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2024-06-08

生きるを見かえした

前にも観たことがあるのだけど邦キチ https://comic-ogyaaa.com/episode/2550689798664390095 を読んで黒澤明の生きるを見返してしてみた。

 

一面に過ぎないのだろうけど志村喬の顔の映画という面はやはり大きい。

既に観たことがあるからだろうけどバースデイソングの場面での志村喬の表情の変化で涙が出た。

邦キチでは触れられていないけど後半のお通夜のシーンも顔がメイン。

志村喬に限らず胸から上の映像が多い。

今の感覚で今のテレビで観て顔の映画と思うのだから1952年昭和27年)で映画館で観た観客には志村喬の顔の印象は更に強かったのではないか

以前観たとき主人公の息子より若かったけど主人公とほぼ同じ年齢の今見ると主人公以外の表情の意味もよくわかった。

 

からリメイクの「生きる Living」を見てみようと思う。

2024-06-06

もし少子化対策女性就労禁止したら

最大の反対勢力左翼フェミニストではなく

しろ資本主義を動かしてる側のあらゆる大企業やで

皆なぜか女性社会進出と聞くと高学歴大卒オフィス勤務者

フェミ思想の影響を受けて女性自己実現意識高い系

しかいないかのように錯覚しとるが

現実に働いてる女性の圧倒的大多数は

商店店員工場の工員(おもに高卒)やで

しかも働いてる理由意識高い自己実現とかではなく

単なる目先の生活のためが圧倒的に大多数

この人らが全員一気にごっそり労働市場から消えたら

世のスーパーやらショッピングモールやら工場やらの

経営者はみな頭を抱えることになる

無人レジみたいな機械化も外国人技能実習生も足りない

***

そもそも近代日本の「女性社会進出歴史」は

明治期の製糸工場やら紡績工場女工から始まってる

彼女らとフェミ思想とかほとんど関係ない

貧乏農家家計を支えるため働きに来たのが大部分

しろ子だくさん家庭で口減らし奉公一種出稼ぎに出された

当時の企業経営者はとにかく労働力が欲しかっただけ

***

市川房枝集』に収録されてる

1930年に書かれた『現代婦人問題』という文章にはこうある

婦人工場労働は、産業革命の直接の結果、生活必要のため

家庭から工場へ追い込まれもので、そこには婦人自身自覚

まったく見られないといっても差し支えはない。」

***

女性雇用昭和戦時下に男手が次々と兵隊にとられて

若い女性が大量に勤労動員された時期にさらに加速する

ええか、左翼フェミ思想じゃなくてもしろ

政府愛国思想女性社会進出を拡大したんやで!!!

黒澤明戦時中監督した国策映画一番美しく』を見るとわかる

***

戦後高度経済成長期も中卒や高卒工場集団就職した

大量の若い女性工員が電化製品やら精密機械の輸出を支えた

(この辺はNHKドラマひよっこ』で描かれてる)

そのころの大学進学率はせいぜい30%台な

女性大卒ホワイトカラーなんて圧倒的に少数派

***

『「育児休職」協約の成立 高度成長期家族責任』(勁草書房

という本によれば、1968年専売公社職員女性比率は43%(1万5600人)

平均年齢は35歳、平均勤続年数は16.4年、半数以上が既婚、82%が製造

――ええか公社やぞ、政府の金で運営してる企業やそ

国家が率先して女性労働者を雇っとったんじゃ

***

女性の働き方』(ミネルヴァ書房)という本によれば

東京商工会議所女性の軽労働について時間外労働(1日2時間)の制限撤廃

1952年労基法改正で、映画製作に深夜業禁止が解除

左翼フェミではなく資本の側が女性労働制限撤廃を主張していた!!!

***

誰も信じないが左翼フェミによる「女も働かせろ運動

などというもの現実にはほぼなかった

実際にあったのは「すでに働いてる女も男と同待遇しろ運動」な

それが実現したのが1985年男女雇用機会均等法なのだが……

***

読売新聞1985年5月17日夕刊の

男女平等へ”器”はできたが…」という記事にはこうある

「この法そのものが、職場での男女平等を進める労使の合意によって生み

だされたものではなく、国連婦人差別撤廃条約批准するため政府が成

立を急いだという色彩が強いことから、「お役所仕事として、性急にコト

を運ばれては困る」(大手通信機メーカー)という批判も出ている。」

読売新聞1985年5月18日朝刊の

女子差別撤廃批准には意義 外務省見解」という記事

西欧諸国の中には「安い女子労働で支えられた日本集中豪雨的な輸出

貿易摩擦を生んでいる」と非難する向きもあり、同省は「こうした誤解

を解いていくためにも条約加入は意義がある」としている。」

――雇用機会均等法の成立は左翼フェミ労働組合の要望もあったが

それだけでなく他の先進国経済的外圧で実現したのだ!!!

