はてなキーワード: 火垂るの墓とは
小学生の時に一度見たことがあったが、体中を包帯でまかれた母親の姿がトラウマになり、それ以来怖くて見るのを避けてきた。だから私にとっては、実に数10年ぶりという事になる。
世間一般では蛍の墓は「反戦映画」と言う事になっている。空襲で母を無くし、残された兄と妹二人が、戦争という環境下で必死に生きる姿を描く壮絶なドラマ。劇中、栄養失調で妹の節子が死に、駅の隅で兄の清太が野垂れ死ぬ時、だれしもが涙し戦争の愚かさへの痛切なメッセージを受け取る、と言う事になっている。
しかし、今日改めて見たら全然印象が違った。私は「蛍の墓」という映画について根本的な誤解をしていた。たしかに戦争は舞台装置として使われているが、これは「反戦映画」なんかじゃ全くない。もっといえば、「戦争」という時代は「蛍の墓」の話の本筋には、ほぼ何もつけ加えていない。兄と妹が息絶えるという悲劇的なラストも、戦争のせいではなく、単に彼らが「俺たちに明日はない」のような放蕩生活を送っていたからに過ぎない。
親を無くし、空襲で家を焼かれた彼らはおばさんの家に厄介になるが、やがて「働きもせず飯を食べてばっかりいる」彼らに、おばさんは苛立ちを募らせてゆく。兄と妹は居心地の悪さを感じるようになる。我慢の限界に達した兄の清太は妹を連れ出し、おばさんの家を離れる。いわゆる、逆ギレという奴である。家を追い出されたわけではない。清太自ら「居心地のいい場所」を求めて無計画に家を飛び出すのである。やがて、小さな洞穴を新しい我が家とし、外界との接触を一切断ち、二人だけの生活を始める兄と妹。兄は、そこら辺にある蛙をとったり、畑から作物を盗んだりして、食いつなぎながら穏やかに暮らすが、そんな生活に幼い妹が耐えられるわけなく、やがて妹は、栄養失調で死にいたる。
重要なのは、彼らの命の選択権は「戦争」にあったのではなく、彼ら自身にあったということだ。言い換えれば、二人は「死」という結末にならなくてすむ選択肢も取りえた。たとえば清太は、終戦まで我慢しておばさんの家に留まることもできたし、別に働き場所を見つける事は可能だった。途中でリンチされる清太を助けてくれた警察官に理由を言って救いを求めたら、違う結果にもなったはずだ。唯一、「戦争」そのものがストーリーを動かしている所といえば、空襲で母親が被爆し不条理に命を奪われる冒頭の約10分だけで、その後ストーリーの牽引役は完全に兄の清太の(自己破壊的な)行動にある。
そうならば、妹の節子を殺したのは実質的に、兄の清太だといっていい。しかし清太自身は、自分の身勝手さに妹は巻き込まれたのかもしれない、という可能性には全く気付いていない。少なくとも、燃え盛る妹の死体を見つめる兄の視線からは微塵の「自責」の意識も見られない。そこには、ただ、自分の道なんかを信じちゃって進まんと決意しちゃうまっすぐな瞳がある。私は、このまなざしをみた時、吐き気がした。それは、小学校の時感じた戦争のグロシーンに対してのそれとは全くちがうタイプの、この映画による2回目の吐き気だった。
繰り返すが、これは戦争映画ではない。戦争それ以前に、社会において人と折り合っていくことを拒み、自分が他と独立な法則にしたがっていると信じ、完全な自足の道を求めようとした若者がたどってしまう足跡の映画である。実際、この映画を手がけた高畑監督自身も、口すっぱく「これは戦争反対の映画ではない」といっていたようだ。それが”戦争の悲しさを伝える映画”として流布されたのはおそらく、プロモーションサイドの暴走であろう。
確かに、「蛍の墓」は悲劇だ。ただ、この映画において結果的に悲劇をもたらしたのは戦争ではなく、この頑なで、近視眼的な若さのようなものである。泣けるっちゃあ、そこで泣ける。
すなわち、問われるのは「戦争」ではなく、「道徳」であろう。少なくとも、私が戦争被害者ならこれを反戦映画と認めないだろうし、私が教師なら上記の文脈において教え子の小学生に見せて伝える。
http://twitter.com/#!/zaway
僕は中学一年生、まだ12歳だった。いいことばかりではなかったはずだが、今振り返ってみると、毎日笑ってばかりいたことだけが思い出される。部活に熱中し、友達にも恵まれ、告白なんてできなかったけれど、小さな恋もしていた。楽しい日々だった。未来のことなんて考えもしなかったけれど、ただ明日も、その次の日も、今日のように、昨日のように、笑って生きていくのだと思っていた。
