はてなキーワード: はてダとは
もちろん最初はふつーにはてダ使うつもりで実際に1ヶ月くらい使ってみたけど、半匿名でも書くのに気を遣っちゃって、見えない枷のようなものがうざくてしょうがなかった。
IDを気にせずにいろいろ書けるってラクでいいわーと、はてダじゃなくて増田のためのはてなIDになっちゃってる。
気軽なメモレベルから、IDが割れてる状態じゃ書けないような恥ずかしいことまで書き散らせる。
レスポンスをくれる人も、はてダと違って「率直」な意見をくれるように感じるし。
(追記)
匿名のほうが欺瞞だらけ
もちろんそういう部分もあるけど、必ずしもその優劣は決められないから難しいよね。
実名だからこそ、あまりにも「率直」すぎることは書けないから当たり障りない一般論になっちゃったりすることもあって、自分の場合はそのストレスのほうが嫌だった、という話。
本命になってねえじゃねえか
確かにこの不等式からだとそう見えるな。わかりにくくてスマンwww
なんかねー、ブログ消した。
理由はほんとにくだらないことで、ネット上の話ですらない。なんかもう、ほんとうにどうしようもないこと。
ネット疲れとかじゃぜんぜんないすよ。
これ以上どうしようもないことがあるんだろうかってくらいに。
つーか増田ってこれ妙に幅が広いな。改行自分で入れてやらなきゃだめか。
なんつーかまあ、過去の自分がすべて呪わしくなるようなことやっちまった。
ま、そんなおおごとだと思ってるのは俺だけで、実は世の中にあふれてる些細なことだとは思うんだけど。
ああ、身バレとかじゃないすよ。
で、過去の自分っていうと、まあ現に生活して生きてる自分は消せないじゃん。
それができる年齢ってとうに通過してるからさ。
でまあ、消せる自分からとりあえず消していこうかなーと思ったときに、
いっちょ軽くネット自殺でもやってみますか、と。そう思ったのね。
まあ、ここに至るまでの心理の流れは、ほとんど自暴自棄ってやつなんだけども。
はてダはほら、俺の本拠地だし。あとまあ、別に知ってる人も少ないんだけど、mixiには
そんで、ログなんかとっとかないじゃん俺。
だから「本当に退会する」を選んだら、ここ数年の俺のテキストで全部消える。
「消すのはひどい」って、そう言ってた人がいてさ。それは俺もそう思うんだ。
まあ、ひどいよな。
あれ、そういや増田ってこれ、文字数の制限あんのかね。まあいいや。
ひどいとは思うんだけど、呪わしい自分のカケラがネット上に散乱してるのって、無理。
まあ、どうせウェブアーカイブさんやらキャッシュやらで、一部は永遠に残リ続けるわけだけど。
それにほら、いまのこの気分って一時的な衝動だから、この気分が一ヶ月か二ヶ月かして和らいで、
そんで戻る場所があったらまたのこのこと戻ってくんのよ俺。もうそれは確実。
そういうのいやだなーと思って。
それってほら、クソじゃん。ゴミじゃん。汚物じゃん。
死にてーでも死にたくねーよってだれか生かしてくれーとかさ。そんなんだれにとって
意味があるんすかって話ですよ。
でもあんがいそうでもなかったらしいんだよね。クソを鑑賞する人もいるらしい。
ほら、うんこっていっても、あんまりに素晴らしいかたちしてたら、見る価値あるかもしんないじゃん。
そんで俺は、うんこの脱臭技術を身につけて、うんこ垂れ流しつづけたわけ。
そうやって、いつかはてなにたどりついて、気がついたら、まあブロガー?みたいな立場になってた。
なんかねー、読まれたんですよ。読まれたから生きてこれた時期ってのが確かにあったんですよ。
でもいまは別に読まれなくても死なないしさ。
楽しくなかったかって言われたら、そんなことないわね。
たとえば俺がIDなりアカウントなりブログ名なり名乗ったら「まあ聞いたことある」程度の人って、たぶん万単位は
確実に行くんじゃねえのかな。俺はあんまそういうの気にしないほうっていう建前だったし、実際、ネット上での活動の
大部分は、引きこもった場所でやってたんだよね。最近はわずか数人の人たちだけ相手に、死ぬほど
長文の日記書いてたしさ(まあ、あれが直接の理由)。
でもそういう場所でだって、背後に「あの」っていう権威は背負ってて、そんで俺、自分にそれを許容
してなかったかっていったら、それは絶対ないわけ。心のどこかには「俺がなんか書けば人呼べる」
みたいなのあって、それもひっくるめて、もう呪わしくてたまらないものになった。
そんで、はてなもmixiも退会して、ローカルにあったテキストも全部消して。
これで、ここまで俺が書いてきたものは、すべて消えた。
ほなさいならなーと思って、万年筆でノートに文章書き始めたんだけど(病気か)、でも、未練ですなー。
インターネットに「ほなさいならなー」の一言も残せずに去るのはちょっとさびしかった。
んで、捨てアカ取っていまここで増田書いてると。まあそんな流れです。
いまの俺がネット上から消えることで、迷惑をかける人、がっかりさせてしまう人、まあいると思います。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
いままで読んでくれた人たちは、それだけで俺を文字どおり「生かして」くれたのだから、その恩に報いるためにも
ログは残しとくべきだったってのはわかってる。
これは裏切りだ。
