はてなキーワード: 自己批判とは
なんか適当に反論してレスバしかけようかと思ったけど、思ったより的を射たこといってて賛同するしかなくなったわ
結婚相手とか真剣な相手となると中身を重視するけど遊ぶだけなら穴だけでいいしな
空っぽだと真剣な相手にはならないから穴しか求められないという地獄が出来るけど、穴があるから相手はなくならないし、真剣に付き合ってくれる相手はいないしで、自己批判と自省する機会がないから、空っぽのまま観測事例だけ増えてく
「おっさん」ってのは主人公的センチメンタリズムやシリアスさから最も遠い存在なので、意識してテンション下げて悩みを増やす事で「モブ化」しないよう心がけている。
テンション高いおっさんはあまりにも「おっさんというフォーマットからブレない」為、だんだん透明度が上がっていって背景の中に溶け込んでしまう。
こう自問自答するだけで、一気に主人公度はアップする。
透明なおっさんとおばちゃんに期待される「らしさ」とは「自己批判性の無さ」なのだ。
常に自己批判し、実際にその改善に向けて動いている(風の)態度を装えば、自ずとモブ度は減っていく。
「憂い」が大事だ。唐突に自嘲混じりにシリアスなセリフを言うイメージ。
大きな「悔い」を残して生きている感があるといい。
そして本当の主人公を庇って、何かを託して死んでいくのがいい。
うんざりした気分で一連の議論を眺めていたが、その中によい論考をみつけた。
そう、まさにそれが言いたいことなんだ。わーー 伝わってた!!
雨の日も風の日も弱者男性論を主張してきたが、今日初めて、辛くても続けてよかったと思えた。
(モテるモテないは)容姿・性格とか色々な要因のせいであり、異性が悪いとか国のせいだとかは思わない。自分に限らず世間全体だいたいそう思ってるでしょ。
でもこの構文で貧困とか低賃金みたいな社会問題を「お前の能力の問題」みたいに切り捨てることもできそうな気がして怖いんだよなー。
怖いんだよなーとは言ったけど、実際には「お前が稼げないのはお前の問題」みたいな発言はたいてい怒られるわけじゃん。少なくとも最近は。モテの話と違いがわからん。
違いなんてない、が俺たちの主張の出発点なんだ。
なぜかフェミニストと対立しているように言われがちだが、「個人的なことは社会的なこと」っていう彼女らの主張を俺たちもまた信じている。一人一人の行動にその人の価値観が現れて、それが社会に影響する。社会の価値観が個人に影響する。人間社会は1つの巨大なシステムだ。
日本でも遥か昔にはオッパイの大小なんてどうでもよくて面長な女性が好まれた時代があった。どんな異性を選ぶか? は文化の影響を強く受ける。文化は、社会だ。
披露宴の馴れ初め紹介で「はじめて会ったとき、おカネ持ちだな、と思いました」とか「乳房が大きいなと思いました」とか言う奴はいない。本当はみんな解っている。それは表で胸を張って言えないような邪悪な価値観だって解っている。
かねてから自己批判なき差別論はクソだと思っていた。反省の結果、自分もまた差別構造の被害者であり受益者でもあることに気づいた。だがもはや目を瞑って自身をあざむくことはできない。だから俺は批判する。何と言われようと。
社会問題と個人の自由を都合よく切り替えて救済対象から外すのはダブルスタンダードだ。欺瞞で保護された理不尽が、結果的に弱者男性を追い込んでいるんだ。
コメントの別の人の返信について。
ならば俺はネットで仲良くしていた異性が実際に会ってみて…
交際を打ち切るわ。でも相手がそれをツイッターで喧伝したら、お前らは容赦無く俺を総バッシングするだろ?
お前たちのそういうところが好きだ。
呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ | ハーバー・ビジネス・オンライン
https://hbol.jp/241894 @hboljpより
ブコメ→
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/241894
そもそもの発端が網野善彦先生であったというのに、網野氏が最も嫌悪した「党派性」でしか発想できない貧相なコメントが多いのは、憂うべき事態だわ。
網野氏がまず嫌悪したのはスターリンの「民族」観の転向により始まった1950年代の「国民的歴史学運動」で、運動内では、民族を近代の発明としていた歴史家たちは「近代主義者」として「査問」され「自己批判」を迫られた。
(まあ、査問された中には、元々のスターリンの公式に沿っていただけの人もいたかも知れないが)
国民的歴史学運動は、信じられないことに、1955年の権力闘争による日本共産党の方針転換、俗に言う六全協で終わりを告げる。
内部に葛藤を抱えない人間は、今でもこうした運動に乗せられてしまう。
北守氏の記事が深まらないのは、「歴史は誰のためのものか」という、網野氏もまた生涯をかけて葛藤し向き合った歴史学の問いに、「歴史修正主義者」というレッテルや、「つくる会と親和的かどうか」という軸だけで答えてしまう点だ。
「国民の物語」は別に、悪しきナショナリズムのためだけに求められるわけではない。
最低限のナショナリズムがなければ、「日本の歴史」を我が事として捉えることも不可能になってしまう。
