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はてなキーワード: ポリティクスとは

2020-03-25

anond:20200325092755

政権批判ネタになるから持ち上げてるだけで、男が一人死のうがそれ自体別に何とも思ってねえのがバレバレからでしょ

アイデンティティポリティクスのツケだと思って諦めなさいな

2020-03-02

anond:20200302185407

から金持ちの家に生まれて一流大学を出ようがゲイ女性であるというだけで弱者なんだ、弱者とはそういうものなんだっていうのが今流行りのアイデンティティポリティクスなんでしょ

正直バカバカしいという以外の感想がないが

2020-02-16

anond:20200216195231

女性という属性をそういう神聖にして侵されざる概念だと思ってるフェミニスト結構いるっていう話よ。

アイデンティティポリティクス全体の問題だけど。

2020-01-05

anond:20200104131745

どこにいても言うべきことは目に入ったときに言うのは大事じゃないかなと。フェミニズム実践ってそういうものだし。あとね、二元軸のアイデンティティポリティクス無限増殖弊害が大きいことも明らかですから

2019-10-28

最近見かけた属性に基づくジェンダー議論について

男子理系大学院生です。

@misssfc2019_no7さん(ραοさん)と@54nano_fairyさん(なのさん)のTwitter上での会話を見て、漠然ジェンダー論に興味があったものの何も勉強してこなかったので少し勉強し、考えたことをまとめようと試みています。ややραοさんの発言を多く引用します。これは僕の感覚がなのさんに近く、ραοさんの発言の主張に納得しづらい部分があったため、それを解釈したいと考えたからです。

納得行くところまで整理出来ていないので、「その主張は◯◯の部分が誤りである」「せめて◯◯は読んでから出直せ」などの指摘をいただけると僕が嬉しいです。

あとアホほど長いので暇な人だけ読むと良いと思います

=====

1.最初議論

僕が認識している最初議論の始まりは、ραοさんの

男性フェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分ジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ

というツイートに対して、なのさんが

これこそセクシズムなんじゃないですか?

と問うたところです。

このツイートから任意男性は、フェミニズムを理解しているならば(フェミニズム性を有しているならば)、あるフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」ジャッジ出来ると考えない、とραοさんが考えていると僕は読み取りました。

これに対し、この主張には「男性が」ジャッジすることに非フェミニズム性がある、というような非対称性があるように見える、となのさんが疑義を唱えたように僕は読み取りました。

その後の議論でραοさんは

マイノリティの中でも"真のマイノリティかそうでないか"とジャッジ一方的にするというのももちろんおかしなことです。

と述べられています。これはフェミニズムの話に限った際、女性ジャッジすることにも非フェミニズム性があるという主張と同値かは僕の目には明らかではないです(おかしなこと、というのがどのようなおかしくなさに違反しているのか自明でなくないですか?)。僕は議論の流れから、ραοさんは男性ジャッジする際の非フェミニズム性とはやや異なる「おかしなこと」と考えているのではないかとお見受けしました。

これは、なのさんの

マイノリティの中でも一方的ジャッジをはおかしなことである」というのならば、なぜ最初発言でわざわざ「男性が」「性的マジョリティが」と強調したのでしょうか?

という質問に対するραοさんの

マイノリティの中での話とはまた違う構造があるからですよ。これを同じと言ってはいけないと思いますマイノリティ同士のコミュニケーションにおいて生じる問題と、マジョリティマイノリティに対し行う言動に生じる問題は異なります

という発言を受けて思ったことです。

ραοさんの発言は、マジョリティである男性ジャッジすることはマイノリティである女性に対する圧力となるため非フェミニズム性があり、マイノリティである女性ジャッジすることは(圧力があるにせよ)非フェミニズム性とは異なるおかしさ(例えば他人内面を決めつけることの失礼さ?)があるという意味ではないですか?男性女性が非対称な権利を有している現在規範を改めようとするフェミニズムに対し、マジョリティである男性一定フェミニストの主張は非フェミニズムであり新たな規範として認めるべきではないと主張するのは、女性に対する圧力として働くものであり、非フェミニズム性があると。

