はてなキーワード: 同族嫌悪とは
この手の意見に欠けている視点はそういう男に騙される女もまた浅ましい女であり、それはただの騙し合いなのだということから目を背けている部分だ。
元増田も大学時代を水商売に捧げて学業や同世代がするであろう様々な体験を疎かにし、客を見下し騙し、時間の大半を費やしてやっている仕事にすら真摯に向き合ってこなかった。
元増田もまた若さに甘えて今を真剣に生きていない側であることには変わりない。
そういう男たちはクズであるかもしれないが、同じ側の人間として同族嫌悪を抱いているだけじゃないのか。
真っ当に生きている男には相手にされない自分の浅ましさを似たように浅ましく生きている男にぶつけて溜飲を下げているだけだとしたら、末路は同じものだろうよ。
【以下ネタバレ含む】
普段から「私を含め、オタクって気持ち悪いよな」と思ってる一オタクからすれば、昨今もてはやされる同化効果モリモリ映画へのアンチテーゼとも言える「ドラゴンクエスト ユアストーリー」は最高にキました。
(※1ここでの「異化効果」とは、観客の心地良い世界観や当たり前と思っていた日常を揺さぶり、新しい価値観や反省を促すものと定義付けます。 )
◇
この映画のオチは、「実はこの世界は虚構で、早く大人になれと突きつけてくるラスボスを倒す」というもの。
買い切りのアート作品ならともかく、エンタメ映画でこの手法使うと商業的には失敗するのかもしれないけど私は嫌いじゃない。
そもそも私は腐女子のくせにオタク同族嫌悪が激しくかつ 「いい年して夢から覚めないオタク、本当に気持ち悪い。現実見ろよ」的なこと言われて 憤慨すより「仰る通りです」となるタイプ。
なのでドラクエ5映画はマゾ心が刺激されてアリだし、オタクの悲鳴ウケるってかんじ。
おまえらが後生大事にしてるそれ、所詮ただのゲームだよ?うん、たしかに……。
「もしかして一部の製作陣は、未だに嫁がどうこう言ってるファンたちにうんざりしてたんじゃないか?だからこのストーリーにゴーサイン出したんじゃ?」とすら思った。
◇
でもオタク気質持ちには同化効果がある作品の方が受けやすい。だからこそのオタク。
あれは「本当に現実にポケモンがいるようだった」と思わせる出来で、製作陣もポケモンマニアが多いらしく、観客の精神と映画をリンクさせるものだった。
「この世界の片隅に」もそう。
あれは主人公を身近に感じられるような、日常的で素朴で被害者としての側面は同化効果としてこれでもかと描写されてるのに
原作にあった異化効果部分(「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」)は、改変され超ふんわりになってる。
「庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。」(※2)
という意図からすれば、前半の同化効果は後半の異化効果のためにあると言っても差し支えない表現だろうに、ここ変えちゃダメじゃんね……。
逆にドラクエ映画は「ゲームの世界観に没入していた観客の精神を引きちぎる物」なので、ポケモンのようにドラクエの世界観に心地よく没入できることを期待していた層にとってはそりゃあもう辛い、阿鼻叫喚。
こういう異化効果アリのメタ視点持った作品って他にあるのかな?
◇
BGMが別作品のじゃんとか、SFCのゲームだろとか、ヘンリーの話し方とか、ビアンカの性格とか、そもそも話の配分がおかしいとかそういう面ではイマイチだけど、オチ自体はあれで良いと思う。
だってたしかに、現実の友達や、恋人や、家族や、子供ではなく、二次元や三次元のキャラクターに時間を割くなんて、やっぱり成人したまともな大人のやることじゃないですよ。
そりゃゲームより電源切って外に遊びに行くなり勉強した方が”正しい”よ。
そこ突きつけられてギャーギャー騒いだり、自省できないオタクってヤバい。
良薬口に苦しというか、映画で現実見たくない人には本当に辛い作品でしょうね。
ただ、新規だったりまだ十代の若いドラクエファンの子がこの映画で胸を痛めているのは辛いし、はやすぎるし残酷だと思う。
古参の大人ファン向けですね。ハマりたての人に見せちゃダメです。
と、数ヶ月おきに同人イベントにサークル参加してヒーヒー言いながら本出してる私は思いました。
私たちは、はやくゲームの電源切ってスマホを置いて、もっと現実大事にしような!
