はてなキーワード: アファーマティブ・アクションとは
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
アファーマティブ・アクションという名のもと平気で人種差別性差別が行われているのすごいと思う
ニュースを見ても、SNSを見ても、「女性はこんなに差別されている!!」という意見ばっかりだ。
だから、女性がそれに同調してないってだけで、俺の中では評価が爆上がりする。
例えばだけど、女性が
「女に生まれて大変だったこともあるけど、男より色々と得してきた部分もある」
「今日では機会平等が達成されたのだから、アファーマティブ・アクションはあまり必要ない」
「女が社会進出できないのは、女自身が決めてきた選択の結果だ。女たちは夫が外で働いて稼いできてくれることに甘えている」
「女子が理系に行きたがらないのは、抑圧・差別というより、数学・物理を嫌いな子が多いからだろう」
「たわわ広告は許容範囲だ。職場のポスター掲示とは違って、あれは新聞広告なんだから閉じれば見なくてすむ」
みたいなことを言っているだけで、まともな人だなと思ってしまう。
ファッションのサイトとか見てると、女性下着のモデルを太めの女性芸人とかがやってるのを最近見る。
アファーマティブ・アクション?という話なのかもしれないけど、これってちゃんと商品価値を正しく伝えてる?企業評価の向上につながる?
美人モデルからの過渡期だからだろうか、違和感の方を強く感じてしまう。そのうち慣れるのかな。
しかし振り方が極端すぎない?そりゃ美人モデルだって「そんなやつそうそういねーよ」って極端だったけど、渡辺直美みたいな体型だって極端でしょ。
体型以外にもモデルに黒人やアジア系を入れたり、ちょっと肌荒れしているような綺麗すぎないモデルとか。
わざわざやってるなぁ…っていう態度そのものが気になってしまうよ。
これまで通りの見た目の良いモデルを起用したほうが、人間に目が行かなくて商品がちゃんと評価できる気がするんだけどどうだろ。
男性は女性と比べて、経済力や甲斐性や職歴を求められる「圧力」を受ける。
男女平等の価値観なのに、「男性は女性よりも強くあれ」なんてふざけた価値観が残っている。
なので男子学生を優遇するのはアファーマティブ・アクションの理念に合っているよね。
アファーマティブ・アクションというのは、マイノリティである女性に対して適用するものでしょ。
高校の件は、なぜかそれを男子受験生に対して適用していたのが大問題になったわけよ。
痴漢の話を出したとたんに、冤罪!冤罪!とぶち上げるやつはアンフェミに入りませんか?
アファーマティブ・アクションに文句をいうやつは?
ぶつかり男なんて女の被害妄想だと声高に言っていたやつは?
自分は障害者です。経歴とかはもう書く気力もないのでこっちみてください。
https://note.com/butter_sp/n/n2c135b5f41ae
https://note.com/butter_sp/n/nb5bd7b5d7d93
日本人であること、男性であること、障害者であること、これらはいずれも加害者の属性だ。
存在する時点で近隣諸国の人々や女性、健常者などに害を与えている。
だからこれ以上存在することで他者を傷つけないように、正しい人間に命を奪われなければならない。
北原みのりのようなアクティヴィストも考えたが、女性にそういう重労働を任せるのはアファーマティブ・アクションの面から問題が強い。
植松聖は健常者で力のある男性だし、帝京大学を出たアッパーミドルだし、障害者に対し殺してもいいという考えを抱いている。
ついでに死刑になろうとは思わない。自分の欲望で他人に塗炭の苦しみを与えることは絶対にしたくない。
京王線襲ったりしないのでそこはご安心を(10年ぐらい京王線沿線に住んでいたので、あの映像見てすごく怖かった)。
あと殺されなければならないと考えているのは自分だけで、ほかの男性や障害者は絶対にあんな不条理ないのちの奪われ方をしてはならない。自分は不条理以下だからいい。
雑な煽り文。真剣に憂いている業界人ならこんなことを喧嘩口調で言わないよ。細かく指摘しておくけどどうせ読まねえだろ。元増田以外の人向けに書いておく。
リベラルの言う「ジェンダー平等」は「ジェンダーレス」だ(みんなオトコオンナみたいになれってことか!)というのは典型的ネトウヨの言い草。事実としてジェンダー「レス」を主張するような人は、いたとしても一般的なリベラルではない。「平等」と「レス」は全然違う。こんな言葉がさらっと出てくるあたり、元増田の素性がうかがわれる。
公に語られることは少ないがこの一件はハイレベルなエンジニアの中で「性別ではなく能力で優遇すべき」と思わせる一件となった。
「誰も知らない事情をなぜか僕チンは知ってる」系の物言い。これも既視感ある。元増田は業界事情に通じた「ハイレベルなエンジニア」(自称)なのかな(皮肉)。
日本のみならず世界的にIT業界はリベラルな思想の人々が多い業界とされている。それは体感的にもその通りなので、ここではこれを真として扱う。
周りの人がみんな左寄りに見えるとしたらその人はどういう人なのか。元増田は自分自身がリベラルよりだとは一言も言ってないし言わない。たぶんそうではないからだ。
そもそも元増田がアファーマティブ・アクションについて全く理解していない(あるいはそういうフリをしている)のは置いておくとしても、
とまで言うなら、〇〇が支配する「〇〇優遇の社会」で〇〇が「平等」な選別をしたら結果として「差別温存」にしかならないことくらい分かるわけで(たとえば〇〇に、白人、と入れても、日本人、と入れてもいい)この物言いは明らかに僅か数行の中で矛盾をきたしている。そんな差別的な状況を覆して「平等な社会」を追求する強制的介入の一手段が「アファーマティブ・アクション」だ。
男性は優遇されて「きた」から「不遇な目に遭う」のではなく、まさに今現在優遇されて「いる」から女性も同様に目に見える優遇をしないと「フェア」ではない、というのがアファーマティブ・アクションのポイントである。今ある優遇のことをさらっと過去の話にするところなど、実に卑怯だ。
少なくとも「平等な社会」をうたい文句に、現に行われている「アファーマティブ・アクション」をやり玉に挙げるなら、「じゃあ他にどうやって今ある差別を解消するの?」という問いへの答えがないと全く説得力がない。もし「それを考えるのは僕の仕事じゃない」と言うなら、少なくとも、それを考えて実際に行動してる誰かさんの仕事にケチをつけるのは控えるべき。元増田の言ってるのは、「僕ちんの狭い観測範囲におけるお気持ち表明」に過ぎないコドモの理屈である。いい大人がこういう見解を垂れ流すのは、情けないを通り越してもはや「邪悪」だ。
アファーマティブ・アクションの「あてがえ」論だからじゃないの?
でもアファーマティブ・アクションは人権同士の衝突であって、人権侵害ではないよ。
黒人差別問題と同じなのでアファーマティブ・アクションをすることになると思いますけど
話違うけど20代の若者は被選挙権もほとんどなく(衆議院は25以上から立候補できるが参議院は30まで立候補できない)、有権者の絶対数も少ないのに投票に行かないのが悪いとか散々言われてアファーマティブ・アクションの議論なんて一切されないのに、男とほぼ同じだけの有権者数を有して立候補も男と同じ条件でできるのにあーだこーだ言ってるのはさすがに甘えと言われてもしょうがない。これだけの平等の上であれだけ女性政治家が少ないのを見るとやる気か能力が足りないのはほぼ間違いないと思う。どちらが足りないのかはわからないけどどちらかでも欠けてるなら政治家には向かないからどうでもいい
でもアファーマティブ・アクションのあてがえ論は問題ないですよね。