はてなキーワード: 直方とは
にわか雨と局地的大雨・集中豪雨の違い
先の説明の通り積雲や積乱雲は激しい雨をもたらすものの、そうした雨の多くは、散発的で急に降りだしてすぐ止んでしまう一過性の雨(にわか雨)である。例えば、日本の場合は夏に散発的な積乱雲が発生しいわゆる夕立をもたらすが、その多くがにわか雨で、夕立の積乱雲のすべてが集中豪雨を降らせるわけではない。
これは、にわか雨の時には、複数の積乱雲の塊(降水セル)が雑然と集まっていてそれぞれが独立的に活動しているからである。このようなタイプの降水セルをシングルセル(single cell, 単一セル)といい、雷雨の分類上は「気団性雷雨」という。上空が単一の気団に覆われていて、一般風の鉛直方向でのシアーが弱いときに発生しやすい。
降水セルの大きさはふつう、水平方向に5-15km、寿命はおおむね30-60分ほどで、雨はその中でも30分程度しか続かない。そのため、降水セルが雑然と集まっただけでは雨が長続きしない。
しかし、大気が不安定であるなどの要因で積乱雲が発達すると、雨量が増して数十分で数十mm程度に達する。このような雨を気象庁の呼び方では「局地的大雨」という。
そしてさらに条件が整うと、1時間で数十mmの局地的大雨が数時間あるいはそれ以上継続し、総雨量が数百mmに達して気象庁が呼ぶような「集中豪雨」となる。その条件は、寿命が限られた積乱雲が世代交代をして次々と発生・発達し、かつその積乱雲群が連続して同じ地域を通過することである。
Twitter を見てると、太陽系の天体が螺旋運動するこのデマ動画が、いまだにRTされたりして拡散しているのでうんざりしてきた。
「太陽系 公転」「太陽系 運動」「太陽系 移動」「太陽系 回転」などで検索すると、この動画を真に受けて紹介しているブログなどが検索上位にヒットしてきて、さらに誤解を広める一因となっている。
あまつさえニコニコ動画にも転載され、字幕までつけられている。
結論から言うと、これはトンデモ信者が思い込みだけで作った信憑性ゼロの動画である。映像の出来だけはよいからか、昨年の3月頃からかなり広まっており、天文学者フィリップ・プレイト氏がブログでその間違いを指摘した記事を出している。プレイト氏は『イケナイ宇宙学 間違いだらけの天文常識』の著者で、世にはびこる間違った天文・宇宙ネタを斬って解説するブログ Bad Astronomy で知られている人。
この記事の和訳版が以下にあり、大変ありがたいのだが(動画が話題になってすぐのタイミングで和訳まで出たのは本当に感謝している)、残念なことに誤訳が目立つという指摘があり、いまもって修正されていない。
翻訳が不自然な箇所を以下にテキストで逐一指摘してくれている方がいたが、行きつ戻りつ確認しながら読むのが大変なので、勝手ながら指摘箇所を中心に翻訳を修正して以下にまとめ直した。いまだに信じて動画を広めてしまっている人に「それ間違いですよ」と指摘しようにも、記事の誤訳が多かったりするとちょっとなぁ、となるので。
なお、もし元の翻訳記事が適切に修正されれば本記事は消すつもりだが、和訳した方は当時Twitter で指摘されてこの校正テキストを読んだはずなのに、もう1年半ほど放置されているのであまり期待していない。
間違いを打ち消すために、まともな太陽系の公転運動を描いた動画があれば知りたいものである。
なめらかな動きでコンピューターアニメーションが太陽の周りを周る惑星の動きを、天の川銀河を周る太陽軌道のように解説する動画について、ツイートやメールがたくさん来ている。とてもきれいな動画に、説得力のある音楽、ていねいな作りの画像。
しかし、問題がひとつある。間違っているのだ。間違いは表面的なものではなく、間違った前提からきた根本的なものだ。中にはいくつかの有益な視覚情報があるが、私は(銀河サイズの)話題のタネだと思っておくよう警告する。
なぜか? 彼の主張の基礎は、「惑星は太陽中心の軌道を描いているのではなく、銀河の周りを渦巻き状に移動している」というものだ。
私は普段、こうした話題の間違いを暴くような面倒なことはしない。奇抜な主張はいつでもあるし、たいていは自滅していくからだ。しかし、この件についてはたくさんの人が私に知らせてきたし、明らかにかなり人気を博している――たぶん表面上は正しく見えるし、画像も大変きれいだからだろう。また、科学を知りつつもそこから離れて久しい人たちによって広まっているのではないかと見ている。このような話題を扱うときには、いつも少し深く掘り下げる手間がかかる。
そこで、シャベルを取り出してみよう。
動画の作者DJ Sadhuは明らかにコンピュータグラフィックスの才能がある。しかし科学は……まあ。私にはすぐさまこの動画が何を目指しているのかわかった。彼は率直に、太陽系の太陽中心モデルは間違っている、と述べている。しかしながら、この Sadhuの主張ははなはだしく間違っている。重力は存在しないと言っているようなものだ。
地動説とは、太陽が太陽系の中心にあるという考え方で、惑星はその周りを周っている(他にもいくつか大事なことがあり、たとえば惑星の軌道は楕円であるとか、軌道は同一平面上にあるのではなくて互いに傾いているとか)。この考え方は、地球が太陽系の中心だという古い天動説にとってかわった。天動説は、それをちゃんとした物理のモデルだと考えると、あらゆる種類の奇妙な仮定をしてやらないとちゃんと機能しない、とてつもなく複雑で考えすぎの物理モデルになってしまう(タイレノールなどの頭痛薬があるなら、epicyclesの項を見てみよう)。地動説はそれよりもずっと物理的に正しいし、ずっとうまく機能している。
