はてなキーワード: 宇宙とは
水瀬いのりという、声優がいる。この人に妻を泣かされた日のことは、忘れられない。
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お勉強のよくできる大学を経て、お利口な人たちが集う、そこはかとなく大きな企業で働く、平凡なビジネスパーソン。
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たまに、Apple Musicのシャッフル再生で流れてくるのを聞いて、なんだか落ち着く歌手がいるなあ、くらいの感覚。
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多少規模の大きい会社の勤め人ならわかるだろうけど、本社の中枢の経営のあたりに投げ込まれると、
それはもう、胃が痛くなることが多くなる。辺境の支社ののんびりびよりが懐かしいことこの上ない。
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じきに水瀬いのり氏の音楽の落ち着く効能に縋って、通勤時は「モーツアルト」「水瀬いのり」のヘビロテであった。
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同氏のおかげか、はたまた私の才によるものか、お作法にうるさい経営対応も、ちょっと神経質な霞ヶ関の対応も、
朝飯前とは行かずとも、まあなんとかなるようになった頃、今の妻と出会った。
妻はアニメもジャニーズもわからぬ箱入り娘であったが、私が運転中にやたら水瀬氏の曲を流すものだから、
自然と当たり前のように、やはり水瀬氏の音楽を聴くようになるのである。
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じきに妻は身籠り、さて人生も実に順調と言ったときに、またもや転機が訪れる。
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タイミングが悪いと言えなくもないが、今考えると、良かったとも言える。
とにかく、クリスマスから正月にかけて肺を摘出するために、入院することとなった。
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絶賛コロナ禍で面会もできず、妻は出産直前だし、何より手術日は妻と初めて出会った記念日・クリスマス。
実に申し訳ないことをした。
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同期の医者の計らいで用意してもらった、病院のVIPフロアの個室で、皮肉にも美しい夜景を見ながら、
年末で他の患者も家に帰ってしまい、あるいは静かな沈黙の病棟で、
水瀬氏のバラードが鳴り響いていたが、文句を言う人すらおらず(年末だから)
日も上らぬ早朝から叩き起こされ、手術の仕込みをされることとなるも、実に私は幸せな気分でいられた。
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とにかく手術は成功し、かなり異例の速さの回復具合だったようで、病院のいろんな医師が物珍しそうに見に来たのが印象的である。
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モーツアルトと水瀬いのり氏の曲がずっとそばにあったことは言うまでもない。
(ちなみに大きな手術するとき、患者は好きなCDを流せることが多い。私は「CDで」と言う記載を見逃していたので
主治医の趣味のデスメタルを聴きながら手術台に上がる羽目になった。覚えておいて損はないはず)
退院してまもない頃、これまた妻の陣痛が始まった。これまた妻を抱えるようにしてのせて、東京の真ん中あたりの病院に車を転がした。
妻は私の手術の話を聞いて、何を思ったか知れぬが、こどもが生まれる時は、水瀬いのり氏の「Happy Birthday」がいいと言うから、
私の娘は生まれたと同時に、水瀬いのり氏の歌声を聞くこととなる。
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さて、色々と落ち着いた頃合いに、Apple CarPlayから水瀬氏の新曲「While We Walk」が流れた。
その瞬間、東京の車の喧騒はピタリと止み、娘すら泣き止み、静寂が私たちを覆った。
参考:https://www.uta-net.com/song/343412/
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妻は大泣きしてしまった。それは、水瀬いのりに泣かされたように。
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本当に、ありがとうございます。あなたのことばで、しあわせに近づけました。
全く関係はありませんが、娘には「いのり」と名付けました。
宇宙大爆発おじさんは元気?
