はてなキーワード: 藁人形論法とは
違います。
他にも勘違いしている人がいるけど、「ステマがなかった」なんていう主張は全くしておりません。
「ステマが今のウマ娘の人気の主要要因であるとかんがえている人間はバカ=ステマがあったとしてもそれ以外の要因が圧倒的に重要なのでステマという言葉で何かが語れると思ってる人間はバカ」というのが私の主張です。
この主張を読み取った上でそれに対して反論してくれない限り
「藁人形論法やって勝利ポーズ取りたいなら今は亡き2ちゃんねるでどうぞ」という感想にしかならないです。
別にあなたが増田とかでウマ娘の記事を見かけた時に、それについてステマだと思いたいのであれば「お前がおもうんならそうだろうな、お前ん中ではな」で好きにしたらいいし、
私に対していちいち「俺はバカです」って自己紹介しに来なくてもいいです。
ところで、私はトーンポリシング肯定派=「弱い犬ほどよく吠える」理論を採用しています。
ところかまわず乱暴な言葉を使う人のことは、その時点で「乱暴な言葉を使わないと勝てない」という自覚がある人だと認識します。
なので、はてなブックマークで
①ちゃんと文章を読めないor部分的に読んで藁人形論法的なコメントをする
②乱暴な口調で他人をdisることで精神的優位に立とうとする幼稚さがある
の3つの要素を満たすはてなブックマークつける人は、その人間の扱いを下げます。
最近はやりの言葉を使うのであれば「うっせえわBOT」とでも名付けるべきでしょうか。
はてブのコメントって7割くらいは「うっせえわ」的なコメントだと認識しとるんですが、特に②と③の度合いが強い人ははてブ非表示にすることにしてます。
というわけで、次回から私はあなたの発言を読むことはできなくなりますが、頑張って別の人のところで吠えてるようにしてください。
なお、これは私の趣味なのですが非表示にするときに一応どんなコメントを書く人なのかなというのは必ずチェックするようにしています。
https://b.hatena.ne.jp/hatebushine/
今回の人はウマ娘が嫌いな人なのかな?と思ったらソシャゲそのものが嫌いな人みたいですね。
hatebushine 2021/02/24
日本の主要産業となり得たテレビゲームを下らないガチャ搾取によって腐らせ、逃避先のそのソシャゲビジネスすらいまや中国資本に完全に負けている、本当に情けない
hatebushine 2021/02/25
CDNのコストが何千万とか知ったこっちゃねえから、それよりまずなんの意味もないゴミパケットでトラフィックを圧迫していることを恥じてくれ
hatebushine 2021/02/27
下賤なギャンブルと下賤なガチャ集金装置なら相性抜群だわな、パチスロの美少女擬人化ゲームとか出てきそう
hatebushine 2021/03/01
「ガチャ」があるという一点だけで評価に値しない、というかあんなものをゲームにカテゴライズしないでくれ、あれは集金装置だ
hatebushine 2021/03/02
意識高いことだけが取り柄のハテブで、競馬×ソシャゲっつう低俗コンテンツの頂上みたいな存在が受け入れられるはずがないから、どう考えたってステマだよね
hatebushine 2021/03/03
ふーん、でいくら注ぎ込んだんだか、100万くらい?通常のプレイじゃ到底たどり着けない要素で課金を促すのって何らかの法で裁くべきでしょ
うっせえわw
まぁそのなんだ。
ソシャゲ嫌いな人にはつらい世の中ですね。
いっつもいっつもいっつもいっつもいっつもこのクソどもの藁人形論法ぶりに腹が立つんだけどさ
「ネトウヨはウイグル問題を中国や左翼叩くための棍棒としか思ってない」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/nabeteru1Q78/status/1360568206398607363
人の性格決めつけるには浅すぎるだろ!
ネトウヨガー!とか言いながら貶めてるのは自分達の人間性だろくっだらねえ!!!
人権だ話し合いだ言いながらこのザマだろ!弱者の味方とか言いながらネトウヨは頭が悪いとか言って馬鹿にしてるだろ!!
ほんっっっっっと自分達が生み出した藁人形に踊らされてんじゃねーよ!!!