夏休みに入る前の週くらいに、小学校一年生の従姉妹がやってきて、夏の間中、うちに滞在することになった。
小さな従妹ははにかみ屋で、しばらくはもじもじしていたけれど、すぐにうちにも馴染んで、僕のことを「お兄ちゃん」と呼んで、まとわりつくようになった。僕の両親も、姉も、従妹を可愛がり、相手をしてやったが、そういう点では一番邪険な僕に特になついていたのが不思議だった。僕もそう意地悪な少年ではなかったと思うけれど、少年は少年なりに忙しかった。部活もあれば男同士の付き合いもあり、そうそう従妹の相手をしているわけにはいかなかった。
夏のある日、ふと空いた一日に、だらだらと寝転がってテレビでも見ていたら、暇ならば従妹を映画につれていけと母が僕に命じた。従妹は最近、公開されたばかりのアニメ映画「となりのトトロ」を見に行きたいのだという。たまたま僕以外の人の手がふさがっていて、まあ僕としても、いつもいつも愛想よく従妹に付き合っていたわけではないから、罪滅ぼしの気持ちもあって、従妹と二人、映画館に出かけた。
まだ、ジブリ映画が国民的な動員力を獲得する前のことだ。映画館はわりあい空いていて、お菓子を食べながら僕と従妹はトトロを見た。
ラピュタは好きだったが、トトロは子供向けだなあとその時の僕は思った。その一年か二年前に、休日の父をせかせて、ラピュタを見に行った僕だったのに、もうそろそろアニメの魔法を心からは信じないようになっていた。従妹の表情はスクリーンの変化に合わせてめまぐるしく変わり、どちらかというとそちらを見ていた方が面白かった。
トトロを見終わって、僕は従妹に聞いた。
「もう一本あるんだって。えーと、ひたれるの墓?暗そうな映画だなあ。どうする?もう帰る?」
「ううん、みたい。みていっていいでしょ?」
それは僕くらいの年齢の男の子と従妹くらいの年齢の女の子の話だった。作画が公開に間に合わなかったらしく、一部が描線のまま映し出されていた。普通に考えればジブリの黒歴史と言うか、前代未聞の汚点(なにしろ未完成品を映画館にかけておかねをとったのだから)と言ってもいいと思うのだが、そんなことは気にならないくらいに僕はその映画に引きずり込まれていた。
誰が想像するだろう。トトロの次に上映される映画が、あんな作品だなんて。
今この歳になって考える。なぜジブリはあの時、あの作品を作ったのだろうかと。ああいうテイストの作品はその後はジブリは作っていない。安心安全のジブリブランドだ。他のジブリの映画の好き嫌いを僕は即座に言える。一番好きなのはラピュタだ。でも火垂るの墓は。好きなのか嫌いなのか分からない。二度と見たいとは思わない。でも、場面の細部まで、あの夏のあの映画館のように、今でも頭の中で上映できる。
とにかく、火垂るの墓を見終わった後、僕たちは疲れ切っていた。そのまま映画館の座席にうずくまっていたかったけれど、そうもいかなかったので、僕は従妹をおぶって、またバスに乗って家に帰った。帰ってすぐに、飯も食べずに僕は寝た。
8月も終わるころに、従妹の父、つまり叔父が死んだ。末期のガンだった。叔母が看病に専念するため、従妹をうちに預けていたことをその時になって僕は初めて知ったが(叔父が入院していたのは知っていたがそんなに悪いとは聞いていなかった)、従妹は知っていたのだろうか。
葬儀の際中、従妹は僕を隣に置き、ずっと手を握っていた。たったふたりきりで生きようと思ったあの少年と女の子のように。
先日、三十路のその従妹がようやく結婚した。もう結婚しないのかと思っていたが、どこからか朴訥な年下の青年を見つけてきて、あれよというまに披露宴を開いていた。花嫁衣裳を盗み見に行った時、何を思ったか、僕の手を握って、従妹が言った。
「ねえ、お兄ちゃん、あの時、手を握ってくれていてありがとう」
あの時ってどの時?と僕は疑問に思ったが、野暮なことは言わずにうなづいていた。分かったふりをするのがいいことは人生にはいくらでもある。もちろん僕は彼女に幸せになって欲しいと思ったけれども、先のことはわからない。けれども生きていればとにかく人生は続いてゆく。それはどうであれ、おしまいになるよりはいいことなんだろう。
記憶はただ頭の中にだけあるのではない。夏のにおい。まぶたに焼付くような熱い色。いつか彼女は、夏の日に夕焼けを見ると、彼女をおぶったあの夏の僕の背中を思い出すと言った。体温や匂い。いろいろを。その中に彼女は、小さな女の子だった時の、あの日々の思い出を縫い付けている。笑ったり、泣いたり、どうしようもなくてたちすくんで、ただそばの人の手を握ったりしたあの日々のことを。
