死んだ方がいいやつもいるんじゃないか?
死にたくない
それに誰にも死んでほしくない
すでに死んでしまった人にも生き返ってほしい
どれくらい生き返ってほしいかというと、過去5000年くらい前から死んだ人たちに生き返ってほしい
もちろん動物も死ななくていいと思う
肉とか食べたいと思ったら何もないところからぽんと出てくればいい
誰も死ななかったら地球が溢れるっていう風に心配する人がいるかもしれないけれど、
それについては、同じ時間同じ場所に別の存在が同時に存在できるということにすればいいと思う
つまり、江戸時代の長屋と平成の高層ビルが同時に存在して、どちらでもそれぞれ生活できれば解決する
誰も死なないし、なんでも手に入るから、世の中から不安も戦争もなくなると思う
私が誰にも死んでほしくないって思ってることを理解してほしい
死ぬなんてこと、本来ならありえないくらい理不尽なことなのに、みんなが受け入れていることが信じられない
どう考えても後付け設定にしか思えない
ひさしぶりに思い出してみると、高校時代で覚えてること、ちょこちょこあるな。
そのテスト、うっかり朝寝坊して点が悪かったはず。目標なんて元々なかったのに、あると思われてたのが意外だった。当時の自分、なんで早起きして勉強してたんだろう?意味の分からない人間だな。
従妹の差し金と察して、すごく冷たい反応しかしなかった。従妹の気遣いというか、親切だったのだと思う。今なら正しく受け取るべきものと理解できるが、当時は何もかも疑って、何もかも拒絶して、何がしたいのか分かってなかった。憐憫としか受け取れなくて、それは何故か、イコール屈辱だった。
まあ、こういうタイプの人は、構うだけ無駄というか、うっかりすると憎まれたり狙われたりするから、損だと思う。親とか家庭の関係が精神の基本。それが腐ってると、他人はどうこうできないね。
大学生活 1年目
出会い系でしか会話できない男。ほんとバカだね。金が払えなくて、必死にバイトしてた。バイトは深夜の肉体労働。バイト仲間の男とはかろうじて会話するけど、目が合わない。電話も住所も絶対に教えない。怖かった、何かが。
深夜の肉体労働を、金銭効率が最高と思っていた。最高効率で金を稼いで、出会い系に金を払う。キチガイだな。
転機?
友人が死んだ。まったくの同類だった。自分の死のイメージが克明に見えた。同じ道を辿ることを確信した。自分の思考方法、生き方が間違っている とは腐った脳では理解できなかったが、このままだと死ぬことは理解した。見えてしまったから。
例えば「日本のどこそこで震災があった時、在日朝鮮人が事態に便乗して女性をレイプした!」ていうネット上の噂があったとするじゃん。
「そんな事件、嫌だな」
「そんなことがあったなんて信じたくない」
「そんなことがなければいいのに」
そしてその上で、噂が事実として認定されたとき「許せない」と思う。普通こうでしょ?
ところが「ネトウヨ」達にとっては真逆なんだよ。彼らはそんな噂を見た時、こう思う。
「なんて嬉しい事件なんだ」
「こんな楽しいことがあるなんて」
「できれば本当であってほしい」
……なぜなら「ネトウヨ」はリアルに根付いた人たちの痛みなり哀しみなりに寄り添うわけではなく、ネットで「敵」として認定された相手をみなで叩くゲームを楽しんでるに過ぎないんだから。そんなゲームの格好の材料となる「在日がレイプした!」て美味しい話、嬉しくて楽しくて本当であってほしくないわけがない。
そう、彼らが「敵」の失点となる情報を得たとき感じるのは、いちおう表面上は見せる怒りや憤りや失望じゃない、紛れもない快楽なんだ。
やったーまた在日どもが不快な行動をしてくれたぞ、と(噂や未確定の段階で)喜んでるんだよ、彼らは。
そしてこの「嬉しくて楽しい情報が本当であって欲しい!」から、「いや本当じゃなくてもとにかく本当にしたい!」まで発展するのは必然と言ってもいい。だってさ、それら「敵」の失点となる情報=噂はあればあるだけ、「敵」を叩く格好の武器となるんだから。ゲームを楽しむなら、そっちにそっちにって感じになるじゃん。
こうやって単純な快楽原則にのっとったシステムとして、デマは信じられるし広まるんだ。
また「ネトウヨ」諸氏に聞いてみたい。あなたは相手がとにかく悪魔的であること、巨悪であることを、むしろ望んでいませんか?と。あなたが例えばTwitterで「朝鮮人がまたこんな行為を!」という未確定な情報をリツイートするとき、何がその動機のベースになっているのですか、と。
念のため補足すると、これが「ネトウヨ」に限らないという意見には同意するッス。自分の観測範囲の話をしたので他のサヨクなりなんなりもまたこの手の何かになってる可能性もあると思う、てーか「ネトウヨ」だけが突出してバカって世界観のほうがむしろありえん。
メーカー勤務のエンジニアがいかにキャリアチェンジに失敗し、価値観の転換を迫られ変化しつつあるかについて記す。