俺も当時の事情を調べ直してこの辺の経緯を知ったら驚いたが

かに1985年ごろなら日米貿易摩擦とかで叩かれてた時期だ

***

本稿は左翼フェミ擁護するものでなく

しろ左翼フェミは屁ほどの社会的影響力もなかった

という論旨なのである

では少子化根本原因は何かといえば日本が豊かになったか

より正確には農業中心社会から第三次産業中心社会になったか

昔の農民は家が仕事場子供も中卒ぐらいで労働力にしてた

それが昭和30年代からみんな会社員になって

家庭内労働力として家に何人もの子供必要なくなり

子供大卒会社員にさせるのがイケてる生き方になって

それだけ子供1人にかかる教育費がべらぼうに高騰していった

昔ながらの農家やら自営商店なら家と家産(農地や店)の継承

結婚出産義務感に大きく影響していたはずだが

みんな勤め人になればその義務感だった自然に解消する

どこの国も産業構造が高度化すると政治思想関係くそうなる

からといって農業中心社会に後戻りすることはできない

左翼フェミが反対するからじゃねーぞ

それ以上に産業界資本家が反対するからだよ

***

いまだに定期的に

炎上覚悟の暴論だけど日本のため言うが女性就労を~」

論者がくり返し何度も飽きずに出てくるが

悪いけど完全に的外れなんだよ

きみの最大の敵は左翼フェミじゃないんだ、資本主義なんだよ

ま、絶対に信じたくないだろうけどね

2024-05-18

少子化の解消は、短期的には貧しくなる

老人は生産しないので、就業人口一人当たりで支える老人が増えれば増えるほど、平均的には貧しくなる。

同様に、子供生産しないので、就業人口一人当たりで支える子供が増えれば増えるほど、平均的には貧しくなる。

……という話を聞いた。

もっともな部分もあると思ったので、過去データを見てみようと思い、試しに「総人口に占める生産年齢人口割合」を時系列計算してみた。

データの出典は、総務省統計局人口推計。

 

暦年 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 2020
生産年齢率 48.6 48.5 48.3 49.4 54.3 60.3 60.3 61.6 62.1 59.1 55.0
順位 81 86 93 71 61 37 36 13 8 42 59

 

10年おきの数値を書いたけど、おおむね単調に上がって単調に下がっているので、細かい年の数値は要らんと思う。

  • 1952年くらいまでは、50%程度で横ばい。
  • そこから1971年の60.6%まで一気に上がる。
  • その後、1986年の60.7%まで横ばい。
  • そこから上昇し、1996年の62.7%がピーク。
  • その後はすぐに低下し、2020年には55%。(低下速度は上昇よりもずっと速い。)
  • 55%は、上昇局面で言うと1961年に相当。

 

自分感覚だと、けっこう説明力ありそうだな、と思った。

 

以下、補足。

 

2024-04-10

中日優勝と景気

中日は景気のピークの年に優勝する傾向がある。翌年は深刻な不況になることが多い。

優勝年好景気翌年の状況
1952年朝鮮特需スターリンショック
1964年オリンピック景気証券不況
1976年高度成長オイルショック
1988年バブル景気バブル崩壊
2000年ニューエコノミー景気ITバブル崩壊
2012年悪夢民主党政権アベノミクス
2024年キッシーラリー???