私は、どちらのモデルにもそれぞれの使い道があると言いたいのだ。もし特定の惑星が天のどこにあるのか知りたいなら、天動説の座標を使うことになる。われわれは地球に住んでいて、地球は動かずに天の車輪が頭上を回転して動いているように見える、それは理にかなっている。しかし、もし惑星へ宇宙探査機を送りたいなら、太陽中心のシステムが必要なのだ。地球も惑星も両方とも動いていると考える方が、はるかに計算は簡単になる。
Sadhuは、地動説が間違っていて、実は惑星は渦を描きながら太陽を周る動きをしているのだと主張している。彼が実際に言わんとしているものは、渦ではなくらせんである。この2つは名前が違うだけでなく、物理的な動きもその特徴も全く異なる。らせん軌道を描く粒子は、太陽系のようにお互いには干渉していなくてもよいが、渦を描く粒子は抗力と摩擦を通じて互いに干渉している。
しかし、意味論的な論争はよそう。もう一度動画を見てみよう。Sadhuは太陽が惑星を先導しているかのように、太陽が惑星よりも前方に出て銀河を回っているかのように描いている(2番目のビデオだともっとそれは明白だ)。これは単に誤解を招くだけでなく、完全に間違っている。惑星は、われわれが銀河系の中を巡るとき、ときどき確かに太陽の前に出たり、ときどきその後ろをついてゆく(太陽を周回する軌道上のどこにいるかによる)。実際に夜空の惑星を見たことのある人にとっては明白な真実である。なぜなら夜空の一部は、地球や太陽が銀河系を周るときの進行方向にあたるわけだが、惑星はその部分にだって観測されるのだ。
ここでも、細かいことをあれこれ議論するのはやめよう。後述するように(「こうした考え方はどこからもたらされたのか?」の項)、惑星が銀河系内を動くときに太陽の後ろをついていくという考え方は、Sadhuがらせんについて述べるときの思考基盤となっている。しかしまずは、もうちょっと見てみよう。
太陽が銀河の中を移動していく様子を示している、彼が二番目に公表した動画では、もっとひどい状況だ。
公平のために言うと、今回彼は惑星の動きについて「らせん状」だと正しく記述している。しかし、まだ惑星が太陽の後ろをついていくように描いていて、これは間違っている。また特に動画の冒頭では、太陽中心モデルと、らせん運動についての彼の説明を具体的に比較しており、誤った「太陽主導」の考え方を補強している。
彼の動画における太陽中心モデルの動きを注意深く見てみよう。銀河を周る太陽が動く方向は、惑星の軌道平面と同じに描かれている。しかし、こうではないのだ。太陽系の平面は、車の前方への動きに対してフロントガラスが作る角度のように、銀河系に対して約60度で傾いている。
これは本当に重要な点だ。らせんモデルでは、銀河を周る太陽の動きにあわせて、太陽を垂直に周回するような惑星が描かれている。お好みなら「正面向き」といってもいい。これが間違っている。なぜなら、惑星の軌道は60度で傾いていて、90度ではない。惑星はときに太陽の前に、ときに後ろになる。これだけで、らせん描写が正しくないことがわかる。地動説という現実のモデルにおいても、順行-逆行運動というものは存在し、現実の空できちんと観測できる〔訳注:詳しくはこちら参照〕。
しかしそれだけではない。動画では、太陽が銀河を周ることを見せていて、らせんに沿って上昇、下降している。最初の動画のように、一部正しいところもあるが、大方は事実からかけ離れている。
われわれの銀河は、中心部が膨らんでいる平たい円盤で、端から端まで約10万光年の距離がある。この円盤は無数の星を内包し、その重力が合わさって、銀河中心を周る軌道に太陽を留めている。ちょうど、太陽の重力が惑星を軌道に留めているのと同じだ。
太陽が銀河系を一周する軌道の長さは、およそ2.4億光年ではない。銀河を周回するときには、だいたい動画にあるように、太陽は実際ぴょこぴょこアップダウンを繰り返している(とはいえ大体1周につき4回ぐらいなのに、Sadhuは動画内で数十回もアップダウンするように描いている)。〔訳注:太陽系が銀河系内を周回する軌道の図参照(垂直方向は強調されている)〕
このような運動が起きるのは、銀河円盤での重力の働き方のせいだ。ここが非常にクールなところだ。円盤よりほんのわずか上にあるものは、円盤に向かって全体的に下へと引っ張られる。円盤が巨大な物質の板であると想像してみて、太陽がその円盤よりも上にあるとする。円盤の重力は太陽を下へと引っ張る。星と星の間は遠く離れているので、太陽は円盤の間を通り抜けて下へ降りていく。そうすると今度は、下に来てしまった太陽を円盤がまた引っ張り上げる。このとき、太陽の動きはだんだん遅くなり、そして止まり、向きを逆にしてまた円盤へと急激に突入する。太陽は、銀河円盤の中心から上下にそれぞれ200光年ぐらいの浮き沈みをするが、円盤は1000光年の厚みをもっているので、結局私たちは銀河円盤の中にしっかり留まっている。しかしこうした摂動は永遠に続き、太陽は大海のコルクのように浮き沈みを続ける。
太陽は銀河を周回しているので、合わさった動きはすてきな波のパターンになり、浮きつ沈みつ回転木馬のようにまわり続ける。ゆえに、Sadhuはこの部分に関しては(多かれ少なかれ)正しい。
