はてなキーワード: 音感とは
http://raykawamoto.hatenablog.com/entry/2016/12/14/180939
A=440
S=[]
for n in range(12):
S.append(A * (2**(1/12))**n)
print(S)
S=(440.0, 466.1637615180899, 493.8833012561241, 523.2511306011974, 554.3652619537443, 587.3295358348153, 622.253967444162, 659.2551138257401, 698.456462866008, 739.988845423269, 783.990871963499, 830.6093951598907)
print(S)
辞書型にして、音名と関連づける。
わたしは踊ることが好きだ。
初めて踊ったのは4歳の頃。
そこからのめり込みジャズにバレエにヒップホップに一通り経験してきた。
踊ることで生計を立てていく難しさを実感しながらもインストラクターとバイトの掛け持ちをしつつ、たまにバックダンサーとしてアーティストのバックで踊らせてもらっている。
同じスクールには、同じ頃から通っていたとてもダンスの上手い華のある子達が何人もいた。1人は早々にダンサーを諦めアイドルの道へ行った。彼女は今も輝いている。ちがう1人はダンサーとして、パフォーマーとして某大人数グループにいる。そしてまた別の彼女も違うグループではあるがアイドルの道を選んだ。彼女は今も踊っているのだろうか。余談であるが彼女たちとは某大型歌番組に私がバックダンサーとして出演した際に舞台裏で会うことが出来た。
彼女たちとは別に、またひとり、アイドルの道を選んだ人がいる。彼はスクールに通い始めた時期も同じでとても仲がよかった。わたしの比ではないくらい上手であった。音感が違った。そんな彼はある日いきなりわたしに、事務所が決まった、と告げてきた。
てっきりこの頃一大勢力を誇る某三代目さんがいる事務所だと思ったのだが違った。ジャニーズだった。彼もまたアイドルの道を選んだのだ。彼が活動を始めてからしばらくは連絡を取り合っていたが、たまたまわたしが彼の知り合いだと知らない知人が彼のファンだと知ってしまう機会があり、そこから怖くなって彼と連絡を取ることはなくなった。ありがたいことに私自身にも仕事がやってきたタイミングでもあった。
彼は何故ジャニーズを選んだのだろうか、と考えたことがある。踊ることで生きていくという意志を持っていた彼だった。イントラとして、ダンサーとして生きていく難しさは私が今身をもって感じているし、彼もきっと気づいていた。そんな彼が選択したのがアイドルだった。アイドルなら踊れるし生きていける、彼の名前はそこからしばらく検索していない。彼の母経由で近況を聞くことはあるが。
昔のように、彼と一緒に踊ることはもう無理であろうが、もしかしたら彼と同じ番組に出ることや舞台に出ることはありうるかもしれない。そのときまでに私は恥ずかしくない実力を身につけないといけないし、もし彼が手を抜いて踊っていたら罵倒する準備は出来ている。
それが実現するのは数年後なのかはたまた数ヶ月後なのだろうか。
絶対音感とか相対音感とかよく知らんけど、採譜能力がずば抜けてる人は尊敬してる。
セッションだと何のキーの上の何のコードの上かが既に分かってるから絶対音感に頼る必要はあまりないのよな。あるに超したことはないが。
というか、即興やる人と耳コピヲタク以外絶対音感って必要ないんじゃないかなぁ。
あと絶対音感ってAbsolute pitchだと思ってたらPerfectも使われるんだね。和訳が気持ち悪いのかと思っていたら元から変だった。
音感があって、それがもの凄く精密で認識速度が速くて、複数の音を同時に処理できて、長いフレーズを記憶できて、ものすごく難しいフレーズを演奏できる技能があって、そういうのを「絶対音感」って言ってるんだろうな。
音感がある。
絶対音感は、平均律 A=440Hz 固定ド に特化し、長期記憶に格納されてる。
相対音感は、音の高低を感じている。固定ドだけでなく、移動ドにも対応できる。基準音は可変で、絶対的な基準は長期記憶はできていない。
絶対音感 って Perfect pitch っておかしくね? Absolute pitch じゃないと Relative pitch とは対にならんと思う。
音感ってのは「音階」がわかるんじゃなくて、「音高・音名」がわかる。
世間一般で考えられている「秘技!絶対音感!」は中二病の症状だがな。
「音階」というのが、なんのことを指しているのか……謎だ。
絶対音感は幼児期にしか習得できないが、相対音感は「それなり」に習得できる。
絶対音感っても、相対音感で補完されるものだし。絶対音感の価値って音叉1本分1000円くらいだよね。
追記 匿名だし、別人だし^^;
我が輩には絶対音感は絶対に無い。楽器で確認せずに採譜すると……調を間違えるんだから絶対音感は無い。
間違って覚えると修整が大変なのだ。
絶対に誤解してるよな。
なぜか、曲を聴くだけで「すべてがわかる」も~の~~~~~すご~~~~い特殊能力だと誤解されてる。
日本語だと、「絶対音感」 英語だと「perfect pitch」完璧な音高だ。
相対 relativeと対になるのは Absolute なのにな。
他に比較することなしになのに、絶対の持つ別の意味が強調されすぎwww
音の高さが分かって、ドレミで言えるとか、楽器で弾けるとか、相対音感でもできるわけだが。
「すごい!絶対、音感があるよ」が、「すごい絶対音感があるよ」になって一人歩き。