たとえ趣味だろうと物語創作を行ってみるとわかるけど、作者の意図ってのは結構磨耗する。よく「キャラが勝手に動き出す」みたいなことを言うけどそんな感じで、物語序盤はともかく、それなりに書き進んで、登場人物の性格や性質や心情や信条なんかが固まってくると、「ああ、こいつはこの場面では絶対こういうことは言わないな/しないな」「こいつはこの場面では絶対こういうことを言うな/するな」みたいなのがどうしようもなく固まってしまって、作者のやりたいようには動かせなくなったりする。少しマイナーな例だけど、漫画『ブラックラグーン』の作者さんが、単行本2巻収録の話で(主人公格の)ロックが作者の手を離れるくらいにどんどん暴走してどうなるかと思った、みたいなことを仰っていたけれど、そんな感じ。ロックなら、こういう時にこういうことを言う、こういう時にこういう行動を取る、それも”絶対に”だ。だから、作者が最初は違うふうに話を持っていく予定だったのに、ロックが絶対にそう言って/やってしまうから(そしてまた、それに対するレヴィの反応も”絶対に”だから)、こういうふうな話にしかならなかった―――キャラクター達が半ば作者の手を離れて、「こういう話」を作り出してしまった。
極端な話いうと、キャラクターと舞台設定をしっかりしておけば、後はなかば「自動的」なんですよね。この状況にこういうヤツラが入り込んで、関係性はこれで持ち物はそれでスキルはあれで人脈はああであるのなら、少なくとも細かい所は作者の意図関係無しに動くことができる―――というより寧ろ状況と場合によっては、作者の意図をどうやって自然に介入させるかが難しいくらい。
ということで、まあ上の導入部とはあんま関係ない本題なのですが、国語のテストにありがちな「(この文章の)作者の意図を記せ」みたいな問題は、その意味としては正しくない。まず当たり前ですが作者の意図が十分と言えるほど文章に載ることは多くはなく、次いでそれでも文章に載った作者の意図を十全に読み取ってもらえる可能性も多くはなく、そもそも作者の意図を作者自身が完全・完璧・文章のあらゆる部分一語一句においてまで分かっていること自体多いとは言えず、さらにその意図も一つ二つとは言わず時には矛盾も孕む複数の分裂したものである場合も少なくないでしょう。
つまり、まず作者自身が己の意図を分かっていてそれを十全に文章に移せているかという問題と(勿論ここでは意図以外のものは文章に存在しない方がよいw)、読むほうがそれを完璧に読み取れるかという問題がある。……しかし書いてて思ったけど「意図」を伝えたいだけなら小説というスタイルは不便すぎるだろう。
そこから「意図」に関しては必ずに「誤読」が生まれる(可能性があり続ける)。その辺はバルトの「作者の死」を持ってくるまでもなく(「作者の死」が何かを知りたい人は「化物語」のあとがきが簡単に説明してくれてるからそれ読むといいんじゃないかな)、有名な火垂るの墓原作者のやりとりとか読めばいいんじゃないかな(学校で「『火垂るの墓』の作者はどんな気持ちでこれを書いたか」みたいな宿題を出された孫が原作者であるお爺ちゃんに聞いたところ、「締め切りに追われてヒィヒィ言いながら書いてた」と答えた、というもの)。
つまり、作者の意図なんて案外そんなもので、無くても物語は生まれる。全てに意図や気持ちを孕ませることは逆に難しいくらいで、ある程度以上は半自動的に、作者の手を離れながら生まれていく。小説に限らず、どんな場合でも、ついつい「意味があるなら意図もある筈」と勘違いしてしまいがちですが、実際は意図なんて無くても意味は生まれます。てゆうか受け手が生んでいます。