なぜ戦後間もない時期に、それが盛り上がったのか考えてみたことはあるのだろうか。
その意味で求められる「国民の物語」に接近するだけで、「歴史修正主義者」のレッテルを貼るのは、およそアカデミシャンのする事ではない。
網野氏だけでない、呉座氏も亀田氏も、そして今回は被害者である北村氏も、その「国民の物語」に対する葛藤を理解して発言していた。
北村氏は網野氏について「ロマンティックがとまらない」としていたが、このロマンこそ国民の物語に対する距離感だ。
網野氏はそれこそ「実証的でない」という評価を受けることの多い歴史家ではあるが、北村氏をしてなお「その愛と情熱、ロマンティックが分からないのも問題だ」としている。
全くその通りだ。
北守氏の限界は、つくる会やラムザイヤーを「悪」の運動とし、その運動を無力化するためだけに論を張ってしまう所にある。
【追記】
分かっていての揚げ足取りだろうし、こんな説明をするだけ野暮だけど、
いわゆる「歴史修正主義者」は大問題ですよ。実証性に欠けることが多いからね。
北守氏は、
⑴
・いわゆる典型的な歴史修正主義者と「国民の物語」という問題意識を共有した、あるいは関わりを持った
だけの歴史家について、「歴史修正主義者だ!」と一段跳びに断定してる。
『映画秘宝』の元・編集長による恫喝DM事件が発覚した当初、一部の『映画秘宝』関係者が「映画を観て、差別に反対し、社会の不正や権力に立ち向かう姿勢を学んでいたのに云々」といった主旨の言葉を述べていましたが、果たして本当にそうでしょうか?若い読者の中には信じてしまう人たちがいるかも知れないので、元・愛読者の一人だった私が記憶に基づいて(と言うのも手持ちのバックナンバーはほとんど処分したので)、これについて反論のような事をポツリポツリ試みたいと思います。
『映画秘宝』が現在のサイズになって間も無い当時『映画秘宝』は、自民党政権を援護射撃するメディアの一つでした。これは何も『映画秘宝』に限った話ではありません。当時は、例えば『ミュージックマガジン』の故・中村とうようが「自民党を壊してくれるなら小泉純一郎を支持する」と公言していたように、小泉政権を支持する反・権力系メディアやその関係者は珍しくなかったのです。
同じ頃『映画秘宝』は、当時の秋田書店の漫画雑誌『少年チャンピオン』で連載されていた漫画『アクメツ』を誌上で紹介した上で「この漫画は傑作なので『映画秘宝』の読者も読んで応援しよう!」と推薦していました。ご存知ない方の為に解説すると漫画『アクメツ』は、小泉純一郎をモデルとする政治家(※ハンサムに描かれる)が行う改革を応援する為に、主人公である高校生テロリストが改革に反対する勢力の人間たち(※こちらは醜い外見で描かれる)を殺害しまくる(しかも、その殺害の模様を映像で配信する)と云うのが大まかなストーリーです。
それだけではなく『映画秘宝』の読者投稿欄では「映画の中で公務員が死ぬ/殺される場面が出てくると、映画館で拍手喝采します」と云う内容の手紙を掲載したり、映画紹介記事の中に「公務員の奴らは他の仕事に就くことが出来なかった無能たち」という文を態々差し挟む形で書いたりと、当時の小泉改革により巻き起こった公務員バッシングの風潮に『映画秘宝』は全力投球で乗っかっていました。公務員バッシングをしてくれる雑誌メディアの一つとして『映画秘宝』を愛読しているネットウヨク的な人間たちも、当時は少なくなかったのではないでしょうか?少なくとも、読者投稿欄などに「小泉改革に乗っかって浮かれるのは止めた方が良い」という意見が載る事や、ライター内部からの批判記事が書かれたは無かったものと記憶しています。
町山智浩は小林よしのりに対して「ネットウヨクたちを生み出した責任を取れ」と批判したようですが、四人がかりで女性1名を標的にパワハラを行うような町山智浩たちが作っていた『映画秘宝』に対して、私は「貴方たちが過去に行った自民党政治への援護射撃の責任を取れ」と言いたいと思います。
奈良さん・小沢さん・ギンティさん・市川さんたちからの告発を受けた町山智浩ら4名は、近年『反・権力』の姿勢を盛んにアピールしていましたが、私の目から見ると「ナチスの戦犯が過去を隠して戦後を生き延びた姿に似ている」と思います。仮にも『反・権力』を謳うならば、過ちを犯した時には自己批判して、反省する事が肝要でしょう。それが出来ない、他人に厳しく自分たちに甘い町山智浩ら四人は、決して「反・権力」や「不正と戦う」と云う人間たちではないと私は思います。
元『映画秘宝』愛読者だった私。家族に『映画秘宝』を読むことを勧めてしまった私。この私にも『映画秘宝』のモンスターを育てた責任は有ると思う。だから、元・読者の一人として、恫喝DM事件の被害者に謝罪します。こんな人たちを批判するべき時の過去の時点で批判する事を怠り、彼らを増長させて育ててしまい、その結果として貴方を傷つける事態を招き、本当に申し訳ありませんでした。
今なお町山智浩ら四人に心酔しきっている状態の私の家族の洗脳をたとえ解けなくても、他の誰かの目を覚ます事はできるかも知れない。そのような一縷の望みを託して、読者だった当時の記憶を記しました。見出しに(1)と付けたので、気力が湧けばまた何か書こうと思います。悪文によるお目汚し、失礼致しました。