はてなキーワード: 男性学とは
横弱者男性だけども
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人が、差別意識や偏見に晒されずになればいいと思ってる
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人が
フェミニズムは一人一派であり、個々人の思想には定義付けは難しい
それでも社会は、個々人意見を聞いて出来ることは擦り合わせて、出来ないことは寄り添う
それと同じことをするスタンスを持ってみては?
このような差別の透明化をするなら人から話を聞く意味がないし話をするがわも意味がない
もしくは、差別は無かったでいいでしょう
執着するのはそれは差別じゃないが言い足りないのかも知れないけど
これとかだろうな
https://www.google.com/amp/s/forbesjapan.com/amp/30764
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、
特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人たち
こんなところでいいと思うのだけど、みんなどう思う?
男性学ってあるやん
当事者でもないのに訳知り顔で太田啓子あたりの書籍を推して、男性性から降りようとかいうの、全然的外れだよね。
女性から男性になったトランスジェンダーの人(FTM)が、男になってわかった男のつらさについて語る動画。
https://www.youtube.com/watch?v=XgwhFFL2LIE
忙しくて動画見てる暇がないって人に箇条書き。
1. 生きてるだけで不審者
3. マジでちやほやされない
4. マウントの取り合い
語っている本人は、女性にモテる中性系女性から陽キャ男性になったので、今流行りの弱者男性視点ではないのに注意。
3は、陽キャが言うとモテないという意味になるけど、本質は自分から声を上げないと異性からも同性からも社会システムからも放置される、という孤独の底にいるのがデフォということ。
4~6は、従来の男性学でいう「男性性」の悪しき習慣だから、これを降りればというのはわかる。
7は、まあ男女のコミュニケーションの話なので置いておく。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの
「経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
結局「弱者男性」って誰なんだよ。みんな好き勝手なこと言いやがってクソが。
それぞれ全然違う問題なんだから、その処方箋だって全く違ってくるだろよ。次元が違う話を全部一緒くたにして「弱者男性論」みたいに雑にくくるから、話が全然まとまらねえんだ。アホか。経済力の話なら再分配とか福祉とか新自由主義批判でいいだろ。容姿の話ならルッキズムでいいだろ。他の能力の話ならノーマライゼーションとか社会的ケアでいいだろ。最後の非モテ要素以外は全部わざわざ「男性」なんて性別を絡めずに語れるじゃねーか。そうじゃない「弱者男性」ならではの特別な事情があるなら、そこをちゃんと説明しろよ。
弱者男性論をぶちあげる連中の多くからは「俺は弱者なのに弱者性を認めてもらえない」という心の叫びは感じるけど、その「弱者性」ってのがどういう状態なのかぜんぜん共有できてないのに「弱者性のつらみ」という被害者感覚ただ1点で結束しようとするから、話が支離滅裂になってんだよ。
「男が強くあらねばならない社会的規範の中で苦しんでますぅ〜」みたいな男性学っぽい話なら、性別問わずその規範を再帰的に強化してる社会的強者たちに異議申立しろ。「女性にモテないことは弱者男性問題の本質じゃない」と思ってるやつは、白饅頭みたいに弱者男性を非モテの問題に矮小化してる非弱者男性 https://togetter.com/li/1692506 をちゃんと批判しろ。そういう深掘りができねーなら、どんなに「弱者男性論」が盛り上がっても、みんなで目隠しして象を撫でてああだこうだ言い合ってるようなもんだ。そっから生産的な結論が出てくるわけがない。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 89 | 13129 | 147.5 | 47 |
01 | 71 | 4307 | 60.7 | 20 |
02 | 49 | 6315 | 128.9 | 49 |
03 | 46 | 4147 | 90.2 | 44 |
04 | 45 | 3288 | 73.1 | 35 |
05 | 24 | 4645 | 193.5 | 59 |
06 | 38 | 2353 | 61.9 | 43 |
07 | 81 | 5870 | 72.5 | 42 |
08 | 61 | 6848 | 112.3 | 55 |
09 | 115 | 17905 | 155.7 | 60 |
10 | 120 | 11002 | 91.7 | 44.5 |
11 | 196 | 16931 | 86.4 | 42 |
12 | 173 | 11399 | 65.9 | 42 |
13 | 127 | 10151 | 79.9 | 48 |
14 | 89 | 10234 | 115.0 | 53 |
15 | 105 | 7369 | 70.2 | 35 |
16 | 127 | 9376 | 73.8 | 36 |
17 | 128 | 19301 | 150.8 | 47 |
