はてなキーワード: 東雲とは
こないだ「東雲うみ」っていうグラドルの動画見て腰を抜かした。
グラドルのYouTubeチャンネルつったら、おっぱいボヨンボヨンさせながら薄っぺらいバラエティ企画でキャピキャピするのが一般的なんだけど、このモデルさんのチャンネルはプラモデルの製作がメインで、しかもなかなか本格的。
自分は模型とかあんま詳しくないのでどの程度本格的なのかキチンとわかってないとは思うんだけど、テクニックとか創意工夫の度合いとか揃ってる機材とかを見る限り、なかなか年季の入ったモデラーという印象を受けた。
もちろんそっち方面のガチ勢が見たら「あんなんたいしたことねーよ」かもしれないけど、少なくとも門外漢はじゅうぶん腰を抜かせるレベルだと思う。
なおかつ東雲うみは顔がかわいくてパイオツがでかい。つまりグラドルとモデラーというイメージのギャップにおじさんはちょっとやられてしまった。
無理くね?
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
基本的に自己責任の国だぞ、生活保護と医療保険があるからなんとかなるだろうの精神だ
にも関わらず、生活保護と医療保険を無くそう・縮小しようというバカがいる
現場猫コラはセンス抜群ですきだが、医療保険のクソキャンペーンにイラストを提供していた オリジナルのくまみね氏の方はブロックしている。お前はすべて自己責任でいけ
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
ないぞ
日本小児科学会のように世界の真逆へいかない正しい見解を見せるところもあるし、
正しい主張をしてくれているアカデミアの人もいる
放射能云々については控えたい
そこで暮らしている人たちや暮らしを取り戻そうと尽力している人たち
どうせならこっちがいいな
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
迫る退去期限、今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
加えてやはり街からは人が減ってしまって商売もままならないらしい
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
迫る退去期限、今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
斉藤さんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
トイレットペーパーが品薄になったのって2月末なのね、2月末。
もうたっぷり2週間は過ぎてるのね。
東雲イオンに大量のトイレットペーパーが並んだのが3月3日らしい。もう12日前。
Twitterでもちょこちょこ買えた報告を見かけたからそろそろ解消されるかと思ってたのに
家からスーパーに行くまでの間にドラッグストア3軒もあるのに、そのすべてで空っぽ。もちろんスーパーの棚も空っぽ。
おまけにスーパーの店内アナウンスで「トイレットペーパーは十分な在庫がございますのでご安心ください」とか流れてんの。
今まで「まあ仕方ない」とか「長期化するだろうな」とか思って暮らしてたけど
そのアナウンスを聞いて怒りが一気にこみ上げきてね。
在庫があるだぁ?
この棚のラインナップでそんなアナウンス流すたぁどういう了見だ。
今まで我慢してたけど、我が家だって残り1ロール切ってる。最悪トイレットペーパーがなくても…と思いながら暮らしてきたのに
SPWN TUBEOUT! COUNT DOWN
MC:コーサカ(MonsterZ MATE) GUEST: 朝ノ瑠璃 / AZKi / あにまーれ / いるはーと / オシャレになりたい!ピーナッツくん / 奏MiMi / 銀河アリス / 甲賀流忍者ぽんぽこ / 獅子神レオナ / 東雲めぐ / 天開司 / 天神子兎音 / ときのそら / バーチャルゴリラ / 花鋏キョウ / ハニーストラップ / Palette Project / ピンキーポップヘップバーン / 星乃めあ / Marpril / 燈舞りん、音葉なほ、鈴鳴すばる(まりなす(仮)) / MonsterZ MATE / ワニのヤカ(五十音順)
補足→ https://anond.hatelabo.jp/20191205212350
これは退職者アドベントカレンダー2019 (https://adventar.org/calendars/4051) 5日目の記事です。最初は自分のブログに書くつもりでしたが、書いてるうちにどこまで筆が滑っているのかわからなくなったので増田に投げることしました。そしたら余計にタガが外れたのはご愛嬌。
よく見かける「未経験からエンジニアへ!」ストーリーの、あまりなさそうなルートです。よくあるルートのほうはなぜかTwitterで報告して「○○系エンジニア」的な命名をしてから入社その後の動向が闇に葬られているのをかなりの確度で見かけますが、まあ、なんか、いろいろあるんでしょう。逆にそういう成功(?)体験の生存バイアスを強化する情報ばかりあふれていると情報として健全でないように感じます。