だいたいはね。しかしここに3つ目の要素が加えられている。ひねったらせんを描く太陽の道筋を、彼は歳差運動の性質だとしている。この部分は間違っている。非常に間違っている。
歳差運動は物体が回転するときにてっぺんをぐらぐらさせる動きで、回転の中心軸からずれた向きの力をてっぺんに加えたときに起きるものだ。コマのてっぺんを突くとぐらつく、それが歳差運動だ。地球自身も太陽と月の重力に引っ張られて歳差運動をしており、その軸の1回の揺れ周期は2万6000年だ。
明らかにSadhuは、動画の中でこれを表現している。しかし、ぐらつきは太陽にまったくなんの影響も与えていない。それはただ、地球が何かしているだけだ。しかし、Sadhuは銀河を周る太陽の動きに付け加えていて、それは意味をなさない。動画では銀河を周るコークスクリュー(コルク栓抜きのような螺旋運動)を描いているが、ときには銀河の中心に寄り、ときには遠くへ離れる動きを何度も何度も繰り返している。回転木馬のたとえでいえば、馬が真ん中で回って、上下に、また左右に動いているようなものだ。しかし、それは太陽の本当の動きではない。左右の運動なんてない(軌道ごと何度も銀河の中心に向かったり離れたりするなんて)。Sadhuの示すコークスクリューパターンは、間違っているのだ。
動画と解説文において、Sadhuはかなり頻繁に、座標系と力と運動を混乱させている。
彼はなぜこんな正しくない運動を描くのだろうか。それを掴むため、彼が元にした文献をあたってみた。
動画と彼のサイトによると、SadhuはPallathadka Keshava Bhatという人から学んだそうだ。Bhatによる「らせんの渦巻き:太陽系の動的プロセス」(“Helical Helix: Solar System a Dynamic Process”〔リンク切れのためこちら参照〕)と題された文章にこの考え方はすべて説明してあり、細かすぎる点は指摘しないが、ちんぷんかんぷんなものだった。まじめな話、どれもまったく意味をなさない。Bhatは地動説は間違っていると主張しているのだが、その主張を補強するために、虚偽のアイディアを次から次へと用いているのだ。彼の主張の間違いを暴くためにページを割くこともできるが、ここは短くまとめてみよう。
私はBhatの主張を何度も読んで、可能な限り好意的に考えようとした。私がかき集めたところでは、彼が言っているのは、太陽の動きによって、太陽を先頭にして惑星が後をついていくという形で、惑星は銀河系内でコルク栓抜き状のらせん運動をする、よって地動説は間違っているというものだ。Sadhuの動画の解説文によると、こうした動きをうまく描いているという。しかし、どれも完全に間違っている。もしそれが正しいのなら、外惑星(太陽から地球よりも遠くにある、火星や木星など)は太陽の反対側に遠く離れて見えないだろう。しかしいつだって、私たちには見えている。
それに、私たちは何度もほかの惑星へ宇宙探査機を送っていて、どれもいまだその軌道上にある。もしBhatがいうように地動説が間違っているのなら、探査機はいつになっても目的の惑星に到達できない。探査機を送るための軌道計算が間違っていることになるからだ。探査機の道筋を計算するときに銀河を周る太陽の動きを考慮する必要なんて全くないから、Bhat氏のいうことは正しくない。
太陽が太陽系の先頭で、惑星はその後ろをついていくという主張も、明らかに間違っている。太陽は、Bhatが主張し(Sadhuが動画で示して)いるように、銀河系を突き進む弾頭のように太陽系を主導したりしていない。惑星は太陽の周囲を周り、全体が一つのユニットとして銀河系を60度の傾きで移動している。これは、銀河の軌道に沿って惑星はときに太陽の前になり、ときに後ろに続くということだ。
これはそう、道を歩くあなたの頭の周りを、端にボールの付いた紐がぐるぐる周っているようなものだ(この円は60度傾いている)。ボールはときに頭の前になり、ときに後ろになる。道を歩くときには常にあなたと一緒だが、歩く速さには関係なく、相対的にはあなたと同じ速さでいつも移動している。あなたが自分の動きを線で表すとすると、ボールは傾いたらせんを描くだろう。これこそBhatとSadhuが説明しようとしたことなのだが、しかし間違った説明になってしまった。
Bhatは、その文章の中でいくつもの間違いと論理的誤ちを犯している。たとえば、Sadhuの地球歳差運動の誤用についてBhatが何と言っているか読み取ろうとした。しかし、とても不明瞭で(それに単純なミスもあり、彼は歳差運動の周期を22万5000年としているが、実際には2万6000年)ゴルディアスの結び目を解いているみたいだった。まだほかにも。彼は、もし地動説が正しいなら、日食は1カ月に1回起きなければならないと考えている(46ページと134ページを参照。ちなみに日蝕が一ヶ月に1回起きないのは、月の軌道が傾いているため)。また、彼は「太陽中心軌道は不可能であると意味しなければならない」と結論付けた部分で、地球が太陽の周りを周る回転について根本的な勘違いをしているようだ(文書の30ページを参照のこと)。実質、私が読んだ文章の1ページごとに基本的・根本的な間違いがあった。
