はてなキーワード: トーン貼りとは
長いし、読む価値は無いので、読んでからガッカリしたとしても自己責任でお願いします。
子供の頃からなんとなく漠然と、自分の人生は二十歳で終わると思っていた。
高校受験、学校見学で魅力的な学校を見つけ、どうしても入りたくて、頑張った。
憧れた高校に入学して、そのあと何をしたらいいのか分からなくなった。
高校生活は何をすればいいのかわからなくて、とりあえず「それっぽい」ことをして終わった。
憧れた高校生活は、ほとんど何もせず、ただ好きな制服を着て、かっこいい校舎を彷徨くだけだった。
それで満足していたし、それ以上はなかった。
大学は行きたくなかった。
やりたい事はほぼなくて、勉強もできないし、将来の目標も無いから、行く意味が分からなかった。
小学生の頃の昼休み、友達に「絵が上手いから漫画家になればいいじゃん」と言われた。
その時からなんとなく漠然と、自分は漫画家になるんだ、と思っていたし、漫画家になるなら専門学校の方がいいと思っていた。
あとは、当時見た3D映画がかっこよくて、そういうのを作る人になりたいと漠然と思って、そういう専門学校も考えていた。
結局、絶対大学じゃなきゃダメだという両親に説得され、漫画も3Dも学べる大学に入った。
新設の学部だったし、入試説明会や案内には、漫画やアニメ…それこそ専門学校のようなラインナップが書かれていて、親が許さず専門学校ではなくこちらにきた、という人が私以外にも大勢いた。8割はそうだったと思う。
実際、入学前に散々確認した3Dのモデリングに関する知識のある講師は、入学後には存在しなかった。
かろうじて漫画の講義はあったが、ただのオタクおじさんが自分のロリ趣味を語って聞かせるだけで、そこに学べるもの(例えば、そのロリの魅力、なぜいいのか、どういうところがファンの心を掴むポイントなのか、などを話されればまだしも、ただ「かわいい」としか話されなかった)は無かった。
これは、このままここにいても意味がない。このままじゃ無駄な時間を過ごしすぎる。
二十歳まで残り2年、アルバイトを頑張って、大学在学中に夜間の漫画専門学校に通った。
それでも学校に行ったのは、私自身がそうしないと一作も描けない人間だったからだ。
つまり、この時点で気づくべきだった。
私に漫画は向いてない。
授業は週一、1年間。必死で稼いだバイト代のほとんどを注ぎ込んだ。最大限に有効活用して作品作りに役立てようと息巻いていた。
入学特典として、時間外でも個別相談で作品を見てもらえたので、入学2ヶ月後、早速初めてのネームを見てもらった。
ストーリーも何もかもボロボロで、とても酷いネームだったと思う。
それでも、丁寧に指導してもらえて、学ぶことがたくさんあって嬉しかった。
教えてもらった事を活かすために、早速新しいものを描いて、2週間後にまた持っていった。
「あなたのネームは長いし、見るのに時間がかかるからなぁ。僕、家が郊外で遠いし、嫁が家で待ってるから」
それ以来、週一の授業も休みがちになり、半年をこえた頃には専門学校は行かなくなった。
自分でなんとかしなきゃ。
とにかく、まずは一作。
そうして、専門学校卒業前に1人で作品を完成させ、初めての持ち込みに行った。
せっかく描いたし、なるべくたくさんの意見を聞いて次に活かしたい。
5個の編集部に持ち込みに行った。
うち2箇所で、二度と漫画を描くなと言われた。
そんなバカな、誇張が過ぎると思うでしょ?一箇所はあくまでやんわり、自分の担当作家と私との違いを長々と話した上で、向いてないと思うと言われた。
もう一箇所は誇張無しでハッキリと、「二度と描くな」だった。
でも、2度目を描くことも許されないとは思わなかった。
帰り道の足取りは重かった。
初めての単身上京、知らない街。
足を止めたら消えてなくなる気がしたから。
うち一つは、みんなの憧れで厳しいと言われる場所で、なんならそここそ絶対無理だと思っていた場所だ。持ち込み予約の電話時点で扱いが悪かったし、当日も約束の時間に行って、30分待たされて、待ってる間他の人が酷評されているのが聞こえて、怖くて途中で帰ろうかと思っていた。
