厳が保護されるかどうかはその国の主な層の信念(個人の尊厳重視か、ヒュ-リスティクス重視か)による」
「自分は個人の尊厳を信じるが、その信念は万人に通用するようなものではない」
「他人の信念は変えられないので、もしこの国の多くの人が個人の尊厳を信じないなら、自分は観念してそのような社会に住むことを受け入れるしかない」
ということになっているのではないかと思うのだが、違ったら指摘してもらいたい。