それわかっててもダメだった。自分の存在がどこかに「ある」のを見たくなかった。徹底的に消したかった。
そんでもって、俺には「ありがとう」を言わなきゃいけない人も、きっとたくさんいます。
個人名あげていくと、あとで「あの人忘れた……」的な感じになるのでやんないけど。
俺みたいなくるくるぱー相手につきあってくれてありがとうございました。
俺はインターネットがなければ、きっとなにものにもなれなかった人間です。
インターネットがあったから生きてこれて、インターネットがあったから文章を読んでもらうことができて、
知人もインターネットにしかいなかったし、友だちですらインターネットが連れてきた。
まあ、俺がだれであるかは、タイミングと文体でモロバレもいいとこだと思いますけど。
といってもニコ動のアカウントはそのままだが(別に言わなくてもいいことだろそれ)。
まあ、別の名前でどっかにのっそりと存在するかもしんないけど、いまのとこその予定はないです。
そんなわけで、なかなか楽しかったです。
何のために批判しているのかが不明だから、じゃないかな。タイトルの中身はこの一行。
批判している人を揶揄している人達が、文章を読まずにコメントしてたりするのはアレだから捨ておくとして、
それ以外の人もなお、なぜ虚構新聞を批判している人がいる=長文とか引用を駆使してまで書き上げる情熱があるのかがわからないんじゃないだろうか。
まあ俺もわからないんだけど。
はてダとか増田に書かれて、ホッテントリに大量に入ってくる、あの長文を書く人達のあの情熱はいったいどこからくるのだろうか?
騙された本人が怒っているわけでもなく、名前を使われた橋下が怒っているでもなく、完全な第三者なのに。
そして、それに賛同するはてブに大量の星がつく。トップ10コメントにそれぞれ10から50の星がつく事態。すげえ。
その逆に、批判者を揶揄する人を、批判するはてブにも大量の星がつく。これもまたすげえ。
確かに、騙された本人がムキーって怒って、虚構新聞を批判しているのはみたことがない。
見かけたものの一つは、勝手に名前を使われた橋下が迷惑だろとか、いくら公人の名前でもやっちゃいけないことがあるだろとか、かな。
かつて、ダッコちゃんやちびくろサンボ、カルピスの商標が、「黒人差別」として日本人により批判されて消え去ったのと同じようなことなんだろうか?
赤の他人が当人たちの怒りを、勝手に代弁をしてる感じ。当人たちは(たぶん)怒ってないのに。
あとは、情報ツールとしてのネットに、嘘が紛れ込むのは良くない、デマサイトは消えろ的な
「自分はだまされないからいいけど、世の中の情弱さんが騙されて大変なことになるから、けしからん」というのもみた気がする。
ドリフやひょうきん族、クレしんやしりとり侍など、
「自分やうちの子供はやらないからいいけど、よそのバカな子供が真似するから良くないから、けしからん」みたいな感じだろうか?
虚構新聞を批判している人達の情熱の元が、俺にはよくわからないままだが、
他人の怒りを勝手に代弁するのも、教育熱心な親気取りも、心情的にはわかるし、その情熱はすごいと思う。
日々に疲れていろんな情熱を失っている俺も見習うべきだと思う。
ホッテントリとかが「虚構に騙されたやつばーかばーか」で埋まるのも数日で、すぐ消えるだろと思っていたけど、
「は?もっと違う高みの目線で虚構新聞を批判してるんだよ。俺を騙された馬鹿な奴と揶揄する奴こそばーかばーか」という展開になってきた。
最近、武雄市図書館とかの硬めな話題のなかで、常に上から目線のはてならしさを表した、いい清涼剤だと思う。今日もはてなは大勝利である。
俺も他の誰よりもはてな界の高みを目指したいと心に誓い、情熱をもって、長文を綴る日曜の朝だった。
「外部仕様を変更しているサービスはない」という指摘が多いので追記。
てか、FacebookもTwitterも、外部仕様をもりもり変更してますよね。Facebookなんて既存の機能が無くなったことが何度もあるはずだし、TwitterもWebインタフェースを全面的にREST API経由に切り替えた当初は批判が凄かったと記憶しているけど。
結局、「うまくやるか、うまくやれないか」であって、要求の変更が仕様の変更を求めているなら、それをすることも選択肢から除外されることじゃない。
はてなブログの場合は、過去の強み(職人芸で構築されたインフラ、はてな記法、カスタマイズ性の高さ、etc)が現在の負債になっているという状況で、「じゃあ、作り直しましょう」という判断自体はそんなに間違っているとは思えない。つうか、数年ブランクが空くと痛切に感じるけど、はてな記法辛いよ、実際。もうreSTかmarkdownの拡張でいいじゃん、という感じがする。
結論としては、「はてなダイアリー2.0」を作っても誰も得しないし、不満がある人はそのままはてダ1.0を使い続ければいいじゃん、ということ。
http://www.yamdas.org/column/technique/hatenablog.html
なお、タイトルに PART I とあるが、このネーミングはメル・ブルックスの『珍説世界史 PART I』にちなんだもので、PART II 以降は存在しない。つまり、あなた(ソフトウェア企業)が絶対すべきでないことは、Joel Spolsky にとってこの文章に書かれることだけなのだ。それは何か?