でも、そこの編集者が1番優しくて、また見せてほしいと言われた。
でも結局、編集部の名前が凄すぎて恐れ多いし、なにより田舎者の自分はそう簡単に持ち込みに行けないので、もう1箇所の名刺をくれた人にネームを送るようになった。
結果から話すと、うまく行かなかった。
その頃には大学も卒業の年になり、最後の思い出のつもりで卒業制作を別の編集部に投稿した。
持ち込みの時にも行った編集部だが、持ち込みの反応はかなり悪かったし、きっと今回もダメだと思っていたが、卒業旅行中の魚市場で受賞の連絡を貰った。
漠然と、自分は漫画家になる、と思っていたから、就活はしていなかった。
元々していたアルバイトをフルタイムにして、漫画を描いていた。
しかしバイトがハードすぎて漫画を描く時間はなかった。休憩時間に事務所でトーン貼りしたりしてた。
鬱になった。
正確には鬱になったのは卒業制作中、同じゼミの子と比べられるプレッシャー、作品ができない焦り、バイトの繁忙期が重なってパンクした。
ある日突然、プツンと何かが切れるような感覚があって、それ以降、目の前で話しかけられても、音声として認識できても言葉として理解できなかった。
話を聞いているのに、聞き取れない。理解できない。
当時の店長に相談して、接客から裏方作業に切り替えてなんとか過ごしていたが、色々あって結局辞めた。
元々2年で辞めるつもりだったし、漫画もバイトもうまく行かなくて、就活を考えた。2年以内ならまだ第二新卒枠がある。
それでも雇ってくれるという会社があった。絵を描ける技術を買ってくれて、新しく雇用形態も増やして、漫画の夢を追いながらうちで働けるようにサポートしてくれる、と。
すごく嬉しかったが、断った。
雇ってくれるという会社は、夜の街に近かったし、それに隣接するお店も取引先になっていた。
両親はそれが心配だったらしい。
「周りの人に、そんなとこで働いてるって言えるの?」
私は働いた事がないから分からないけど、親が言うならそうなのかも、と思ってしまって、断った。
今思えば、あの時あの会社で働いていたのが、1番幸せな分岐だったのかもしれない。
面接をしては落ち、を繰り返している間にふと、どうせ働くなら漫画に近い場所の方がいいのでは?と、アシスタント先を探すことにした。
当時はまだアナログが主流で、どこも都内で通いの募集ばかり。田舎者の自分には不可能だった。
家から自転車で行ける場所、未経験者可、自分にとっては最高の条件。
早速応募して、面接。
そこで初めて、現役の漫画家さんと話した。
作家さんの仕事場はフルデジで、ワンルームに作家さんと私用のPCと液タブが、それぞれ壁を向いて設置されていた。他は何も無い。
お互いにコミュ障で、会話はあまり弾まなかった。それでも、ネームを見てもらったり、トーンの貼り方をなんとなく教わったりした(基本的には「いい感じにして」の指示だったので、ほとんどは独学だった)。
その作家さんは漫画業界の闇に触れすぎて疲れていたので、ほとんど話し相手の役割だったが(そもそも週刊と月刊の2本連載をほぼ1人で描く狂人だった)、私にとっては貴重な話がたくさん聞けた。
あと、その話を聞いてて、「漫画家なんてなるもんじゃないのかもしれないな」、とも思った。(作家さんが毎日のように辞めたいと言っていたから。そもそも異常な執筆量を1人でこなしてたし、そりゃ辞めたくもなるわな、と今は思う。)
そこで1年半すごし、作家さんの連載の終了と共に辞めた。
その頃は、何度か原稿を送って、1番小さい賞を何度か取っていた。しかし担当さんとはうまくいかないし、原稿送っても「悪くは無いけどよくもない」しか言われず、何をどうしていいか分からない状態だった。
そしてふと、自分は今まで一度も漫画を楽しく描いた事がないことに気づいた。
展開が、目線誘導が、読者の盛り上がりが…
初めて描いた時から、そんな事を気にしてばかりで、自分自身が楽しく漫画を描いたことがなかった。
