はてなキーワード: 人生いろいろとは
大麻吸わずに死ぬのもったいないから殺したり死んだりする前に、絶対大麻吸った方がいいよ。ぶりぶりにキメてニューヨークでストリートパフォーマンスとか見たり、ぶりぶりでシエムリアプの名もない遺跡の上で夕日見ながら叫んだり、ぶりぶりでバルセロナのバーをホッピングしてピンチョスつまんで酒かっくらったりとか。ぶりぶりで見るサグラダファミリアヤバかったよ。そんで人生いろいろどうでも良くなるよ。感動ってこういうことかってなるし、ゴリゴリに固まった自分のこころがほぐれてくのも良くわかるよ。でも酒と一緒でやんなきゃ絶対わかんないから。今の日本でまかり通ってる大麻の話って酒飲んだこともない奴が書いてるワインのレビューみたいなもんだから。これ知らずに死ぬの、すげーもったいないよ。
小学生の頃、地元の催しとして子供達で区域ごとにチームを組んで野球の練習や試合を行うというものがあった。
基本的には参加は自由で、自分はいわゆる暗くて運動もあまりできないような子供だったからそんなもの絶対に行きたくなかったんだけど
近所の子達はみんな参加してるんだからということで親に半ば無理やり参加させられることになった。
小さい頃に父親とキャッチボールするみたいな男の子の必修行事的なのすらめちゃくちゃ嫌がってたような筋金入りの運動嫌いだから
そんなところにいきなり放り出されても当然できないものはできないし、
その上できないことをチームの子供達にいじられたりして、本当に嫌だったなぁ。
正直なんでこんな不毛で不快感だけ与えられる行事に参加させられてるのか意味わからなかったし、それを見透かされたのか
コーチとして来てる大人の人に「やる気ないなら帰れ!」とか怒られて自分はやる気なんて全くなかったからその言葉を文字通り受け取ってそのまま帰ったんだけど、
帰ったら帰ったでそのことすら親に咎められるし、人生いろいろ嫌なことあったけどこれはその中でも結構上位で嫌なことだったなぁって……
今でも野球は見るのもやるのも大嫌い。
大人になってからこんな子供の頃の話をネチネチ語るのもアレな気がするんだけど、もし運動が嫌いな子を持つ親御さんがいたらちょっと考えてほしいなと思った話。
妊娠中。似たような境遇の人がいないかなと思ってSNSみてるんだけど、見事なまでに妊活や不妊治療を経て苦労された人ばっかりだ。
中でもびっくりしたのが、「苦労して妊娠したから自然にさずかった人とは仲良くなりたくない」的なことを書いている人がいることだ。
私は幸いにもいわゆる妊活、不妊治療などはせず今回授かった。でも、初婚では子どもは絶望的で、ずっと悩んで、ずっと不妊治療について調べてた。好きな人と、何の苦労もなく子どもを授かることができるなんて夢みたいだってずっと思ってた。
あと、妹夫婦の子どもは遺伝子欠陥があって産まれて数時間で亡くなった。妹は若くて、当たり前のように無事にお産が終わると思ってた。お腹の中にいる時からそれがわかって、いつまで生きられるのか?生まれてきた子を育てられるのか?色んなことを身内みんなで考えた。長くは生きられないかも、と思いながら文字通りお腹を痛めて出産した妹の気持ちを思うと今でも胸が痛い。
というわけで、私にとって妊娠は想像してたけど夢のように感じていたことで、今夫と生まれてくる子どもに思いを馳せながらアレコレ話せるなんて本当に本当に幸せだなと思っている。
同時に、健康であってほしい、五体満足で生まれてきてほしい、大丈夫かなという不安もある。
でも特段それらを人に言いふらすことではないと思っているので、普段話すことはほとんどない。
傍目から見たら、結婚して自然に授かった幸せな妊婦そのものだと思う。
何が言いたいかっていうと、人にはそれぞれバックグラウンドがあり、表面化していないこともいっぱいあるのに、そういうのは考慮せずに線引きされるって悲しいなと思っただけ。
人生いろいろ、人それぞれじゃん。
https://b.hatena.ne.jp/entry/www.d3b.jp/media/5418
このブコメ欄にて
https://b.hatena.ne.jp/entry/255679421/comment/shufuo
手術や抗癌剤にはメリットもあればデメリットもある。積極的に緩和ケアして元気なうちに旅行や食事や文化を楽しんで死にたいという人がいてもいい。人生いろいろだよ。自分はたぶん戦わないと思う。
そこに反論
https://b.hatena.ne.jp/entry/255689381/comment/ublftbo
“、体力が著しく弱った患者には、今では抗がん剤治療はやりません。末期がんの患者ともなると緩和ケアに努め、患者に無理を強いる治療はしないように医療のやり方は変わっているのです。”と記事に書いてあるのに。
https://b.hatena.ne.jp/entry/255689381/comment/shufuo
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。