そしてこれが、Sadhuの(間違っているにしてもステキな)動画が基礎としているものなのだ、いいかい? いっておくが、もしSadhuのサイトをのぞいてみたら、あらゆる種類の……んー、おかしな陰謀論……9.11陰謀説から、ケムトレイルから、デイヴィッド・アイク(本気で爬虫類型異星人がデンバー空港の地下に住んでいて世界を支配していると主張している)が怒り狂いそうなのから、名前しかない程度のものまで見つかるだろう。私は、彼のほかの考え方を念頭に置くことにした。
DJ Sadhuの動画は、とてもステキで、そのうちいくつかは真実を元にしたものだ。しかし、私の意見ではBhatのゆがんだ宇宙に対する見方のせいで、その核心が失われてしまっている。
彼の動画は正しいように見える。クールであるように見える。ものごとはこうでなくっちゃ、というセンスに訴えかけるものがある。しかし、物事がどうあるべきかと、実際にどうなのかということはいつも重なり合うわけではない。宇宙は本当にクールな場所で、とてもよく出来た一連の法則に基づいて動いている。私たちはこうした法則を「物理」と呼んでいて、それは数学で記述されている。そしてそういうこと全部を理解しようとする試みが、科学である。
クールなものがすべて科学ではない。しかし科学の全てはクールだ。これは普遍的な法則ではないかもしれない。けれども、私の見てきた限り、これは真実なのだ。
(問題提起)結婚以外にも再帰性という考え方が浸透しているのではないか?
第三節のなかに「再帰性」という言葉がある。本書によれば、再帰性とは「ある行為なり制度なりを『別なふうにもできるのではないか』という観点から眺める態度」と説明されている。この観点に通じるものとして、山田昌弘は結婚しない若者たちの現状を取り上げ、「もっといい人がいるかもしれない症候群」と名付けた。「この先もっとよい人があらわれるかもしれない」。現代において、現在の事柄はより見通しのよい未来を獲得するための手段にすぎないのである。「再帰性」という言葉は広い範囲で応用されうる、強力な思考である。山田昌弘は、現代の結婚観のなかに「再帰性」を見て取り、鮮やかに示してみせた。しかし、「この他によりよい未来が待っている」という、主体の今いる現状を顧みない、いわば運命に身を委ねるような考え方は、結婚に限らず恋愛において多分に散見される。<承けて繋げる>(結婚にかぎった話ではない。恋愛において、よく散見されるものである。)(たとえば、「告白」を考えてみよう……)(「告白」というテーマに照準を合わせたものの、上手い事例がでてこない。もう少しやりやすいものはないか?類似しているものはつぶしがきく。「別れる」という動作に着目してみよう。)(輪郭がぼんやり浮かんだ!!でも、書き出すとなると苦労する。それは往々にして範囲が広く、抽象的であり、実感しにくい事柄である場合である。だから範囲をしぼる。身近な例を思い浮かべ、それをそのまま書く。)
(検討)
『『『→たとえば、恋愛における「別れる」を考えてみよう。別れるという行為には、分かれるに足る決定的な理由が存在することが少なくない。しかし、時として、これとは異なる理由で別れることがある。順調に交際を重ねていけば、いつかはマンネリとなる。(マンネリになるよ!)二人が二人でいることに、慣れてしまう。(慣れてしまい停滞する。)(停滞している状態になる)(マンネリとは〜〜)停滞期には、些細な出来事が火種となる。(二人の関係が不安定なものになるとき、楽しかった思い出は、これまでとこれからを天秤にかけ、私たちに選択を迫る。<説明を加え過ぎ。抽象的な説明は2段階にとどめる。3つ目はくどい>)「このまま、関係を続けていって本当にいいのだろうか。」困難を見事乗り越えることができたならば、二人はめでたく、ーーおそらくは信頼が以前にも増して強固となってーー次の段階へ進んでいく。しかし、この問いに対して、「次へ」
(書くしかない!)』』』
(煮詰まっているときは一つの主題を掘り下げようとするあまり、論旨をどのように展開していくのか見失っている。文章を書き進めていくときは、水平性を意識して垂直に掘り下げる。ある思考にたいして、分析するさいは垂直方向だけ意識していればいいが、論文やレポートのような長文にたいして、同様な態度で臨むと、思考が煮詰まる。頭がぼんやりとして、手が動かない。捗らない。この状態は、集中力が途切れたのではなく、一つの物事に偏執して全体が見えていない状態である。いわば、過集中である。)
(主張)
ただ一緒にいれば楽しかった、順風満帆な時期は過ぎ、停滞期に入る。『これから二人の関係をどうしていこうか』と考える時期になる。(所詮は)他人である二人の人格の衝突を、乗り越えていけば、二人の関係は以前にも増して親密なものとなるだろう。しかし、厳しい状況を乗り越えていく気概が持てないことがある。「もっといい人を見つけよう」と早い段階で見切り、(何の確証もない)確証がない明るい未来に全身を賭ける。(安易に)現在の関係を断ち切り、次の交際相手を見つけることができれば、万事良しである。本当にそうだろうか。このような身のこなし(方)にはいくつか問題がある。
〜〜剥き出しの主張は過激で偏屈であるから(主張に至る経緯)(妥協)を鏤めて、なめらかにする。主張は正しいか誤りかで判断するのではない。より説得力を持った文章が、受け入れられるのである。〜〜
(検討&主張)
〜〜何をどのように書くか?テーマと意見の設定、検討-過程の設定〜〜
(テーマ)
恋愛における付き合う、付き合わない
(問い)
仲がよいのに、どうして付き合わないのか?