【参照】
※2
https://blog.goo.ne.jp/yossyo2/e/4e01d56cd19f6209e6ed6bf11fc6fddc
最近好きな作品がことごとく面白おかしく叩かれたり比較されてsageられたりしてる。なにかの作品を駄作とかいうのは個人の感想だからいいけど、他の作品を出して面白おかしく叩いたりするオタクが多すぎて辛い。(逆もよくある。この作品を絶対にみろ。○○はいいぞ系…)
SNSでバズると一切知らないけど一緒になって叩きたがる人が多い。みんながやってるならOKっていう案件、オタクは結構多い気がする。私もオタクなので同族嫌悪だと思いますが。
駄作と言われ続けている作品が好きだからキツイ。そりゃあ嫌いな部分もあるけど根本から大嫌いになれないので苦情をみると納得してしまう自分もいて、でも嫌いじゃないからもどかしい。
SNSで仲良くしている人が面白おかしくDisったり批評したりコラ画像にしたりしてるツイートをいいね・RTしているのをみてしまうと凹む。
本当に作品を愛しているならばこの作品が好きなのはおかしいとかあの場面が好きなやつの人格を疑うとか言われているのを見ると自分はおかしいんじゃないかと思い始める。
ネットから離れればみることはない感想なので自分をうまくネットから離せば解決する話なのできっとなんでもない悩みのはず。でも吐き出したいからここに書く。
いつも通り、選挙後に右と左が互いに猿の尻笑いをしあってるけど、この人らって根っこは同族嫌悪よね
互いにネガキャンし合って、そうやって支持する与党or野党の都合の悪い所には目を瞑ろうとして
「悪を糾弾するのもまた、それで自身の後ろめたい部分を覆い隠そうとする悪である」
という地獄絵図が出来上がって、それを見た無党派層から「投票したい所がない」と辟易されて
そうして投票率が下がると今度はその無党派層を嘲笑して攻撃して
右も左も、実際に支援者の方々と会って話をしたこともあるけれど
「私は何でも知ってるよ?少なくとも相手(右or左)が間違っていることは知っている。」
とでも言わんばかりで
「私は勉強したから。相手(右or左)は勉強が足りない。もしくは理解できる頭がないw」
自分ではかなり大層なタイトルではあると思うが、私は一度も痩せたことがない。
正確に言うと、幼稚園の頃から常に何かしらを食べているような子供であったから、ストップがかかることもなく
大学受験を堺にして部活をやめ、しかしながら食べる量は減ることはなかったので
痩せたい。いつも頭の中には痩せたときの自分の姿を想像している。
なぜ痩せないんだろうか本当に不思議でならない。
デブに突っ切ってるわけでもないし、ぶっちゃけ服を選べばそんなに太ったようには見えないかもしれない。
(最近はそうも行かない体型になってきているが)
だからこそ「自分はまだそんなに太ってるわけじゃない」と自分を慰めてすぐにダイエットをやめてしまうからのかもしれない。
でも正直もうしんどい。中高の同級生に会うとどうしても体型や顔を比較してしまう。自身が見にくいからこそそういう部分により鋭く反応してしまう。
子供の頃はよく親に、成長期になれば身長が伸びるから大丈夫と言われていたのに今となっては痩せろだのダイエットだのうるさくてしょうがない。そんなことはわかっている。
とりあえずなんだか人生が鬱なのだ。やる気がわかない。もし痩せていたらもっとやる気が湧いているはず。俺がお前らの体型ならそんなに怠けたりはしないとすら思う。
デブはデメリットだ。損しかない。何をするにしても制限がかかる。
顔の良し悪しは生まれ持ったものだからしょうがないけど、デブは本人が怠けてるだけなんてよく目にする(これも自分がデブだからよく目に入るだけかもしれない)が、食べる量が同じでも太りやすい体質の人もいるわけで。
とまあ言い訳を並べても結局自分でもわかってるけどな原因は自分にしかない。