まぁ、そんなわけないんだけどね。
「最近のはてなの体たらくへの失望感に名前を付けたい」というだけの文章にマジレスするのも我ながらどうかと思うし、気持ちは分からなくもないんだが、最近は「はてブ」以外全く使ってない俺でも、長年お世話になってきたはてなに対してそれなりに愛着というものがあるわけで、ディスられるばかりの流れに少しばかり反抗を試みたい。これは、それだけのエントリだ。
というわけで、以下に書くのは、技術の話でも倫理の話でもない。どうか気軽に読んでほしい。
実例を挙げる。
今やワールドワイドな影響力を持つ勝ち組ソーシャルサービスのTwitterだが、彼らは、ここ数年でバックエンドの大半をスクラッチから完全に書き換えた。しかも、RubyからJavaへと、使用言語すら変更してしまった。
http://d.hatena.ne.jp/teppei-studio/20110709/1310168002
もう一つ。Tumblrも、LAMPアーキテクチャからJVMベースへ切り替えた。その過程で、Twitterがオープンソース化した技術を取り入れたりもしている。
http://blog.kyanny.me/entry/2012/02/19/002256
『「古いコードはクズだ」というのは錯覚だ』というJoelの意見は、一面では正しいが、他の面では間違っている。なぜなら、あるソフトウェアに求められていること(要件)は、時間と共にどんどん変化するからだ。
書き直そうが、書き直すまいが、一番ダメなソフトウェアとは「ユーザの要求に応えられないソフトウェア」だ。規模や環境の変化によって古い技術の技術的限界に直面したり、ビジネス環境の変化に追随する必要が出てきたのなら、「スクラッチから書き直す」のは立派に一つの選択肢だ。
はてなダイアリーの最初のバージョンがどういうものかは俺もよく知らないが、おそらく「LAMP」がエッジなキーワードとして持て囃されていた頃に書かれたプロダクトなんじゃないかな(間違ってたら突っ込みを)。それから時代は下り、Ruby on Railsに代表されるCoCなフレームワークの登場を経て、今や大規模分散や非同期を前提としたアーキテクチャが当たり前の時代。当然改修はしているだろうけど、MySQLを職人芸で負荷分散していた時代からは大分遠いところに来たのは間違いない。
何より、はてなダイアリーといえば「はてな記法」とカスタマイズの自由度の高さがウリだったわけだが、これらの存在が、今や機能追加や改良の妨げになっているとしても不思議じゃない。
はてなブログ開発の動機として「今どきの技術で、最初からやり直す」というのがあるのは間違いないが、それは「スクラッチからの書き直し」だから悪手なのだろうか。結局のところ、レガシーコードのメンテナンスを続ける場合と比べてどちらがより低コストか、という話の結論によるとしか言えない。
はてダのソーシャル要素といえば「トラックバック」と「idコール」と「キーワードリンク」だったわけだが、全部Twitter(とTogetter)に持っていかれたよね、という話。
だから、「はてダver.2」や「ブログ2.0」を望む声が大きいのは理解できるけど、ぶっちゃけ、そんなもんに開発リソースを突っ込んでも勝ち目なんか無い。んで、それに代わるアイディアを持ってる奴はどこにもいないと。だから、既存コードの改良ではなくスクラッチから書き直し、スモールスタートでフィードバックを受けながら方向性を考えていく、という方向性はそんなに間違っていないと思う。
ただ、現状を放置すると「それTumblrでできるよ」という話にしかならん、というのはその通りで。それ以外だと、もしgithubがblogサービスを始めたりすると、かなり客を持っていかれるのではないかという予感はする。いっそのこと、Tumblrのデッドコピーから始めるのが一番早いのかもしらんね。
少し別の話を。
これは、Twitterのgithubレポジトリだ。上でも書いた通り、Twitterはサービスをスクラッチから書き換えた。で、その過程で開発した内部向けのフレームワークを、どんどんオープンソース化している。彼らが、内部の技術をきちんと体系化して再利用可能にしていることの証左と言える。
一方、はてなのgithubレポジトリ。正直、サンプルとかプラグインばかりですね、と。
色々と理由はあるんだと思うが、一つ思うのは職人芸頼りで自分たちの技術を体系化するという部分が弱いんじゃないか、ということ(はてな発のオープンソースで広く使われてるのって何かあったっけ?)。
