はてなキーワード: 筋違いとは
http://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2018/04/13/202154
>差別を取り巻く問題で、多くの人が思い違いをしていることが差別される側に、「差別について抗議する時は、差別する側を追い詰めて刺激しないような、優しい言葉遣いで、わかりやすく話せ」と求めてしまうことだ。「でないと、話を聞いてもらえないよ」などと言って。しかし、被害者は本来、加害者に怒って当然なのだ。怒って当然なのに、怒ることを抑圧されてきたのが、差別される側である。周囲が被害者の怒りを抑圧するのは、二次加害になる。
思い違いも甚だしい。
誰も差別された人が怒ることについて抑圧はある。
非差別者に対する特別な抑圧があると主張するのならばそれを説明するのは宇野ゆうかの責任だ。
ひとつ。そういう態度の人が話を聞いてもらえないのは別に差別と関係ないこと。
ひとつ。怒る権利があるのは差別された人だけで宇野ゆうかにはその権利はないということ。
当たり前。
それがありなら、怒る権利がある人が怒って喚き散らすのはすべて認められなければならない。
他の件はしらないが、この件に関して宇野ゆうかが指弾するような抑圧などどこにもない。
差別されてる人であろうがなかろうが
ただ怒って何言ってんのかわからん状態の人の話は聞かない。話ができる状態になったら聞く。
それとも宇野ゆうかはそういう人の話を日々丁寧に聞いているのだろうか。いないはずだ。
その話者がどういう属性やどういう事情を持っているかは、自分の安全が確保されてから考える。
そういう態度の人の話は聞いてもらえないのは別に差別と関係ない。
その状態だったら聞かないってのを勝手に抑圧って読み替えてるのは宇野ゆうかの側。
差別されている人たちが、自分たちだけは怒ってる状態でも話を聞いてもらうべきと主張するのでああればなにか理由があるはずだ。
差別されてないから「怒って当然」ではない宇野ゆうかたちは、怒らずに冷静に説明しなさい。
立証責任は主張している宇野ゆうか側にある。 それをさぼってる。
それどころか、現実的には怒ってる人に耳を傾ける人は結構多い。
そのことをこそありがたいと思うべき。
それを当たり前と勘違いし、そうしない人間を加害者と呼び、当事者を差し置いて暴れまわる。
当事者でも宇野ゆうかのふるまいに迷惑をしている人がいるのではないか。
こんな簡単な理屈が分からないのは、自分たちは差別された人間の代弁をしてる特権階級だという勘違いがあるからだ。
そんなルールはない。求めることは自由だがいまのところはない。
非実在のルールを勝手に主張して、勝手に人を加害者扱いして自分は正義面。
ばかげている。
それを支持するのは、特権階級を気取りたい理屈度外視した人間だけ。
>マジョリティは「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かない
これも嘘。 嘘じゃないなら過激派の定義が自分に都合の良い恣意的なもの。
夫婦別姓問題について議論提起しているサイボウズの人を見習え。
もっといえば、過激派がそうやって喚いた結果良くなった事例をあげろ。
自分の思い通りにならないのはどう考えてもお前らが悪いってわめきちらすような状態から卒業しろ。
差別被害者を特別視しすぎるから、当たり前のことが見えないんだ。
>周りの人もしていたからと、特に考えなくいじめに参加していた子供に対して、頭ごなしに責めずに話を聞いてやり「それはダメなんだよ」と教えてあげるのは、周囲の大人の役目であって、その子にいじめられていた子供にそれをやれと言うのは、筋違いなのだ。
そりゃそうだ。しかし「頭ごなしに責めずに話を聞いてやり」を実際に要求してるやつをつれてこい。その人が何と言ってるか出してみろ。
まず間違いなく宇野ゆうかがさんざん歪曲してる。
そうじゃないというなら実物を持ってこい。あくしろよ。
よくぞ聞いてくれたありがとう。
そして家系ファンも、今から紹介する食べ方を知らない人は多いようで私は大変ガッカリしています。反論も筋違いだらけ。
この食べ方は渋谷などにある家系「侍」で張り紙でもオススメされてるオフィシャルな食べ方です。
キューちゃんの酸味と歯ごたえ、豆板醤の旨味と辛味としょっぱさ、
それらがスープに足りない味覚、旨さを加え、かつ、スープのしょっぱさを帳消しにして"甘み"を強調してくる。
それを海苔の旨味とまろやかさと風味が包み込む
騙されたと思って、まずは一度だけ試してくれないか
それに賛同できる人たちだけ出資するのだと個人的には捉えているのだけど
(おまけにアイディアのみの勝負ゆえ、少人数のチームであたることもあり、
クラウドファンディングが露出するようになり出資する層が広がった影響で、
高品質に慣れた客層も参加するようになり、
上記のことが飲み込めていないであろうコメントが散見されます。
(もっとも、これらのようなコメントは、海外クラウドファンディングでも一定の割合である印象。定量的に計測していないけど……)
キビシい、キビシすぎるよ!