女はわかる、男は?
福岡市内には数多くのラーメン屋がしのぎを競っているので、どこに行けばいいのか悩む観光客も多いと思う。
ぐるなびや食べログでも見れば、いくつものラーメン店舗が紹介されているけれども、どれもそれらしい感想が書かれているので、どれを信じればいいのかわからない。
そもそも、何千人もの人々に支持されるラーメン屋って、最大公約数に好かれた、特徴のないものになってしまいがちだ。
それに、今では東京にも数多くの博多ラーメン店が進出してきている。
でも、どうせ福岡市を観光するならあまり全国展開していないラーメン屋で、ラーメンを食べてみたい、という人々も多いのではないか。
そこで、東京在住の元福岡市民として、地元で数多くのラーメン屋に足を運んだ私が、本当においしい福岡市内(主に中心部)のラーメン屋について、紹介したいと思う。
ほぼ赤坂周辺のラーメン屋に限定したので、今日は天神、明日は久留米、明後日は直方……などと遠距離を移動する必要はない。
これは王道でしょう。福岡市民にとってみれば、地元のラーメンといえば「博多ラーメン」ではなく「長浜ラーメン」のことを指す。
そもそも福岡市民に博多ラーメンと言って思い浮かべるのは「うまかっちゃん」という即席麺だ。縮れ麺で、濃厚で、美味しいけれども、屋台で食べるラーメンではない。
http://www.ganso-nagahamaya.co.jp
はっきり言って、味は洗練されていない。臭い。生臭い。味も大味だ。昼にこのラーメン屋の周囲に行くと、黒く油で変色していて環境もよろしくない。
それでも、何度も通ううちに、癖になる。独特の味わいがあり、たとえるならばスルメのようなものだ。元福岡市民で、数年ぶりに地元に帰った人間が、この店に行かずに東京や大阪に戻ることは決してないと断言できる。
とんねるず等が昔猛プッシュをしていたので、知っている人は多いと思う。
ここのラーメンも、癖があるけれども、うまい。油がのっていて、くどいので、好き嫌いはあると思うけれども、普通にうまい。
ちょっと奥まった場所にあるので、ファミリーマートを目印に、その周辺をぐるりと一周すればみつかると思う。
ここのとん吉は、長浜ラーメンオブ・ザ長浜ラーメンとでも形容しようか。スタンダードのうまさ。それに、いくらでも紅しょうがを入れ放題なので、寒い夜にはおすすめ。
臭くない。
臭みをかなり抜いているのだと思うけれども、元祖から欠点を取り除いたラーメンとでも言えば、分かるだろうか。
そのため、やや優等生的であり、物足りないと感じる人も多いかもしれない。
味は濃厚、腹持ちもいい。
2種類のラーメンを楽しめるので、それもこの店に通う理由になる。飽きたら赤のれんを試してみればいい。
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2012-05-28-1
ここの辛ネギラーメンは絶品といえる。目の前で作ってくれるのだが、どういう仕組みかわからないものの、ネギの上に油を垂らすと、ジューという音がするのだ。
この音が食欲をそそる。そして、うまい。そして、煮玉子が絶品だ。
ややわかりにくい場所にあるので、いろいろな人に尋ねながら行くのがいいと思う。
細い路地にあるし。
http://s.tabelog.com/fukuoka/A4001/A400103/40003396/
ここのスープが絶品だ。実は、二位の郷家と一位の鈴木商店は、どちらもトンコツではない。福岡の人間は、トンコツに食べ飽きている。そこで、普段よく食べるラーメン屋として挙げる場合はトンコツラーメン一択なのだが、もしもお勧めのラーメン屋を挙げろと言われたら、それ以外のものになってしまうのだ。私もそう。そして、ここは、たしかにうまい。
もしも博多らしいラーメンを一度だけ食べたいと思うのならば、5位から3位までのラーメン屋に行ったほうがいいと思う。でも、福岡市内の中でももっとも勉強熱心で、美味しいラーメン屋に行きたいと思うのならば、郷家か鈴木商店に行くべきだ。
ここがまた、わかりにく場所にある。地図を片手に行くことをお勧めする。地元の人間でも必ず迷う場所にある。
福岡市中心部では、うまいお店はわかりにく場所にあることが多い。目立つ角地になくとも、うまければ必ず固定客がつく。固定客がつけば、店の経営は安定する。福岡の人間は律儀なので、好きになったお店には何十年でも通う。固定客にとってみれば、行きたい時に観光客で混んでいるお店は敬遠したいので、その意を組んでか、味に自信のある店舗は、路地裏に店を構える。こうして、ラーメン屋は路地裏に多くなる。まあ、匂いがきついので、大通りにお店をつくりにくい、という理由もあるけれども。
ここのあごだしのスープは、とにかく絶品だ。
http://s.tabelog.com/fukuoka/A4001/A400104/40000502/
以上。
※2014/03/26 はてなトップに大分前に書いた記事が上がっていたのに気づいた。
ブクマで「リンクが死んでいる」という指摘があったので修正(Googleで上の方にあったアドレスを貼り直しただけだけど)
ステマではなくて、当時「福岡に行くから美味しいラーメン屋紹介して欲しい」と言われ、友人に紹介した店を、需要があるかと思ってここに書いただけ。
ブログに書きたいんだけど、匿名で書いているので、福岡出身とバレるのが嫌だからこちらに書いた。