といいつつ後日しれっと消えてたらInternetArchivesか魚拓で会いましょう。
この話はここから先はフィクションです。剣も魔法も労基法も出てこないファンタジーです。
地方に潜むフリーターです。好きなvirtual beingsはロボ子さんと東雲めぐさんとれいきらさんです。
これまでは自分のためのプログラムを書き散らすだけで、ITとは無関係のバイトをしてきました。玉掛とフォークリフトなら任せろーバリバリ
会社にもぐりこんだいきさつはやや特殊なのでぼやかします。とあるきっかけで知り合った人から誘われました。リファラルです。なお、とあるきっかけはなにかと炎上しがちないわゆるプログラミングスクールなどではないことを防火剤がわりに書いておきます。そんなもんに使う金など無い。
その人のことはあんまりよく知らなかったのですが、CTOとして手伝っている会社のシステム部門で人手を探しているとのことでした。会社のホームページにはリクルートページなど無く、何をやっているかいまいち要領が掴めなかったのですが、ざっくりと自社製のWebアプリ開発をやる感じらしく、内容も聞いた限りでは(自分のスキルと照らし合わせて)そんなにどえらいわけでもない印象でした。ちょうど金もないし無職だし、少し経験でも積んでみるかという気になったので、この際ホームページがDreamWeaverのサンプルを流用したまんまといった細かいところは観なかったことにしました。
面接にいくと社長から「いつからこれるの?」と言われたので「あっこれは」となりましたが、金がなかったので是非もなくそのまま入社の運びとなりました。この頃はプログラム書いて金もらえるなんてサイコーとか思ってました。ちなみにgithubやatcoderのアカウントを書いた職務経歴書は一顧だにされませんでした。
地方の製造業のシステム部門を切り出して別会社にした形態の、創立数年ほどの会社です。自分のほかにもうひとり、社内情シスのようなことをしている方がいましたが、基本的にはサポートが専門な感じでした(ただし肩書は自分と同じでしたが)。紹介してくれたCTOは週に一度のMTGに顔を出すだけということで、実質的に常駐している人間でプログラムが分かるのは業界未経験の自分だけというチャレンジングな環境からスタートしました。なお入社して社内の平均年齢を大幅に下げることになりました。
ちょうど入ったタイミングで情シスの方が抱えている仕事があり、とくにやることもなかったので手伝いました。グループ会社のサイトをスマホ対応させるもので、事情はわかりませんがそれまで他社に制作を委託していたものを自社で運用することにしたとのことです。みてみるとWordPress4でPHP5が動き、Bootstrap3を使ったオリジナルカスタムテーマで運用してきた様でした。もちろん仕様書やローカル環境もあるはずがないのですが、どうせ自分はWebデザインなど知らんのでとりあえず直にheader.phpにviewportを書いてmain.cssにメディアクエリを設定して、ザ・web制作初歩みたいなレスポンシブ対応をしましたが、デザインについて当事者との意見のすり合わせの機会なんかの開発手順はなかったので良しとしました。
入社して2周間ほどのち、社長についてこいと言われた打ち合わせの後日、MTGで「昨日のアレの進捗はどんな感じなの?」と聞かれたことから、いつのまにか新規案件を自分に一任されていることに気づきました。仕様は前日の打ち合わせがすべてだった模様です。要件定義や技術選定・検証のような工程など決まってないので好みで揃えました。趣味と関心からExpress+Mongo+Reactのセットか、触ったことのあるDjango/Railsでざっくりやるか、どうせならDockerも使い時か、こんなときに相談できる同僚やメンターが欲しいなぁなどと考えていたら、CTOがそれまで作っていたやつをみるとPHP+ES5+MySQLだったのでなんだかんだでそうすることになりました。PHPを初めて触り、「これがペラ1のphpにjsもcssもなにもかも書いていくといういにしえのスタイルか…!」と新鮮な感じでやってました。
Windows Server 2012で動いていたサービスをLinuxに移行しました。これは自分が入る前から情シスの方が任されていたのですが、マニュアルに沿ってコマンドを打ちこんではどこかで転け、エラーは読まずにあきらめてCentOSインストールからやり直すということを繰り返していたのを見るに見かねて手伝いました。SSHでPowerShellからマニュアルのコマンドをコピペして実行する方法を教えてあげると目を丸くされました。shellファイルを書いてあげると魔法をみるのような顔で驚かれました。自分が入ってなければどうなっていたんだろうか...