18 | 113 | 11704 | 103.6 | 45 |
19 | 165 | 30361 | 184.0 | 52 |
20 | 157 | 14487 | 92.3 | 43 |
21 | 117 | 14721 | 125.8 | 63 |
22 | 141 | 18950 | 134.4 | 47 |
23 | 138 | 12461 | 90.3 | 34 |
1日 | 2515 | 267254 | 106.3 | 45 |
戦機(3), たどりつき(3), ひまわり(15), クソスペ(3), 馬渕(3), 男性学(3), ほんまもん(3), タワーディフェンス(3), 墓石(8), 社会学部(4), 受益者(3), 見目麗しい(3), 弱者男性(42), ステマ(17), 下方婚(27), 学級(14), アウトプット(7), MMT(6), モラル(11), 冷笑(6), 献血(8), 批評(7), シン(9), 社会問題(9), 資格(32), 庵野(9), 配偶者(11), 起業(12), 有利(12), リベラル(27), 救わ(14), フェミニズム(16), 主義(10), 消費税(10), アップデート(10), 逃げ(25), 引用(10)
■ブクマカ「この件については判断保留」 /20210403055237(30), ■リベラル派男性として「弱者男性論」に賛同できない理由 /20210403165033(26), ■友達と思っていた人から切られるということ /20210402215944(21), ■現代で資格取る奴ってマジで頭悪すぎじゃない? /20210402142842(15), ■ペアーズ婚活必勝法(女性用) /20210403142548(11), ■新社会人になれなかった者による戯言 /20210401174952(11), ■墓石ってさあ /20210402195241(10), ■ /20210403025039(10), ■辛かったら逃げても良いんだよ ← これやめろ /20210401222557(10), ■ジャンプ+がガンガンONLINEに勝った無常を感じる /20210402224412(9), ■ /20210403162924(9), ■ギター:ギタリスト ベース:ベーシスト ドラム:ドラマー ← なぜなのか /20210403112832(9), ■中国人と繋がりたいんだが /20210403160752(8), ■国民が求めるであろう第三次安倍政権 /20210402162411(8), ■色んなコンテンツのアンチを見てきて気づいたんだが、筋の通った叩かれより、筋の通らない叩かれの方が危険信号 /20210403114733(8), ■家族として過ごす意味 /20210403001257(8), ■お前らに一生のお願いがある /20210403223049(7), ■関西人のボケツッコミを強要する同調圧力キモすぎだろ /20210402194438(7), ■4月のオススメ教えて /20210403070509(7), ■KKOはエヴァに乗る機会なんて与えられない /20210403185333(7), ■社員に窃盗の疑いをふっかけた /20210327125834(7)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804
白饅頭さんやデヴィッド・ライスさんのことは応援しているけど、この記事はフェミニストと男性学者が受け入れられるものにはまったくなっていないね。
これは統計的差別という概念を正面から否定するものになっており、現代フェミニズムが統計を駆使しながら戦ってきた歴史をも否定することになってしまっている。
例えば、女性専用車両を合法的に成立させている基盤はなんだろうか。
統計上無視できないレベルで男性から女性に対する性犯罪が多く、その逆は圧倒的に少ない。
政策としてもこの統計的傾向は無視できないからこそ、最大多数の最大幸福を優先して専用車両を設けるに至ったんだよ。
加害性の強い属性を強制隔離しない限り、電車内の性犯罪は防げないから。
あれだけ世界各国から勧告されてもなお日本が共同親権制度を拒み、主に母親に親権を付与する形で単独親権制を維持する理由は何か。
父親の加害性、妻や子に対する家庭内暴力とモラルハラスメントの発生件数が母親によるものと比べても圧倒的に多く、共同親権にした時のリスクを無視できないからだよ。
家庭どころか、未成年の時点で既に男子学生と比べて女子学生の方が交際相手からの加害(デートDVと呼ぶことも)を受けやすい傾向にある。
フェミニズムだけじゃない。
EBPMという概念があってね。
https://www.cao.go.jp/others/kichou/ebpm/ebpm.html
EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)とは、政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすることです。
政策効果の測定に重要な関連を持つ情報や統計等のデータを活用したEBPMの推進は、政策の有効性を高め、国民の行政への信頼確保に資するものです。
有害な人物の排除一つとっても、十分な統計的エビデンスを集めてきた上でようやく可能となる。
これだけ統計が重視されている中で、全体の傾向があっても個々の人間には問題がないなどと言っていては、専用車両もアファーマティブアクションも成立させることなどできなかっただろう。