数えることを学ぶときに無限に遭遇し、永遠に数え続けることができることに気づきます。
それほど独創的な観察ではないですが、いつでも1を足してさらに大きな数を得ることができるため、数えることに終わりがないことが、無限の重要な性質です。
無限にはさまざまな種類があるため、それほど単純ではありません。 1、2、3 などの自然数の量は「可算無限」と呼ばれる最も単純な種類の無限にすぎません。
正式には、自然数から他の集合への1対1の写像(注: 勝間さんではありません)がある場合、この集合は自然数と同様に無限であることを意味し、同じ種類の無限です。
実数の場合、その写像が存在しないので、より大きな無限となります。
さて、無限に演算を定義するとどうなるでしょうか。無限大に1を加えても無限大になります。自然数のある数を無限大で割るとゼロになります。
つまり無限大に1を加算すると、結果は同じ種類の無限大になることを意味します。
これらの関係を方程式として記述する場合には問題が起こってしまうことがよく知られます。
無限大を無限大で割ったり、無限大にゼロを乗算したりする場合はさらに意味不明になります。
実際には数学者は無限に対処する方法をよく知っています。ただ注意しなければならないのは、その無限がどこから来たのかを追跡することです。
たとえばxが無限大になると無限大になるx squareのような関数があるとします。
無限大がどこから来るのかがわかっていれば、もう一方から1を引くこともできます。
たとえば、1/イプシロン、1/イプシロン二乗、イプシロンの対数などの用語がある場合があります。
しかし2つの項が同じ無限大であり、イプシロンの同じ関数であることがわかっている場合は、数値と同様に加算または減算できます。
物理学では通常、これを行う目的は計算の最後にそれらがすべて互いに打ち消し合い、すべてが理にかなっていることを示すことです。
したがって数学的には無限は興味深いですが問題はありません。数学に関して言えば、無限をうまく処理する方法を知っています。
数学的な意味で存在します。つまりその特性を分析してそれについて話すことができるという意味です。
科学的には、観察を説明する必要がある場合にのみ、自然理論の要素が「存在する」と言えるからです。
そして無限を測定することができないので、観察するものを記述するために実際には無限を必要としません。
無限大は測定できないという問題は、ゼロの問題と密接に関係しています。
たとえば、点の数学的抽象化を考えてみましょう。物理学者は点粒子を扱うときに常にこれを使用します。点のサイズはゼロです。
しかし、実際にサイズがゼロであることを示すには、無限に正確に測定する必要があります。
したがって、測定精度が許容するものよりも小さいことしか示せません。
宇宙や時空のような一見無害なものであっても。空間の数学を書き留めた瞬間、そこにはギャップがないと想定します。
無限に多くの無限の小さな点で構成された完全に滑らかな連続体であると仮定します。
数学的にはこれは扱いやすいため便利な仮定です。そしてそれはうまく機能しているようです。
それがほとんどの物理学者があまり心配していない理由です。彼らは無限を有用な数学的ツールとして使用しているだけです。
おそらく物理学で無限とゼロを使用すると間違いが生じるのは、これらの仮定が科学的に正当化されていないためです。
そしてこれは、宇宙や量子力学の理解に役割を果たす可能性があります。
ジョージ エリス、ティム パーマー、ニコラス ギシンなどの一部の物理学者が、無限を使用せずに物理学を定式化する必要があると主張したのはこのためです。
検出器から精神への一連の連鎖はフォンノイマンチェインといいます。
例えば電子を観測したとします。その観測情報をコンピュータで表現するために、スリットを通った後の位置で数値化するとしましょう。その数値をコンピュータのスクリーンを通じて研究者が目撃し、網膜を通じて脳へ達し、最終的に情報を判断できます。
では、波動関数の崩壊は、この連鎖のうちのどこで起こるのでしょうか。
このことを理解すれば「量子と意識」の問題は、非科学でもスピリチュアルでもなく、現実的な仮説であることがすぐにわかります。
実際、フォン・ノイマンは意識が認識を行う瞬間に崩壊が起こると考えたのです。
これを「フォン・ノイマン=ウィグナー解釈」と言いますが、コペンハーゲン解釈のサブセットです。
これを補強する理論・実験として「ウィグナーの友人」が登場しました。
後に、このことを聞きつけた「スピリチュアリスト」たちが、「量子崩壊を自分に有利な方向に推し進めることで、人生を豊かにする」などと言い始めて、非科学的な雰囲気を持つようになりました。
しかしファインマンが言ったように「量子力学を理解しているつもりなら、おそらく理解していない」のではないでしょうか。
ノイマン、ウィグナー、パウリのような量子力学の創設者は、「意識」との関係を議論しましたが、スピリチュアリストのような集団のせいで、その真意が誤解されているのです。
ウィグナーも、「独我論っぽいからやだ」といって途中で意識との関連性について否定的態度を取るようになりました。
他の解釈を採用すると、量子デコヒーレンスや量子マルチバースを理解する必要があります。
しかしどの量子力学解釈を採用するのかによって、宇宙の終末は異なるものになる可能性があります。
意識によって崩壊する理論ではサイクリック宇宙論が可能かもしれませんが、デコヒーレンスによって崩壊することを想定する場合はエントロピー増大によって熱力学的死が待っているでしょう。
興味深く読ませてもらいました。そもそもこんな殴り書きにわざわざ言葉を綴ってくれてありがとうございます。
>一方で現実の戦争体験は反戦平和を訴えるという決まり切った文脈・パッケージでしか語りようがなかった。