クラウドファンディングでは高品質を求められないんだって!
高品質の製品を製造出来るのは、既にラインが成熟して大量生産から検品までの体制がしっかり組めている場合なんだって
(超少量生産、職人らによる全家内制手工業で高品質担保とかもあるけど)。
アイデア勝負のものに品質(Q)を求めたら、それこそ出荷が遅れたり(D)、出資額が膨大になっちゃう(C)。
QCDの何を重要視するプロジェクトなのかのお話(大概の事例に則り、全部を満たすのは無理という前提で)。
もちろん、出資金を受け取ったにも関わらず、プロジェクト実行者がドロンできてしまい、
出資者が泣き寝入りするしかないようなファンディングのインフラ提供者が未だにある
(トラブル時の問題解決を当事者に丸投げするような規約を書いているところが、概ね該当)ため、
出資者が監視がてら建設的なコメントを出し、一定のプレッシャーを与えるのは良いと思うのです。
ただ、筋違いのプレッシャーはプロジェクト実行者にもどうしようもない部分があるため、
それなりに汲んであげても良いのでは?
と最近思うのでした。
>多分なくならないとかどうでもいいんです。参加する人が一人もいなくても即売会は成立するのがあなたの言い分なので、そうなんですね?と聞いてるんです。まあ、そうなんですね。
「買いたがる人の中から作る人が出てくる」と言っている。参加する人が一人もいなくても即売会は成立する、とは言っていない。よく読んで。
売る人がいなくなれば買い手の中から売り手が出てくるって意味だ。
作りたくて作ってるのが同人誌。手間暇かけるのも作り手の自由。なのに作り手が偉いって言う理屈がわからない。
やりたくてやってるなら、気の済むまでどうぞとしか。
>ただ見してるうえに人の作品も買わず公式にも貢がないのになぜオフで出してる人や遠征してる人、公式に貢いでる人と同等だと言う態度を取っているのか、ということです。
ジャンル以外の、例えばその人の人間性とかで気があってやりとりしてる絵描きとか、いると思うよ。
本人でもない人がやいのやいのいうのが筋違い。
なんだろう、すごいモヤモヤ……。
とある同人サークルが、あるイベントに少し懐かしいジャンルで申し込んだってツイートを見かけたんだ。
私もそのジャンル好きで、いま現在も活動しているんだけど、お仲間いて嬉しいなーなんて思ってたのね。
で、ちょっと前に作品の○周年で、ファンの間で「おめでとう」ツイートですんごい盛り上がったの。
で、例の同人サークルさんも何か呟いてるかなーって期待してツイッター見に行ったら、
ものの見事に別のジャンルのことばかり呟いてて、お祝いの一言すらなくて……。
その後も別ジャンルのことばかり。
そりゃま、こっちが勝手に期待しただけだし、文句言うのも筋違いなのはわかってるから
ブラウザそっと閉じたんだけど。
「政策が何のために、どのような理念でなされようとしているか」という観点が完全に抜け落ちていますね
今現在議論されている高等教育の無償化は子供のための政策であり、出生率向上のためのものではありません
出生率向上のためのものであれば、住民税非課税世帯に限るという条件はあまりに限定的すぎます
なんか皆、保険付きで応援するのが美しいと考えてる風潮がある気がする
~に参加できるだけですごい!
