はてなキーワード: 他罰とは
naoyo4 仁藤さん最近、攻撃的だな。活動内容は素晴らしいのに敵を増やしてしまわないか心配。この件はあきらかに言いすぎ。
他にもmsukasukaなど6名ほどが支持してたけどさ、ないわー。
別にこの二人がやってること、この二人じゃないとできないことじゃないよね。
人格的に問題あるんだから同じような活動してる他の人を支持するべきでしょ。
たとえば誹謗中傷に反対する活動で4シスターとか言ってるけど、
これはすでに言われてる通り「Internet safety協会」を応援した方がいいって言われてるよね。
kutooももう理念そのものは認知されたんだから、他の人にやってもらった方が絶対よいだろ。
別に怠惰なのはいいけど、さっきあげた方々、自分が怠惰なくせに
30代の私もまったく同じ感覚で、自民候補者と自民党に入れました。
SNSで「アベが」「スガが」と人の名前を声高にカタカナ連呼する人が苦手だし、自分の主張を通すために他人を貶める姿勢に違和感がある。
相手の評価できるところは評価する、ディベートのようなものなら、しっくりくるんだけど。
人はみたいものしかみないと言われるけど、自分の正義を通すために攻撃的、他罰的になる人たちを見ているとその通りだなと思う。妄信的で、宗教みたい。
そうした人たちが苦手だから、彼らが支持する政党に入れたくない。実際はそういう支持者ばかりではないのだろうけど。
今回、「立憲」や「れいわ」支持者の「選挙へ行こう!」という投稿を見て、そうだ、行かなくちゃ。と思って、自民党へ入れました。
子供の第一志望校を決めたときのように、この政党に入れたい!ぜひこの人に国の将来を任せたい!と思える人や政党が、いずれ出てきてくれたらいいなと思う。
自己陶酔が進むと他罰的になって、今は夫が大事と言ってるけど、そのうちに若い男に取り込まれますよ。
夫は何も変わってなくても、比較対象になる男がいたら、評価は変化するものですよ。
109議席から96議席に減ったと言われるけど、そもそも109議席というのは永田町の離散合流の結果であって、選挙で得た議席でない事をみんな忘れていると思う。
2017年の選挙結果は、立憲民主党55議席、希望の党50議席であって、それに元民主党で無所属だった人を差し引きしての109議席なんだよね。
そして、元希望の党のスタンスとしては、立憲民主党よりは維新の方に近かったわけで、そこを支持していた票がどちらに流れるかと言えば、維新や国民民主側に流れるに決まってる。そりゃ当然だよ。立憲民主党に入れる人なら、2017年の時点で立憲民主党に入れるはずだもの。
維新と国民民主党をセットで考えると、2017年で61議席だったのが、2021年で52議席。じつは躍進していない。
個人的には応援してる国民民主党がもう少し伸びる余地があってもよかったと思うけど、そもそもの候補者が少ないので仕方がない面もある。
一方で立憲民主党に無所属組を合わせた65議席ぐらいから、96議席ぐらいになってるわけでこれを躍進と言わなくて何なのかって話よ。
実際に野党共闘で候補者を一本化して議席の上積みができたと評価するべきだと思う。
俺は立憲民主党を応援していないし、共産党は嫌いというスタンスだけど、今回立憲民主党が大敗したって言う人は、元の議席数が信任された結果だと過大評価しすぎだと思うよ。
むしろ、着実に足元が固まってきてるんだから、与党消極支持層を引きつける態度や発信ができるようになったら今後怖いよな。と思う。
物事の原因を他人に求めるのは他罰的な傾向、攻撃性と捉えることができる。自罰的過ぎても良くないが。老若男女問わず、相手によって態度が変わるのは当たり前と言える。金持ってない客に頑張って商談しないようなもんだ。
俺もこのことについては考えたことがある。とりあえず男/女をいちいち書くのが面倒なので、まとめて雨人、晴人とする。
雨が降りやすい人、晴れになりやすい人、などというものが存在するわけがないが、いったん存在するものと仮定して、雨人、晴人、両方が所属するグループがイベントを行うときのことを考える。
一般的にイベントは晴れるほうが好ましい。当然のことながら晴れたら晴人のおかげ、雨が降ったら雨人のせいである。
ところで、晴人、雨人が存在することは事実と異なる仮定であった。あえて事実と異なる仮定をもとに、自分を上げ他人を下げることができる晴人は、傲慢で他罰的と言えるのではないか。