なので、女性に対する圧力存在暴露とその解消を目指す文脈で、(その活動における)障害存在批判する際に男性によるジャッジが強調されるのは非対称だが筋は通る(一貫した主張である)かなと思いました。(なのさんがのちに運動のための理論であるように感じて好きではないと言われていたのもこの辺りのことが引っかかってかなと思いました。)

この後ραοさんとなのさんの主張は最初議論とはやや異なる内容の議論(女性マイノリティであるということの意味議論の進め方等)と共に一定解決を見ずに終わったようで燻ったような状態に落ち着いたように見えます。他の内容についてはここでは触れません。

2.途中の感想

フェミニズムの議論はたびたび大きな話題になりますが、話題になるフェミニズムは(筋の通る通らないの程度によらず)やや論理的に整理されてない主張が目立つように僕は感じていました。今回の件でもいくつか整理が不十分だと感じる点はあり、例えばραοさんの最初ツイートの下で述べられる

これって普通に男女以外でも考えてみてほしい。マジョリティであるシスジェンダー異性愛者がセクシャルマイノリティに「この人は真のセクシャルマイノリティか、エセか」とか言うのめちゃくちゃおこがましくないですか?障害者に対して「真の障害者か、エセか」とか。何様なんだろうって私なら思うよ。

圧力という考え方があまり見受けられないので良い例示ではないように見えます。これは他者内面(あるいは属性アイデンティティ)を決めつけることはおこがましい、自然感情として(普遍的に)おかしなことであると主張する話になっており、「男性が」ジャッジすることの非フェミニズム性の話にはそぐわないように思います。何様なんだろうと思う、という自然感情に端を発する主張のように記さず、セクシャルマイノリティ障害者の方に対する強い圧力として働く考え方である、というように記す方が合致するように思われます

整理が不十分であること自体はよくて議論とともに整理していけば良いと思うのですが、その後ραοさんはやや早計になのさん(及びなのさんに同調する人々)のことをミソジニストと決めつけてしまったように見えます。早計というのは、議論一定解決を見ないまま、ραοさんに「つっかかってくる」人をミソジニスト認定しているように見えるからです。実際には一定論理によりミソジニスト認定しておられるでしょうが、ここまで他者ジャッジすることのおかしさについて議論していたので、ダブルスタンダードに見えてしまますダブルスタンダード自体は主張の正しさを変えるものではありませんが、信頼できる議論相手かどうかという他者から評価には影響するので。実際これのせいで感情に寄りすぎている(論理的に整理されていない点を整理しないまま自分意見正当性を主張しようとしている)とみなされてしまっているということがあるのではないでしょうか?

3.自分が調べたり思ったりしたこと

僕は最初追っている時はなのさんの議論の方が身に馴染み、かつ筋が通っており、ραοさんの議論はやや筋が通らないように感じていました。しかしそれはフェミニズムを全く知らないためである可能性も十分高く、少し調べてから判断しようと思いました。現状では、今ある規範問題点を指摘し新たな規範を構築する際、新たな規範正当性をどのように確立すればよいのか分からなくなり、整理がついていません。

舟場 保之(2007)「ジェンダー哲学問題とはなりえないのか」『哲学』58 号 pp. 61-78(https://doi.org/10.11439/philosophy1952.2007.61)に、次のような話が載っていました(p. 65)。

アイデンティティポリティクスの主張は、その真理性なり正当性なりの論拠を最終的には当該のアイデンティティにおく。アーレントは、アイデンティティポリティクスに反対していたにもかかわらず、レッシング受賞講演において「ひとは攻撃されている事柄によってのみ、抵抗することができる」と論じている。このとき、「抵抗」のひとつの形として「現行の法」に対する異議申し立てが行われるとすれば、その異議申し立ての論拠は「攻撃されている事柄」におかれることになるだろう。ある「抵抗」の異議申し立てに対して、、「あなたはなぜそのように主張するのですか」と問えば、最終的には「わたしは○○に関して攻撃されているから」と答えられることになる。しかし論拠がこのようなものであるとしたら、この言い分に納得できるのは同じように〇〇に関して攻撃されている者だけであり、異議申し立ては〇〇に関して攻撃されている者にしか説得力をもたないことになる。だからこそ、このような異議申し立て無理解な者に対しては、「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」という言い方が(きわめてよく)なされるのだろう。アイデンティティポリティクスの主張は、アイデンティティに論拠がおかれるかぎり、アイデンティティが同一の者には説得力もつがそうでない者には説得力をもたないのであるしかも、論拠とされるアイデンティティが「反論余地のない事実であるなら、論拠を問題化することがまったく不可能になってしまうので、アイデンティティポリティクスの主張は反駁される可能性を原理的にもたない絶対的ものとなってしまう。