中日の優勝を阻止させねばならぬ。

もうだめだ。ヤクルト新潟移転するしかない。

2024-03-11

北欧ブルマー考、それからへそ出しブルマーブラトップブルマー (3)

anond:20240311080341

ノルウェーブルマー

ノルウェー場合

https://www.utdanningsnytt.no/fagartikkel-kroppsoving/norske-elever-har-gruet-og-gledet-seg-til-kroppsoving-de-siste-150-arene/169370

こちらは1949年女性体操着

イギリスでも学校教育ブルマーが導入される前に、女性だけの集まりブルマー採用している例があった。おそらくそれとパラレルなのだろう。

Women's League of Health and Beautyについてはこちら。

https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2011/jan/02/prunella-stack-obituary学校教育外の1939年ショーツブルマーだ。

実際、以前書いたアメリカブルマーロンパースーツの記事では、女子だけの場所服装ってのもあった。

anond:20221111080913

レオタード

https://thistedbilleder.dk/index.php?pr=101&n=745&img=10150&p=31

へそ出しとスカートの格好で運動1952年

ティテッド市のアーカイブのようだ。

……おっと、デンマークのが混在していた!

https://digitaltmuseum.no/021015459515/barn-pa-skolen-jenter-gymnastikk

☆提灯ブルマーショーツブルマー(右から2番目の人物)の混在。年齢的に、学校教育ブルマーだと確実に言えるのはこれだろう。

へそ出し状態だが、もしかしたら少年かもしれない。

男子生徒の体育が上半身裸であったケースは多々あるが、へそ出しというのは珍しい。

https://digitaltmuseum.no/021015859174/johannes-skole

上の記事と重なるけどこちらにも載せる。

https://digitaltmuseum.no/011012908903/gymnastikk-ved-lademoen-skole

レオタード1957年

https://digitaltmuseum.no/0210111768340/turninstruktor-ragna-sorensen-instruerer-medlemmer-av-trondhjems-turnforenin

ブラトップと提灯型ブルマー体操着1951年

https://digitaltmuseum.no/0210113541906/mensendieckgymnastikk

このサイトは、ノルウェーの各地の美術館アーカイブを横断的に検索するものらしい。左上に表示されているのは、データのある博物館美術館名前だろう。

ブラトップブルマーの組み合わせが陸上ブルマよりも前にあったのには驚いた。

なお、これは愚痴だが、言語学的な類似があるためか、ノルウェー語で調べ物をしていても、上述のようになぜかドメインdk、つまりデンマーク語のサイトばかりヒットした。

スラブ系の言葉でも似たことが起きていて、同じキリル文字を使っているせいかバルカン半島言葉で調べていても、なぜかロシアサイトばかりヒットするのである

続きはトラバに。

2024-02-27

anond:20240227063840

「d絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-02-23

anond:20240223143616

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-02-22

anond:20240222141946

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240222104850

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240222104022

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-02-19

anond:20240219135135

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」- wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-02-09

anond:20240209141540

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。

wikipedia絞首刑』: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-02-08

anond:20240208205640

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」 - wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-01-30

anond:20240130142604

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240130090520

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240130081931

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240130084140

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-01-29

anond:20240129230043

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

anond:20240129225501

絞首刑は、比較的安楽に死をもたらす死刑執行方法であると考えられており、1952年に、東京大学名誉教授医学博士古畑種基は、ある事件の鑑定書において、絞首刑によって受刑者は一瞬で意識を失うと論じた。」-wikipedia絞首刑

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91

2024-01-25

死刑確定

1947年 33

1948年 41人

1949年 76人

1950年 23

1951年 40人

1952年 34人

1953年 26人

1954年 20

1955年 19人

1956年 22人

1957年 25人

1958年 21人

1959年 14人

1960年 36人

1961年 18人

1962年 14人

1963年 16人

1964年 11

1965年 7人

1966年 12

1967年 13人

1968年 11

1969年 13人

1970年 12

1971年 7人

1972年 7人

1973年 5人

1974年 2人

1975年 2人

1976年 2人

1977年 2人

1978年 4人

1979年 4人

1980年 7人

1981年 3人

1982年 1人

1983年 1人

1984年 3人

1985年 2人

1986年 0人

1987年 7人

1988年 12

1989年 5人

1990年 7人

1991年 4人

1992年 5人

1993年 7人

1994年 3人

1995年 3人

1996年 3人

1997年 4人

1998年 7人

1999年 4人

2000年 6人

2001年 3人

2002年 3人

2003年 2人 

2004年 14人

2005年 11

2006年 21人

2007年 23

2008年 10

2009年 15人

2010年 9人

2011年 21人

2012年 9人

2013年 8人

2014年 7人

2015年 2人

2016年 7人

2017年 2人

2018年 2人

2019年 5人

2020年 2人

2021年 4人

2022年 0人

2023年 3人

2024年 1人

 