逆に不当に貶められる状況に甘んじる雨人は良く言えば優しく謙虚、悪く言えば自罰的、あるいは事勿れ主義と言える。
どちらと付き合いやすいかは人それぞれだろうが、おれはどちらかと言えば晴人を自称できる人間を警戒する。明るく楽しく付き合いやすいのは事実だが、無自覚にか自覚的にか、人を踏みつけにするタイプが多いように思う。
物事がうまくいくうちはいいが、問題が出てくると放り投げて責任を取らない。雨が降ったら人のせい。だからいつまでも晴人でいられる。というわけだ。
ときおり自分のことを『私(俺)、雨女(雨男)なんだよなー』とかいう人がいるが
そういう人はパートナーに選ばない方がいい。
勿論人に雨や晴れを呼び込む力等ないので、雨女だろうが晴れ男だろうが
雨女/雨男と自分のことを言う人間は『不満をみつけがちな人間』である可能性が
非常に高いのである。かつ、それを根に持ちがち。
因みに日本で雨の日は年間だいたい35%くらいらしい。
雨女/雨男という自覚の人は、悪いことや不満を感じやすく、かつ自分のことは
運が悪いと感じがちな傾向があると思う。自分は運が悪いと思う人は
『自分の能力や待遇にたいして思うような結果が得られていない』という心理の
裏返し的な面もあり、謙虚な風にみえて、他罰的・他責的傾向が強い。
そういう人をパートナーに選ぶと日常的にも不満が多く一緒にいて苦労が多くなるのだ。
反対に『自分は晴れ男/晴れ女』とか『運だけはめっちゃいい』という人の方が
パートナーとしては一緒にいて何かといい面が多い。
何か自分に不都合なことが生じた場合、自分が悪いという発想が皆無で、すぐに他人のせいにします
配偶者が、モラハラ夫・妻の悪い点を指摘しても、「お前だって」というのが常套句で、自分の悪い点を決して認めようとしません。
モラハラ夫・妻の行為を問題にしようとして指摘しているのに、「お前だって」と言われると、指摘した人の行為が問題とされることになってしまいます。
モラハラ夫・妻は、こういった「争点のすり替え」がすごく得意です。
会話の中で、たくみに、こういった「争点のすり替え」をします。
これをされると、モラハラを受けている人は、モラハラ夫・妻の問題点を指摘して状況を改善しようとしたのに、その話がまったく前に進まなくなってしまうので、むなしさを感じます。
これが繰り返されると、「この人に何を言っても無駄だ」という気持ちになってきます。
モラハラ夫・妻は、建設的な部分がなく、彼らにとって大事なのは、改善すべき問題点ではありません。
劣等感が強く、配偶者に対して優位に立ちたいという感覚が強いので、モラハラ夫・妻にとって大事なのは、「その場の口喧嘩で勝つこと」だけです。
食べてはいるんだろうが、事実を突きつけてもなんのメリットも無いぞ。
指摘したりしなければ、そのうち落ち着く。
病気になる前から他人に厳しく、太っている人はだらしがないと思っていたんだろうなあ、
そういう他罰感情を自分に向けてストレスを作り出しているんだろうなあ、という印象。
もっと言えば否定ベースの躾を受けてきていて、悪いところを咎めるのは良いことだと思っているんだろうなあ。
だらしがない自分を認識することが難しく、場合によっては本当に食べていないと思っているので、
悪いことじゃないし、仮に悪いことでも誰にも責める権利は無く、自分で決めていいって思えるまでは、
食べずにすむようになっても別の理由で自分を否定するんだろう。
薬の影響だとすると、たいていの薬は食欲を増進させる作用があるので、本当に悪いことじゃないんだけどなあ…
分解して考える。
A.よいはずである。
なぜならば、トランスジェンダーの方々にとって、「〇性らしさ」は自己同一性の一部となっている。
ジェンダーレスという文脈で「らしさ」という言葉を排除しようと考える向きがいるが、それは違う。
「〇性らしさ」を押し付けるのが悪であって、「〇性らしさ」が存在することは悪ではない。
「〇性らしさ」が悪であるならば、「〇性らしさ」を根拠に自身の性別を判断することができなくなってしまう。
しかしそれをしたいと考えている人がいて、それを認めようという世の中である。
故に、「女性らしさ」という言葉そのものを有害とするのは現時点では間違っている。
A.不明。
1.の通り、「〇性らしさ」を否定するのは間違っている。
女性らしい人とは?男性らしい人とは?という定義が聖書に書かれているわけではない(たぶん。書いてあったらごめんなさい)。
つまり「〇性らしさ」とは存在するが、これと規定することができないものになっている。現実として。