例えば宇崎ちゃんポスター話題などでも「普通に訴えてもお気持ち扱いされる」みたいな話を見かけました。これはまさに上記引用で触れられている、アイデンティティポリティクスの主張がアイデンティティを論拠とするために反論を許さず、そのためにアイデンティティが同一でないものに対しては説得力を持たないものとなる(反論不可能ものについては議論が出来ないので?)、という構造と同じものだと思います

宇崎ちゃんポスターの例では「性別Aの者を性別Bに属するものがあげつらったり、その性を利用したりすることは正しくない」というような公理のもと、それがA=女性、B=男性として宇崎ちゃんポスターにおいて行われていると判断され、問題のあるポスターとして指摘されたと僕は認識しています。これに対し「この程度は性についてあげつらうほどのものではない」「これをあげつらいと考えるのはお気持ちである」という形で「お気持ち扱い」をされているのかなという印象です。

このとき、仮にアイデンティティポリティクスに反対する姿勢を取っていたとして、宇崎ちゃんポスター問題においてどのように主張の正当性確立するべきなのでしょうか?究極的にはお気持ちにならざるを得ないのでしょうか……?僕には分かりません。何かうまく論理を構築する方法論が知られているのでしょうか。

またραοさんとなのさんの議論の中で、上記引用典型的発言として挙げられる「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」と似た発言がなされていました。

男性フェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分ジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ

という発言もややアイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠にしているように見えます。これによりραοさんは、なのさんや一部の方から自分正当性を疑わない人とみなされてしまったように見受けられます

しかし、特に規範のようなものを考えるにあたり、アイデンティティポジショナリティから自由になることは可能なんでしょうか?ραοさんはそれが不可能だと考えているか、相当に困難だと考えておられるのではないでしょうか?

自分中立だと思いこむのとか、立場偏見を取り除いて客観的ジャッジ目線議論ができると思いこんでるのはなるべく高等教育過程に入った方には既に卒業しててほしいな…。こんなの哲学の初歩の初歩でしょ…。

というツイートから、そのように思われます

自然科学の研究をしている身としては、実験だったり理論だったりの正当性検証は容易ではないが常には原理的に不可能ではないので、メタ立場から正当性議論が出来る(なのさんの言葉を借りれば「パワーバランスに基づく議論あくま論理/倫理的な「正しさ」とは独立であるべき」)と考える方が身になじむものがあります。なのでアイデンティティポリティクスに反対する姿勢もしっくりくるところがあるのですが、実際問題としてそれを回避することは可能でしょうか?自分がある程度アイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠としている部分がある、と自覚した上で正当性議論を行うという所が限界なのでしょうか?今の僕には分かりません。

上に書いた話も、自分感覚整合性が取れるように論展開を進めようと思ったのですが、僕の「お気持ち」が何となく納得していない感じがあり、十分整理できてないなと感じています

自分研究が落ち着いた時に、時間をとってもう少し勉強して整理したいと思っているので、重ねてですが「◯◯の主張は筋が通っていない」「◯◯ぐらいは読め」みたいな指摘がいただけると幸いです。