こうした語りすら許されていないのが自死遺族だと思っている。だからこそ、
>我々は同じ空間を生きてるようでそれぞれ別の宇宙にいるということだ。
自分と同じ宇宙にいる人が本当に見つからない。自治体主催の当事者の会みたいなのも出たけど、ものすごく心が動いてしんどいから行かなくなった。(あと当事者の会の人間関係も気になるところがあった)
コメントを読んで自分でも返信を書いているうたに気づいたんだけど、自分は配慮してほしいというより、「配慮しろ!」と叫んだり、「被害者がいるんだから配慮したほうが良いのでは?」と知らん人に気にかけてもらえるのが羨ましいんだと思う。
変人のサラダボウル、なんかすごいジェネリックヒナまつりっぽいけどもう似たような作品が出てくるのは仕方ないと思うんだ。
だって先に生まれて来た人達が有利の世界じゃん。SF界隈とか宇宙モノとか書いたら〇〇理論はウンタラとか言って叩かれるんだからホント大変だと思う。
戦争を体験した世代、眼の前で戦友がバラバラのグチャグチャになったり家族全員黒焦げになったり自分自身も体が不自由になったりしたその人びとは
戦争は絵空事のフィクションの種としてさんざん消費され、一方で現実の戦争体験は反戦平和を訴えるという決まり切った文脈・パッケージでしか語りようがなかった。
その莫大なフラストレーションや怨念はどこに行ったか?といえばどこにも行かなかった。それぞれがじっと抱えて生きて死ぬしかなかった。
「戦争体験に比べれば自死遺族なんかあまっちょろいよ」という話をしてるわけではない。
我々は同じ空間を生きてるようでそれぞれ別の宇宙にいるということだ。多重露光みたいに別々の世界が重なって見えているだけなんだ。
上っ面の「配慮」なんてあってもなくても大した違いはない。
「"ビットから来ている" これは異例の理論で、情報がすべての存在の根底にあるという仮定から始まる。
すべての存在の根底にあるのは情報である。私たちが月や銀河や原子を見るとき、その本質はそれらの中に保存されている情報にある、と彼は主張する。
しかし、この情報は、宇宙が自分自身を観察したときに存在するようになった。
彼は宇宙の歴史を表す円形の図を描く。宇宙の始まりにおいて、それは観察されたから存在するようになった。
つまり、宇宙の情報("ビット")が観測されたときに、"それ"(宇宙の物質)が誕生したのである。彼はこれを「参加型宇宙」と呼んでいる。
私たちが宇宙に順応するのと同じように、宇宙も私たちに順応し、私たちの存在そのものが宇宙を可能にしているという考え方である。」- ミチオ・カク
もちろん、政治とは無関係で、学ぶことが楽しい分野はたくさんあります。以下にいくつかの例を挙げてみます:
- 数学:数学は純粋な論理とパターンを探求する学問で、政治とは全く関係ありません。また、数学の美しさと深さを理解することは、多くの人々にとって非常に楽しい経験です。
- プログラミング:コンピューターサイエンスとプログラミングは、創造性を発揮し、問題解決のスキルを磨くことができる分野です。また、自分のアプリケーションやウェブサイトを作成することは、多くの人々にとって楽しい経験です。
- 音楽:音楽理論を学び、楽器を演奏することは、芸術的な表現と創造性を追求する楽しい方法です。
- 天文学:宇宙の神秘を探求する天文学は、新しい視点を提供し、私たちの存在についての理解を深めることができます。
これらはあくまで一例であり、他にも多くの分野があります。あなたが何に興味を持つか、何を楽しむかは、あなた自身が最もよく知っていることです。興味があることを追求することで、学びはより楽しく、有意義なものになります。どの分野を選んでも、新しい知識とスキルを得ることは、自己成長と達成感につながります。それぞれの分野が提供する独自の視点と方法論は、私たちが世界を理解する方法を豊かにします。
数学は、例えばZFCの無限の公理を取り入れるかどうかにおいて政治的です。プログラミングはgithubで政治的に評価されます。音楽の評価も政治的です。天文学も、どの理論が評価されるかという点で、一部の学者は非常に政治的態度を取ります。
ご指摘の通り、学問の中には政治的な要素が含まれることがあります。それは、どの理論や方法が受け入れられるか、どの研究が資金を得られるか、どの成果が評価されるかなど、多くの要素が関わってきます。しかし、それらは学問の本質ではなく、人間がその学問をどのように運用するかによるものです。
例えば、数学の中にはZFCの無限の公理のような議論がありますが、それは数学そのものが政治的であるというよりは、その理論をどのように受け入れるか、どのように適用するかという問題です。同様に、プログラミングがGitHubで政治的に評価されることがあるとしても、それはプログラミングそのものが政治的であるというよりは、その成果がどのように評価されるかという社会的な問題です。
音楽や天文学も同様で、それらの分野が政治的であるというよりは、その成果がどのように評価され、どの理論が受け入れられるかという社会的な問題です。これらの問題は、学問の本質からは離れたところで起こるものであり、それぞれの学問が提供する知識や洞察、喜びを否定するものではありません。
したがって、政治的な要素を排除したい場合は、自分自身の学びのプロセスに集中し、自分が得た知識やスキルをどのように適用するかを考えることが重要です。
先日のタイミー増田と今日のホッテントリタイトルの不登校児予測AIを見て気づいたんだけどさ、
人間の不幸って人間が人間を評価するところから来てるんだと思うわ。
タイミー増田みたいに、ハンディースキャナーに次の荷物までの制限時間とか積み込み速度とか全部モニタリングされて評価されるのって、すげえ楽しいと思うよ。
でも、おなじことを人間にされると、たぶんすげえムカつくんだろうな。
人間のやることだから、どうしても色眼鏡とかえこひいきとか入るんだよな。