その上に立って考えると、その人が「〇性らしい」という状態は存在するはずだが、しかしそれを確定的に規定することはできない。そのため判断はできない。
自分の中の「〇性らしさ」と照らし合わせるしかなく、それが正しいことなのか誰も分からない。
この問題は、「私は女性だ」という人に対して「いや君は男性だ」「無性だ」という議論が出る余地を示唆している。そしてそれは実際に起きている。
A.ナシ寄りかと思う。セクハラと判断する人間もいるかもしれない。
2.で述べた通り、その人が「〇性らしさ」を持つかどうかは個別の認識により解釈の余地が出てくる。
そのため、自身の認識とほかの人間の認識は違う可能性があり、それはいくらアップデートしようが統一できるものではない。(それが多様性でもある)
しかし1.で述べた通り、「〇性らしさ」というのは存在する。少なくとも現代では存在するとコンセンサス形成をしないと少なくともTQの自認を否定することになる。それは望むことではない。
ではなぜ「ナシ」「寄り」かというと、2つ観点がある。
その人が「カミングアウト」するのは構わない。それは公開範囲を意識することになる。
しかし他人が「アウティング」をすることは認められない。本人の意識する公開範囲を逸脱するからである。
そのため、他人の予想を本人の意図しない範囲に勝手に議論されるのも「ナシ」であろうと思われる。
2つ目は「扱い」に関する部分である。
ある人物に対して、どうしても〇性として扱わなければならない場面が出てくる。
それは銭湯に行くときであり、スポーツをするときであり、つまり性差を意識しなければならない場面である。
また、その人が〇性として「扱われたい」という願いを持っている可能性もある。
例えば重いものを持って、と言われて傷つく人もいるかもしれないのである。(この問題は複雑で、言った側が性役割を基に言っているのか言われた側が性役割を過度に意識してしまうのかということがある。基本的に相手を悪意を持っていると見ようと思えば多くの場合見ることができるので、ここはそもそも人間の他者とのかかわり・受忍限度・社会と個人など属性関係なくすべての人間が考えるべき問題である。ここで「私女なんだけど」「女だからなに?」みたいなケンカになった場合にどちらが悪なのか?という話だ。まあどちらが悪というのがそもそもナンセンスで、他罰的にならず原理主義にならずそれこそ人の考えを尊重する態度が互いに必要だろう。禁句を言ったから悪いやつだ!という考えは不毛に思う。)
つまり自身の性を意識してもらいたいという人がいる可能性があって、それを正しく扱うなら集団の中でコンセンサスを取っておく必要はあるわけである。
その場合、どうしても「あの人は〇性らしいから」という言い方がでてくる。これは相手を慮った上でである。そのうえでセクハラだと判断される危険性も考慮する必要がある。これは個別の認識に基づいて対応を変える必要がある。
そういう事情も鑑み、ナシでなくナシ「寄り」と表現した。(ナシみたいなリンゴ、「きおう」の話ではないhttps://www.ooyufarm.com/c/kiou)
こういったことを考えて話をしていくことになるが、実際のところ認知負荷が高く、5名を超えるグループでその考慮をしようというならそれはもう人知を超えているかと思う。
(いやもっと多くてもできるよと思っている人は、実際は相手を支配した気になっている可能性もあるので、努々注意されたし。もちろんできる人はいるだろう。)
(例外として、教師と生徒のような割と一方的な「管理関係」が成り立つなら、もう少し人数は増やせるだろう。しかしそれでも40人は多すぎる)
世の中が良くなっていくに際して、「これこそ正義、これこそ悪」という規定は難しい。
やはり隣人を大切にすべきであって、ネット上で属性間の断絶と憎悪を膨らませるのはほどほどにしないといけないと、私は思うのである。
あの記事すごく不思議だなと思うのは、「こんな時だけ(香川県の例を思い出してほしい)国や自治体に都合よく切り出されて使われる」という解釈までは「そんな意見もあるかな」と思えるくらい冷静なのに、そのあと「ビデオゲームファンとして全く許しがたい」ってめちゃくちゃ怒ってるところ。
普通、そこまで怒るってことは、自分の権利が侵されたり、約束を破られたり、直接被害があると思う。
だけど、筆者は実際はなんの被害も受けてない。言ってみれば、"たかがゲーム音楽ごとき"でここまで「許せない」とまで憤るのはすこし尋常じゃない。