トップ二つがマイナー過ぎる、という声もあるが、かなり食べ歩いて選び抜いた結果なので、通好みとなり、いわゆる「大手」にはならなかったのはしょうがなかやろうもん。
docomoが出してる端末仕様確認ツールに、こんなコメントが付いていた。
たっちぃキラリスター(2012/03/19) (バージョン 80.240.0000)
★☆☆☆☆ 信用できません
内側カメラの「垂直方向の画角」がSH-12CとSC-04Dで同じ「42.5」になっていますが、きちんとCameraInfoのorientationから値をとっていればSH-12Cはおそらく違う値になると思われます。他にも信用できない値があるかもしれませんので評価は星1つにしておきます。
気になったので調べてみたんだが、
http://developer.android.com/reference/android/hardware/Camera.CameraInfo.html#orientation
全然「画角」の情報じゃねーじゃねーか!orientationてのはカメラが付いてる向きのようだ。
で、調べてみたらこの「たっちぃキラリスター」氏、実は自作Androidアプリの作者でもあるようだ。
CameraInfoの紹介 http://burai3rd.blog76.fc2.com/blog-entry-177.html
という記事で自作のAndroidアプリを宣伝しており、
Orientation - カメラの回転角。スマートフォンの場合、背面カメラは「90」、前面カメラは「270」が標準。標準の値と違うと画面に像が正常に表示されないなどの不具合が生じる可能性が高い
濾過されるってことは位置エネルギーが高い状態のまま保存される
えっ?
えぇと、放射性物質は粒子だぜ?
常に水が流れ続けるとか、圧力ない限り地中では動かんと思うんだが。
濾過されるってことは位置エネルギーが高い状態のまま保存されるってだけ
地層にろ過されたら、位置エネルギーは消費されるんじゃないの?
…と思って読み返してみたが、
ここらへん、漏斗にのせるタイプのろ紙をイメージしてるのかな。
(追記)
他の方からも突込みが入っているようなので。
ろ過がどういうことかわかってない、というアプローチは「お前もわかってないだろ」と言われちゃうからやぶへびだと思う。根拠薄弱なのに安心しちゃう、っていうのがダメなら根拠薄弱なのに心配しちゃうのもダメだし。
そんな都合よくろ過するわけねーだろ、とは俺も思うけど。
新しい言葉 「障害者」→「障がい者」→「チャレンジド」へ 鳩山首相「チャレンジドが望ましい」
ttp://alfalfalfa.com/archives/387398.html
97 : スプーン(愛知県) :2010/02/24(水) 10:52:45.78 ID:ORQIMcG8
vertically-challenged(垂直方向に試練を与えられた人)でチビ
horizontally-challenged(水平方向に試練を与えられた人)でデブ
follicularly challenged(毛根に試練を与えられた人)でハゲ
romantically-challenged(恋愛面で試練を与えられた人)でモテない人
色々応用が効くw
290 : スプーン(愛知県) :2010/02/24(水) 11:07:11.19 ID:ORQIMcG8
»154
totally-challenged(全てにおいて試練を与えられた人)ってのはある。意味は「植物人間」
さっき挙げなかった他の例
aesthetically-challenged (美的に試練を与えられた人)→醜い人
cosmetically-challenged (外見に試練を与えられた人)→醜い人
cerebrally-challenged (脳みそに試練を与えられた人)→頭の不自由な人→バカ
scientifically-challenged (科学に試練を与えられた人)→科学が苦手なひと
musically-challenged(音楽面で試練を与えられた人)→音痴
mathematically-challenged (数学面で試練を与えられた人)→算数できない人
automotively-challenged(自動車で試練を与えられた人)→運転がヘタクソな人
言い換えはそんなものじゃないでしょうか。
で、後半部分ですが、厳密に言えば大小に関わらず相対性理論によるわけで、その時点でニュートン力学から外れるし、量子力学の影響とか、「恐ろしく厳密」ならばニュートン力学だけじゃ不足なのは自明じゃないでしょうか。
ただ、「そういう意味ですか?」と聞かれると「どういう意味ですか?」と思います。
わたしの「力学の話をするときには「力」という言葉をもう少し丁寧に扱ってほしい。重力定数と重力加速度と力(重力、引力、引く力 etc.)は違うものだから。」という部分に対してなら、例えば、http://anond.hatelabo.jp/20091230202457の
ニュートン力学で言えば、地球が物体を引く力は一定で、物体が地球に向かって移動する力は質量に依存するので一定。
物体が地球を引く力は、それぞれの物体の質量に依存して異なるが、地球の質量は一定なので、重い物体の地球を引く力の方が大きい。
について、
「地球が物体を引く力は一定」は「地球が物体に及ぼす重力加速度は(両者の重心間の距離が一定ならば)一定」か「地球が物体を引く力は物体の質量(と両者の重心間の距離)に依存する」