「絶対音感」って本があって、これ絶対、世間一般に誤解を広めたな。
「絶対音感神話」とか「あなたの音感は何型か? -絶対音感の誤解- Kindle版」とか
こういうのを読まないとな。
カラオケでどれだけキー変えても迷わず歌えるし、増田の提示するような場面で困った事はないかな。
(頭の中の鍵盤で最初の音を数えれば、それを基準にその後も問題なく歌える)
絶対音感(自分の中の基準をもとに、一つの音の絶対的な音の高さを測る能力)と
相対音感(二つの音間の具体的な幅を測る能力)は別の能力だと思うし、
訓練次第でどうにでもなると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150805150144
容姿、知力、体力、免疫力、精神力、人格、創作力、生活環境、全てにおいて究極の人間はいません。
今まで地上に産まれた人間すべてに望むものがあったのに手に入らなったものがあります。
どれだけ容姿がよくても音感がない人や頭がよくても色盲な人など、
結局当事者にとって欲しいものと現実が一致しないなんてことは当たり前のことです。
逆に元々持って生まれてきたら欲しいなんて思いません。
無いから集めようとする手に入れようとするんです。
つまり不公平なことを受け入れることから始めないと、何もしようとしない人間になります。
欲しいものは努力しないと手に入らないし、絶対に手に入るとも限らないんです。
不公平なこの世界をもっと受け入れてください。認めてあげてください。
もう見ていないかもしれないけれども、何十年も前に大学で合唱をやっていたおっさんとして書いておこうかと思う。
ぼくは元増田よりも遥かに音楽に疎いのに合唱を始めてしまった。高校での選択は美術だったし、合唱団に入った時点では音符の読み方すら怪しかった。
それでも4年間続けたのは、合唱団の技術志向が弱かったことに加えて、大学での人間関係の中心が合唱団になってしまったからだ。さすがに音符は読めるようにはなったものの、音感とリズム感が悪いままでも引退まで居座ってしまった。
とはいえ、さすがに居心地が悪くなった時期はあった。技術的にはお話にならないレベルなので、運営のほうに回ろうとしたのだが、人間関係をこじらせてしまい、結局は平団員として4年間を過ごした。技術もない、人間関係も良くないということになれば、さすがにこのまま合唱団に居続けてよいものか悩むことになる。後輩からすれば、存在価値のない先輩という位置づけになっていたかもしれない。
なので、元増田の
辞めたらサークルの人達には何と思われるのだろう。あいつらは口では「いなくなってさびしい」などと言うのだろうが、本心ではきっと「お前みたいなやる気のない奴はさっさと辞めてくれ」と思うに違いない。少なくとも俺の本心を知られたらそうなることには間違いない。友達を失うのは怖い。なんで上手くなる義務があるんだ。俺は歌うのが好きなだけなのに。
という心情はわからないでもない。ぼくも「自分なんてサークルからいなくなったほうが、みんなが喜ぶに違いない」「自分は合唱団にとっての癌だ」とかよく思っていた。
けれども、おっさんになって思うことは、それはそれで自意識過剰だったということだ。周囲の人は元増田がいようが、いなくなろうがたいして気にしない(と思う)。企業のような営利組織であれば話は別だが、大学のサークルで「いなくなってほしい」と思われるためには憎悪の対象にまで上り詰めなくてはならない。そこまで至っていないのなら「いても、いなくても構わない」だろうし、ステージのチケット負担などを考えれば「いてくれたほうが助かる」というのが本音に近いところだろう。
あと一つ言えば、元増田は合唱団をやめる必要はないが、どこか別のところに居場所をつくったほうがいい。合唱団にしか居場所がないから、なんとかしてそれにすがりつこうとする。だが、その必死さがかえって合唱団に居続けることを難しくしてしまう。ぼくの場合には大学のゼミだった。ゼミでも大して馴染めていたわけではないが、ゼミが駄目ならサークルが、サークルが駄目ならゼミがあると思えるだけで、ずいぶんと心理的に楽になる。そうなれば、合唱団の友人たちとも余裕をもって付き合えるようになるのではないかと思う。
もちろん、元増田の状況はぼくの状況とは違うかもしれないが、もうちょっと気楽に考えて良いと思う。良くも悪くも、周囲の人間は元増田のことをそこまで気にかけて生きているわけではない。
絶対音感と言っても実はいろんなレベルがあって、生活音も全てピッチがわかる・オケのチューニングがセント単位でわかる、とかいうレベルから、ピアノの音を当てるのは得意だけど他の音になるとよくわからない、といったものまであるんだけど、元増田はかなり精密にわかるようだね。
日本では「絶対音感神話」みたいなのがあって熱心な親が多いのだけれど、中途半端な絶対音感 (というのも妙な言葉だが、上記のように耳に馴染んだ楽器の音ならわかる、あたりのレベル)だと逆に相対音感を身につける邪魔になることもあるそうだ。例えば次の調査:
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~psy/miyazaki/Papers/Report1999/Report1999.html
元増田は吹奏楽をやってたそうだけど、移調楽器は得意? 階名(移動ド)で歌える? 自分はピアノの鍵盤・譜面の音高・固定ドのラベルの3者ががっちりくっついちゃってるので、移調して弾くのがすげー苦手 (頭の中で演算しないと弾けない)。移調が楽にできるようになる練習って何かある?