2019-09-02

「断韓」がどうしてヘイトになるのか全くわからない

すごいよねもう。リベラルを通り越してあちらの民族主義に加担してる人達怖いよ

これがアイデンティティポリティクスというやつなのか

2019-07-28

anond:20190728150248

収入無い障害者」や「ほっとき死ぬ人」にとって必要なのはまず金であって、制度改善とかそこらはあくま二の次じゃないか

いつまでも後者にこだわり続けて、しかもそれが一部の勝ち組だけの利害で終わるから元増田だって「裏切られた」みたいに思うんだろ

アイデンティティポリティクスってのはいつもこれだ

2019-06-14

anond:20190614192701

国際政治学

地政学

マクロ経済学

歴史

あたりかなぁ。

追記1:Socity 5.0、SDGざっと見た

現状認識は間違ってないけど、やりたいこと全部盛りって感じで「できたら良いよねぇ」の画餅の域を出ない。

限られたリソースで何を実現するのか、つまり戦略コミットが問われるが、そこには踏み込んでない資料

追記2:PEST+N

国家規模の戦略となると極めてマクロな話なので、状況を俯瞰するための初めのフレームワークはPEST+Nだと思う。

P:ポリティクス政治

E:エコノミクス経済

S:ソサエティ社会

T:テクニーク、(科学)技術

N:ネイチャー自然環境

国の内部・外部、それぞれにおいてこれらの要因が今どうなっていて、今後どうなりそうなのかを考えながら情報に触れる癖が大事かと。

2019-04-06

アイデンティティポリティクス派はリベラルを名乗るな

個人」という概念の無い前近代的田舎人間関係から大学への進学によってやっと抜け出してきたのに、こちらでもアイデンティティポリティクス派に自分では変えることのできない属性に基づく連帯責任をしつこく求められてとても違和感がある。

自分では変えられない属性に基づいてねちねち連帯責任を問うてくるのって前近代的な(あるいは田舎体育会系的な)メンタリティーの人間のやることだよね?

連帯責任」みたいな概念がだいっきらいだから、私はリベラリズム的な政治活動コミットしているわけであって。

アイデンティティポリティクスの意義はそれとして認めます特にマイノリティ権利保護大事だよ。

でも「リベラル」の看板を掲げてそれをするのはやめてくれ!!(ちゃんと「アイデンティティポリティクス」の看板を掲げてやってくれ)

2019-03-25

anond:20190325122749

実際自分生活に比べればアイデンティティポリティクスなんて本当にどうでもいいし、もっと言うならあんもの「お前よりもっと下の弱者がいるんだぞ」という目くらましにすぎない

しかもその弱者とやらがいくら金や社会的地位を得ても弱者ヅラだけは継続するのわかりきってるんだから、もう弱者かどうかすらも疑わしい

2018-11-12

anond:20181112131244

左派ダブスタを論うのは私も好きだけど、今回のは流石に左派全部ではないか

というか、マイノリティアイデンティティポリティクス左派支援しているせいで、

マイノリティの自属性原理主義者が左派と一体視されてしまうことが多い

先月はフェミニズムの中にいる平等派ではない、性嫌悪者や女権至上主義者があぶり出されたけど、今回も同じ

左派と見なされている中には朝鮮民族至上主義者が一部いて、それが一貫して朝鮮民族擁護しているだけ

属性によらず犠牲者に寄り添うタイプ左派もいて、彼らは今回のことに心を痛めており、やはり一貫している

左派の中でも、一貫性を保った結果が真逆の形で出てしまうというのがややこしいよね

他の問題の例だと、ライダイハン像を建てるかどうかでも左派割れたりする

2018-08-24

anond:20180824122838

あいアイデンティティポリティクスって、結局は経済的格差をどうにかごまかすためのネタしかいからな

トランプ以前に、サンダースを落として、そいつの支持者の取り込みに手間取るあたりが、弱者に優しい政治とやらの限界だったということ

そして今でも全く反省していないしな

2018-05-19

Alt rightって右翼というより左翼代替に見える

文化の盗用とかポリティカル・コレクトネスとかアイデンティティポリティクスってリベラル思想であるけど。

alt Rightの理屈ってそういうのと表裏一体に見えて、リベラル側の理屈を元に立脚した新しい論調であって既存右翼理屈文脈がぜんぜん違うように見える。


それだけ、世界中で「リベラル思考常識化した」ってことなのかもしれないが。

2018-05-09

リベラルの言う弱者保護って所詮アイデンティティポリティクス」や「かわいそうランキング」でしかないわけで

自分恩恵に与れないものを持ち上げたってしょうがないんだよ

2017-12-22

デュシャンはあちゅう

 おお、はあちゅう。君は僕のミューズ美術館に囚われし姫。白鯨の住む大海原を優雅に泳ぐ人魚姫。清らかな、泉のような流れに逆らい、君を辿ればあたりは異臭。水は目に見えて濁りゆく。あたりは糞尿まさに下水。たどり着く先は便所小屋。きっとそこは、君が見たアンモニア香る素晴らしい景色が広がっているんだね。