毎日出退時間を規定のEXCELフォーマットに記帳する必要があり、これが非常にめんどくさく無駄に思えたので、自動記述するpython/Goスクリプトを書きました。これは入社して2日目とかだった気がします。しかしここを自動化しても「印刷して人事に提出し、それをもとに人事の方がまたEXCELに書き込む」と知り虚無になったりしました。
これはやったことというか思うところあってプライベートで取り組んだことです。自分の想像していた開発現場との乖離を感じたので、こういうのはFE勉強すればわかるのかもしれないと思って1ヶ月くらいやって取りましたが、得られた知識で会社に活かせそうなものは何一つありませんでした。
チーム開発などという概念は存在せず、「1案件を1人で上流から実装、運用、保守、サポートまですべてやる」という進め方でびっくりしました。手持ちの技術スタックでできる範囲でギリギリなんとかやった感じです。よく転職サイト上で見かける文言で「お任せします」がありますが、これとかも要するに「丸投げ」の換言なんでしょうか。わたし気になります。
自分のように途中からジョインした人に対しての業務移行のシステムがないことから感じていましたが、案の定「誰かが抜けたあとの引き継ぎの機能」も整備されてないことに気づきました。もともとオンボーディングや研修の概念などありません。えらいひとは「そのへんは現場で協力してうまくやって」と丸投げし、すべての作業を自宅でやっているCTOは社内のこうした事情については放任で、いちおう情シスの方がいつのまにかメンター代わりになっていたものの、不明点を尋ねても頓珍漢な返答が多くもどかしかったです。どのサーバでどんなサービスが動いているのかやSSH情報を聞き出すのに苦労しました。こうした不幸と無駄な時間をなくすためにドキュメントを整備しようとしたのですが、頓挫しました。これからも物理フォルダーと社内サーバに散逸した各種の情報は混沌を深めていくのでしょう。gitも無いし。
サーバはオンプレでした。自分はクレカをもっていないためパブリッククラウドを試す機会がなく、ぜひとも触ってみたかったのですが、承認を得るための説明がうまくいかず、結局VBoxでやることになりました。唯一、それまで使われていたVBoxではなくVagrantを導入したのは少しだけ救いでした。どうせ自分しかいじらないのですが。
余談ですがオンプレで面白かったのはHDD増設のために初めてデータセンターなるものに入ったことです。インフラ/ネットワークはまったく分からんしなかなか個人で試せない領域だし縁がないかなと思っていたのですがやはりそこに見える物理層が存在するというのはテンションがあがりますね(断層みたいに言うな)
イキってカイゼン・ジャーニーや情熱プログラマーを買って読んだりもしました。目につくように共同図書のつもりで「ご自由にどうぞ」を添えて自分のロッカーに置いておいたら「私物は持ち帰れ」と言われてしまったので持ち帰りました。
さてお待ちかねメインディッシュですね。
もともと技術やコンテンツの会社ではなく、技術畑の人間がまったくいないことのインプレッションが次第に違和感として強く響いてきました。ITエンジニアとしてやっていくつもりの観点でみると、学習や成長の土壌は無いように思えました。協調関係や信頼がうまく築けず、自分のすべき道筋が不明瞭のままやっていけるほどタフなYATTEIKI精神ではなかったのです。
これは地方の、それもIT気質のあるわけではない、ワンマン経営の中小製造業ならばどこにでもあることかと思われますが、随所に感じるレガシーさに疲れてしまいました。一例を挙げると、毎朝30分に亘り行われる全社清掃(もちろん業務時間外)、社是の復唱、『感謝の言葉をみんなで味わうポエム』の輪読、その感想大会、頻繁に行われる中身のない会議、日報をエクセルで書いてメールで送ったり、出退勤表を毎日エクセルに書いて印刷して事務方に持っていくなどのルーティンがけっこう苦痛でした。
社内のコミュニケーションツールはLINEだったので使い勝手も悪く、会議でchatworkかslackを使いましょうと提案しても誰一人としてそれらの存在を知らず、「勝手にやってくれ」と言われてしまったり。LINE WARKすら知らんやんけ。説明しても「skypeじゃ駄目なの?」と言われたので諦めました。