ただ、この『火垂るの墓』の事例、学校の先生が聞いてるのは「本当の作者の意図」ではなくて「文章から読み取れる作者の意図」であって、そういう意味では「原作者の答え」すら間違いでしょう。ここで求められているのは、この先生の設問は、「これを書いた人は何を思っていたか」ではなく、「何を思っていたらこれを書くか」ということ。国語のテストというのは大概そうですね。ある意味ちゃんと作者の死を踏襲しています。求めているのは”本当の作者”の気持ちではなく、テクスト上の作者、モデル作者、想定された作者の気持ち。「こういうことを書く(言う)奴は、ああいうことを考えてる」、なんてことをテストは問いてるわけです。ということはつまり、ここにおいて読者=国語の授業を受けるもの・国語のテストを受けるものは、ある意味、モデル読者になろう、想定された読者になろうという試みでもあるんじゃないかと思うのです。「こう言ったら相手はああ受け取る」「ああ言ってるということは奴はこう考えてる」ということを深める為のコード認識の作法。というか寧ろ、これは発話者の方に比重が置かれてるかもしれませんね。「私が○○を伝えたい時は、別にそんなことは言いたくないけど、××と言えば効果的に伝わる(相手が気持ちを「想定する」)」みたいなことを教えてくれる、いや、構築してくれる。
共通認識として。
僕ら他人の気持ちを当たり前のように分かってかつ分からないつもりですけど、ホントはもっと「分からなくても」おかしくないんですよ。「べ、べつにあんたの為じゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」というのを、文字通りの意味ではなく、好意の裏返しと取れるのも、これは「ツンデレ」だっていう共通認識があるからでしょう。好意の裏返しを伝えたい時は、こう記せばいい、という作法。これをツンデレと読んで正解・これはツンデレと読まれて正解だと、送り手も受け手も共に想定している。もちろん、それは極端な話で、文脈によって変わりますが。
えー、ということで、国語のテストが求める「作者の意図・気持ち」というのは本当の作者ではなく想定された作者のものであって、さらに言うと「登場人物の気持ち」みたいなのも、本当のソイツの気持ち(そんなことは誰にも・当の本人にも分からないかもしれない)ではなく文章から想定されるソイツの気持ちが求められているのであって、そんで僕らはそういうふうに「言葉の遣い方と読み方」を学んでいるから、気持ちの伝え方とか、気持ちの読み方とか、ツンデレとかをあんがいと理解できてるんじゃないかなーとか、そういう話でした。
1993年 若草物語 ナンとジョー先生(1987年に放送された、『愛の若草物語』の続編), 機動戦士Vガンダム
1994年 七つの海のティコ(1994年3月20日放送の9話まで)ハウス食品の一社提供だったのはここまで
1994年 七つの海のティコ(1994年4月17日放送の10話から)
| タイトル | 監督 | 公開日 | 時間 | 配給 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 天空の城ラピュタ | 宮崎駿 | 1986年8月2日 | 124分 | 東映 | |
| となりのトトロ | 宮崎駿 | 1988年4月16日 | 86分 | 東宝 | 『火垂るの墓』と同時上映 |
| 火垂るの墓 | 高畑勲 | 1988年4月16日 | 88分 | 東宝 | 『となりのトトロ』と同時上映 |
| 魔女の宅急便 | 宮崎駿 | 1989年7月29日 | 102分 | 東映 | |
| おもひでぽろぽろ | 高畑勲 | 1991年7月20日 | 119分 | 東宝 | |
| 紅の豚 | 宮崎駿 | 1992年7月18日 | 93分 | 東宝 | |
| 平成狸合戦ぽんぽこ | 高畑勲 | 1994年7月16日 | 119分 | 東宝 | |
| 耳をすませば | 近藤喜文 | 1995年7月15日 | 111分 | 東宝 | 同時上映『On Your Mark』 |
| もののけ姫 | 宮崎駿 | 1997年7月12日 | 133分 | 東宝 | |
| ホーホケキョ となりの山田くん | 高畑勲 | 1999年7月17日 | 104分 | 松竹 | |
| 千と千尋の神隠し | 宮崎駿 | 2001年7月20日 | 125分 | 東宝 | |
| 猫の恩返し | 森田宏幸 | 2002年7月20日 | 75分 | 東宝 | 同時上映『ギブリーズ episode2』 |
| ハウルの動く城 | 宮崎駿 | 2004年11月20日 | 119分 | 東宝 | |
| ゲド戦記 | 宮崎吾朗 | 2006年7月29日 | 116分 | 東宝 | |
| 崖の上のポニョ | 宮崎駿 | 2008年7月19日 | 101分 | 東宝 |
風の谷のナウシカ…わけわからんつまらん。これジブリ作品と違うけど入れとこう。