 おお、はあちゅう。君は知っているか桜の樹の下には屍体、枝の先には熟れに熟れた実がたくさんたくさん実っていることを。傍ら君は、満開のサクラ色めくサクラ通りを、電気仕掛けの華やぎで演出することに勤しんでいたね。知ってるよ。その下にも屍体が埋まっているんだ。君はその屍体を、屍体たちの透明な苦しみを、海の巫女として色めく言の葉にして拡声器に載せ、またたく間に大海原をその言の葉の色で埋め尽した。ほんとうに圧巻だった。

 おお、はあちゅう。君がその傍らで、手に取り玩んだのは、大海原に映った桜の実の影だろう。それが象徴する苦しみは限りなく透明に近いブルーチェリー記憶を持つものしか真っ赤に見えない。おお、はあちゅう。僕はその色のない影に、色を、限りなく目立つ彩色を試みたんだ。おお、はあちゅう。君はやっぱり気づかなかった。僕は、君の知らないところで大海原に流れ薄れ溶けて消えていくその悲しみをぼんやり眺めていたんだ。

 おお、はあちゅう。君は清らかな海の巫女。君を取り巻く警備員が、拡散された言の葉の色の濁りをたしなめたね。それは僕の、僕たちの悲しみの色だったんだ。おお、はあちゅう。君は眩しい。目を覆わんばかりさ。君と僕たちが生み出す摩擦は火花を放ち、みるみる海を漂う言の葉を真っ赤に染め上げた。

 おお、はあちゅう。君は炎の歌姫。君の鎮魂歌虹色原油。おめでとう。君は油田を掘り当てたんだ。いつ海の奥底で地盤が動いたのかはしらない。たまたまそこから溢れたのが糞尿まみれの原油で、本当にたまたま君の真下だったんだ。君は、限りなく透明に近いブルーだったチェリーの悲しみが誰の目にもわかる熟れた警戒色に変わったのは何時?と歌う。コウモリのように、君を断罪する理由が黒い灰になって宙に舞い、空を覆い、世界太陽の光を失いほの暗くなった。悲しみと怒りと煽りが雑じったショッキングピンクグラデーション超音波、高音波、波と波がうねりぶつかりくだけ、大荒れが君の歌声を掻き消す。灰色が充満する世界で炎に照らされた君。おお、はあちゅう。君は、もう、真っ黒。

 おお、はあちゅうクー・クラックス・クランナチス・ドイツ。君もすっかり差別主義者。信じられるかい。君たちは、かつて私を悪から守るヒーローだったんだよ。黒人ユダヤ人童貞。その他、たくさんの悪を教えてくれたね。私は彼らを人間と思わず、ムチで打ち、十把一絡げに大量虐殺したんだ。でもね。海の底地盤が動いたんだ。こくじんはにんげん、や、ゆだやじんのくるしみ、そして、どうていのかなしさ、は鮮やかに色づいたんだ。一方、クー・クラックス・クラン白衣は黒衣に。カッコいい正義軍団ナチス・ドイツは糞尿まみれになった。はあちゅうは真っ黒。海の底の亀裂から海上に、吹き出した糞尿臭い原油の黒さは、君たち差別主義者を見分ける目印さ。

 おお、はあちゅう。君は知っているかライトポリティクスナイト存在することを。誰かの祈りの言の葉呼応して、どこからともなく現れて、海の底伝説の棒でぶっ叩くのさ。おお、はあちゅう。君が悪いのさ。まさか糞尿くさい原油溢れる亀裂の真上に君がいるなんて思いもしないじゃないか。君もびっくりだろう。でも警告はした。そしてそれは君に届かなかった。おお、はあちゅう。でも安心して君をひとりにしないよ。今、君を嘲笑して、バカにして、消えろって言っている私たちの内の誰かも、人間人間と思わず無知でムチを打ち、大量虐殺を楽しんでいるんだ。でもね。またいつか海の底地盤が動くんだ。きっとまた正義騎士が軽い感じに(ライトナイトライトに)伝説の棒で海の底をぶっ叩いて、吹き出した原油と糞尿がそれまで高らかに正義を掲げていた誰かの頭に直撃するんだと思う。