「物体が地球に向かって移動する力は質量に依存するので一定」は「物体が地球に向かう加速度は重力加速度に依存するので一定」
「それぞれの重力定数をga,gb,ge」は「それぞれの(重心間距離が等しい初期の)重力加速度をga,gb,ge」
とか、回りくどい説明をしなくても、
「質量が大きい物体ほど引力が強いので地球が大きく動き、早く接触する」
でよいのでは。
でもって、別々ならそうなんだけど、同時に、となるとまた別の話が必要で、重い物体の方に僅かに地球が寄り、地球の表面は平面ではなく曲面だから、距離的な差が生まれる(たぶん)っていう形状的な話になって、そうすると落下する二つの物体間の引力を無視するのはナンセンス、と言う話になって、さらに地球上の3次元的な重力分布の偏りも(互いの重心距離や接地面との垂直方向や距離を考慮するならば)考慮しなければと言う話が、結局何をもって「同じ高さ」とするかという話になって、そうすると距離、つまり長さの定義(つまり光速)の精度に収まる話なのか、という問題も出てくるわけで。
あ、月や太陽の話を忘れた。
http://anond.hatelabo.jp/20091230234610
まぁ要すると、そこまで考えると「地球」というもの自体を厳密に定義しなきゃいけなくなるよね。現実の地球は複雑不安定過ぎて話にならないから。
岡田も岡田で結構危うい気がするけどね。西松建設のサイト見ると分かるけど、西松建設ってかなりの数のジャスコやイオンの建設手がけてるもん。
http://www.nishimatsu.co.jp/cnstrct/ken/com/list.htm
名前にジャスコ、イオン、サティ(元マイカルグループで今はイオンの子会社)と名の付くものだけでもこれだけ西松建設に仕事が割り振られてる。これを多いと見るか少ないと見るかは微妙なラインじゃなかろうか。
企業間の取引だからどこがどこに仕事依頼しようが原則自由だけど、その際に何らかの「配慮」が無かったのかと一度でも疑われたら逃げ切れるかどうか未知数。本件とは別のゼネコンならともかく、渦中の西松建設って所が特に。
仮に何らかの爆弾が炸裂したら、小沢のような金権政治のスペシャリストでもなく麻生のような図太さも持ち合わせていない岡田ではもたないだろうな。とはいえ鳩山由紀夫や菅直人は資質的に論外だし、党首経験者で唯一現実志向な前原では社会党の残党が言う事を聞かないのは目に見えてる。
(ジュネーブ発 西山 章宏)
スイスの保養地、ダヴォス・プラッツで3月2日から12日まで、行われた、世界知覚認識学会(ミシェル・ポーター会長)で、北海道大学医学部の斉藤信(まこと)教授が提唱した、痛みを表す「hanage」と言う単位を、世界で共通の単位とする事が承認された。
本来、痛みは、個人差が大きく、同じ刺激でも主観によって感じ方が異なるため、客観的に数値で表すことは、不可能であると思われていた。
しかし、斉藤教授は、「鼻の粘膜は、人体の中で一番個人差が小さい。」事に注目し研究を進めた結果、1㎝の鼻毛を、1N(ニュートン)の力で、引っ張る時に生じる痛みを、1hanageと定義出来ることを発見し、そして今学会で単位として承認された。
斉藤教授によると、足の小指を角にぶつけたときの痛みは、2~3Khanage(キロハナゲ)、お産の時の痛みは2.5~3.2M hanage(メガハナゲ)になるのだそうだ。
「痛みを数値で表すことにより、正確な治療に役立つ。」(斉藤教授)そうで、今回の発見は、大変画期的だそうだ。
「日本人の提唱する単位が、世界で認められるのは、非常に珍しい。」(京都大学 横田昌平教授)そうで、日本発の「グローバル・スタンダード」は、驚きをもって迎えられている。
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日本や欧米各国の政府は、来年から痛みの統一単位、「ハナゲ」を採用することに決めた。ニュートン、ヘクトパスカルに続く新単位の登場で医療機器や薬品のメーカーは対応に追われている。
国際標準化機構(ISO)によれば、1ハナゲの定義は「長さ1センチのハナゲを鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み」
大気汚染とハナゲの成長速度の相関性について研究していた永井花外・室蘭私立医科大学教授が、二年前、鼻毛を鉛直方向に抜いたときの痛みに、性別さや個人差がまったくない事を偶然発見したため、この基準が採用された。
これまで、痛みについてはその程度を示す明確な数値がなかったため、「子どもを産んだときはすごく痛かったわ」「痔の手術の後の抜糸は痛いなんてもんじゃない」「ムチがいいか、ロウソクがいいかと問われれば私は迷わずムチを選ぶ」といった論争が起こっていた「ハナゲ」の採用で、これらの無意味な論争にも決着がつくとみられる。
永井助教授によれば、麻酔なしで虫歯を抜いたときの痛みは=500ハナゲ、タンスの角に足の小指をぶつけたときの痛みは=200キロハナゲ、分娩の痛みは=2、3メガハナゲ程度だという(安産型骨盤の場合)
関係者各位
以下の国際標準化機構(ISO)の発表に伴い、昨日、東京・国際フォーラム
において行われた日本非政府団体連盟主催の標準化単位認定評議会が
行れましたので、議事録を送付致します。宜しく御査収下さい。
それおもうんだけどさ,地図をわざわざストリートビューの映像みたくしてない?