天空の城ラピュタ…娯楽活劇してて良い。
となりのトトロ…大好き。冒頭の新しい家でサツキとメイがはしゃぐシーンが最高。
魔女の宅急便…大好き。少女の成長譚をシンプルに描いてるところがいい。映像もグルグル動いて楽しい。最初に他の魔女と話すところが好き。ニシンのパイって実際不味そう。
おもひでぽろぽろ…あーあー田舎は素晴らしいですねそうですね都会のOL生活は寂しいですね、笑わせるな。
海がきこえる…登場人物のファッションに時代を感じる。主人公と委員長っぽい男の友情が好き。
On Your Mark CHAGE & ASKA…自分の頭が悪いのでよくわかりませんでした。
耳をすませば…生まれてからずっと非モテだけどけっこう好き。憧れる。
もののけ姫…退屈過ぎてみてるのが苦痛だった。何なのこれは。
千と千尋の神隠し…上と大体同じ。
A Successful Failure - 『火垂るの墓』に対する最も参考になる米Amazonレビュー
あんまり高評価のばかりでもバランスが悪いので、そうでないのも訳してみた。
(エントリ下部に追記あり:8/12)
53 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
「とても失望した・・・」2003/11/4
By "cgharoth" (Richmond, VA United States)
私はこの映画を「世界各国の批評家に賞賛された力強い反戦映画」というAmazonのレビューどおりのものと期待して購入した。確かにこの映画は人間の本性のあまり感心できない部分について描いた映画として見る事が出来るが、その内容と演出は反戦映画とはとても言い難いものだ。
この映画は空襲によって家を壊された少年とその幼い妹についての話だ。もっとも、オープニングの場面で既に、最後には彼らは二人とも死んでしまうことが明らかにされるのだけれども。
映画の初期の場面では、少年とその妹は親戚の家に滞在しており、その親戚はあからさまに彼らの滞在を疎ましく思っている。
少年は妹と遊んでいるだけで仕事をすることを拒否している(これがその親戚が彼らに家と食べ物を提供するのを嫌がっている唯一の理由だ。)のだが、彼が自分自身の扶養を助けるのではなく家を出ることを決めたことは、悲劇的なこととして描写されている。公式の解説では、彼の最も口うるさい叔母が彼ら2人の扶養を嫌がるのは「欲張り」だとしているが、これは戦争のこの段階においては食べ物と資源が不足しているという事実を無視している。彼女が少年に頼んだことは、村を助けるために、彼が与えられている食べ物と避難所の分の働きをしてほしいということだけなのだ。
映画の後半では、彼の妹が栄養不良から病気になってしまう――これは最も悲しい場面とされていて物語の転換点でもあるのだが――しかしその演出効果は、少年が単純に親戚に謝ることも出来たという事実によって台無しになってしまう。親戚は彼が戻ってくることに対して良い顔はしないだろうが、しかし確実に戻ることは許しただろう。ある農民は少年をそう諭しさえしたのに、彼は戻ることを拒否した。その後に起きたことは他の誰の過失でもなく、彼自身のものだ。
この映画を見ていて唯一私が心に抱いた感情は、少年が彼のプライドを捨てて妹の命を救おうとしないことに対して募っていくフラストレーションだった。映画において、登場人物が自身の命をいつでも救うことが出来るのに、それを拒否することほど痛ましいことはない。
この映画の戦争に関する非常に偏った描写は、物語が進むにしたがってその筋書きがより戦争とは関係のないものになっていくことで更に不鮮明になっていく。
公式の解説で用いられている「(戦争)犠牲者が耐え抜いた不必要な苦しみ」という言い回しも、この物語に関する不正確な説明の一つだ。少年とその妹の苦しみは確かに不必要なものだったが、しかしそれは少年がその苦しみをいつでも止められたという意味においてだ。戦争は、彼自身の判断――プライドを捨てて仕事を分担するのではなく、苦しんで死ぬことを選んだこと――とは何の関係もない。
追記(8/12):
こういう背景も↓
このレビューの指摘はもっともであるし、評者は正しくこの映画のテーマを読み取っている。しかし、それをもとに映画の評価を下げるのは間違っているのではないか。
「火垂るの墓」に関する低い評価(米Amazon) - ちょさかのひとりごと
(ぶくまページ経由)