戦力的に今年はこんなもんでしょとか
メダルがとれないだけで叩くマスコミはひどすぎるとかも言うけど
とかもあるけど
結局、悔しがらないで済む言い訳を探しているだけ
又は悔しがる機会ができないように応援する振りしてるだけ
自分の事ではないし、そもそも関係ないといえるかもしれない事に
心の底からのめり込めるからこそ応援しようではなく応援する以外ない状態になる
だから勝ったら嬉し涙だし、負けたら悔し涙が出るくらいなもんになるのに
嬉し涙だけ共有しようと足掻いているのが昨今のスマートな応援な気がする
これは事実に基づく、とある二人の少年の冒険と、死を描いた物語だ。
少年の一人は貧困街の出で、出世を夢見つつ小間使いに明け暮れ……
叔母さんの話に飽きていた俺は、食い気味にツッコんで話を中断させた。
「まだ序盤だよ。どこにツッコミどころが……」
「登場人物が二人とも死んじゃってたら、誰がその話を知っているんだよ。少なくとも物語と大した接点がない叔母さんが、詳細に知っているのは明らかにおかしい」
「そもそも『事実に基づく』って言い回しが既にダメなんだよ。基づいていても脚色しちゃったら、それは事実から遠のいたものだろ」
叔母さんは溜め息を吐くと、俺たちに諭すように答えた。
「じゃあ何か? 実際にあった不幸話をそのまま切り取ればいいと?」
「そうだよ」
「私の話したことは脚色まみれで、言ってることのほとんどは嘘だらけかもしれない。けど、それなりには面白かっただろ。少なくとも事実をそのまま切り取るよりは」
「面白いとか、そういう話じゃないだろ」
「いや、そんなもんなんだよ。『事実は小説より奇なり』なんていうが、大抵は事実のほうが退屈で陰鬱だし、小説のほうが面白いんだ」
叔母さんは頑なだった。
そこまでムキにならなくてもと思ったが、俺たちは叔母さんの感情に押される。
俺たちは納得する素振りを見せざるを得なかった。
「陳腐ながらに学べるところもあっただろう?」
「……まあ」
「弟のほうは、私の話を聞くまでモチーフすら知らなかっただろ?」
「うん……」
「ほら、私の脚色まみれの話で、モチーフに関心を持つ“きっかけ”にもなったじゃない」
正直、叔母さんの主張は詭弁でしかなかったが、主張そのものは分からなくもなかった。
「私の話は伝えることには成功しただろ。事実どおりだとか、史実どおりだとか、原作どおりであってほしいなら、それこそ参考資料や原作を読めばいい」
たぶん、叔母さんからすれば、俺たちに興味を持たせようとしたかっただけなのだろう。
そして事実も、その脚色も、あらゆるものを、ただそれだけの具と割り切ったのだ。
「人を楽しませるために作られたものは、いつだってどこかは過剰で、どこかは足りないものなんだよ。フィクションってのは人を騙すものだ。ならば積極的に、騙されることを楽しもうじゃないか」
まあ、叔母さんの言うことも一理はあるのだろう。
だが、俺たちが聞かされていたのは叔母さんによる“本当にあった話”だ。
それが欺瞞や自慢にまみれていたことを攻めているのに、作り話としての意義を語って正当化するのは筋違いだ。
そもそも俺たちは叔母さんの話を渋々聞いていただけだから、こんな強弁をとられたら呆れるしかない。
その後も俺たちは、叔母さんの虚実入り混じる話を数え切れないほど聞かされた。
『私がゲームをクリアできるまで話を続ける』とは言っていたが、本当にクリアできるまで話を続けるとは思わなかった。
「はあ~、やっとクリアだ」
それはこっちのセリフだ、と俺たちは思った。
話を聞いていただけだったが、俺たちの徒労感は叔母さんよりも遥かに酷い。
「これ、裏エンディングとかないよね?」
「いや、仮にあったとしても、自分で買って、自分の家でやってください……」
俺たちは叔母さんをゲームから引き剥がすと、部屋から追い出した。
「この部屋に鍵を取り付けることを考えたほうがいいかもな……」
俺たちは次回に向けての叔母対策を考えながら、大晦日を過ごすのであった。