えらい人の思いつきのたびに方向性が変わり、当人は発言したらそれで全て完了した気になってしまったのか、会議終了後の10分後に「さっき言ったやつまだ出来てないの?」などと言われた時はギャグかと思いました。会議の議事録も誰も見返さないので果たして意味があったのか疑問です。誰かひとりでもmarkdownが書けたり、少なくとも書く気があれば勉強会を開催してHackMDなどを推せたのですが。議事録が機能していないエピソードとしてひとつ思い出しました。開発中に機能追加を下された際に、その挙動は完全にプラットフォームネイティブであり今の技術選定だと作り直しになり、結果納期に間に合わない(し、自分の技術スタックからも遠く外れていたので学習コストも加算)と発言したらその場は収まったのですが、会議終了後に個人メールで「やはり機能はマストだ」と伝えられました。当然それは議事録に反映されることなく、なんかしらんけどそういうことになっているという感じになりました。
初めてのエンジニア職でしたが、社内に開発をる人やマネージャー職は不在で、いわゆる開発現場での流れを学ぶことはできませんでした。少なくとも技術を知らないえらいひとが「俺がスケジュールを立てたからこれに沿ってやれ」と、”開発”と”広告作成”しか書かれていない2週間の計画表をもってくるような現場はシステム開発として正しいのか、 と本能が警告を発していました。
もともと会社は製造業から始まったため、えらい人たちとの見解に齟齬があったのは体感としてあります。同じものづくりといえど設備とマンパワーと時間が線形的に結果に結びつく工場業務と異なり、システムエンジニアリングはかける時間の見積もりも容易でなく、かかった時間が必ずしも結果に結びつかないものである、と言う事実は受け入れられ難く、知識ドメインやマインドセットが異なれば説明も困難です。しかしながらえらいひとは一様に「経営者視点を」の号令で、経営誌を配り、その感想文の提出を義務付けるなど、現場視点を欠いた行動で現場(というか私)を疲弊してました。気づいたらSEO対策や別部署のMTGのためのプロジェクター設定、全PCのwindows updateに伴うドライバの更新の役も同一の職掌として役付けられそうになっていたり(一部は実際に情シスの人がやってた)、It’s not my workなシーンがみられるようになっていました。
そして、よくあることですが、理念と実態が乖離していたことです。世界をよりよくと言いつつ、目先の掛け算を考えてばかりのように思えました。グロースする中で発生しそうなあれこれをすっ飛ばし利益だけを皮算用するのはいいとして、データ量やトラフィックを指摘すると「そこは現場努力でしょう」となるので、世界を良くする前に精神を悪くしてしまい人生で初めて心療内科にいったりもしました。一応グローバル展開を目指しているとしながらサーバからMailerDaemonが飛んできたら「ギャっ英語っ!」と言って読まず捨ててたり、急にサービスが止まった時には激怒して責任の所在の追求を求められたため、草創期にえらい人の個人アドレスで取得してほったらかしにしていたドメインが失効したことが原因と伝えたら「あれはもう読んでいないアドレスだし仕方ない。こういうピンチのときこそチャンスにしようぜ」という謎理論を出されたこともありました。
違和感が確かなものになったのは、外部に提出する資料で社内の数字が異なっているとを指摘すると「こういうのは見栄が大事なんだ」と暗に公文書偽造をほのめかされたことですが、これ以上は闇っぽいので書きません(たぶんどこもやってて罷り通ってる範囲だと思うけど)
総じて、心理的安全性の低さ、そこからくる身動きのとれなさ、ロールモデルの不在、前時代的な風潮、社内文化へのミスマッチと不理解、成長の実感が沸かない不安と不満、それらに伴う摂取アルコール量の異常な増大と過食、といった要因の積み重ねが、ネガティヴな形での退職へと駆り立てることになったのだと思います。まあ、よく知らんうちにリファラルしてるところからして「採用・教育コストを考えてないのでは?」の念はあったのですが。中身がまったく不透明の状態で飛び込んだらそうなるよなぁ、の好例かもしれません。誘われた時はわりと藁にも縋る思いだったのでしかたないね。