所感

2010年代まで、裁判時間がかかりすぎ

1020年かかってる

2000年入ってからすごい勢いで判決出していったっぽい

最近ホント平和だね

2023-11-21

だって誰も世界大戦の大変さなんか知らんじゃん

ネトウヨになるのがyoutubeを見るおっさんとか爺さんらしいじゃないか

爺さんっていうと戦前イメージあるけど今の70歳で1953年まれ戦争を知らない人たち

結局50~70歳っていう一番権力持ってる人たちはもう第二次世界大戦なんか知らないわけで、(プーチン1952年まれ

起こしちゃいけないって言われながら育ってきてるけど、自分たちの成長と文明が一緒に発達してきた世代で実感なんかほとんどないでしょ

なんだったら戦争があったおかげで科学進歩したって考えすら主流派でしょ

第二次世界大戦遺産である冷戦が終わって、地球ほとんどに文明がいきわたって地球征服しのたはいいけど、

宇宙は調べれば調べるほど果てしなくて無理ゲー感出てきて、物理的な資源いかに減らさず生きるかだけ考えるしかなくなってる

からこの箱とか板を頑張って発展させてるけど、世界が広がるために作ったものが内へ内へ引きこもるツールなっちゃって、

みんながみんな自分グループが得できるように、限りある資源権利を増やすように声高に主張するだけのディスコミュニケーションが広がってる

これは徐々にそんな傾向があったけど、コロナで一層加速してしまった

そのせいで経験を基にした現実に対する想像力が鈍くなっちゃって、一部の本当に不幸な人以外痛みも苦しみも困窮も現実のものがわからいか戦争がわからない

俺はわかってるぞと思ってるお前も、政治通かミリオタか知らんけど結局ネットか本で見たり読んだりしただけだろ

実際の経験をもとにした戦争に対する想像なんてほとんどの人ができない(それ自体本来良いことだけど)

ウクライナの人たちだってあれだけ緊迫感が煽られてるのに本当に戦争になると思ってない人もいっぱいいた。攻撃されてる朝に普通に出勤したり犬の散歩してる姿がyoutube配信されてたんだぜ?

核爆弾を唯一喰らって最近原発爆発させた国の人たちも今こそ核武装すべきなんて言い出してて、意味わかってんのか?っていう

ちなみに俺もわからん

核爆弾の怖さ、クラスター爆弾化学兵器ライフル自爆テロの怖さの違い、実際のところまったく分からんし、自分の死が近づくっていうラベルしか戦争の恐怖を理解できない

第二次世界大戦人間最後の野蛮さと科学力のアンマッチの結果だと思ってるけど、

第三次世界大戦は痛みを忘れた人間の不幸な想像力で本当に起きるんじゃないかって恐怖している

2023-11-20

anond:20210827211340

  「ネロー愛された小さな犬に」  谷川俊太郎

 ネロ

 もうじき又夏がやってくる

 お前の舌

 お前の眼(め)

 お前の昼寝姿が

 今はっきりと僕の前によみがえる

 お前はたった二回程夏を知っただけだった

 僕はもう十八回の夏を知っている

 そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している

 メゾンラフィットの夏

 淀の夏

 ウイリアムスバーグ橋の夏

 オランの夏

 そして僕は考える

 人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと

 ネロ

 もうじき又夏がやってくる

 しかしそれはお前のいた夏ではない

 又別の夏

 全く別の夏なのだ

 新しい夏がやってくる

 そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく

 美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと

 そして僕は質問する

 いったい何だろう

 いったい何故だろう

 いったいどうするべきなのだろうと

 ネロ

 お前は死んだ

 誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って

 お前の声

 お前の感触

 お前の気持ちまでもが

 今はっきりと僕の前によみがえる

 しかネロ

 もうじき又夏がやってくる

 新しい無限に広い夏がやってくる

 そして

 僕はやっぱり歩いてゆくだろう

 新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ

 春をむかえ 更に新しい夏を期待して

 すべての新しいことを知るために

 そして

 すべての僕の質問に自ら答えるために

  (詩集『二十億光年孤独』・東京創元社1952年刊)

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