アシスタントも無くなり、名実ともに無職になり、再度就活を始めた。
相変わらず履歴書を笑われて、嘘つきな採用担当に意味不明な事を言われながら、最後に自分の好きなものを描いてみようと思った。
何を描いても、誰にも何も言われない。
好きなように、楽しく。
結果的にやっぱり「読者の目が〜」とか「起承転結が〜」とかを気にしてしまい、完全には楽しくなかったけど、それでも、今までで1番気楽に描けた。
せっかく描いたし、SNSにあげてみた。
今まで私の漫画は学校の先生と、編集部の人くらいしか見たことがないし、反応をもらえた事はない。
いいねが1万件ついた。
びっくりした。
たった一晩で想像もしない人数が見てくれた。感想のコメントもいっぱいついた。
嬉しかった。
それから、就職が決まるまでの間…と、少しずつ好きな作品を描いた。
これで漫画は最後にしようと思っていたのに、やっぱり描きたくなった。
ほとんど返事はなかったが、1箇所だけ返ってきた。
そしてそこで、いきなり連載になった。
今までもらった事ない反応が続いて、ある種のハイ状態だった事もあり、その連載もうまくやれる気がしていた。
そして実際単行本も出した。
これだけ聞くと、SNSで人気出て連載、書籍化、すごく順調っぽい。
当時の自分もそう思っていた。
でも実際は違う。
話数が増えて、人気もちょっとずつ出て、物語にちょっと複雑な内容を追加した。
とはいえ、ただエロシーンが続くだけでは読者も飽きるし面白くない。何より話が続けられない。
そして元々少年漫画が描きたかった私は、エロだけを描くのは本意では無い。
今までは「いつか人気が出れば複雑な話も描けるから」と言われて頑張っていたが、その「いつか」が来ない。
担当にはっきりと、「絵がそこそこ描ければ話なんてどうでもいいから」と言われ、自分から打ち切りを申し出た。
今でも配信サイトのコメント欄には続きを望む声が書かれていて、非常に申し訳ない。
描けなかった。
今度こそ、きちんと、話で勝負できるように。
連載の経験もあるし、単行本も出てる。今までとは違う。採用にならなくても、作品を良くする話をしてもらえるはず。
「よくこれで本が出ましたね」
持っていったネームも単行本も、今までのどの持ち込みよりも酷い評価だった。
曲がりなりにも約2年、頑張って描いていたのはなんどったのか。
当たり前といえばそうかもしれない。
過去に2社で連載をしたが、その二つ共が作品の打ち合わせはほぼ無かった。
一社に関しては一応ネームチェックがあり、エロの量だけ指示された。
もう一社に関しては、企画段階で一度だけ電話があり、メールの内容の復唱だけして終わった。以降は何を送っても「いいですね!」何も良くない。こっちが頑張って、相談しても特に取りあわれず、返事は全て「いいですね!」
一応お金をもらっていたけど、やってる事はSNSの投稿漫画と同じ。
商業作品の魅せ方のノウハウはもちろん無く、作品作りの才能がない自分には、自分だけの力で読者を惹きつける漫画を描くことはできなかった。
3度目の、「もう漫画やめよう」が来た。
悔しいけど、やっぱり自分には描けない。
その漫画は、内容にアラは感じていたが、今までで1番楽しく描けた。
その作品を持って出張編集部に行って、そこでも2社声がかかった。
描けなかった。
私の中でイメージするキャラは持ち込みの時から変わっていない。けれど、いくらネームを描き直しても、担当さんからはキャラブレ、別人になってるという指摘をされた。
だんだん自分でもそのキャラがどんな子なのかわからなくなった。
しばらく練り直して、やはり変わらなくて。
諦めて別の話を描くことにした。
そこからは真っ暗闇だった。
どんな話を描いても、中身が全部同じと言われる。
下手に考えるより、自分の好きなものを好きなように描いて、それを膨らませる。
そう言う方法で描いた方がうまくいくタイプなのは自覚していたから、そのように描いていたつもりだ。
結局実力も追いついていなかったし、描きたいものも分からなくなってダメだった。