現在はスキー場で住み込みバイトしてます。無考えに退職すると年を越せないことに気づきました。
可処分所得・可処分時間いずれも今の方が上なのはちょっとウケます。賃金はふつうに生きていければいいので前職程度でも気にしなかった程度なんですが。いまは映画をみたり積ん読を消費したり、在職時は深いところまで触れなかったPHPをいじったり、生PHPしかやってないことに気づいたのでcakeやったり、あとはweb周辺も久しぶりにキャッチアップしたりしてます。nodeネイティブおじさんなのでFWはangularしか知らないんですよね。vue/nestが面白そうな感じです。あと寮のwifiが談話室限定で窒息しそうだったので、持ち込んでいたラズパイをルータにして部屋まで飛ばしたら隣室の同僚から感謝されたりと活動は多岐に渡ります。
先のことはなにも決まってませんが、ちゃんとエンジニアリングしている組織で開発してみたいなという気持ちがあります。レビューやスクラム、アジャイルなんてのはひとりだと不可能ですし。ですが、やはりそういった会社は日本では都市部にばかり集中しているのでしょう。自分は空気の悪いところには住めないし、案外また辺鄙なところでtechとは無関係のことをしているのかもしれません。ワーホリでも使って海外で大麻栽培でも始めようかなぁ。
巷説に流布する「未経験からエンジニアへ」の言説のたぐいは、どちらかというと技術力よりもコミュ力が偏って高いタイプが生存しがちな雰囲気を感じます。たまにTLに流れてきたのを見かけますが、ああいった立ち回りは自分にはできないしやりたくないなぁと思ってきました。社会の要請ならばそれまでですが。
自分は体系的な情報教育を受けていないどこにでもいる地方高卒で、下手の横好きで趣味プログラムを書いてきたし、続けてるってことはそれなりに好きなんだと思います。得意じゃないけど。んで、こんなのがITエンジニアをしたサンプルというのは見かけないかもなぁと思って投稿しました。光あるところに闇あり。
といいつつ、やっぱり好きなことの結果がおかねになるのはいいよなぁと思った次第です。プログラムを書くのは楽しいけどエンジニアリングは超絶むずい、が雑な総括ですが、今回のことを顛末次第にはする気はないので、どこかに拾ってもらえるよう精進するきもちになりました。
さっきまでの一挙放送を見て、ちょっと色々思い出してきちゃったので少し書きます。
私はSideMモバゲー版が実装されて鯖落ちする直前に滑り込んだPでした。
本当に直前だったので、翼と営業に回る前?に確かメンテにいきなり入ったような覚えがあります。
もう何年も前の話なのでもしかしたら違うかもしれませんが。
そしてメンテが明けた7月にもう一度翼を選んでプレイを始めました。
始めたのは良いですが、私アイマスのソシャゲにちゃんと触れたのはSideMが初めてで、ゲーム進行の勝手がこれっぽっちもわからず、そもそもソシャゲ自体に慣れてなくて攻略ややり方をネットで調べるという考えにも至らなくてすぐ詰まってしまいました。
すぐ個性豊かなキャラクターに魅了されて友達にも布教しましたがそこまで反応は良くなく、ポチゲーだし声もついていないということでPの友達もいませんでした。
当時からツイッタラーだったので同じPの方を探してフォローすればよかったのですが、やっぱり当時そういう考えを持ってなくて……
それに加え、1ヶ月ちょっとした時に日本少しだけ離れる用事があってゲームに触れなくなってしまったので、そこから暫くゲームからは離れていました。
私がゲームを始めて好きになったのはCaféParadeというユニットのアスラン=BBII世、元シェフのアイドルです。
少し個性的な見た目と喋り方ですが、アイドル衣装を纏った姿と、外面に反して内面は優しく繊細なギャップにとても惹かれました。
ただ、40人(旗レジェ前だったので)という人数がいて、その中でもアスランやカフェパレは正統派なアイドル像ではなく、「SideMに声がつきはじめた」という話を聞いてもどうせアスランやカフェパレにはつかないだろうという半ば諦めがありました。
というか、SideM自体全然オタクの友達の間で見向きもされてなくて、だからこそ諦めの気持ちが強かったのもあります。
アイドル戦国時代に、声もなくて曲もなくて、立ち絵とセリフだけでは全然見てもらえなかったし、私もそれ以上布教する力はありませんでした。
