はてなキーワード: ショタコンとは
http://anond.hatelabo.jp/20160921171221とhttp://anond.hatelabo.jp/20160924215458とhttp://togetter.com/li/1028423を元にして、http://anond.hatelabo.jp/20160925154605を書いたら、同じまとめ人に派生まとめを作られていた。こっちも派生議論を書いてみたいと思う。まとめ主がしつこくて嫌だと思っているのなら即刻消すので、そういうことをまとめ主が言っていたらトラックバックでお教え願いたい。
http://togetter.com/li/1029287を読んで思ったことを書く。
このまとめ文中で「ピルとの付き合い方(公式)」氏が仰っていることの中に、「ルールに反する【行為】はだめなんだ。」という部分がある。内心は規制できない、犯罪扱いはできない、という内容のあとで、では何が規制されるのか、ということを書いた部分だと筆者は解釈した。そうなのである。だめと言われなくてはいけないのは「行為」だ。
これを端的に言うと、「である」ことではなく「する」ことを理由として規制対象であると認定しなければならない、ということになると思う。
さて、「である」ことと「する」こと。これは多分有名な文だと思う。高校の教科書にも乗っている、丸山真男の「日本の思想」という本の一節だ。丸山氏はその学問を「丸山政治学」とも称される偉大な政治学者である。同氏はその文章の中で、時効という概念について、権利を要求「する」ことをし続けていない者はその権利を喪失するためである、というようなことを書かれていたと思う。ここでは「する」ことが権利を得るための行為として書かれていたと思うが、これは責任を考えるにあたっても言うことができるのではないか。
筆者は法学も政治学も日本国憲法学(?)まともに学んだことがないので、以下の意見はかなり的はずれなのかもしれないが、「である」こと、つまり状態を以て責任を問われる、ことは不適切で、「する」こと、つまり行為によって罪を問うべきなのだ。そういえばコメント欄だったかどこかで「行為論」という言葉を見たと思うが、関係あるのかもしれない。
もともとのまとめで言えば、「ロリコン(ペドフィリア)『である』事によって犯罪者と認定され、人権が制限される」のは不適である。「幼児に危害を加えるという行為を『する』ことによってはじめて、犯罪者と認定されて人権が制限される」という方法が取られるべきであると思われるのではないか。
もちろんこの理論はロリコンやペドフィリアに限らない。ほかのコンプレックス、例えばショタコンであるとか、あとはなんらかの病気にかかっている状態である(それが自己責任だとしても)とかにも言えると思う。透析患者云々論にもこのロジックを適用できはしないだろうか。債権を持っている状態「である」だけで権利が保たれないのと同じく、自業自得の結果病人「である」ことも、責任を問えないような気もする。
法学政治学その他疎いのに、予定外に細かいところに突っ込んだので、かなり問題点はあると思う。正直不適切な点は正しく知りたいので、できればお教え願痛いと思う。
余談。トラバへの再返信。
http://anond.hatelabo.jp/20160925193805に関して。
たしかにそれも良い例示だと思う。あくまで個人的にはだけど。「気に入らない」で人権否定も良くないように、気にいるからって権利を無秩序に拡大するのもまた似たように良くないと思う。
ネット上では、ロリ・ショタコンとLGBTをマイノリティという大きなくくりで同等に扱う意見がみられます。
現在、LGBTは社会に受け容れられる方向に力が働く中、ロリ・ショタコンはその方向には進みまないでしょう。
両者には大きな違いがあるからです。
ロリ・ショタコンは、たとえ現状、合意の関係だとしても、被害者が発生する可能性があります。
これは被対象者(性の対象となった子供をここでは指します)が自ら望んだ対等な関係と、その時点で断定するのは難しいからです。
幼少期の願望や意志が、正当なモノか、それは大人になった方なら、幼少期時の自分を振り返ればわかることでしょう。
大人になってから後悔する可能性がある中、被対象者の判断力や人格が未熟な中、社会的な立場・幼少期の強烈な経験を築いてしまうのは相手を対等な人間としてみている場合の対応ではないのです。
加えて、被対象者の親は、やはりそういう側面を感じ取ることになり、更に被害者が一人誕生するわけです。
次に、ロリ・ショタコンになってしまう、なろうとするプロセスにも問題があります。
自身の異性としての魅力の欠如をカバーし努力する方向ではなく、そのままの自分でも(力づくでも)可能性を感じることで劣等感を慰めている者がいます。
全てのロリコンがそうではありませんが、このような精神的に未熟な側面が感じとられてしまう場合、社会から忌み嫌われるのは当然だといえるでしょう。
日本の漫画や映画などの創作物ではあまり格好いい大人主人公を見ない。冒険活劇の主人公は高校生までの少年少女が多く、大人はサブキャラの役割が多い。一方洋画はアクション物などのジャンルはかっこいい大人がニヒルなセリフを放ってる場合が多い。漫画だって古くはスーパーマンといった大人のヒーローが主人公として活躍している。勿論ハリポタとか子供が主人公の創作物もないわけじゃないが、日本では圧倒的に大人が格好良く活躍する創作物が少ない。特に近年。
それは何故か?日本では大人は格好良くも希望に満ち溢れてもいないイメージが定着してしまっているからではないか。特に近年。
日本では大学生までが楽しい期間であると考える人が多い。対照的に社会人以降は40年間社畜として生きなければならない…人生の墓場…なんてイメージだ。日本ではバリバリかっこいい仕事して自己実現なんてイメージは弱い。大体不況とかブラック企業とか精神病が認知されてきたとか就職難とかその辺のせいなんだろう。勿論楽しく働いて成果も出しまくってる人もいるだろうが、大多数の人が仕事をイヤイヤしてる人ではなかろうか。