そんな事が2年近く続いた。
別の編集部の人に、考えている途中のネームを見せたこともある。
足りないのは実力じゃなくて話の一番の見せ所だ。あとちょっとでうまくいきそうだし是非頑張って。
それは、私が初めての持ち込みの時からずっと言われている事だった。
そろそろ30になる。
二十歳で死ぬと思っていたのに、10年もロスタイムを生きてしまった。
一番仲がいいと自分では思ってたし、昨日まで仲良く遊んでたのに。
突然クラスの男子からいじめに遭い、それを一番仲が良い友達に相談していた。
男子を使ったいじめの首謀者がその子だと気づいた時は目の前が真っ白になった。
はっきりと意思表示をした。思い直してくれることに期待した。
「別にいいし」
友達を作るのが怖くなった。
どんなに仲良くなっても、弱みを握られるだけだ。
ある程度損得が考えられる生徒が多かったから、いじめにはならなかった。
3年でようやくできた友達は、卒業と同時に「私たち高校の間だけの友達じゃん」と言われた。
友達って難しいな。
親には言えなかった。
友達に言うとまたいじめられるかもしれない。親なら相談に乗ってもらえるだろう。
そのまま卒業した。
そう言われ続けて卒業した。
何人か連絡先を交換して話したりした。
仲良くなった人もいる。
ちょうどアシスタントを始めた頃で、それまでバイトの都合で服装に制限があったし、オシャレはほぼした事がなかった。
ネイルと言うにはお粗末だが、100均の安いマニキュアを買ってなんとなく色をつけて喜んでいた。
100均のマニキュアを使った事がある人なら分かると思うが、乾くのが早い代わりに、木工用ボンドみたいにペロッと剥がす事ができたりする。
オシャレに無頓着な私はそれが何となく楽しくて、塗った後しばらくたって剥がれたマニキュアをめくったりもしていた。
ある日、LINEのやりとりで仲良くなった1人に食事に誘われた。
趣味の話とかゲームとか、そう言う楽しい話をしていた、異性で初めてできた友達の感覚だった。
自分の指先が、剥がし掛けのマニキュアでボロボロなのを完全に忘れて食事に行った。
向かい合った個室のテーブルで、その爪に気づいたその人に、「ネイルやってるの?見せて」と手を握られた。
そして、ボロボロの爪を見られた。
「オシャレだね」
怖くなった。
ボロボロにハゲた公園の遊具のペンキみたいな指先を綺麗と言ったのだ。
しかも、気持ち悪い笑顔を貼り付けて、視線は全く手を見ていなかった。
男女でただの友達になれるのは大学まで、そのあと仲良くなれるのは下心のある人だけらしい。
それがたまらなく怖かった。
その後も何度か友達までの付き合いの人はいたが、例えばふとした瞬間肩を触られたり、手を握られたり。
そう言うのが怖くて続かなかった。
そのままもうすぐ30だ。
家を出る能力がないので実家暮らし、毎日両親…特に母に怯えて生きている。
「家にいるんだから家事しなさい」「他の人は外に働きに出てるんだから」
少ないながらに在宅でアシスタントはしている。
両親の中で、外に通勤していない、在宅労働は「仕事」ではないらしい。
本当は拘束時間が長い職場だが、家事があるため作家さんに頼んで短くしてもらっている。
当然、その分給料は減る。
給料が少ないから、その分早く自分の原稿で稼げるために作品作りに励む。焦る。
それでもようやく希望が見えてきて、前向きに色々挑戦できそうになってきた。
真夜中に叩き起こされ、いつ結婚するのかと叱責された。
完全に寝ていたので、はじめ何を言われているのか分からなかった。
少し愚痴を言わせてくれ。
特定は怖いので、時期とか数字とかにフェイクを入れて話していく。
2年前の冬。私の所属する漫研で部誌を出すことになった。部員が2~3人ずつのグループに分かれて作る、グループごとに何を描いても自由な合同誌だ。
私はそのグループ分けの日は病院に行く用事があったため、要望だけ伝えて欠席した。