 ねぇ、はあちゅう。この現代アートバカみたいで笑えるだろ。もし君がこの額縁の中に真っ黒、糞尿まみれで存在しないならば。でも、だからこそ笑えよ。君を人とも思わない未来差別主義である私をも。

2017-10-13

anond:20171013013346

俺はそもそも一票の価値なんて自分らが思っているより遥かに軽いんだから棄権しようが入れようが大した問題じゃないよ、という立場

(もちろん棄権というポリティクス否定すべきでないというのもあるが)

投票行動に過大な「責任」を求めるのは投票効能の小ささから否定される。特に都市部有権者は顕著だ。

そもそも憲法15条4項は公的私的わず投票に対して責任は発生しないことを規定しているという。

から投票しなかったもの政治文句言うなとか、○○党に入れた奴は責任取れ、というのは憲法違反

2017-08-07

「俺(私)は恵まれてないから依怙贔屓しろ」をオシャレに包装するロジックキーワードがあったら教えて

とりあえず俺が知ってるのは「アファーマティブアクション」「権力勾配」「アイデンティティポリティクス」あたりかなあ

賢いはてなーのみなさん他にもあったらおしえてください!

2017-07-11

オタクフェミニストは誰と戦っているのか。

 このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクフェミニストラグナロク永遠につづくかのようにおもえる。


 これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである


 わたしたちは第一次世界大戦を生きている。

 毎日がソンムの戦いだ。



 オタクフェミニストそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?

 フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタク宮崎勤池田小のやつとエドゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。

 オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニスト権力によって表現の自由を、人間尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。


 彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。

 彼らがそれぞれ想像する「敵」とは誰なのだろうか。


 オタクにはトラウマがある。

 悪書追放運動である

 1950年代PTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。

 暴力的表現子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。

 これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派ファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。


 なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。

 悪書追放やり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨迫害を忘れなかった。

 彼らはそのとき体験エッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガネタに織り込んだ。

 そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和マンガ享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガ表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。

 悪書追放運動記憶継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。

 そういうわけで、マンガ守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。


 さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。

 だがオタクたちはずっと敵は「既存道徳にしばりつけられた保守的道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーである叫び続けている。



 フェミニストたちを一言でくくるのは難しい。

 「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性男性社会のもの憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態様相を呈していて、

 そうなったときクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。


 しかオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。

 「こどもたちを傷つける」表現をこそ問題だと言っている。

 教育ではなく、トラウマの話だ。


 フェミニストたちにもトラウマがある。

 日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアサブカルチャーにおける性的エロという意味限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。

 ふた昔前はテレビ女性おっぱいエロティック晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、

 そこまで過激ものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。

 それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。

 そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。


 男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性メンヘラでは?


 少女たちはテレビマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?


 一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?

 刃のついた表現現実存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。

 問題とはむしろそこだ。

 何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?

 私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。


 傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。

 こうしてアイデンティティポリティクス生まれる。

 彼女たちの目的は次の世代トラウマを残さないこと。

 そういう意味では、オタク表現規制運動歴史を語りつぐことと少し似ている。


 そして、オタク同様、「敵」を認識しそこねている。


 フェミニスト場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義統一がはかれていないことだ。

 これは攻める側の弱さでもある。

 守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。

 だが、フェミニスト側は具体的に個別問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。



 そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。



 彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。

 オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」

 フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力肯定しつづけるレイピストクソ野郎


 オタクはただ表現進歩性を守りたかっただけなのに。

 フェミニストはただ表現進歩を与えたかっただけなのに。


 ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。

 もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。

 自分以外のすべてを虐殺しつづける戦場

 それがインターネットであり、インターネット表現規制論争だ。

2016-12-09

マーベル副社長発言日本コンテンツ海外進出について

https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/

日東コミコンが開催され、その中でマーベル副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。

該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。


しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。

というより少々作為的意図すら感じてしまう。

記事ではその点についての私見と他国日本コンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。


マーベル副社長は「日本人よ、日本しか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。


まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事タイトルに原因がある。

マーベル副社長日本人よ、日本しか通用しないものばかりを創るな」

と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。


日本コンテンツをどうグローバルなものにしていくか?