話は2009年頃にさかのぼる。リーマンショックと円高、さらには震災により日本の電機業界は縮小を余儀なくされ、度重なる大手企業のリストラ報道に触れることで自らのサラリーマンエンジニアとしてのキャリアの継続に不安を覚えるようになった。
それ以前から自らのスキルの中核が会社の本業とは少しずれたソフトウェア、Webよりのところにあることを自覚しており、その分野での知識、経験を伸ばすことでエンジニアとしての成長、生き残りの手段と出来るのではないかと考えるようになった。
もともとネット依存な傾向と学術的な活動への未練があってはてな界隈でのの情報収集を行っていたのだが、その中で見いだしたのが機械学習関連の勉強会であった。Web業界を中心とした技術勉強会は2008~2009年頃からツイッターなどのSNSを通じて盛んになって来たように思われる。機械学習関連の勉強会参加者はその中でも博士課程進学者や社会人博士が一般の技術職に比べてずっと多く、知的エリート的雰囲気を感じるものであった。
自分が勉強会に参加するようになってから少したった2010~2012年頃になると周辺のコミュニティーはどんどんと活気を増していった。
ソーシャルゲーム業界の爆発的な成長、そこではWeb関連の技術とは異なる学術的色彩の濃いバックグラウンドを持った人間を求めていること、待遇も(安定性を差し引けば)伝統的な大企業に劣らないどころか収入、技術追求の環境としては遥かに凌駕するものであるとこと、自分と同様電機業界出身の人間も多く転身していることなどその魅力ばかりが目につくようになった。そして勉強会は新興企業が優秀な人材を獲得する場であることにもすぐに気づいた。
そんな空気を勝手に感じ取って勉強会、ブログやSNSでそこそこ積極的に情報発信を行うようになっていった。
技術情報を発信する活動は承認欲求、自己顕示欲を十分に満たすものであり、まさにソーシャルゲームがゲーマーにもたらすものを開発者サイドとして並行に体験しているような感じすらもった。しかしその魔力に取り付かれることで成熟した会社、業界内のサイロ化した技術の習得、それを用いた地道な作業の繰り返しにモチベーションを感じることが出来なくなり、次第にプロジェクトで主体的な役割を果たすことを避けていくようになった。
昼間の仕事に熱意を持って取り組めなくなったことから不眠そして鬱に悩まされ、仕事と勉学に割く時間の質と量は減っていった。
数年の年月が経過することで勉強会周囲の人間が少数は華麗に、多数はぼちぼち、あるいは人知れず職を変えていった。公の場での発表を続けるもの、所属企業を巻き込んでそれを拡大するもの、全く姿を消してしまうものなどその動向は様々であった。
周囲を見ると転職成功者はSNSを使いこなしてオピニオンリーダーとなるような行動力、コミュニケーション能力が頭ひとつ高いようにも見えた。そもそも勉強会に出て発表してある程度の知名度を得るという時点で最低限の技術力、現状の組織には依存しないという意思がスクリーニングされていたと言えるのかもしれない。
そんな周りの人間の状況や数年にわたる知識の蓄積、景気の改善や人工知能、機械学習、統計などの分野へ全ての産業が注目しているような状況を追い風と感じて2014年後半から2015年に掛けて本業とリンクした業界で活動をしてみた。
しかしながら会社において明確な業績がある訳でもなく、また活用できるような知名度や人脈があった訳もなかったからなのかあえなくお祈り攻勢にあうようになった。
もっとも同世代のより経営状況の悪い会社に勤めていた友人と比べると質、量(応募数)ともに圧倒的に少なく客観的に見ても転職の本気度が疑われるような有様で、その姿勢が採用担当者に見透かされていたのかもしれない。
転職活動の失敗と並行して仕事と勉強会関連の活動という二足のわらじに近い活動は肉体、精神の健康を蝕んでいった。
精神的な転機は職場の同期や友人の結婚、出産、親世代の訃報であった。アラサーのライフイベントを避け続けて仕事と勉学に取り組み続けることが精神的に不可能になり、元々あった不眠、鬱傾向に拍車がかかり、休職一歩手前の段階にまで悪化していってしまった。そもそもの自分の活動の契機であった電機業界のリストラに伴う人材流動化がもたらした環境の変化が社内に及びそれもまたストレスの原因となった。
恋愛関係やサークル活動などの濃密な人間関係の経験やストレス解消法が乏しかったこと(いわゆる非リア)が精神的健康の維持を妨げていたようにも思えるが、そうでもない人もいるので一概には言えない。元々の体質も影響しているかもしれない。強いて言えばストレス耐性の不足によるものだろうか。
体調の悪化や周囲の同年代のライフスタイルの変化が勉強会を中心とした活動への力を失わせ、また社内における信頼も完全に失われてしまった。
仕事での信頼、そして同期との業界知識経験の格差を取り戻すのはほぼ不可能に近く、次の景気後退、経営悪化ではリストラ対象になることはほぼ間違いない。だが生活の維持のためには地道な作業の繰り返し=労働が必須であること、自分はすでに新技術の習得でボーナスがもらえるような年ではない普通以下のおっさんになってしまったこと自覚できたことがわずかな収穫かもしれない。