じゃあなんでそんなに怒るの?と考えたとき、おそらく、この件で自分が軽視されたように感じてるんじゃないかなと思う。ゲームがバカにされる=自分がバカにされている、という感覚。
でも、その気持ちは切実なんだと思う。ゲームは、ときにとてもパーソナルな居場所になる。人生のどこにも居場所がなくても、ゲームだけは受け入れてくれた、という話はよく聞くし、もともとそういう性質がゲームにはある。
そこまでゲームに思い入れている、大事に思ってる人にとって、「これかければ盛り上がるでしょ」的なノリでゲーム音楽が使われたら居場所が奪われた感じでたしかに嫌だと思う。あの記事に共感するコメントが多くあるのも、そこの部分なのかなと。
でも、だと考えると、あの記事は「ゲームを大事にすることで自分も大事に扱ってほしい」以上の主張がないように思えてならない。
かといって、記事としてそれだけだとあまりにエゴすぎる(というか、その怒りの根っこに気付いてない)から、政治の問題にしてみたり、他のゲームファンにガッカリしたと言って他罰的になってみたり、少し無理筋の正当化をしてしまうのかなと。
個人的にはあのゲーム音楽は、ゲームファンには理解させつつ、そうじゃない人には単なる入場BGMに聞こえるなかなか優れたバランスで使われてたなと思いました(というひとつの視点)(その後の聖火リレーではボレロが流れた。ボレロとゲーム音楽が同格の扱いなっていた、という解釈もできる)。
あとゲームは筆者の想像以上にもっと広く浸透していて、柔道金メダルの高藤選手は「金メダリストにふさわしいゲーミングPCが欲しい。試合が終わったら思いっきりやりたい」とコメントしてたり、
https://news.yahoo.co.jp/articles/fc5725678c096a10b9d51590c4476c6e62cea923
スケボー金の堀米選手は「僕はメダルをポケモンのカビゴンにつけているんだけど、それにつけたいと思います」と言ってたり、あの会場にもゲーム音楽で喜んでいたオリンピック選手はたくさんいたと思う。ゲームはもうメインストリームのカルチャーだよ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1866dab753fd1bf82673757152112e390ab2fb6a
小山田圭吾氏のいじめで炎上した件、よく見るけど正直騒いでるほうもいじめと同じじゃんって思う。罪を償えと要求する方も正義を感じられない。というかはっきり言って誰もいじめが悪い物なんて思ってないよね。
誰かに対する罰を与えるための炎上じゃなくて、完全に他者への攻撃欲求から来る炎上でしょ?
そもそもこいつの障がい者に対するいじめって前から明らかになってたんでしょ?なんでオリンピック開催直前に騒ぎにしてんの?どうせまた週刊誌やらマスコミに焚きつけられたんだろうけど、
結局のところ反オリンピックのためのスケープコードとして障がい者いじめをした小山田圭吾氏を利用しただけでしょ。共通の敵を倒すためにいじめを利用している。
いじめで傷ついた人たちの気持ちなんてどうでもよくて他人を攻撃するための道具でしかない。
日本人はコロナみたいな災害で混沌としているときは団結のための敵が必要だから、とにかく何かを攻撃したい。そのための道具が小山田圭吾氏であって何もない平常時は見向きもしなかったよね。
正直いじめなんて大嫌いだし、こいつのやったことは虫唾が走るけど、でもこの炎上のさせかたは見ていて不愉快。
いじめが悪いなんて誰も思ってなくて、とりあえず他人を攻撃したいって心境から始まってる。
いじめを受けた被害者はそのための道具として利用するだけのものになってる。
結局週刊誌やらマスコミだって常にだれかに危害を加えなきゃイライラするようないじめっ子がなってるわけでしょ。
週刊誌の売り上げを上げたい、話題にしたいからオリンピック開催直前に発火させて炎上させて、いじめが悪いものだなんて思っていないように見える。
こいつがやめようがどうでもいいけど辞めたら別の人が仕事しなきゃいけないんだよね。結局周りに迷惑がかかる。その人は悪い事してないのに。それもどうなの?
炎上するならもっと周りに迷惑が掛からないタイミングで炎上させろよ。
こいつの炎上騒動は、被害者を受けた人の気持ちを思う他罰的な感情じゃなくて、他者への攻撃欲求が具現化したような炎上だから見てて気分が悪い。