グループ分けにおいて、部員それぞれが己のスペックや希望を伝えて話し合ったらしい。「背景苦手」とか「普段は物書き」とか。私の要望は「漫画を描きたい。原作担当でも作画担当でもいい」と伝えた。
おそらくそれを加味してくれたのだと思う。結果、私はとある部員(Aとしておく)と2人組で漫画を描くことになった。Aは漫画を描いたことがなく、イラストを描くのが得意だと言った。ほぼ初対面なほどあまり話したことが無かったが、私がネーム、Aが作画というのが二つ返事で決まった。
その後、漫研の部室で、私が頭の中で練っていた大体の流れをAに説明し、Aはそれに賛同してくれた。私は自宅に帰り、ウキウキしながらネームに取り掛かった。10ページほどの短編だが、Aと相談したその日のうちにネームを完成させてLINEで送った。
Aは翌日、私のネームにOKを出してくれた。セリフの調整や服装などのやり取りも終わり、これで私の仕事は終わった………と、思っていた。
私はもっとAのことを知るべきだったのかもしれない。Aが時間にルーズなことを全然知らなかったのだ。
Aも私もあまり漫研の部室に顔を出すタイプではなく、互いに顔を合わせることは殆どなかった。
なので、今私たちの漫画の進捗がどうなっているのか把握出来なかった。そのうえ、Aはネームを確認した日以降、LINEを全く見ない。未読無視されるのはあまりいい気分ではなかったが、そういうタイプなのだろうと思って放っておいた。ネームに書かれていること以外の質問や提案も無いし、順調に進んでいるものだと思っていた。
そんなある日、私はたまたまAのTwitterアカウントを見つけた。そこでAは毎日どころか毎時のように呟いていた。
LINEは無視でTwitterは常時運転かよ、と少しイラついたが、それよりも驚いたのはアップしているイラストだ。Aはかなり筆が早いことが分かった。ラフやアナログも多かったが、結構な頻度でオリキャラや、私の知らないゲームのキャラの絵を描いていたのだ。
そのイラストの中には、私と合同で作る漫画の一部分もあった。かなり序盤のシーンだったが、確かに作業を進めてくれているみたいだな、とこのとき私は安心していた。
だが、事件(?)が起きたのは、漫研全体で決めている部誌の提出締切日。同じ漫研で特に仲が良い私の友人(Bとしておく)から連絡が来た。
内容は、意訳すると『Aが締切に間に合わなかった』『締切は5日間延長』『○○ちゃん(=私)もAを手伝ってあげた方がいい』『漫研の部室内で○○ちゃん(=私)が嫌われかけている』といったようなことだった。
Aが締切に間に合わなかったのは衝撃的だったが、それよりも、私が漫研の部員から嫌われかけているというのに驚いた。
Bの話によると、グループ内でネーム/作画で役割分担したのは私たちだけらしく、他のグループではそれぞれが数枚ずつ作品を作って15ページ前後のものに仕上げるのだとか。
私たちの役割分担を知った漫研の部員たちが「Aの負担が多すぎる」「Aが可哀想」「Aはネーム担当(=私)に文句言うべき」などと話しているのを、Bが聞いて私に忠告してくれたということだ。
色々と信じ難いことだらけだったが、私はその日は特にやることも無かったので、急いでAにLINEで連絡した。
「Aさん、何か手伝えることある?ベタとかトーンとか、なんでもいいから言って!」と。
すると、この時ばかりはAはすぐに返信した。「部室に居るから来て欲しい」と。幸い私は学校の近くに寮を借りていたのですぐに向かうと、Aは人物の線画をようやく終えた状態だった。
Aはデジタル派で、液タブを用いてクリスタで作業をしていた。私は板タブで無料ソフトしか持っていなかったため、Aに合わせてクリスタの期間限定無料版をインストールし、原稿をairdropで受信して、セリフ打ち込みやトーン貼りを手伝った。使い慣れていないソフトに難航したが、それでも適宜使い方を調べながらなんとか作業を進めた。