ネトウヨと言う言葉も元々はそんな罪ないんだろうけど、その言葉封じてもっぺん周りの人間とか、人権尊重と言うものを真剣に考えて向き合ってくれないかな。
そうでもしないと、日本のサヨクと言うのはいつまでも近寄り難いただのネトウヨヘイト集団だよ。
ネトウヨと言う服を着せたら罵倒が許される、決めつけが許される、そんな言葉いらんだろ。
清々しいほどの藁人形論法っすなあ
お手本のような藁人形論法で草
君のはただの藁人形論法じゃん
いつも一方的にやりたい放題のブクマカを引用して反論するのは正義と思ってるふしがあるが、それを増田でやる時点で同じ穴の貉という。
それは実際に正義なんじゃないか? ID無しで罵倒されると相手がどこにいるかわからない恐怖があるけど、ID付きでの罵倒は俺を殴ったやつが今日も楽しそうにブクマしている、って不快さがある。種類は違えど重さはだいたいイーブンだと思う。
殴ってないヤツを殴るのは悪だけど、殴り返されてないヤツを殴るのは必要だ。
集団リンチでもない。100倍で殴り返すようなことは当然視してはならない。
三連休をホッテントリに費やしたり、姑息に藁人形論法の藁人形を演じてみせて何が悪い?
本当の目的は表現の自由議論ではなく女叩きだからだろう。表現の自由論者に女叩きが多いため賛同を集めやすいと踏んでいるようだ。
彼本人に忖度する必要は確かにないが、それを叩き台にして自分がしたい議論の土壌にしても構わないだろう。顔色を伺う理由もまた、ない。結果的にミソジニーに利する結論にならなければ良いのだ。
増田でチキンと見なされるのは匿名を利用してヘイトを煽っている場合だ。匿名生命体となって他田達とくだらねー会話できるこの場所をヘイト発信基地にするなってことだ。ましてあんな事件の犯人が使っていた場所だ。守るべきところは守らんとすぐ閉鎖されるぞ。
個人的には増田に名前をつけて集団リンチを煽る増田もまた、チキンに思える。くだらねー会話で遊べるこの場所をイジメの現場にするな… とも言える。
私は表現の自由主義者だ。だから「守るべきところは守らんとすぐ閉鎖されるぞ」って脅しは、鵜呑みにはできない。
目的は手段を正当化しないが、チキ増田のレベルでは手段が不当だとは思えないよ。
プロ作家にこそ二次創作の倫理のような、カタチの定まっていない道徳的圧力を考察する意義はある。
議論の結果、BLや男性向け性表現が萎縮する事態になっても、受け入れる必要があるだろう。
私は表現の自由主義者だが、表現の自由を守るために、思考や議論を停止しよう、などとは思わない。
議論の場でベストを尽くせば自由はついてくる。信じているのはただそれだけだ。
増田とは違う見解だ。「日本死ね」は実際に日本を変えた。増田はドブ沼かもしれないが、しかしここから始まる物語もある。そういう希望を持っている。
元増田は以下の3点を論理的に主張したい立場のように思えますが、その3つが論理的につながっていないのが問題だと思います。藁人形論法に陥っていると思います。だから一旦「フェミニストの主張」という前提を切り離して考えて公正な目で考えたほうがよいと思いました。
1. フェミニストは過去の被害による復讐心をもとに、不快と思う表現を画一的に批判している
1.の主張には論拠があげられていません。このままではただの主観になってしまいます。
1→2を言うには、復讐心が原動力の主張は不当だという説明が必要です。また逆に「復讐心がきっかけであっても、結果的に主張が論理的に妥当であれば、その主張は不当ではないのでは?」という意見に反論できる論理を持っていないといけないと思います。
1.2が成り立てば3.を主張してもよいかもしれないですが、その場合、表現の擁護派にも同じ批判を受けることになります。
ご指摘のように、主観や論理や立場をごちゃまぜにするフェミニストはいますが、フェミニストを批判する人もごちゃまぜ状態だったりします。元増田も自分にはごちゃまぜに見えます。
「高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。
「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン
あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事が修正されている。ありがとうありがとう。)
デマに対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂の方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。
「2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。
しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんとモデル問題そのものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。
「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文も漢文も出る。
ここからが少しややこしい。高校の国語には「必修科目」と「選択科目」がある。
必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代の国語(評論文や実用文)」「言語文化(小説や古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。
記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。
「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ
「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ
「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ
「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典と現代の言葉を比較して変遷を調べたりもする
中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。
で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。
いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。
そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学の勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代や現代文学が大事だ、という主張ならばできる)。
さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。
対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章(法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。
記事に書いてある「実用文しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事にミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章を批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。
今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報で議論したところで得るものは少ない。
とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本が崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。
ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。
とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXPの経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10年単位で教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに、高校は変化がにぶい。だが、小学校や中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。
現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているかを意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。
こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう。
myogab
反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。
藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。
で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書の小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって。
今日は町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事を引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートをリツイートしてる。
hhasegawa
文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?
小説や文芸評論ではないテクストがすなわち規約や広報や契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章」一般ではないか。
「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。
一応、「論理国語」教材に「新書や新聞の社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用」志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。
その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険を教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史が証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。
このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。