実際には脳のスペックはそんなにはいらなくて,むしろ次元を下げればいいから「地図」っていう手段が便利だよってことで生まれたんだと思うんだ。地図が読めるかどうかって三次元の問題ではなくて二次元の問題なんだよ。
ちなみにわたしはストリートビューはわかりにくくてしょうがない。だってあれは地面に対して垂直方向の平面を取ってきてるから方向の成分は前と後ろと右左になっちゃって東西南北ではなくなってしまってるので地図と一致しないんだよね。しかも歩くたびに映像更新するじゃん。目標地点は見えないところにあるから想像で補完して予想で位置関係を決めなきゃいけないから間違ってるとたぶんクリティカル。すげ―脳のスペック必要だと思うんだよなぁ。
地面に対して水平な平面(つまり地図)で見てれば方向成分がそのまま残っている(ただし高さや地形なんかの情報はない。でもまぁそんなに困らないかなぁ。びっくりすることはあるかもだけど)地図の端に行きつくまで映像は別に更新しなくてもいい。そこらへんの違いってやっぱ生まれつきなのかしら。それとも訓練でどうにかなるものなのかしら。ちょっと試してみてほしい。
まぁ、俺も小学生のころはそんなもんだった。中学受験をして一貫校に行ったら、下は増えたけど、上は上だったからねぇ。
ちょっと気分変わってきたのは、東大入ってからかな。
最近は知らないが、東大の教養学部前期課程のとき体育実技が必修であった。単位数はともかくとして、必修体育自体はどこの大学でもあると思う。
この実技なんだが、種目選択の前に最初に体力測定があって、これで基準に達しないと種目は「トレーニング」強制。
もちろん、俺はそれwww
ウェイトトレーニングと、1500メートル15分走。これが 1年生の夏学期の全て。
東大の体育実技の担当って、助手だった。統括してたのは助教授とか教授かもしれなかったが、そこは覚えていない。
トレーニングは石井直方教授(だったと思う)のラインで、かなり科学的トレーニングの知識をきちんと持っている人達だったんだよね。
余談だが、体育講義というのもあって、当時は浅見俊雄教授がやっていた。
直接教わった助手のひとは、軽く調べるといまは加圧トレーニング方面の偉い人になって、東大の客員教授。その前は都立大で助教授やっていた。
そういう環境で身体をちゃんと作るための基礎を学んだので、あんまり運動が嫌では無くなった。
週1回だから、マシンやバーベル種目での身体の動かし方や漸進性過負荷の原則を学んだ程度はあったんだが。
その後、趣味のスポーツで怪我をする→リハビリでネットで調べてちゃんとしたところへ行く→スポーツクラブに入ってちゃんと身体作りをする
とかやっていくと、まぁ、肉体改造オタ的な趣向も入ってきて、身体能力が上がっていって、そうするとスポーツがいろいろできるようになってきた。
ただ、一人でやっていると団体スポーツに必要な要素は身に付かないし、敏捷性は動体視力も鍛えないといけないが、そちらは手つかず、ということで、
なんでもできるわけじゃないし、うっかり全日本クラスを目指すジュニアがいるようなガチンコ競技系の講習会とか行くとエラい目にあったりするわけだが、
そこそこスポーツはできるようになったよ。モテとの関係は知らん。その前に結婚したしな。
趣味のスポーツの中身は出さないが、スポーツクラブでやってる筋トレさらしておくと、レッグプレス 200kg で 10回3セット とかは普通にできるようになった。
チェストプレス 70kg 10x3 ぐらいだし、ラットプルダウンは 50kg 10x3 とかなんで上半身は弱いけど、これは趣味スポーツとの関係で下半身中心でトレしてるからそんなもんかと。
ほんとは腹筋きっちり作らないといけないんだけどね。これはまだ課題が多い。
そんな 30代後半のこの頃。
・魅力的な文章
・他人に言いたいことをしっかり伝えられるような文章
上の二つは別物だよ。っていうか魅力的って言葉が幅広すぎるんだ。他人が読みたいと思う文章ってことか? 人によっても異なるしな
とりあえず他人に言いたいことをしっかり伝えられるような文章ではあるが、魅力的でない文章はそれこそいっぱいあるよ(極論すればニュースとか)。逆はあんまりなさそうな気がするけど。
そして本題だけど、私は魅力的な文章を意図的に書くことはかなり難しいと思ってる。いや、技巧のことを言ってるんじゃないんだ。それもあるけど、それよりも書きたい何か、伝えたい何かがあるかどうかの方が重要だと思う。そしてそれを聞きたいと感じる相手にとってのみそれは魅力的に感じられるんじゃないかな。例えば環境破壊のドキュメンタリー(これは文章じゃないが)とか。
で、増田にはそれがあるみたいだね。なら正直方法論から入るよりとりあえず書いたものを見せて推古してもらうのがいいんじゃないかな。自分の中でまだ自分なりのやり方がまとまってない状態なら、具体的な注意点を聞いていった方が早く良い文章が書けると思うよ。
後者については前者よりかなり書きやすいと思う。方法論+伝える相手になったつもりで書けばよいかと思う。これをどれだけ深いレベルで行えるか。その辺は長いんで割愛。あとは推古にかける時間かな。まぁ、増田はどっちかというと魅力的な文章の方に興味あるみたいだけど。
推量に推量を重ねて書いたらなんか全てにおいて中途半端の文章になってしまった。すまん。