はてなキーワード: 衆道とは
・「家康と井伊直政はそういう関係だった」ってのは歴史上の事実とする説が存在しているが
従来の大河のようにそういうのをタブーとして無視するのではなくちゃんと取り入れて描いた
・作中人物も皆衆道はごくあり触れた事と受け止めている(特殊な変態がやる事と言うニュアンスはゼロ)
・直政の方はかなり動揺していたが、これも「男同士だから嫌だ」というより
「いや例え直政が女だったとしても15歳のSJが夜伽に呼ばれてオッサンに迫られたらそりゃ緊張するし後ずさりくらいしたくなるだろ、
同じように直政は衆道自体に理解はあるようだがそれでも15のDTが以下同文だろ」と思える
・結局の所(恐らく)何もやってないんだが、それも「家康は変態ホモじゃないもん」的な文脈ではなく
「(この話の)家康は妻の瀬名の尻に敷かれていて側室持つのも消極的な人だから
子作りの為という理由もない男と浮気なんてせんだろう」と理由付け出来る
これと「そういうのに知識や理解がない視聴者も楽しませなければならない」
「20時(前回は選挙のせいで19時)台にNHKで流せる、子供も見るドラマとして相応しい内容にしなければならない」
という条件を満たすという難しい仕事を成し遂げたんだから凄いわ。
あれは当時の女は家の維持のための道具で、個人の恋愛というのは二の次にされていて、
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
御法度で中3のときに衆道映画で激烈デビューした松田龍平が狂わせた男たちをリスト化する。
親父と口論してたらブチ切れた兄龍平に親父を殺される。そして強くたくましく生きていたが畜生だったため兄に殺される。
転生し今度は純朴な人になるが、優しく面倒みてくれた龍平が死に、狂った後人殺しになる。
その後転生し、過去に指をちょんぎってしまったことを龍平に脅され、居候され、なんだかんだでブチ切れて人を殺しかける。
指摘からの追記
古来に乗っ取るなら発展場で衆道たしなめろ
蔑称の意味合いもあるので、一般にはこれを避けて「ゲイ」という語が使われることが多い。
ゲイだからと言って異性装をするとは限らないし、オネエ口調を使うとも限らない。
同性への性的指向のこと。男性同性愛者も女性同性愛者も存在する。
「性的指向」とは性愛の対象がどちらを向いているかということであり、性的行動の内容を表す「性癖」「性的嗜好」とは区別される。
これは「自分の性別が違うと考えること自体が異常」=「障害」というわけではなく、
性転換手術などによって性自認と身体的性別を一致させなければ本人が苦しいために「障害」と呼ぶのである。
これは同性愛とは異なるものであり、「身体的には女性で性自認が男性の異性愛者」や「身体的には男性で性自認が女性の同性愛者」といったこともありうる。
ボーイズラブの略。
ボーイズラブを好むのは主に女性であり、彼女ら自身は同性愛者ではないことが多い。
女人禁制の戦場において代わりに美少年を連れて行ったことがはじまりで、
基本的には主君とその配下とのあいだに結ばれる主従関係の一種であり、忠誠心の変形であった。
江戸時代になると同輩との友情を強化するようなものへと変化して広まり、結果としてトラブルが頻発したため、
各藩で厳しく取り締まるようになり、やがて衰退していった。
もちろん武士たちは女性とも結婚していたのであり、現在で言うような同性愛とは異なる。
俺はテレビで飯食ってるときにオカマやホモが出て来たらチャンネル変えるよ。
食欲なくなるから。
渋谷区や世田谷区が同性婚を認めたってニュースもなんかSF世界の出来事みたいで
いつの間に世の中にこんなに同性愛が受け入れられたんだよ?マジで?って感じ。
実名で声に出してホモきもい、やめようぜそんな条例って言いたいけど
世の中そんな奴多いと思うんだけどさ。お前らどうなんだよ。
いいのかなこんなにホモ容認の流れで。
そりゃそうだけどさ。
かなり異質な突然変異体くらいの割合かと思いきやこんなにいるってわかったら
俺の中の価値観が壊れそうで、そんなみんな自然に受け入れられてるのか知りたいんだよ。
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追記 11/30 9:00
思ったより「気にならない」派が多いんだな。意外だ。そうなのか。
とはいえ、「キモいけど言わない(言えない)」派もちゃんといるな。
ホモと同性愛と性同一性障害とBLと衆道は違う、混同してるってのはなんのことだ?
全部、男が男とヤるってのは同じなんだろ?病気か趣味かって話しか?
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差別はよくないとか、思ってても公人が発言すべきではないとか、
んなこと聞いてないっつーの。わかってるよそんなこと。
んなこと俺は言ってねーよ。
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世界的に同性愛の権利を認める流れだこの土人が!て言ってる奴。
欧米なんか、ちょっと前まで同性愛は犯罪だ!とかやってた国だぜ。
取り締まるのはおかしいけど、ちょっと逆に振れ過ぎじゃねぇのか?
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「ホモからしてみたらヘテロのほうがキモい」というコメントがあったけど
これってどうなんだ、ただの煽りなのか?マジなのか?
最初の行の書き方からして、増田は「潜在的にバイな人」はあくまで少数派だろう、と思ってると見たけど。
私は逆に、大多数の人間は潜在的にバイだろうと思ってるんだよね。
大多数の人が異性愛が当たり前と思っているのは、単に後天的な学習の結果ではないかと。
そうでなければ、時代や地域によっては同性愛が当たり前という文化があることの説明がつかない。
現代日本の異性愛者とされる人でも思春期の頃に同性愛を経験している人ってのは割といたりするけど、
それも頭が柔らかい子供の頃は「異性愛が当たり前である」という「常識」に囚われない行動が出来るからなんじゃないかな。
そして、むしろ「先天的に何がなんでも同性/異性でなければ気が済まない人間」の方が少数派なんじゃないかと。
現代日本の同性愛者というのは、その少数派の中でも更に少ない「何がなんでも同性でなければ気が済まない」人間なんだろうと。
同性愛者の中には両性愛者や選択的同性愛者をやたら嫌う人間が少なくないけど、
これも「同性でなければ気が済まない」彼らにとって、男女どちらでもOKな人間は「理解不能な気持ち悪い存在」だからなんじゃないか。
なので「同性愛を許容する法律が出来れば同性愛文化が広まり、同性愛者がやたら増える」ってのは十分に有り得る事だとも思っている。
(まあ起こったとしても少なくとも何十年も後の話だろうとは思うけど)
私は別に同性愛者が増えようがどうでもいいと思っているけど、それじゃ困るのでそれは防がねばならないと考える人も世の中多いだろう、ってのは理解出来る。