という部分は「世界を目指せ!日本映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。


日本映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本ファン日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本監督映画プロデューサー映画会社もっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって日本にはとても優れたストーリー・テリング伝統があり、日本文化もっと世界に受け入れられるものなのだから物事もっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」


ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが

日本文化もっと世界に受け入れられるものなのだから物事もっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」

まり日本映画アニメ文化的ものが受けないとは決して言っていない。

これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。

マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOアメリカマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。

巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデュークフリードヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。


また、アニメに限らず実写映画でも同じだ。

海外で高名な黒澤明や小津の作品アメリカ風ヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。

事実はその全く逆だ。

黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である七人の侍」は時代劇ではないか

侍が出てきて日本刀百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。

小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。


明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。

モチーフ西洋のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。


セブルスキーさんは現状存在する日本映画ストーリー・テリング伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。

ここで注目すべきなのはしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。

まりもっと単純に考えればいい。

海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。


それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。

例えばクランチロールアメリカカナダヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。

アメリカの多くで受けていたのは「ドリフターズ」だった。

なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品積極的に送り出せばいい。

しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然アメリカ要素を入れたりするべきではない。

我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。


アメリカのような作品を作りたいと、アメリカコンテンツ適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。

まれときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。

骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本映画アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。


日本人日本人しかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。

ましてや西洋人中国人では決してない。

それはつまり我々の作る作品日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。

かならずどこかに日本人的な部分が混じる。


アメリカ世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。

それは文化的多様性をそもそも内包した社会からだ。

インディアン/ネイティブアメリカン生活していた文化ヨーロッパからやってきた文化

南アメリカ黒人文化日系人華僑などのアジア系文化

そのどれもが並立して存在しており、また映画製作現場でも多数の民族文化が交じり合う。

なぜならスタッフもまた多民族構成されるからだ。

このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝松竹社長アメリカ人にして、フランス映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。

しかし、残念ながら日本社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。

少なくとも主流にはなりえない。

であるなら、我々は逆に日本人であることを貫き続けるしかないのだ。


これは日本人文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。

日本で生まれ日本で育った日本人が「自分ストーリーを語る」とは一体なんなのか?

それを突き詰めると結局日本生活した人間目線から見た作品しかありえないのだ。

そういう意味多様性を語るのであれば

例えば、近年東京で増えてきた外国人日本人交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。

あるいは「シン・ゴジラ」のような日本ポリティクスを突き詰めた作品もっと作ってもいい。

最初はなかなか理解されない可能性も強い。

細部については理解やすいようにローカライズするのも構わないだろう。

しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。

海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉存在する。

では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ

それこそまるで日本版weeeabooooではないか

日本スターウォーズが年間興行収入2位になる国なのだ

そこらじゅうweeeabooooだらけではないか

もし本当に日本コンテンツ海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。

日本進出したハリウッドがそうであったように。


海外の人が日本的ものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず

なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。

この記事でもセブルスキーさんの言っている

日本にはとても優れたストーリー・テリング伝統があり、日本文化もっと世界に受け入れられるものなのだから

という発言を聞いておきながら

日本人よ、日本しか通用しないものばかりを創るな」

というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。

もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な

コミュニケーションを取る方法以外に解決策はないのだ。

そのキャッチボールを行うためにもっと流通網を整備し、海外意見を拝聴できる体制を整えるべきなのだと俺はそう思う。

つーか進撃の巨人実写版日本の客のことも考えてないだろ。

2016-09-23

「おっ、障害者いじめテーマ漫画か、それではこの私が直々にポリティクスにコレクトかどうかを判定してやろう」

という気持ち作品に接すると、たいがい粗(のように感じられる要素)ばかりが見えてきます

こういう人が想定している「正しさ」はめちゃくちゃ範囲が狭いから、というのもありますが、

そもそも人類偏見先入観にめちゃくちゃ影響される生き物だからです。

作品を読むときは、障害者に接するときのように、なるべく偏見を排して臨みましょう。

その上でもし作品描写に不満があったとしても、

差別的である」と「公正に書くことに失敗している」をきちんと区別したほうが良いと思います

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