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
細かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。
最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。
まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、
と書き、あるいは池末浩規参与も、
大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。
と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)
そして、
再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する
と参与も書いているが、観客動員に一定の目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュース・マネジメントが必要であるからそのために改革をしようとなる。
この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメント・プロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。
さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。
あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。
つまり、全ては、
今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものにシフトしようとしているところです。
という参与の意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか。
私は、過去、文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。
文楽はもうすぐ死に絶える。事実、文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。
文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去と現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。
だから、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。
その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要も必然性も、どこにもない。
逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。
観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。
そこで、大阪市のプロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメントの改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。
ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者に歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎の面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています。
全くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。
わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。
今でもこの種の客気質は、こと大阪の年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、
「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」
と言い、また、文楽の人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、
「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」
と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、
「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」
とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。
そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。
しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。
実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっとも重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。
あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。
その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。
そこに、この大阪市のプロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。
と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ。
このプロジェクトを書いた池末参与は善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。
よく分かる。
もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃・文楽という看板は取り下げてもらいたい。
300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃・文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。
この人形劇を観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。
(追記)
以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから。
https://twitter.com/#!/SignorTaki
劇場で上映されている、『オペラ座の怪人』25周年記念公演 in ロンドンは音がずれています。
これから見に行こうと考えている方(特に絶対音感のある方)は、ご注意ください。
私は、途中で気持ち悪くなり、退場いたしました。
なぜ音がズレているのか問い合わせメールを出したところ、
---------------------------------------------------------
観させていただきました。
音が半音下がっている箇所がありました。
私は絶対音感があるので、音のゆらぎが気持ち悪くなり
ご回答のほどよろしくお願い致します。
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ご指摘の件、ロンドンのUniversal Pictures International(UPI)に
問い合わせたところ、以下のことが判明いたしました。
この公演の撮影は、フレームレイトが25フレームの規格の機材で行われました。
DCP(Digital Cinema Package)という世界規格に変換する必要がありました。
この規格のフレームレイトは24フレーム、すなわち1秒間に24コマの映像が収録
されます。
収録音声を早回しにすると音が高くなり、
遅回しにすると音が低くなる現象は、容易に想像できるかと思います。
今回は、1秒間25コマの速度で収録された音声を
1秒間24コマのスピードで再生することとなり、25分の1秒分遅回しにすることに
よって、
その分、音程が低くなったというのが、理論上考えられることです。
非常に微少なスピード差であるので、これによって半音以上の音程差が生じると
は考えにくく、
絶対的に音感の鋭敏な方には判る可能性がある一方、
UPIでは、DCP上映にあたり同様の指摘を受けたのは、今回が初めてという説明です。
更に日本国内のスタジオに取材してみたところ、楽器や声の音質や、旋律、音の
高低により、
特に差が目立って聴こえる箇所があるのかも知れない、ということです。
音程の問題を解消する手段としては、音声のスピードを変えずに再生するため、
映像を毎秒1コマずつ間引いて24フレームに合わせる方法がありますが、
これを用いると、今度は映像の方に飛んでいるような現象が生じる可能性があり、
なぜフレームレイトの違う機材で撮影を行ったのか、という疑問が生まれますが、
これはアナログ時代から世界各地で異なるビデオ信号が採用されていた歴史があり、
それに伴い英国では25フレームというフレームレイトが一般的で、
UPIとしては、日本での上映を心待ちにされているお客様のために最速の実現を
目指した結果、
限られた時間と環境の中で出来うる限り最良の映像と音声を送ったつもりだった
ということです。
これまでの説明で我々の理解するかぎり、ご指摘くださったお客様は、
ごく少数の並ならぬ鋭敏な音感の持ち主でいらっしゃるということが言えそうです。
我慢を強いることとなりましたことをお詫び申し上げるとともに、ご理解を賜れ
ればと存じます。
今回のご指摘を真摯に受け止め、今後の課題とさせていただきます。
なお、DVDおよびブルーレイにつきましては、音程の問題を修正し、
Really Useful Group(RUG)の監修と承認を受けたものを発売する旨、UPIの確
認を取りました。
日本で発売されるDVDおよびブルーレイは、UPIの制作するマスターに基づくもの
です。