先ほどから散々「書き直していい」と主張しているが、誰かが言っていた通り、技術の本質を捕まえきっていない状態でフルスクラッチをやっても、失敗する可能性は高い。はてなブログがどちらなのかは、中の人にしか分からないことだけど。
はてなが経営的にあまり状況がよろしくない、という推測はおそらく当たっているのではないかと思う。
タイムラインで、誰かが「まっとうな方法で収益化する方法を真面目に考えるべきだった」と言っていたのを見た。それをしていれば、今回のような事態を招くことは無かったのだろうか。
だが、「まっとうなビジネスモデル」とは何だろう。実際問題として、ここ最近成功しているネットサービスのビジネスモデルで「ターゲティング広告」と「マスなユーザベースから抽出したビッグデータを解析して売る」以外で何か有力なものはあっただろうか。FacebookにせよTwitterにせよ、収益化の原動力はユーザ行動解析だったりするわけだ(彼らがオープンソース化に積極的なのは、インフラ技術が差別化の源ではない、という面もある)。
まぁ、あとはガチャだが、どちらにせよ現状では高木先生の逆鱗に触れるようなものしかないよね。
そんなわけで、それらに代わる第四のマネタイズモデルを思いついた人は、ぜひ近藤さんに教えてあげると良いんじゃないかな。あればだけど。
今後はてながどうなるかは分からないけど、一つ希望したいことがあるとすれば、故伊藤計劃氏のダイアリーがこの先も保全されることを望みたい。
それは、エントリを全て魚拓しろ、という話ではもちろんない。彼の生前に書かれたエントリは、当時の「はてな」という生態系を構成する一部でもあるわけで、そこから切り離して文章だけをアーカイブしてもあまり意味がない。
資本主義は確実に崩壊することが判明:http://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-2045.html
わかってた。なのでちょっと乗って以前はてダに投下した文章をこっちにも投下。
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まぁネタってタグをつけましたけど、私は本気でそう思ってます。理由はたったひとつ、実際の富と市場に流れているお金が釣り合っていないから。
いや、今までだってそういう局面があっただろうしそれは戦争やらなんやらで解消されてきたんでしょうが、もう同じ手は通用しないでしょう。今は情報の伝達が非常に高速になされるようになりました。それは相場の急激な乱高下が非常に起きやすくなったということです。仮に何らかの方法で今の市場の安定を取り戻したとしても、次はもっと短い期間で不安定な状態に戻ってしまうでしょう。そんな危ない方法で富を管理するのはもうやめようという話になると思います。
大事なのはお金そのものに価値があるのではないということ。本当に価値があるものは富です。わかりにくかったら富≒現物と思っていいと思います。お金は富を交換するのに便利だから使われてただけで、他の方法で富の流通が円滑に進むならそれで間に合ってしまうと思います。
お金の最大の弱点は利子という仕組みです。借金の約束をする時には利子の約束も同時にします。これは今はまだ存在しない富に予約票を貼っておくものです。で、この予約票そのものにも価値があるなんていう誤解が蔓延しすぎたと言うか、みんなが未来を信じすぎたと言うか、とにかくそれが一番のガンです。
返済期日までに利子分の富が用意できる保証はないのに用意しろって言っちゃう。用意しますって言っちゃう。世界中でそんなことが行われて、返済用の富を用意できなくなった人が、やっぱり利子の約束をして他からお金を借りて返済に当てて、自転車操業が始まっちゃう。そうするともっとどんどん利子の約束が増えていく。そんなことが今世界中で個人から国家までありとあらゆる所で起きている。
でも世界の生産能力って限界があるわけで。その限界を越えて利子が増え続けたら、極端な話最終的には世界中の土地を売ったとしても返済できない額になってしまうでしょう。実際にはもっと手前でブレーキが掛かると思いますけど。
要約すると、お金は富を交換するためのツールでしか無いのに、まだ富のないところにお金があるとみんなが約束してしまったのがマズイってことです。
最近オカ板のまとめブログで、ばあちゃんの予言とか予知夢見る人の話とか未来人のカキコとか読んでみると、今まで価値がなくなるとは思わなかったモノの価値がなくなるとかあったりして、そうだよね、もうお金っていうシステムは長続きしないよね、なんてひとり合点してたりしてね。