コミュ障だと自称していたTwitterのフォロワーが都会に進学してあっさり友達が出来ていた。
そういう人って多分人間が好きなんだろうな。友達になれそうな人が現れたら心を開いて打ち解けられるのだろう。
友達が欲しいと思いつつも心の何処かでは人間が嫌いだから人付き合いが面倒だと思ってしまうのかと。
友達になれそうな人は何人か現れた。しかしそのチャンスを活かせなかった。
[追記]
はてブでのコメントありがとうございます。どれもぐうの音も出ないくらいの正論で事実です。
人間が嫌いというよりは人間に興味がないのでしょう。それなのに友達が欲しいと思ってしまうのはとてもめんどくさい。
自分に興味を持ってくれて話しかけてくれた人は何人かいましたがうまくいかなかったです。
「友達を作る努力をしなかった」のは事実です。そもそも「何をしたらいいのかわからない」のです。
それがわからなくて人間関係を維持することを放棄して疎遠になってしまいます。
「相手を粗末に扱ってる」のも事実でしょう。
一緒に話をしててもどんなことを話せばいいのか考えるのが精一杯で相手が話したいこと、相手の気持ちを考えることが出来ないです。
どうしても自分のことばかり話してしまいます。相手が嫌気が差すのは当たり前です。
それがわかってるのにどうしてもうまくいかない・・・
気合一発、春日部の野原一家からフアレスのノハラ・ファミリアを目指す。まずは地道にご近所づきあいからだ。ジャパニーズ・トラディションである引越しそばを振る舞おうとする。
ところが、誰も受け取ってくれない。地元住民はみな警戒心まるだしで、野原一家を寄せつけようとしない。陽気なラティーノの国と聞いていたのに、聞くと見るのとでは大違いだ。
なに、よそものなんて最初はどこの国でもこんなもの。時間をかければきっと仲良くなれるさ……夕食のテーブルに並んだトウモロコシ粉製の本場のトルティーヤに舌鼓を打ちつつ、四人は新生活に思いを馳せる。
だが、その家族の団欒には一匹、足りない。夕食の時間だというのにシロはどこへ? 慣れない街で迷子になってしまったのだろうか?
就寝の時刻をすぎても戻ってこないシロを心配して、しんのすけが探しに行こうと言い出す。今日はもう遅いから、とためらうみさえ。ひろしが家長の威厳をもって立ち上がり、おれに任せろ、と鷹揚にわらう。しんのすけはお留守番な、お兄ちゃんは妹を守る義務があるだろう?
夜が明けてもひろしは戻ってこない。
「ただのペット探しじゃないんです。大の大人がひとり行方不明になってるんですよ」
机を叩いて抗議するみさえ。だが、応対した警官は苦笑して肩をすくめる。
「日本の奥さん、この街で一年に何件殺人が起きてるか、知ってますか」
「三千六百人((2013年は500件程度にまで減少))です。フアレスでは一日におよそ十人のペースで人が殺されてるんです。事故や病気での死じゃない。脳髄を銃弾でぶちぬかれてたり、生きたままマチェーテで首を切られたり、バットで全身をボコボコに叩きのめされたり……そういう方法によって二時間半ごとに人間が不本意な死を迎えているんです。でもそいつらはまだ幸せなほうですね。死体も残らない死に方をしている人間となると、果たして何人いることやら」
絶望と憤慨が入り混じった名付けられない感情を奥歯のあたりで噛み殺しながら、みさえは新居に帰宅する。居間で、しんのすけがテーブルに乗った見慣れぬアルミの缶ふたつを茫洋と見つめていた。缶にはコーヒー豆を写したラベルが貼られている。日本で市販されていたものとは違い、巨大で、威圧感すらただよっている。海外はなんでも日本より大きいと聞くけれど、コーヒー缶までビッグサイズなのかしら?
「しんのすけ、なにこれ?」
「さっき知らないおじさんたちが来て、『先日のそばのお返し』だって。『この街の特産品だから、ぜひどうぞ』って置いてった」
『特産品』。警官のツアーガイドを聞かされたみさえには、なんの変哲もない穏当な単語が不吉に響いた。そもそも引っ越しソバを受け取ってくれた人はいなかったのではないか? 騒立つ胸をおさえ、凶兆を否定しながら缶に手を伸ばす。
「『必ず、お母さんといっしょに開けてね』ておじさん言ってた。だから、オラ、ずっとみさえを待ってたんだゾ」
嘘だ、とみさえの直感が告げる。しんのすけなら、そんな言いつけはきかない。さきに缶を開けようとするはずだ。事実、缶は蓋のしまりが甘い。ずさんな隠蔽工作、しんのすけらしくないミスだ。
らしくない、といえば、なぜしんのすけはこんなに平坦な口調で喋るのだろう。
なぜ缶をじっと見つめたまま動かないのだろう。
「缶の中身なんか見なかった……」
なぜこんな温度の低い瞳をしているのだろう。
あらゆる情報が、缶を開けるべきでないとみさえに警告を発していた。「それ」には決定的ななにかが入っている。開けてしまえば、もう戻れない。だが、止められない。みさえは蓋を回す。
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