後日本の社会人はルールを偏重とかしきたりとかを気にする。それもまた堅苦しいイメージに繋がっているのだろう。
日本では大人はかっこいいものではない。だから大人、特に会社員が活躍する物語は作られにくい。(探偵、刑事が活躍する物語はあるがあれは大人でないと出来ない話だからなー、その探偵物も少年探偵のコナンや金田一少年が強いし)現実とかけ離れ過ぎて皆がイメージしにくいからだ。
子供は自分と年齢の近い主人公に想いを馳せる。大人は逆に自分遠い存在であるが故に感情移入することが出来る。自分と近い立場のキャラの活躍なんて身につまされてしまうのだ。
勝手な妄想を殴り書いたから検討外れなことを書いた気がする。でもこれからの世代がかっこいい大人として働ける社会になればいいと思う。
男好きなら女の方が圧倒的に多いのにショタコンは男の方が多い事を考えるに
「ロリータコンプレックスの女性」というのを見たことがない。
だけど、自分をロリコンだと言う女性も、ロリコン性癖をひけらかしてる女性もほとんど見たことがない。
これはフィクションの世界でもそうで、成人漫画かそうでないかにかかわらず、性的関係性をもつ大人の男性と幼い少女という組み合わせはよく見る。
おねショタというジャンルがあるように、おねロリとでも呼ぶべきジャンルがおそらくあるはずだ。
だけどほとんど見ない。
成人女性が女子小学生に性的暴行を働いたという事件も寡聞にして知らない。
成人男性が少年に性的ないたずらをするという事件はよく聞く気がする。
寝屋川の事件に対する世間の反応を知りたくて、それっぽいワードでネットを検索してたら、
容疑者は年下の男の子好き、っていう報道がどうもあったらしくて、
「ひどい!本物のショタコンならあんな可哀想なことできない!」
「あれはショタコン+拘束好きという特殊性癖持ちの犯行だから、私たちと同じにしないで欲しい」
「貴重なショタを殺すなんて!」
みたいな、(載せてるプロフィールとか他の文章とかを見るに女性だと思われる)ショタコンの方々の発言が結構引っかかったんだけどさ。
”本物のショタコン”とかいうぬるい切断で自分達のことを免罪できてると思ってるの?
ショタコンだけなら特殊性癖じゃないけど拘束が加わると特殊性癖になるってその基準都合良すぎない??
NOタッチだ自分は違うって前置きしてればおおっぴらにショタコンだって叫んでも社会が受け入れてくれると思ってるの???
って話で、
見ればわかる通り、どの発言も、普段ボコボコにぶっ叩かれてるロリコンの方々の発言とまんま同じなんだよね。なんていうかちょっとびっくりした。女でもこうなんだなって。
生まれながらにして少年少女を愛する者たちがいる。しかし少年少女を愛するということは罪なのだ。判断力がない子供たちを騙し自分の欲を満たそうとする極悪非道のやつら、それが少年少女愛者なのだ。
私は中学生の少年愛者である。社会は私のことを人間のクズだとか社会の敵だというがそれに対し何ら反抗する気はないしそんなこと言われなくてもわかっている。
私は社会に自己批判を強いられ少年愛という反社会的思考から転向するか我が人生から愛をなくすかの二択を迫られた。だがそのような選択はできるのだろうか。
古代ギリシアにプラトンという哲学者がいた。かつてプラトンはイデア論とそこからプラトニックラブというものを提唱した。プラトニックラブは現代でもたびたび使われる言葉であるが意味は違っている。これは純潔だとかそういう下らないことを言っているものではなく美のイデアの崇拝を説いているのだ。つまり肉体的精神的を問わず少年一人一人に固執する一般的な愛ではなく少年個人は美のイデアの陰にすぎないとしイデアそのものに恋をせよと説いているのである。これは現代の少年少女愛者の悩みを解決するものではなかろうか。これが現実に可能であれば、少年少女愛者の苦しみと少年少女への危害はなくなるだろう。
まあ、稟議舐めてんのかとか、
意識高い系管理職(そんなジャンルがあるのか知らんけど)みたいな事ベラベラしゃべってたけど、
部下の仕事に不備があったら指摘するのは構わんけど、
そこで怒鳴り散らして資料ブン投げて、あげく人格攻撃ってどういう事なの。
そういうパワハラはアカンと、管理職になる時教わらなかったのかね。
会社に与えた損害はあなた達が一生かかっても稼げる金額のふじこふじこって言ってたけど、
なんで個人の月給と比較しなきゃならんのよ。
会社の10年計画20年計画に沿って、数十年スパンで位置づけを考えなきゃならん部署だろ。
数百億数千億を費やして、数十年後に会社の規模として数千億・数兆という(必ずしも決算上の数字だけじゃない)価値のあるリターンが見込めるか、
それに掛ける費用と、どんなリターンが見込めるかも、
今更主人公が稟議書提出するまでもなく会社のトップ含めて合意済みのはずだろ。
準主人公格のイケメンと経理部から来た姉ちゃんがやってる事って、
主人公側の瑕疵を針小棒大に難癖付けて、「主人公たちがしっかりしてないから部署が潰れるのだ」という方向に持っていきたいだけの、
という名言を教えてやりたい。
数日前の朝日新聞夕刊に、年端もいかない子供の動画をアップする親の話が掲載されていた。
なんでもその子供の動画はAKB48や妖怪ウォッチとの動画と同じぐらい人気らしい。
その記事の中では「おそらく(登場する子供の年齢と同じ年齢層の)子供が見ているのだろう」ということが掲載されていた。
しかしYoutubeに子供の動画をアップロードすることで、ロリコンやショタコンにおかずを与えるということにつながるのではないか。
Youtubeにアップされている子供動画をおかずにしている連中も相当数いると推測している。