デブの何が醜いかって、同族嫌悪をしているところなのだ。自分と同じ体型の人を見て嫌悪し、自分より太っている人を見て安心する。そうすることでなんとかプライドを保っている。
こんな一般論を俺は語りたいんじゃなくて、
最近は人間関係が辛い。正しくは自分が相手にデブとして認識されて嫌悪感や笑われている、見下されているんじゃないかという被害妄想に追われる。
旧知の仲だとなおさらで、ラインが来ても未読無視しちゃうし、人間との関わりを徐々に断っている気がするのだ。
こうして俺は無事自分のクズさをデブという身体的特徴に押し付けて責任転嫁してるわけだ。
本当に太っているせいでその人の社会性が損なわれるか検証するので今日からダイエット一日目始めたいと思います。
(以下無限ループ
子どもが嫌いというわけじゃない。
友達の子どもと遊ぶのは好きだけど、それと自分が子どもを産んで育てることとはまた別のジャンルの話だと思う。
遊ぶということだって大人の目線で可愛がってるというよりも、一緒に遊んでもらってるだけ。
自分に似た要素を見つけてはきっと同族嫌悪する。そのままをまるごと肯定なんてしてあげられないと思う。
それに生まれてきても社会の中で上手くやれなくて生きにくいんだろうなぁって、しにたいとか消えたいとか思うようになるんだろうなぁ、、って思うと、意味って?価値って?って思う。
そう決めつけてるのはわたしだけど。でもそう思う。
生きてるだけでいい、って考え方はすごく好きだし救われる部分もあるけど、生まれてこないという選択肢があったらわたしはどうしただろう。
しにたいわけじゃない。
でも上手く生きられなくて何もかも嫌になって消えたくなるのはいつまで経っても変わらない。
社会で上手く生きられないなら価値がないって自分にも人にもジャッジしちゃってるのはわたしだ。
この考えって修正できるのかな、、。
子どもがほしいと思えるようになるのかな。
「彼女が好きなものはホモであって僕ではない」がNHKでドラマ化したら「腐女子、うっかりゲイに告る」になった件。
タイトルの理解は正しくなくて、「僕」から見たら主人公は「ホモ」だけど、「腐女子」から見たら「ゲイ」だということで、なんの齟齬もない。
むしろ原題をそのまま使うのは難しいことから、彼女目線のタイトルに変えることで作者の意思をうまく尊重したのだという考え方すらできる。
それでも、という話。
この作品の主人公はどこまでも「ホモ」で、「ゲイ」じゃない(肯定的な意味でも否定的な意味でも)。
何の違いか、というのを端的に言うと、ゲイとしてゲイコミュニティに何の違和感もなく馴染めるゲイとそうじゃないホモということで、
(原作者はBLで目覚めて後からゲイパレードを始めとするゲイ文化を知り、愕然としたというバックグラウンドがあるらしい。
BLの対象となる「ホモ」と現実に存在する「ゲイ」という対比、ニュアンスもある、はず)
ヘテロにとっちゃどうでもいいことだろうと思うが、いわゆる「新宿二丁目」なゲイ像を男性同性愛者の全体が受け入れているということではない。
むしろ、ああいう雰囲気を移されないようあえて遠ざけているという人間さえいる。
作者のこだわりというが、自分もとても共感していた部分だったのでドラマの原題が最終的に「ゲイ」になったのが残念でしかたない。
もちろん、ホモなんて言葉を入れるわけにいかないことはわかっているけども。
「ただの同族嫌悪と何が違うんだ」「選民思想に溺れているんじゃないか」と謗られても説得力のある反論は思いつかない。
「そんなつもりじゃない」ぐらいしか言えない。
実際、自己肯定なのか自家中毒なのかわからない執着を抱えながら「ホモ」で居続けることが素晴らしいことだなんて思わない。
それでも、「ああ、一括りなんだな」という残念さが消えない。
女を「ババア」と呼んで勝手に親近感を持ったり、オネエ言葉を使ったりすることはアイデンティティとして受け入れられないんだよ。
一緒にされたくない、というのが偽らざる本音だ。