2021-01-03

コロナにかかるのは遊んだ結果である」はなぜ言われだしたのか 主要3仮説

「いい子にしてるからコロナにかかりませんように」という祈り

 まず最初存在するのはこれである。死の受容3/5段階の「契約取引」と原理は同じだ。絶対的な不運を前にして、人はただ祈ることしか出来なくなることがある。コロナ蔓延してしまっているという災害に対して、個々人が出来る感染予防策を終えたあとに残る最後の手段祈りなのだ

 「神様、私はいい子ですので、どうか私に不幸を齎さないでください」と神に祈り、それと同時に、「どうか人類に罰をお与えになるのでしたら、あの不信心者達にしてください」と信仰の異なる物を生贄として差し出すのだ。今回はそれが「コロナにかかるのは遊んだ結果」という形で表出し、その信仰を口にすることで、自分たちは神(ここではキリスト教日本神道のような具体的な神のみでなく、「この世界に秩序をもたらすシステム」として人が信じるあらゆるもの公正世界仮説など)も含まれる)に守られると信じているのである

自分たちはかからない、なぜなら」という根拠を求めて

 「コロナにかかるのは遊んでいる人間である」という言葉は「遊んでいなければ、コロナにかからないはずであって欲しい」という願望の裏返しであるコロナにかからない根拠として、信仰ではなく論理的根拠を求めるべきと考える人々であっても、心の中にある何かに縋り付きたい思いは一緒なのだ

 彼らは、データ統計を都合よく解釈し「感染繁華街で起きているらしい」⇨「私達は繁華街に近づかないか大丈夫」 「感染エッチなお店や飲み屋で起きているらしい」⇨「なら私達は安心だ」という形で、「自分たち大丈夫」と必死に語るのである。いわば彼らにとっての信仰対象データであるというだけで、本質は神への祈りと大差はない。

政治的責任転嫁

 「コロナにかかる理由は、これこれこういった問題があったからだ!改善する責任がある!」と言われたくない者たちが、「コロナにかかるのは遊んでいたからです。それは我々が改善できることではありません」と口にしているのだ。

 これは実際にニュースにおける政治家言動を見れば明らかだ。彼らは自分たち必死にやっているがそれを邪魔する人間がいるとして、遊んでいる(とラベルを貼った)人間たちを攻撃することで自分たち批判を逸らそうとしている。ヒトラーがこの世すべての悪の根源はユダヤ人から奴らのせいだよと言いはったのと同じである

 気をつけなければいけないのは、我々も同じように「でも私たちは出来ることを十分にやっているから、それでも感染拡大するのは、あの人達のせいだよ」という自己弁護のために、「遊んでいる人がコロナにかかる」という言葉を使ってしまいがちなことだ。単にそれで気を休めるのならいいが、そこで満足して感染防止の手を緩めながら、「頑張っても無駄だよ。どうせ遊んでる人はいから。だから私達も手を抜いていいでしょ?」というのでは、結局私達もヒトラーと同じことをする政治家の仲間入りをすることになる。

  • 科学的に当然っていう最大の理屈忘れてねーか? まぁ遊ぶ内容によるが 地下シェルターにこもって一歩も出てない人とノーマスクでキャバクラはしごしてる人とでは当然後者のリスクの...

  • 日本古来の宗教だとそういう解釈だろ 障害や持病を持って生まれる人は徳がない人 30過ぎたら自分の顔は自己責任 健康な精神に健康な肉体が宿る 聖とケガレ

    • 結局典型的な日本人ってキリスト教圏以上に宗教的で科学的な思考なんて皆無よな

  • ネオリベ思想があらゆるところに入り込んできたんだぞ

  • 君のはただの藁人形論法じゃん

    • ほんまこれ 他人に色々言う前に自分をどうにかしてほしい

  • 山梨に帰省し他感染者ってやたら叩かれていたよね ステーキは無罪なのに けっきょく何をやるかでなく誰がやるかなんだろ 元増田も政治家の罪を軽くするために民間人をまず許す書き...

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