Aは思ったよりも自由奔放な人間で、締切を過ぎているにも関わらず、作業中にも別のイラストを落書きしたり、Twitterを覗いたりと好きに過ごしていた。私は昔からビビりな性格で、課題や宿題は締切日よりかなり余裕を持って提出しなければ落ち着かないタイプだったので、Aの行動が理解できなかった。
Aが自虐的に「私の絵はココがダメだ……」などと言う度に、「そんなことない!私はすごくいいと思う」などと言って励ましていた。今なら言えるが、私はAの絵のタッチが嫌いだった。そのうえ、そんなやり取りがその日の作業中頻繁に行われた。八方美人とは程遠い私にとって、この日は苦痛だった。
しかし、この日の頑張りあってか、作業はかなり進んだ。セリフも入れたし、トーンもベタも大体貼った。Aも背景やらその他の線画を描き終えた。あとは私の担当した部分のレイヤーを繋げればめでたく完成──と、思われた。パソコン上でAのメールアドレスを教えて貰い、その場でデータを送信した。そしてAと別れた。
その日の夜も私は家で残りの作業をし、終えた分をまたメールで送信した。延長した締切日のうち、私はこの日以外はバイト漬けでAの作業に付き合えない。私が手伝える部分は今日中に終わらせたかった。
表紙にペンネームを入れないといけないので、「私のペンネームは□□でお願いね」ともLINEで伝えておいたが、返信無し。
次の日にAのTwitterを覗くと、Aは友人と遊びに出かけていたらしい。その次の日は、また別のところに遊びに行っていたのだとか。
私は本当にAの行動が理解出来なかった。部員みんなで作る部誌の締切に遅れ、部長に締切を延長してもらったうえで、まだ完成していない作品を残してよくそんな所にいけるものだなと。
断っておくが、私は最初にネーム内容の相談をしたその日のうちにネームをAに渡した。その日から締切日までは2ヶ月以上もあったのだ。なのにAは原稿を提出できず、負担が大きいと他部員に思われ、私が嫌われる。こんな理不尽なことがあってたまるか。
結局、Aは締切日の午前三時頃に提出できた……らしい。Twitterでその呟きを見つけた。
一応一段落したみたい。と安心していたのも束の間。数日後、AからLINEが来た。
「○○さん(=私)のペンネームって何?表紙に何も書かなかったから部長に指摘された」
…………は?
私は一応もう一度「私のペンネームは□□だよ」と伝えた。LINE画面上では、
A:○○さん(=私)のペンネームって何?表紙に何も書かなかったから部長に指摘された
私:私のペンネームは□□だよ
こんな感じだ。本当に訳が分からない。
そして最も訳が分からなかったのは、出来上がって刷られた部誌を見たときだ。
確かに原作は私の漫画だが、セリフは所どころ違うし、トーンも私の貼ったものではなかった。──つまり、Aは私の送ったデータを使っていなかったのだ。いや、もはや見てすらいないのかもしれない。
メールが届かなかったかもしれないと思われるが、それは絶対にありえない。A自身が私のパソコンに直接メールアドレスを打ち込んだし、1回テストとして送ったのを、その場でAは確認して受け取った。
つまり、私のやった作業は全て使われずに無視されたということ。そして、Aは私の手助け無しに5日たらずで原稿を完成できたということだ。2ヶ月間もの締切を守れずに、その後のたった5日間で仕上げたのだ。
つらつら書き連ねて思い返すことはあったが、どうせもう過去のことだ。漫研の人数は非常に多く、出入りも活発だった。私がAと特別に仲良く接することはこれ以降無かった。
ああ、漫研で私が嫌われていた件についてだが──漫研は人数が多く、人の顔と名前が一致していないことがよくある。悪口を言っていた部員は、本人が目の前に居るにも関わらず、「Aにあんなに仕事押し付けたネームの人ひどくない?!」と私に言ってきた。ネームの人=私だと思っていなかったらしい。
「あはは、本当にそうだよね」
私は乾いた笑いしか出て来なかった。
これが、私の2年前の冬の苦い出来事。
みんな絵を褒めているけど、自分はトーン貼り過ぎかなって思った。
全体が暗い絵に見えるよ。モニターで見ていると画面が暗くなった気がして、なんだか見づらい。