私が今匿名で日記を書くのは、このことを少し吐き出したかったということが一番にあります。
当時、布教しても振り向いてくれなかった友達は、今SideMのPになってくれたり、ライブに来て楽しかったと言ってくれます。そのことがとてもとても嬉しいし、だからこそ私のこの半ば過去の愚痴のようなことで気分を害してほしくはないです。
発展途上だっただけでコンテンツが悪いわけでも、見てくれなかった友達が悪いわけでもない。ただ私がそういう過去の上に、また後述するアスランとの話があるというだけです。まあ多少なり寂しかったのは事実ですが。
というわけで、ドラスタを始め徐々に声がついていっても、私はSideMを振り返ることは当時あまりありませんでした。
もちろんアスランは好きでしたが、その時は最早思い出に変わろうとしていて、ファーストライブの話も聞きましたが、忙しかったのもあってLVにも行きませんでしたし円盤も買いませんでした。
アスランはそこにはいないから、ってずっと思ってました。色々通り越して悲しさとかもなく、ただただ他人事で。
でも、そんなある日、カフェパレに声がついたという話を聞きました。
まさかそんな、と思って調べたら本当で、しかも偶然にも私が知っている声優さんで。すごく驚きました。
それから数ヶ月して、曲の試聴がきて、恐る恐る試聴動画を開いて聴いて、パソコンの前で大泣きしました。
アスランが歌ってる、アスランがこんなにも楽しそうに歌ってる。
歌うなんて想像もしてなかったけれど、それでも想像の遥か上をいく伸び伸びとした歌声と楽しそうに歌う様子に、もう涙が止まりませんでした。
私は過去に、誰に布教するでもなくアスランの良いところを書き出したことがあるのですが、そこに「Vo特化型」と書いたことを今でも覚えてます。Vocal特化と言っても、ステータスの話だけだと思ってました。それが今、その歌声が耳に届いてるのが夢のようで、もう情緒ははちゃめちゃにもほどがある感じになってました。
またそれから一年近く後、布教した友達がハマってくれて、しかもチケットを当ててくれてセカンドライブの2日目に私は行くことができました。
歌パレを歌う姿ももちろんですが、ワンコーラスだけのソロコーナーでアスランのソロを聴いた時のことは忘れません。
咲ちゃんと東雲の可愛い曲の雰囲気から一転、不穏な音、でもそれで察したPたちの悲鳴、マントを羽織って颯爽と出て来た姿を見て私は泣き崩れました。
アイドルになる更に前、カフェパレに来る前、あんなにも個性を認めてもらえなかった彼がそれを武器にして、きっと彼の大好きな雰囲気・演出のステージで。そんな彼の個性が溢れるステージに沸く観客席を3階スタンド席から見て込み上げて来るものが止まりませんでした。正直、全然ペンラも振れなかったし、同行のPの肩に泣き崩れて迷惑かけまくったし、Pとして応援は全然できなかったのでその辺の後悔はあるのですが……
もしかしたらそれまでの私はPのようでPじゃなかったのかなとも思います。何言ってんだって思うし、私は担当したい!Pになりたい!って思ったらその瞬間からPでその子は担当アイドルだ!!という考えの持ち主でもあるんですが、ただ本当になんとなく、セカンドのアスランのソロステージを境に何かが変わったような気がするのです。
今、私はSideMを自分のできる限りで応援して、担当アイドルもアスラン以外に増えて、なんならシンデレラやミリオンもちょっと素敵な子を見つけたりして、本当に楽しくプロデューサーとして活動しています。友達でハマってくれた子も増えました。
アイドルとしてのアスランは出なかったけど、アニメも毎週本当に楽しく見ました。二期を願いつつ、10月からのワケみにアニメもとっても楽しみです。ソシャゲの方も、ブランクの後再開して、今楽しくチムイベ走ってます。
それでも、ちょっとした折に思い出しては未だ泣きそうになるこのアスランとの思い出を、書き出して感情を整理したくなったので書きました。なので文章はめちゃくちゃだと思います。
匿名ダイアリーがあってくれてよかった。これでこの先また思い出すことがあっても、すぐに泣きそうにはならないと良いなと思っています。
もしここまで読んでくださった方がいたなら、お付き合い頂き本当にありがとうございました。