2013-05-20

オナニー芸術家について

天才が見る風景は自らの延長線上に在る極限で、

から見る人には飽く迄、

それは一つの世界の中で留まる何かでしかなくて、

しかし、それは見る人が捕らえられる世界の中でしかなくて。

マズローが言う。

人が求める欲求には5つの段階がある。


生理的欲求とは字の如く生きる為に必要な欲求を指す。

安全の欲求とはそれを安定させたいという欲求を言う。

その上位にある親和の欲求は集団的帰属を表し、

自我の欲求は他人に自らを認知させたいという欲求にある。

自己実現の欲求とはすなわち、

創造的活動にある自らの追求にあるという事だと思う。

芸術デザインの違いについては多くの場で語られている。

もっとも顕著なのは、その対象がクライアントである自分であるかという所。

芸術は自らの追及によるものであり、

デザインは自ら以外の対象を満たすための産物であるという事。

デザインには対象が求める位置・目的・成果を満たすという前提を達成する為に作り上げるというある種の制約がある。

本来の芸術にはそれがない。

満たすべきは自らの満足であり、創造の追求、引いては、自らの追求心である

対象のある欲求・満たすために他人を介する必要がある欲求。

これを満たした時に手にする事が出来る快楽を【相対的快楽】と称し、

自らで完結可能な欲求を満たした時に手にする事が出来る快楽を【絶対的快楽】と、

僕は、そうして位置付けている。

相対的快楽認知しろ認知しろ、出発点に必ず対象がある。

絶対的快楽はそれを必要とせず、自らのみを必要とする。

快楽というカテゴリに含まれる二つの事象は、

異なるプロセスを踏み、全く異なる着地点を導くが、

相対的快楽昇華し続けると往々にして、

それは限りなく絶対的快楽へと近づき、自己完結セルフフィニッシュ)への道へとなる。

ある種のエキスパート哲学宗教に走るのはこれに起因する。

悲しいかな、他人の認知がなければ芸術家芸術家と呼ばれない。

本来あるべき創造主自己完結により快楽を覚え、他人との比較必要としない。

しかしながら、芸術家は皆、創造主に近づくべくして生まれた絶対的快楽者。

逆もまた真(オナニストは皆芸術家)なり。

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